天正壬午の乱~徳川VS北条の若神子の対陣
天正十年(1582年)8月7日、織田信長の死後に起こった旧武田領争奪戦=天正壬午の乱で北条氏直が若御子に着陣しました。
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天正十年(1582年)2月9日に始まった織田信長(おだのぶなが)による甲州征伐(こうしゅうせいばつ)(2月9日参照>>)・・・約1ヶ月後の3月11日に天目山(てんもくざん=山梨県甲州市大和町)に追い込まれた武田勝頼(たけだかつより)が自刃(2008年3月11日参照>>)して、ここに甲斐(かい=山梨県)に君臨した武田氏が滅亡しました。
その甲州征伐での論功行賞で、滅ぼした武田の旧領を与えられたのは、
甲斐国=河尻秀隆(かわじりひでたか)
ただし穴山梅雪の支配地は除き、その代替地として諏訪1郡をプラス
駿河国=徳川家康(とくがわいえやす)、
上野国+信濃国(小県・佐久2郡)=滝川一益(たきがわかずます)、
信濃4郡(高井・水内・更科・埴科)=森長可(もりながよし)、
信濃木曽谷2郡=木曽義昌(きそよしまさ)に追加
信濃伊那1郡=毛利長秀(もうりながひで・秀頼)、
岩村(岐阜県恵那市)=団忠直(だんただなお)
金山・米田島(よねだじま=岐阜県加茂郡)=森定長(もりさだなが=長可の弟・蘭丸)
でしたが、ご存知の通り、そのわずか3か月後の6月2日の本能寺(ほんのうじ=京都市中京区)の変にて、かの信長が死亡(2015年6月2日参照>>)します。
上記の中で、その日、信長とともに本能寺にいたた森定長は討死し、嫡男=織田信忠(のぶただ=信長の嫡男)(2008年6月2日参照>>) の拠る二条御所(にじょうごしょ=京都府京都市)にいた団忠直も死亡・・・堺(さかい=大阪府堺市)見物をしていた徳川家康は決死の伊賀越え(6月4日参照>>)で自身の領国=三河(みかわ=愛知県西部)を目指します。
一方、新領地にいた者たち・・・ 上記の通り、わずか3ヶ月間の統治ゆえ、未だ完全に現地を掌握しきれていない状態なので、ここぞ!とばかりに周辺が動き出しため、
蜂起した武田遺臣の一揆によって河尻秀隆は命を落とし(2013年6月18日参照>>)、
行く手を阻む相模(さがみ=神奈川県)の北条氏直(ほうじょううじなお)に敗れた滝川一益(2007年6月18日参照>>)は敗走・・・
また、危険を感じて所領を放棄した毛利長秀と、鬼の形相で敵を蹴散らしながら行軍した森長可(4月9日参照>>)は、何とか本国へ戻る事ができました。
…って事は、つまりは、旧武田の領地にいた織田の家臣がいなくなったわけで・・・(ちなみに、木曽義昌は、家康と同じく織田家の家臣ではない独立大名なので、身動きは取れませんが、もとの木曽での領地は確保されてる状況です)
…で、この宙に浮いた旧武田領を、近隣の武将=先の相模の北条と越後(えちご)の上杉景勝(うえすぎかげかつ)と三河の徳川家康らが奪い合う・・・これが天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)と呼ばれる戦いですが、
その中でも、北条と徳川が相対したのが若神子の対陣(わかみこのたいじん)・・・今回は、その様子を時系列で見ていきましょう(注:少し時間が戻ります)。
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まずは、今回の信長横死に、最も早く反応したのは徳川家康・・・上記の伊賀越え>>のページにも書きましたが、家康が本拠の岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)に戻ったのは6月7日とされていますが、すでに、その前日の6月6日の段階で配下の岡部正綱(おかべまさつな)に、下山(しもやま=山梨県南巨摩郡身延町)行き、そこに城を構築するよう命じています。
これは、途中まで行動をともにしながらも、本能寺の知らせを聞いて別行動をとり、当時の6月2日の段階で落武者狩りに遭って命を落とした(3月1日参照>>)武田からの寝返り組=穴山梅雪(あなやまばいせつ=信君)の領地である河内(かわち=同南巨摩郡)を確保せんがための工作で、この素早さには「梅雪を暗殺したのて本当は家康なんちゃうん?」と、現代の歴史好きからの疑いの目が向けられるほどに・・・
同時に家康は、家臣の本多信俊(ほんだのぶとし)らを甲斐に向かわせて河尻秀隆に信長の死を報告するとともに「甲斐は危ないから美濃(みの=岐阜県)に戻るように」と伝えますが、これを「家康が甲斐を奪おうとしている」と見た秀隆は、それに応じず、本多信俊を殺害して甲斐に留まります。
一方、6月11日に信長の死を知った北条では、甲斐に残る武田遺臣たちを一揆へと扇動しつつ、滝川一益に探りを入れ、「北条は織田家と相まみえるつもりは無い」旨を伝えますが、結局は、6月18日に上記の神流川の戦い(かんながわのたたかい)>>にて一益をを小諸城(こもろじょう=長野県小諸市)へと敗走させます。
この間の6月15日頃に、北条からの呼びかけに応じた武田遺臣に、河尻秀隆に殺された本多信俊の配下が接触し、互いに協力して一揆軍が蜂起・・・これまた上記の通り、一揆軍に囲まれた河尻秀隆も神流川と同日の6月18日に死亡>>します。
ここで家康は、本多信俊らの家臣とともに一揆で頑張った旧武田の家臣を自身の配下に加えて掌握すると、旧武田家臣の依田信蕃(よだのぶしげ)(2月20日参照>>)に彼らを率いらせて小諸城へと向わせ、6月26日には滝川一益から小諸城を引き渡させます。
さらに一旦、信長の仇である明智光秀(あけちみつひで)討伐に西に向かう姿勢を見せつつも、かの山崎の合戦(6月13日参照>>)の結果を見てか?、やっぱり浜松(はままつ=静岡県浜松市)へと戻った後、今度は武田の旧領全体を制圧すべく7月3日に甲府(こうふ=山梨県甲府市)に向けて出陣し、7月9日には自身に味方する知久頼氏(ちくよりうじ)らを、北条に味方する諏訪頼忠(すわよりただ)の拠る高島城(たかしまじょう=長野県諏訪市)攻略へと向かわせます。
これを知った北条側・・・この時、川中島(かわなかじま=長野県長野市)方面まで出陣していた北条氏直は、早速、南下して小諸城へと迫り、7月12日に依田信蕃を小諸城から退去させ、この周辺を掌握した後、さらに南下・・・
そこを、「このまま北条を甲斐へ侵入させてなるものか!」と家康は、配下の酒井忠次(さかいただつぐ)を先の高島城へと向かわせ、7月22日から高島城への総攻撃を開始しますが、そこに大軍を率いた氏直がやって来た事から、さすがに兵数の大差を感じ、8月1日、一旦、城の囲みを解いて甲斐新府(しんぷ=山梨県韮崎市)まで退きます。
若神子の対陣の関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
かくして天正十年(1582年)8月7日、氏直以下、北条軍が若神子(わかみこ=山梨県北杜市須玉町)に着陣したのです。
これを受けた家康は8月10日に、布陣していた甲府を出て新府へ移動・・・と一触即発の雰囲気ではありますが、これが「若神子の対陣」と称されるように、ここから80日間に渡って、両者はほぼ動かずに対峙したままの様相となります。
とは言え、この間に一方で、北条氏忠(うじただ=氏直の叔父)率いる北条別動隊が、氏直を援護すべく御坂峠(みさかとうげ=山梨県南都留郡富士河口湖町と同県笛吹市御坂町にまたがる峠)から甲府目指して進軍して来ていました。
氏直主力部隊と氏忠援護部隊・・・「これでは完全に挟み撃ちにされてしまう!」
とばかりに、家康は、8月12日、鳥居元忠(とりいもとただ)&水野勝成(みずのかつなり)らが率いる部隊が黒駒(くろこま=山梨県笛吹市御坂町付近)に派遣して氏忠軍を迎撃させます。
これが、予想以上の徳川の大勝となった事で、氏忠援護部隊はその先へ進めず、北条は動きを封じられてしまうのです。
さらに家康は、北条の背後を脅かすべく、下野(しもつけ=栃木県)の宇都宮国綱(うつのみやくにつな)と連絡を密にしたり、依田信蕃を通じて、北条側にいた真田昌幸(さなだまさゆき)を寝返らせたり、木曽義昌に所領安堵の約束をして諏訪(すわ=長野県諏訪市)方面への出兵を取り付けたり、北条に属しながらも黒駒の合戦後に静観し始めた高遠城(たかとおじょう=長野県伊那市高遠町)の保科正直(ほしなまさなお)を味方につけたり・・・とにかく、ありとあらゆる手段を使って自身を有利な方向へと導いていくのです。
そして8月21日には、かの甲斐一揆の時に協力して以来、なんとなくの味方?仮契約?状態だった武田家の遺臣たち800余名から、正式な起請文(きしょうもん=忠誠を神に誓う文書)を提出させて正社員雇用・・・なんだか家康さんが、武田の旧領&旧臣を、まるっといただく?てな雰囲気ですね。
そうなると・・・
もはや、甲斐&信濃における北条の勢力範囲は、ここ若神子周辺のみに・・・しかも、この間、両軍には小競り合いは起こるものの、大きく態勢が変動しないままのこう着状態。
いつしか、北条は和議に向けて動き始めます。
この時、徳川との間に入って尽力したのは、今川での人質時代に家康との面識があった北条氏規(うじのり=氏直の叔父)(2月8日参照>>)・・・
一方の家康も、実は信長の息子である織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)や織田信孝(のぶたか=信長の三男)から「ちゃっちゃと解決しぃや」の勧告状が届いていたらしく、この状態をあまり長引かせたくはなかったわけで・・・
そこで、対陣から2ヶ月余りが過ぎた天正十年(1582年)10月29日、ようやく北条と徳川の間に講和が結ばれたのです(10月29日参照>>)。
その条件は
●甲斐と信濃は家康が、上野は氏直の切り取り次第。
●家康の次女=督姫(とくひめ)が氏直に嫁ぐ。
●今後は北条を離れて徳川に服属する事を表明している真田昌幸の領地は北条の物とし、真田には徳川から代替えの領地を与える。
の三つでした。
一見、「北条は上野だけ?家康の方が得してる?」てな感じに見えてしまいますが、甲斐や信濃には、未だ納得していない国衆もいて、先の依田信蕃なんかは、この後の信濃のゴタゴタで命を落としたりなんかしてますので、逆に上野の支配権がバッチリ確保された事は北条にとってかなりの安心だったのかも・・・
そして、ご存知のように、この三つ目の条件が、後々、ややこしい事になって行くのです・・・が、そのお話は【第1次上田合戦~神川の戦い】で>>
さらにさらに・・・この北条との国境線のゴタゴタは、やがては、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)による小田原征伐(おだわらせいばつ)の引き金となってしまうのですから(10月23日【小田原攻めのきっかけ・名胡桃城奪取】参照>>)、ホント、歴史は巡り巡って永遠に繋がっていく・・・流れを見て行きながら原因→結果を考えていくとワクワクしますです。
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コメント
家康は武田の遺臣800余名を正式採用したのですね。武田兵の力を身を以て味わっていたからでしょうか。新しく加わった兵は忠誠心を試すために次の戦いで最前線に送られる事が多いそうですが、小牧長久手の戦いで家康が優勢だったのも、もしかしたら武田遺臣の活躍の賜かもしれませんね。
投稿: イマジン | 2019年8月 7日 (水) 14時27分
イマジンさん、こんにちは~
そうですね。
この後、德川配下として活躍する「井伊の赤備え」は、「武田の赤備え」を継承してますからね。
やはり武田軍は強かったのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2019年8月 7日 (水) 16時25分