謙信の死を受けて…長連龍が奪われた穴水城を奪回
天正六年(1578年)8月14日、上杉謙信の侵攻を受けて奪われていた穴水城を長連龍が奪回しました。
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室町時代、足利将軍家からの信頼も篤く、第6代管領(かんれい=室町政権下での将軍補佐)で越前(えちぜん=福井県東部)&越中(えっちゅう=富山県)の守護(しゅご=県知事)でもあった畠山基国(はたけやまもとくに)が明徳二年(元中8年=1391年)に能登(のと=石川県北部)の守護にもなった事で、その次男である畠山満慶(みつのり)が初代の能登守護になって以来、第7代当主=畠山義総(よしふさ)の頃には居城の七尾城(ななおじょう=石川県七尾市古城町)を中心に栄えた城下町が能登の小京都と称されるほどに栄えた能登畠山氏。
しかし、名君であったその義総が亡くなって後は家中が乱れ、やがて畠山七人衆(はたけやましちにんしゅう)と呼ばれる重臣たちが力を持ち、畠山の当主は名ばかりとなってしまいます。
さらに、そこに起こる重臣同志の権力争いで徐々に衰退の道をたどる中、天正四年(1576年)、2年前に急死した兄=畠山義慶(よしのり)の後を継いだ第11代当主=畠山義隆(よしたか)も急死して、未だ幼い(5~6歳?)息子の春王丸(はるおうまる)が後を継ぎます。
(ちなにみ、相次ぐ当主の死は、重臣による毒殺とも噂されます…なんせ上記の通り、もはや当主=畠山は名ばかりの状態でしたから)
この時、幼き春王丸に代わって城内の実権を握っていたのが長続連(ちょうつぐつら)&綱連(つなつら)父子・・・とは言え、上記のモメまくりでお察しの通り、長続連が実権を握っている=他の重臣たちは不満なわけで・・・
そこをうまく利用したのが、ここんとこ、自身の領地=越後(えちご=新潟県)から南へ南へと侵攻して来ていた上杉謙信(うえすぎけんしん)でした。
★参照ページ
【謙信VS加賀越中一向一揆~日宮城攻防】>>
【謙信が富山へ侵攻】>>
【上杉謙信の飛騨侵攻】>>
難攻不落の七尾城を攻めあぐねた謙信は、七尾城内に疫病が流行して春王丸が亡くなったタイミングを合わせ、お抱えの忍びを使って長父子と敵対関係にある重臣=遊佐続光(ゆさつぐみつ)や温井景隆(ぬくいかげたか)らを寝返らせ、天正五年(1577年)9月15日、寝返った彼らに長続連&綱連父子を殺害させて七尾城を手に入れたのです(9月13日参照>>)。
この謙信の七尾城侵攻の際、生まれ育った穴水城(あなみずじょう=石川県鳳珠郡穴水町)にて防戦した長続連の三男=長連龍(つらたつ)は、敗戦を予想した父の命により海路で城を脱出し、謙信と敵対関係にある織田信長(おだのぶなが)のもとに救援要請に向かっていますが、8日後に織田の援軍を連れて戻って来たところ、すでに父や兄、そして長一族の首が浜辺に晒されている状況を見て七尾城の落城を知り、空しく、また安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)へと戻ったとか・・・
その後、9月18日もしくは23日にあったか?無かったか?とされる手取川(てどりがわ=石川県白山市→日本海)の戦い(9月18日参照>>)から、その翌日の9月24日には、上杉家臣の長沢光国(ながさわみつくに)が能登畠山の庶流=松波義親(まつなみよしちか)の籠る松波城(まつなみじょう=石川県鳳珠郡能登町)を落とし(9月24日参照>>)、ここに能登畠山氏が滅亡し、謙信による能登平定が完了したのです。
この年の12月、長沢光国の穴水城・城将をはじめ、自らの配下の者を能登の諸城に配置して、謙信は帰国の途に就きました。
こうして、ただ一人の生き残りとなった長連龍・・・その胸にふつふつと湧き上がるのは、上杉に寝返った彼らへの復讐の念と、一族の恨みを晴らす事でした。
とは言え、心ははやるものの、能登畠山の家臣団が散り々々になってしまった今となっては、何をするにしても、まずは織田の兵力を借りなければどうにもならない・・・
しかし、この頃の信長・・・、
すでに浅井(あざい)・朝倉(あさくら)を倒し(8月28日参照>>)、将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を京都から追放して(7月18日参照>>)、長篠・設楽ヶ原(したらがはら)に武田勝頼(たけだかつより=信玄の息子)を破った(5月21日参照>>)事で、目下の強敵は、今回の謙信と顕如(けんにょ)が扇動する石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)の一向一揆(9月12日参照>>)くらいではありましたが、ここに来て、その謙信と本願寺が和睦した(5月18日参照>>)うえに、西の雄=毛利輝元(もうりてるもと=元就の孫)が本願寺に味方して支援し、信長は、かなりの苦戦を強いられていました(7月13日参照>>)。
しかも、この毛利は、さすがに大国だけあって、本願寺への支援だけでなく、畿内から西へ進もうとする信長配下の者=但馬(たじま=兵庫県北部)攻略中の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)【但馬攻略~岩州城&竹田城の戦い】や丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部・大阪府北部)攻略中の明智光秀(あけちみつひで)【光秀の丹波攻略戦~籾井城の戦い】ら、中国地方攻略の諸将にも影響を与える(12月1日参照>>)状態なので、信長としては「本願寺+毛利」に手がかかり、なかなか北陸への兵力を割けない状況でした。
実際、自身への支援を求めて来た長連龍に対し、
「今は、中国征伐の時なので、北陸に兵を回す事は困難…北陸への支援については勝家に話してあるので、まずは彼と話し合うように」
と言って聞かせたとの記録もあります。
ご存知のように、この時期の織田政権の北陸担当は柴田勝家(しばたかついえ)ですからね・・・まずは勝家と相談して必要ならば、勝家から信長に支援を要求するというダンドリを踏まねばならないという事です。
一方、雪深い冬の越後に戻った謙信は、春を待ってさらに西へと手を広げるつもりで、北陸はもちろん信濃(しなの=長野県)や関東の諸将にも召集の声をかけ、天正六年(1578年)3月15日を出陣の日と決めて、この大軍で以って北陸制覇に向けての準備を進めていました。
ところが・・・
その出陣直前の3月9日にトイレで倒れ、4日後の13日に謙信は帰らぬ人となったのです(3月13日参照>>)。
しかも、生涯女性を寄せ付けなかった謙信には実子がおらず、その養子同志での後継者争いが勃発し(【御館(おたて)の乱】参照>>)、もはや上杉家は北陸云々ではなくなってしまったのです。
当然ですが、主君を失った長沢光国以下、穴水城内の士気も下がり・・・あの日「恨みを晴らす!」と誓った長連龍にとっては意外にも早く訪れたリベンジチャンス!となったのです。
そこで、先に言われた通り、北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)へと行って柴田勝家に出兵を願うも、思うように事が運ばなかった連龍は、織田の支援を待つより、自力での穴水城を奪回する決意を固め、以前からの知り合いや浪人たちに声をかけて回ります。
まず、連龍の呼びかけに応じた松平久兵衛(まつだいらきゅうべえ)以下500名ほどが集まり、さらに能登周辺で密かに動いていた伊久留了意(いくろりょうい)らが旧臣=300名の賛同を得、あとは絶好のチャンスとなる「その時」を見計らいます。
もともと、長一族の居城であった穴水城とは言え、ここは一方が谷、二方が海という天然の要害ですから、気を引き締めて・・・
ところが・・・
1度目は、8隻の舟に、それぞれ兵を分乗させて三国(みくに=福井県坂井市)を出港して、能登半島を挟んで穴水城とは反対側になる富来(とぎ=石川県羽咋市)の港を目指して進んだものの、激しい風に邪魔されて、あえなく失敗に終わります。
しかし、天正六年(1578年)の8月に入って輪島(わじま=石川県輪島市)に住む中島藤次(なかじまふじつぐ?)なる人物が3隻の大船を用意してくれた事で、連龍らは再び三国港から富来港をめざして出発・・・今度は無事、富来への上陸に成功します。
かくして天正六年(1578年)8月14日、 目印となる『昇竜降竜の旗』を押し立てて、いかにもヤル気満々な雰囲気を醸しだして、穴水城へと進軍する連龍ら・・・その数は約1000余人に膨れ上がったものの、人員は浪人やら僧やら神主やらか入り混じっていたため、ひとりひとりの装備が揃っておらず、なんだか異様な集団に見えたのだとか・・・
でも彼らは強かった~
連龍らの呼びかけに急きょ集まった烏合の衆のワリには、その士気は高く、またたく間に穴水の守りを撃破して攻め落としました。
また一説には、この時、城将の長沢光国は、七尾城主の鰺坂長実(あじさかながざね)とともに主力部隊を率いて正院(しょういん=石川県珠洲郡)で勃発した一揆の鎮圧に向かっており、城には白小田善兵衛以下、少ない守備隊しかいなかったとか・・・
連龍が狙っていたタイミングは、おそらくコレ・・・つまり、城の守りが手薄なところを一気に落とした~という感じでしょうか?
ちなみに、この間に織田勢も、上杉の後継者争いのドサクサに紛れて越中の奥深くまで侵入しています(【月岡野の戦い】参照>>)。
とは言え、もちろん、今回はやむなく城を捨てて逃走した白小田善兵衛も、留守にしていた長沢光国らも、このまま黙っているわけにはいきません。
ほどなく、かの遊佐や温井も大挙して駆け付け、長沢らとともに奪われた穴水城を取り囲みます。
果敢に城外へ撃って出て奮戦する連龍らでしたが、もともとかき集めた手勢だけでは何ともし難く・・・やがて、城内の兵糧も底をつき始めた10月22日、密かに穴水城を脱出した連龍は、石動山(いするぎやま=石川県鹿島郡中能登町)を越え、越中氷見(ひみ=富山県氷見市)から守山城(もりやまじょう=富山県高岡市)の神保氏張(じんぼううじはる)のもとへ逃げ込みました。
その後、連龍は、その神保氏張の妹(もしくは娘?)と結婚して両家の縁を固めた後、七尾城の鰺坂を味方に引き入れて能登各地を転戦し、遊佐&温井に対抗していく事になります。
その後の長連龍のお話は(今回と内容がかぶっている部分があり恐縮ですが…)
●【長連龍の復讐劇】>>
そして、あの本能寺の変の余波となる
●【前田利家に迫る石動荒山の戦い】>>
でどうぞm(_ _)m
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