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2019年9月24日 (火)

上杉謙信の能登平定~松波城の戦い

 

天正五年(1577年)9月24日、上杉謙信の命を受けた長沢光国が畠山氏の松波義親の守る松波城を攻撃しました。

・・・・・・・・

戦国屈指のライバル同士の戦い=川中島・・・
(くわしい戦いの経緯は下記参照リンクで…)

隣国・信濃(しなの=長野県)を制して、さらに北に進もうとする甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)と、それを阻む越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)との5回=約10余に渡る戦いですが、ここでドンパチやってる間に戦国の情勢が大きく変わります。

永禄三年(1560年)の桶狭間(おけはざま)の戦い(2007年5月19日参照>>)で、当時、天下に1番近い男と言われていた駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)の守護=今川義元(いまがわとしもと)が、尾張(おわり=愛知県西部)の一武将=織田信長(おだのぶなが)に敗れ、

しかも、その信長がほどなく尾張を統一(11月1日参照>>)して隣国=美濃(みの=岐阜県南部)を狙い始めるわ(8月28日参照>>)
桶狭間キッカケで今川での人質生活から独立した(2008年5月19日参照>>)三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす=松平元康)が、その信長と同盟を結んで(1月15日参照>>)、義元亡き後の隣国=遠江を狙い始めるわ・・・
(*参考=この頃、後の15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき=義秋)が謙信に対し、しきりに自身を奉じて上洛する事を希望していますが、当時の謙信には、その気がなかったようで…結局、永禄十一年(1568年)9月に信長が義昭を奉じて上洛します…10月4日参照>>

で、この時期に謙信&信玄ともに、こう着状態の川中島から、それぞれシフトチェンジ・・・信玄は南下して今川領へと侵攻し(7月2日参照>>)謙信は祖父の代からの悲願だった北陸平定(9月19日参照>>)を実現すべく、西に向けて進み始めるのです。

Uesugikensin500 そして天正五年(1577年)9月、いよいよ能登(のと=石川県北部)七尾城(ななおじょう=石川県七尾市古城町)へと迫った謙信・・・

ここ七尾城は、代々、守護(しゅご=県知事みたいな)である畠山氏(はたけやまし)が治めていましたが、度重なる当主の交代で、この頃は、わずか5~6歳?くらいの幼い畠山春王丸(はたけやまはるおうまる)が当主を務めており、それをサポートしていたのが重臣の長続連(ちょうつぐつら)綱連(つなつら)父子。

しかし、謙信に攻められた七尾城内で春王丸は病死し、長父子も殺され、七尾城は9月15日に陥落(9月13日参照>>)します。

畠山一門の松波義親(まつなみよしちか)と長続連の息子=長連龍(つらたつ=綱蓮の弟)は何とか脱出したものの、今は亡き前当主=畠山義隆(よしたか=春王丸の父)の奥さんも上杉の保護を受ける事に・・・

この時、脱出した長蓮龍が、
去る天正元年(1573年)に越前(えちぜん=福井県西部)朝倉義景(あさくらよしかげ)を倒し(8月20日参照>>)、 天正三年(1575年)8月には越前の一向一揆を制覇(8月12日参照>>)・・・

と徐々に北陸に進出して来ていた織田信長に援助を求めた(8月14日の前半部分参照>>)事で、織田家内の北陸担当であった柴田勝家(しばたかついえ)が、謙信とぶつかる事になります。

これが天正五年(1577年)9月18日、もしくは9月23日にあったとされる手取川(てとりがわ)の戦い(9月18日参照>>)なのですが、そのページにも書かせていただいたように、戦いに関する史料が少なく、あったのか?無かったのか?どんな感じだったのか?が、今以ってよくわからない状況ではあります。

一方、同じく七尾城落城の際に脱出した松波義親・・・彼が逃げ込んだのが松波城(まつなみじょう=石川県鳳珠郡能登町)でした。

この松波城は文明六年(1474年)の頃に、能登畠山の当主であった七尾城の畠山義統(よしむね)の三男だった義智(よしとも)が構築したとされ、そこから苗字を松波とし、義親は、その6代目と言われます(義隆の弟とも)

言わば勝手知ったる古巣と言える松波城に入った松波義親は、早速、城内の諸将を集めて、
「やがて長蓮龍が、織田の援軍を連れて戻って来るであろうから、それまで 畠山の名誉をかけて、この城を死守しよう」
と面々の士気を高めて籠城戦に入るとともに、周辺に配下の者を走らせて領民による一揆を扇動させたのです。

松波城は海からさほど遠くない丘の上に建っており、見通しはきくし、すぐ前には要害となる川も流れていたなかなかの堅城ではありますが、なんせ上杉の大軍に対抗できるほどの軍勢を持ち合わせていませんから、少しでも人員が欲しい・・・

ところが、その準備もままならない間に、謙信の電光石火の攻撃により、一揆勢は集結する間もなく蹴散らされてしまいます。

そして9月23日、上杉方の長沢光国(ながさわみつくに)の軍勢によって、松波城は囲まれてしまうのです。

寄せる長沢隊は1000ほど・・・守る松波隊は、わずかに300。

かくして天正五年(1577年)9月24日長沢勢からの総攻撃が開始されます。

兵力に劣る松波勢は、迫りくる長沢勢をかく乱しつつ、幾度か衝突して奮戦するのですが、いかんせん多勢に無勢・・・

徐々に包囲は狭められて行き、やがて大手門から城内へと長沢勢が侵入すると、それぞれ阻止すべく戦いに挑む松波勢が次々と討死してしまったのです。

自らも大手門で奮戦した義親も重傷を負い、近臣に担がれながらも、なんとか本丸に戻って来ますが、もはや、その本丸もケガ人ばかり・・・

終焉を察した義親は、一人、香を焚き込めた奥の間へと入って自刃を遂げ、残された将兵たちも、燃え盛る城とともに、主君の後を追って果てたのでした。

ここに、能登一帯の守護大名であった能登畠山氏は、事実上滅亡したのです。

七尾城を落として後、さらに南に進んで加賀(かが=石川県南部)方面にいたとされる謙信は、「長沢勢大勝」の一報を聞いて大いに喜び、9月26日に能登に戻って七尾城の修復にかかるとともに、自ら本丸に上って美酒に酔いつつ、畠山氏の重臣でありながら上杉に協力してくれた遊佐続光(ゆさつぐみつ)らに褒美を約束するなど、かなりの上機嫌だったようです。

なんせ、今も鉱山跡が残る宝達金山(ほうだつきんざん=石川県羽咋郡宝達志水町)松倉金山(まつくらきんざん=富山県魚津市)と、未だ開発前の金鉱が、このあたりには眠っていたわけですから、さすがの謙信も笑いが止まらなかった事でしょう。

この後、長沢をはじめとする功績のあった諸将に、能登に点在する城の守りを命じて、この年の12月、謙信は越後へと戻りました。

もちろん、翌年、春になれば、再び、この地へ侵攻するつもりで・・・

しかし、ご存知のように、謙信は、翌年天正六年(1578年)の春=3月13日に亡くなり(3月13日参照>>)、それと同時に上杉家内での後継者争いが勃発し【御館(おたて)の乱】参照>>)その予定は大いに狂う事になります。

そして、その上杉のゴタゴタを受けて、8月には長連龍が再び動き出し(前記の8月14日の後半部分参照>>)9月には織田信長も【(9月24日【月岡野の戦い】参照>>)という展開となります。

もし、謙信がもう1年長く生きていたなら、この先どうなっていたのでしょう?
歴史は紙一重で変わってしまう事を痛感させられます。

そら、徳川家康は健康に気をつかうはずですな。。。
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2019年9月19日 (木)

持船城の攻防~徳川家康の甲州征伐

 

天正七年(1579年)9月19日、2度目の攻撃で、徳川家康が武田方の持船城を落城させました。

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持船城(もちぶねじょう=静岡県静岡市駿河区)は、眼下の安倍川(あべがわ)の向こう=北東方面には駿府城(すんぷじょう=静岡県静岡市葵区)と城下町が、そのまま東から南へと転じると駿河湾を見下ろせるという小高い丘の上に建っていたお城です。

その持船城という名前でも察しがつくように、東海道が走る山側に建つ丸子城(まりこじょう=静岡県静岡市駿河区)と対をなすように、海側の要所を守るべく構築された海軍ための城だったのです。

最初にここに城を建てたのは駿河(するが=静岡県東部)守護(しゅご=県知事みたいな?)今川氏(いまがわし)の将で、一時は今川義元(いまがわよしもと)の妹婿=関口親永(せきぐちちかなが=瀬名義広・家康の奥さんの築山殿の父)が城主を務めた事もあったと言いますが、その後、例の桶狭間(おけはざま)(2007年5月19日参照>>)にて義元が亡くなって、こう着状態の信濃(しなの=長野県)から今川攻めに転じた甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)に持船城は奪われ、以後、武田の水軍の拠点になったと言います。

以前、【武田信玄の甲州水軍】のページ>>でも書かせていただきましたが、甲斐に生まれ育ち、おそらく喉から手が出るほど水軍が欲しかったであろう信玄にとって、その制海権を賭けた肝入りの城であった事でしょう。。。持船城という名前も、この頃つけられたとされています。

Tokugawaieyasu600 一方、これまで、祖父が殺され(12月5日参照>>)、父も殺され(3月6日参照>>)、運命に翻弄されながら今川にて人質生活(8月2日参照>>)を送りつつも、先の桶狭間キッカケで地元の岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)へと戻り、独立を果たした三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)(2008年5月19日参照>>)は、領国を平定しつつ、その2年後には西側の隣国=尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)と同盟を結び、自身の領地の東に広がる、現段階では今川に吸収合併されている場所(6月21日参照>>)遠江(とおとうみ=静岡県西部)への進出を画策しはじめました。

で、この家康の動向を見た信玄が、このままだと遠江の次は駿河とばかりに「駿河も家康の物になっちゃうかも!」と、上記の通り、今川攻めに転じたわけですが、そこで、家康の同盟者である信長の嫡男=織田信忠(のぶただ)と自身の五女=松姫(まつひめ=信松尼)の婚約を成立させ、その信長の仲介によって家康と手を組み、大井川以東を武田が、以西を徳川が、それぞれ攻め取る約束を交わし、武田&徳川が連携して、信玄は北から、家康は西から、義元の後を継いだ今川氏真(うじざね)に迫ったわけで・・・話が前後しましたが、上記の「持船城を武田が奪った」のはこの頃ですね。

で、その今川攻めは・・・
永禄十一年(1568年)の12月13日に信玄が氏真の居館である今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市葵区・現在の駿府城)を襲撃(12月13日参照>>)すれば、12月27日に氏真が逃げ込んだ掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)に、家康が攻撃を開始する(12月27日参照>>)という見事な連携プレーだったわけですが、それに激怒したのが、かつて今川義元&武田信玄と自分の3人で甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)(3月3日参照>>)を結んでいた相模(さがみ=神奈川県)北条氏康(うじやす)・・・

同盟者としては同じ同盟者である今川を武田が攻撃する事は約束破りですからね。

で、息子の北条氏政(うじまさ)を派遣して武田をけん制しつつ、掛川城攻撃中の家康に近づいた北条氏康は、家康&氏真の仲介に入り、氏政の息子=北条氏直(うじなお)が今川氏真の猶子(ゆうし=契約上の養子)となって今川家の家督を継いて駿河&遠江を支配するという結論で両者を和睦させてしまったのです。

しかし、それには駿河を取る気満々だった信玄が激おこです。

なんせ、家康と連携していたはずが、勝手に和睦して、名目上とは言え駿河が北条の物になっちゃったわけですから・・・

それでも、自力で駿河進行を進める信玄は、
(【大宮城(おおみやじょう=静岡県富士宮市)奪取 】参照>>)
(【蒲原城(かんばらじょう=静岡県静岡市清水区)奪取】参照>>)
と実力行使していき、

ここらあたりで、完全に織田&徳川と切れた信玄は、元亀三年(1572年)10月、世に言う西上作戦(せいじょうさくせん)(10月22日参照>>)を開始し、家康の領地を通過・・・12月22日にはご存知、三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)(12月22日参照>>)にて、信玄VS家康の直接対決となりますが、ここで家康は手痛い敗北を喰らってしまいます。

しかし、さらに西へと向かっていた武田軍が、年が明けた元亀四年(1573年=7月に天正に改元)1月11日の野田城(のだじょう=愛知県新城市豊島)(1月11日参照>>)最後に、なぜか再び甲斐に戻ってしまうのです。

ご存知のように、この年の4月の行軍中に信玄が亡くなってしまったのです(4月16日参照>>)

信玄の死を、その2か月後に知った家康は、すぐさま、あの西上作戦のドサクサで武田傘下となっていた長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市長篠)を奪取(9月8日参照>>) ・・・ここから、「遠江⇔駿河間にある武田方の城を一つ一つ自分の物にしていく作戦」を開始するのです。

もちろん、信玄の後を継いだ武田勝頼(かつより=信玄の四男)も黙ってはおらず、家康傘下となったこの長篠城を取り返しに来るのが、天正三年(1575年)5月の、あの有名な長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら)の戦いなわけですが(5月21日参照>>)

その戦いで信長の支援を受けて武田に勝利した家康は、
天正三年(1575年)8月には諏訪原城(すわはらじょう=静岡県島田市)(8月24日参照>>)
12月には二俣城(ふたまたじょう=静岡県浜松市天竜区二)などと、ますます「遠江⇔駿河間にある武田方の城を一つ一つ自分の物にしていく作戦」を継続していく事になるのですが、もちろん、武田も、そうそう簡単には攻略させてはくれず・・・

とまぁ、そのうちの一つが今回の持船城というわけなのですが・・・

最初の戦いは天正五年(1577年)の10月2日

この時は、家康が持船城を攻め、城を守っていた今福丹波(いまふくたんば)三浦兵部(みうらひょうぶ)向井正重(むかいまさしげ)など、招かれて武田水軍に入っていた武将らが戦死したとされますが、城自体は、徳川に奪われる事は無かったようです。

2度目は、2年後の天正七年(1579年)9月19日

この時は、徳川方の松平家忠(まつだいらいえただ=家康と祖が同じ深溝松平家)牧野康成(まきのやすしげ)らが当目坂(とうめざか=静岡県焼津市)を越えて持船城を奇襲し、三浦兵部や向井正重ら30余を討ち取って、持船城を落城させました。。。って、2回討ち取られてますがな???

実は天正五年の記録は『嶽南史』なる文献で、天正七年の記録は、この時、持船城に撃ち入った松平家忠の日記の記述・・・日記はご本人が書いてるわけですから、この日、持船城を陥落させた事は確かでしょう。

一般的にも、天正五年に1度めの合戦があり、主たる武将が討ち取られたものの、三浦兵部や向井正重が討死したのは天正七年の9月19日であろうという説が有力ではありますが、この時代、敵の武将の顔や名前を知ってる方が珍しいですから、討死した武将の名に関してはちょいと「?」がつくかも知れません。

とは言え、ここで一旦、持船城は徳川の物になったのですが、未だ周辺は武田の勢力範囲であったため、孤立を恐れた家康は、そのまま持船城を維持する事無く兵を退いています。

なので、翌・天正八年(1580年)3月頃には、武田方が城を奪回して大幅修築し、城代として朝比奈信置(あさひなのぶおき)を置いて、徳川からの襲撃に備えさせ、家康も掛川城へと戻っています。

それにしても、この2度目の持船城攻撃を仕掛けた天正七年(1579年)9月19日という日付け・・・この4日前には嫡男の信康(のぶやす)を自刃に追い込み(9月15日参照>>)、さらに、その半月前の8月29日には奥さんの築山殿(つきやまどの=瀬名姫)を殺害(8月29日参照>>)している家康さん。。。

戦国の世のならいとは言え、「酷やなぁ」と思いますが、それをやれる人でないと生き残っては行けないのが戦国なのでしょうね~

なんせ、武田信玄の死の翌年の天正二年(1574年)、武田勝頼は、その後継者の役目を果たすべく、父も落とせなかった高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)を落として(5月12日参照>>)信玄の時代より領地を拡大していますが、今回の持船城攻防の翌年の天正九年(1581年)には、逆に、その高天神城を家康に奪われ(3月22日参照>>)武田滅亡へのカウントダウンが始まってしまうのですから、戦国の浮き沈みは激しい・・・

そして、家康による3度目かつ最終の持船城への攻撃が成されるのが天正十年(1582年)2月21日から・・・

そう、あの、織田信長による『甲州征伐(こうしゅうせいばつ)(2月9日参照>>)に連携しての攻撃です。

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(長篠から武田滅亡までの間の)遠江争奪戦関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

天正十年(1582年)正月27日、妹=真理姫(まりひめ)の嫁ぎ先である木曽義昌(きそよしまさ)が、織田方に寝返ったとの情報を得た勝頼は、早速、従兄弟の武田信豊(のぶとよ=信繁の息子)と弟の仁科盛信(にしなもりのぶ)を大手と搦手(からめて)の大将として木曽谷に向かわせ、自らも諏訪上原(うえのはら=長野県諏訪市)へと進出して陣を構え、戦闘態勢に入ります。

もちろん、木曽義昌も、すぐさま信長に援軍を要請・・・信長も、2月3日には、嫡男=織田信忠(のぶただ)を総大将とする主力部隊を木曽岩村(いわむら=岐阜県恵那市)から、朋友の家康を駿河口から、北条氏政を関東口から、それぞれ武田領内への侵攻を命じました。

即座に進発した主力部隊の先発隊が2月6日に滝ガ沢砦(長野県下伊那郡)、14日には信州松尾城(まつおじょう=長野県飯田市)小笠原信嶺(おがさわらのぶみね)を味方につけ ・・・と次々進んで行く中、2月18日に浜松を出発した家康は、2月20日に田中城(たなかじょう=静岡県藤枝市)を開城させ(2月20日参照>>)、 翌・21日には、当目坂で勝利した勢いのまま駿府(すんぷ=静岡県静岡市)を占領すると同時に、そのまま持船城を囲みます。

23日には、竹束(たけたば)で結橋(ゆいはし=堀を越えるための簡単な橋)を作って総攻撃を開始・・・耐えかねた朝比奈信置は27日に降伏し、29日に持船城を家康に開け渡しました。(4月8日参照>>)

それと前後して、駿河方面における武田方の守りの主力だった江尻城(えじりじょう=静岡県清水市)穴山梅雪(あなやまばいせつ=信君)織田方に降った事を知った勝頼・・・こうなれば、どうにもこうにも、戦略の立て直しするしかなく、やむなく武田信豊とともに上原を引き上げ、新府城(しんぷじょう=山梨県韮崎市)へと帰還しますが、強い味方であった弟=仁科盛信の高遠城(たかおおじょう=長野県伊那市)も3月2日に落城(3月2日参照>>)してしまいます。

高遠城が抵抗を続けている間に、次の対策を練ろうと考えていた勝頼の予定は狂い、やむなく、建てたばかりの新府城に火を放って、重臣の小山田信茂(おやまだのぶしげ)の居城=岩殿山城(いわどのやまじょう=山梨県大月市)に向かいますが、ご存知のように、これが武田滅亡への最後の旅路となったのです。

一方、この功績により、家康は駿河を得る事になります。

★この先の関連ページ
●【武田勝頼の逃避行】>>
●【武田勝頼、天目山に散る】>>
●【勝頼の妻・北条夫人桂林院】>>
【武田滅亡後の論功行賞と訓令】>>
【恵林寺焼き討ち】>>
【信長の安土帰陣と息子・勝長】>>
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2019年9月14日 (土)

本願寺が信長を水攻め!野田福島石山合戦~春日井堤の攻防

 

元亀元年(1570年)9月14日、織田信長VS三好三人衆の野田福島の戦いに参戦した石山本願寺門徒が淀川対岸の春日井堤にて、織田勢と激しくぶつかりました。

・・・・・・・・

ご存知のように、織田信長(おだのぶなが)が第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛するまで、畿内を制していたのは三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)・・・

長慶は、室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)を継ぐ細川晴元(はるもと)を破り(6月4日参照>>)、それまで敵対していた義昭の兄で第13代将軍の足利義輝(よしてる=11代諸軍・足利義晴の息子)とも和睦して(11月27日参照>>)、事実上、戦国初の天下人となりました。

しかし、その後に次々と身内を亡くした長慶が、うつ病を発症して、彼もまた失意のままに亡くなってしまいます。

そのため、後を継いだのは、わずか16歳の三好義継(みよしよしつぐ=長慶の甥)・・・そこで、三好三人衆と呼ばれる三好長逸(みよしながやす)三好政康(まさやす)石成友通(いわなりともみち)ら3人の三好一族の者が若き当主を支えるのですが、この3人が将軍=義輝を殺害(5月19日参照>>)して足利義栄(よしひで=義輝の従兄弟)を第14代将軍に据えた事から、兄が襲われた際に身を隠していた弟の義昭が、慌てて、自分を奉じて上洛してくれる力のある武将を捜しまくり、それが岐阜(ぎふ)を手に入れて(8月15日参照>>)『天下布武』の印鑑を使い始めたばかりの織田信長だった(10月4日参照>>)・・・というわけです。

こうして、永禄十一年(1568年)9月、義昭を奉じて上洛した信長・・・(9月7日参照>>)

この上洛の時、三好当主の義継と重臣の松永久秀(まつながひさひで)は信長のもとにはせ参じて織田傘下となりますが(11月16日の前半部分参照>>)三好三人衆は信長の行く手を阻んで抵抗し、敗れて阿波(あわ=徳島県)へと撤退しています。

もちろん、このままでは終わらない三好三人衆は、その翌年にも義昭が仮御所として宿泊していた本圀寺(ほんこくじ=当時は京都市下京区付近)を襲撃(1月5日参照>>)したりなんぞして、抵抗を続けていたわけですが、さらにその翌年=元亀元年(1570年)6月、信長に敵対する越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)と朝倉に味方する北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)との間に姉川の戦いが勃発(6月28日参照>>)

合戦当日の勝敗そのものは織田方の勝利だったものの、浅井・朝倉もある程度兵力を温存したまま、この先、京都への侵攻を狙っていた状況だった事で、これをチャンスと見た三好三人衆は、浅井・朝倉と連絡を取りつつ摂津(せっつ=大阪府北部・兵庫県南東部)に侵出し、野田福島(のだ・ふくしま=同福島区)の2か所に砦を構築し、反信長の兵を挙げたのです。

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野田城跡の碑(大阪市営地下鉄:玉川駅前)

一方、姉川のあと、一旦岐阜に戻っていた信長は、この三好三人衆の動きを知って畿内へ舞い戻り、8月26日、野田福島の砦を包囲します。

こうして始まった野田福島の戦い(くわしい戦いの経緯は8月26日参照>>)・・・大量の兵を投入する織田軍の情勢を見て、織田方に呼応する者が次々と現れる中、「形勢不利」とみた三好三人衆は和睦交渉を申し入れますが、信長は「NO!」を突き付けなおも攻撃。

もはや三好勢は風前の灯かに思われた9月12日、全国本願寺の総本山=石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪市中央区)が、三好方にて参戦して来たのです(9月12日参照>>)

信長が最初に上洛した頃は、将軍の手前もあって、おとなしく上納金など納めていた本願寺11代法主の顕如(けんにょ)でしたが、寺の目の前でドンパチやられるのも迷惑なら、ここんところの「本願寺の建ってる場所、譲ってほしいから立ち退いてくれへん?」の信長の申し出も大迷惑・・・で、ここに来てついに立ち上がり、全国の本願寺門徒に向けて「今こそ、開山・親鸞聖人の恩誼(おんぎ)に報いる時、その命惜しまず忠節を見せてくれ!けぇーへん者は破門にすんぞ!」と声を挙げたのです。

これが、この先10年に渡って繰り広げられる石山合戦のはじまりです。

本願寺門徒は合戦素人の烏合の衆とは言え、その人数はハンパなく多い・・・
「九月十二日夜半に寺内(本願寺)の鐘つかせられ候へば、即ち人数集まりけり。織田方仰天なりと云う」『細川両家記』

この本願寺門徒の勢いに、風前の灯だった三好の士気も一気に盛り返し、翌13日に未明には野田福島の砦から、淀川を挟んで対岸にあたる堤防を、足軽を動員して切断し、海の水を敵側に流したのです。

現在の大阪福島区はすっかり陸地ですが、この頃はまだ、付近一帯は淀川の流れを巻き込みつつ、その中洲が少し陸地となっているような湿地帯で、そこを、野田福島の砦は、わずかに残る陸地を堤防で以ってガッチリ固めて砦を構築し、南北東に広がる沼のような湿地の中、唯一西側に広がる海が、そのまま瀬戸内へとつながる物資の補給路でもあるという天然の要害でありました。

しかも、この時、にわかに西風が吹いて海から高塩水が吹きあがり、淀川の水が逆に流れるほどに勢いを増した事から、切られた堤防から、水は一気に織田側の陣営の方へ来たため、信長方の陣屋がことごとく水に浸かってしまったとか・・・

この水は、翌日になっても退かず、このあたりの信長方の将兵は皆、物見やぐらに登ってこれを凌ぐのが精いっぱい・・・そんな元亀元年(1570年)9月14日天満ヶ森(てんまがもり=大阪市北区南森町付近)に出陣した石山本願寺の大坂方と、それに応戦する信長方とで淀川対岸の春日井堤(かすがいつつみ・滓上江堤=かすがえつつみ)で激戦が繰り広げられます。

1番手に佐々成政(さっさなりまさ)が出撃するも負傷ため、退かざるを得なくなります。

代わって、2番手として登場したのが前田利家(まえだとしいえ)・・・1番手の軍勢が退く中、前田利家が堤の上、中央に留まり、槍で以って撃ちかかると、右手からは中野一安 (なかのかずやす)が弓を射かけ、左手からは野村越中守 (のむらえっちゅうのかみ)湯浅直宗(ゆあさなおむね)毛利長秀(もうりながひで)兼松正吉(かねまつまさよし)など信長の近習(きんじゅう=主君の側近く使える者)の者たちが先を争って戦い、何とか打ち勝ちます。

『信長公記』では、
この時、毛利長秀と兼松正吉は、二人協力して本願寺内衆(うちしゅう)下間頼総(しもま・しもつまよりふさ)の家臣=長末新七郎(ながすえしんしちろう)を打ち伏せますが、毛利が兼松に「さぁ、首を取れ!」と言うと、兼松は「いや、俺手伝っただけやし、君が取ったらええがな」と譲り合っているうちに、長末新七郎は逃げてしまい、みすみす首を取り損ねたのだとか・・・

↑てな逸話を読むと、ちょっとゆる~い雰囲気ですが、上記の通り、この戦いで佐々成政は負傷するし、野村越中守は討死するし・・・なので、やはりかなり激しい戦いであったでは?と想像します。

また、堤で踏ん張った前田利家には、このあと「堤の上の槍」なるニックネームがついたとか・・・

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石山合戦の関係図 ↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
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「石山戦争図」部分(和歌山市立博物館蔵)

その翌日=15日~17日にかけては鉄砲の撃ち合いもなく、和平への機運も高まりますが、信長としては、ここでウダウダやっている間に諸国の本願寺門徒が結集してしまう事態は避けたい・・・

しかし、そんなこんなの9月20日には、大坂方が撃って出て近在の刈田を行った事から、これを阻止しようとする信長方と合戦となりました。

この戦いでは、織田方の損害は少なかったと言いますが、一説には先ほどの野村越中守の討死は、この日の戦いであったという話もあります。

しかも、なんたってこの9月20日という日・・・そう、琵琶湖の西岸で宇佐山城の戦い(9月20日参照>>)があった日です。

これは・・・
三好&石山本願寺と連携する浅井&朝倉が琵琶湖西岸を南下して来て、織田方の森可成(もりよしなり)の守る宇佐山城(うさやまじょう=滋賀県大津市)を攻撃した戦い。

宇佐山ヤバしの情報を聞いて、すぐさま信長自ら援軍として坂本(さかもと=滋賀県大津市)へ向かい、何とか宇佐山城自体は持ちこたえましたが、これまで苦楽をともにして来た重臣=森可成は討死してしまっていました。

さらに、宇佐山城を落とせなかった浅井&浅倉のは軍勢は、そのまま南下して、21日には京都の山科(やましな=京都市山科区)醍醐(だいご=京都市伏見区)付近まで進撃し、周辺に放火して回りました。

一方の信長も、その日のうちに配下の明智光秀(あけちみつひで)柴田勝家(しばたかついえ)村井貞勝(むらいさだかつ)らを京都に入らせて二条御所(にじょうごしょ=義昭御所→2月2日参照>>の警備を固めさせ、翌22日には警備役についた4~500の将兵に京都界隈の見廻りをさせて警戒しますが、この同じ22日付けの浅井長政から大坂方に宛てた書状には
「一両日中に京都に入るので、安心して野田福島で頑張ってね~」
てな内容が書かれていますので、浅井&朝倉勢もヤル気満々だった事がうかがえますね。

この状況に、9月23日、ついに野田福島の包囲を解いて京都に退いた信長は、今後は、浅井&浅倉への対応を主におく事にするのですが、信長としては、これだけの四面楚歌の状況でも、何とか負けた感を最小限に抑えて石山本願寺と和睦したいわけで・・・

で、かの足利義昭が、この合戦の当初から乗り気ではなく、なるべく早く収めたがってた事を利用して、将軍&朝廷に介入してもらって和睦交渉をする事にします。

この交渉中にも、11月16日には長島一向一揆(ながしまいっこういっき=長島一帯の本願寺門徒の一揆)古木江城(こきえじょう=愛知県愛西市)を襲撃したり(11月21日参照>>)、11月26日には浅井勢が織田方の堅田(かただ=滋賀県大津市)の砦を奇襲したり(11月26日参照>>)、などありつつも、11月30日には本願寺の本所(本願寺は青蓮院傘下)である青蓮院(しょうれんいん)尊朝法親王(そんちょうほうしんのう=伏見宮邦輔親王の第6王子で天台座主)調停工作に動き始めてくれ、ついに12月14日、時の天皇=正親町天皇(おおぎまちてんのう)休戦綸旨(りんじ=天皇の意を受けて発給する命令文書)が発せられ、何とか、織田&本願寺の面目を保ったまま、野田福島の戦いは停戦となったのでした。

とは言え、ご存知のように、この小休止で態勢を整えた信長は、翌年が明けてまもなくの2月、浅井方の佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)を奪い(2月24日参照>>)、再び、浅井&朝倉との合戦を再開(5月6日参照>>)、周辺の近江の一向一揆ともドンパチ(9月3日参照>>)・・・となって、石山本願寺とも、またもや~となるのですが、、、なんせ、10年続きますからね~石山合戦は、、、

いつものように、「続きはコチラのページで…」と言いたいところですが、これからの信長さんは、いわゆる『信長包囲網(のぶながほういもう)ってヤツで囲まれまくりの周囲敵ばかりで戦いまくりなので、とりあえずは【織田信長の年表】>>の1571年あたりから流れを見ていただけるありがたいです。

に、しても・・・
「合戦で水攻め」と言えば、秀吉ばかり思い浮かべますが、本願寺もやってるんですね~

やはり、戦国のお坊さんは強いです!
 .

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2019年9月 8日 (日)

武田信玄の死を受けて徳川家康が動く~長篠城の戦い

 

天正元年(元亀4年=1573年)9月8日、武田信玄の死を知った徳川家康が、武田方の菅沼正貞らが守る三河長篠城を攻め落しました。

・・・・・・・

鉄砲の三段撃ちがあったのか?
武田の騎馬軍団は強かったのか?
とまぁ、教科書にも載りまくりで超有名な「長篠の戦い」ですが、今回の長篠城の戦いは、それ以前に起こり、その長篠の戦いにもつながる長篠城の争奪戦です。

ここで、徳川が、武田方だった長篠城を奪って徳川傘下の城とした事で、それを武田が取り返しに来たのが有名な長篠の戦いとなるのですが、実際には長篠城近くの設楽ヶ原(したらがはら)で、武田VS織田徳川連合軍の戦いが展開され、長篠城自体は、そのまま徳川方が守り切りますので、このブログでは以前から、有名なあの長篠の戦いの方は「長篠設楽ヶ原の戦い」と呼んでおります。

・‥…━━━☆てな事で本題…

永禄三年(1560年)の桶狭間(おけはざま=愛知県名古屋市)(2007年5月19日参照>>)キッカケで今川(いまがわ)からの独立(2008年5月19日参照>>)を果たした三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)は、その2年後には、桶狭間の勝者である隣国=尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)同盟を結んで(1月15日参照>>)自身の西側の憂いを無くし、大黒柱を失って衰え始めた今川の領地の一部=遠江(とうとうみ=静岡県西部)=つまり東側へと目を向けます。

一方、これまで自身の領地より北にあたる信濃(しなの=長野県)方面への領地拡大を図って、越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)と何度もドンパチ(川中島参照>>) やっていた甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)も、この状況を見て南へと方向転換・・・今川の領地の東半分=駿河(するが=静岡県東部)に狙いを定め、家康の同盟者である信長の嫡男=織田信忠(のぶただ)と自身の五女=松姫(まつひめ=信松尼)の婚約を成立させた信玄は、翌年の永禄十一年(1568年)、信長の仲介によって家康と手を組み、大井川以東を武田が、以西を徳川が、それぞれ攻め取る約束を交わし、二人連携して義元の後を継いだ今川氏真(うじざね)に迫ったのです。

Tokugawaieyasu600 この年の12月に、信玄が薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)を越え(12月12日参照>>)て氏真の居館である今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市葵区・現在の駿府城)を襲撃(12月13日参照>>)し、やむなく今川館を捨てて掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)へと逃走した氏真を、今度は家康が攻撃します(12月27日参照>>)

この両者の見事な連携プレーに怒り爆発なのが、かつて結んだ甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=今川&武田&北条の同盟)(3月3日参照>>)が未だ継続中のつもりでいた相模(さがみ=神奈川県)北条氏康(うじやす)・・・翌・永禄十二年(1569年)1月、息子の北条氏政(うじまさ)に4万5千の大軍をつけて再び薩埵峠に出陣し、信玄の侵攻を阻止しよう(1月18日参照>>)とします。

しかし、そんな薩埵峠がこう着状態の中、この間も徳川の攻撃中だった掛川城にて北条の仲介で和睦交渉が進み、5月17日に無血開城・・・それも、北条と徳川との間で同盟が成立して、今後の氏真の身は北条にて保護する事と、氏政の息子である北条氏直(うじなお)が、その氏真の猶子(ゆうし=契約上の養子)となって今川家の家督を継ぎ、駿河&遠江の支配を任される事が決定されたのです。

もちろん、実際には、上記の通り、未だ駿河&遠江にて信玄が戦ってる段階なので、徳川&北条の間での「氏直の駿河&遠江」はあくまで名目上の支配権ですが、自分の知らないところで徳川と北条だけで支配権云々てのは、おそらく信玄にとっては「何、勝手にやっとんねん!」てな感じだったかも知れません。

ここで完全に、徳川&北条はもちろん織田とも手切れとなったであろう信玄は、このあと7月の大宮城(おおみやじょう=静岡県富士宮市)(7月2日参照>>)、10月の小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)からの三増峠(みませとうげ=神奈川県愛甲郡愛川町)(10月6日参照>>)、さらに12月の蒲原城(かんばらじょう=静岡県静岡市清水区)(12月6日参照>>)自力での領地拡大に勤しむ事になり、当然ですが、武田VS織田+徳川+北条の関係は最悪状態に・・・

そんな中、去る永禄十一年(1568年)9月に、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛(9月7日参照>>)を果たした信長が、すでにその義昭との関係がギクシャクし始めて(1月23日参照>>)いるうえに、かつて畿内を制していた三好(みよし)や全国本願寺の総本山である石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)顕如(けんにょ)と敵対(9月12日参照>>)・・・さらに敵対する越前(えちぜん=福井県東部)朝倉(あさくら)北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井(あざい)(6月28日参照>>)の残党を匿ったとして比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市・天台宗総本山)を焼き討ちに(9月12日参照>>)

これには信玄も「天魔ノ変化(てんまのへんげ)と激おこ・・・なんせ信玄は、そんな信長に「天台座主(てんだいざす=天台宗のトップ)沙門」とハッタリかますほど天台宗ドップリでしたから・・・

ここらへんで、いわゆる「信長包囲網(のぶながほういもう)に参戦したであろう信玄は、元亀三年(1572年)10月、おそらく上洛?するつもりで、大軍を率いて躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた=山梨県甲府市古府中)を出陣・・・世に言う西上作戦(せいじょうさくせん)(2008年12月22日参照>>)を開始するのです。

おそらく上洛?と疑問符がつくのは・・・
10月13日の一言坂(ひとことざか=静岡県磐田市)(10月13日参照>>)
10月~12月の二俣城(ふたまたじょう=浜松市天竜区)(10月14日参照>>)まで南下した後、
10月22日の伊平城(いだいらじょう=静岡県浜松市北区・小屋山城とも井伊小屋とも)(10月22日参照>>)
そして12月22日のご存知、三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)(12月22日参照>>)と来て、
さらに年が明けた元亀四年(1573年=7月に天正に改元)1月11日の野田城(のだじょう=愛知県新城市豊島)(1月11日参照>>)と、ここまで家康の領地を西へ進みつつあった武田軍が、この野田城を最後に、再び甲斐に戻ってしまうからです。

実はコレ・・・この野田城攻防の後の4月12日に御大=信玄が亡くなってしまっていたからなのですが・・・

Takedakatuyori600a この信玄の死・・・
「俺の死は3年間は隠せ」の信玄の遺言により、その死は3年隠されて、後を継いだ武田勝頼(かつより=信玄の四男)も遺言に従って3年後に葬儀を行っていますが(4月15日参照>>)、実のところ「信玄死す」の情報は、けっこう素早くバレちゃってます。

ま、急に戻っちゃう時点で「アレ?」と思うのが当たり前だし、そうなると、なんやかやのスパイ的な人物を放って情報を集めるのが戦国の常識ですから・・・

そんな中で、日付がハッキリしてるのが家康さん・・・

実は、その死から約2ヶ月後の6月22日に、当時は武田の傘下であった作手城(つくでじょう=愛知県新城市・亀山城とも)奥平定能(おくだいらさだよし=貞能)信昌(のぶまさ=当時は貞昌)父子の使者が、家康の浜松城(はままつじょう=静岡県浜松市)を訪れ、信玄の死を知らせるとともに、今後、奥平一族が徳川方につく意思がある事を伝えて来ていたのです。

これを聞いた家康は、早速、翌7月の19日、軍事行動を起こします。

武田と徳川の国境線近くの奥三河にある長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市長篠)に拠る菅沼正貞(すがぬままささだ)を攻める事にしたのです。

『長篠軍記』によれば・・・
まずは八名郡乗本(やなぐんのりもと=現在の愛知県新城市乗本周辺)中山という場所に付城(つけじろ=攻撃拠点となる城)を構築して、そこに酒井忠次(さかいただつぐ)を置き、設楽郡(したらぐん=愛知県北設楽郡設楽町周辺)一帯に複数の陣を張り、攻撃準備に入ります。

もちろん、長篠城から、この知らせを聞いた武田側も直ちに動きます。

勝頼の従兄弟にあたる武田信豊(のぶとよ=信玄の甥)を大将にした約8000騎、馬場信春(ばばのぶはる= 馬場信房)率いる5000騎が長篠城の救援隊として出発し、信豊隊は黒瀬(くろせ=同新城市)にて待機、馬場隊は長篠近くにて陣取ります。

が、すでに、その頃には、三河勢による城中への火矢の撃ちかけ、城壁への攻め寄せなどが開始されていましたが、長篠城兵側も、これをよく防ぎ、互いに勝ったり負けたりのせめぎ合い・・・

そんな中の8月8日、この日はかなり風が強かった事から、三河勢は大量に集めた松葉を小分けにし、あちこちに火をつけて回ります。

これは陣払い(じんばらい=陣を引き払って退却)と見せかけて、これに反応した武田勢が「追撃せん」と出張って来るのを、伏兵が一気に倒す・・・という徳川方の作戦。。。

案の定、敵兵が進み出て来たところを「すわっ!」と伏兵が襲い掛かりますが、その場所に行った時にはもぬけの殻・・・一瞬「出て来た!」と思った敵兵はすぐに退却して、伏兵が出向いた頃には一人もいなくなっていたのです。

実は、徳川の作戦は、すでに馬場信春が見破っていて「乗ったふりしてすぐに撤退」という逆引っ掛け作戦だったのですが・・・

そんな小競り合いが続く中の8月21日、それまで武田の救援隊の中にいた奥平父子は、一族郎党を連れて密かに作手城を出て徳川方へと走ります。

これを知った武田側では、26日に黒瀬に滞在していた信豊隊が空になった作手の城に後詰め(ごつめ=先陣の後方に待機している予備軍)として入り、その後、さらに後方へ移動・・・

そんな救援隊のゴタゴタが影響したのか?
天正元年(元亀4年=1573年)9月8日菅沼正貞は、徳川に降伏して開城する事を決意・・・長篠城から脱出して北へと向かい、かの援軍に合流したのです。

しかし、あまりにアッサリと開城した事で徳川への内通を疑われた菅沼正貞は、この後、小諸城(こもろじょう=長野県小諸市)に幽閉され、その幽閉が解かれないまま、武田が滅亡する天正十年(1582年)頃に獄中死したと言われます。

一方、実際にはコッチが内通していた奥平父子・・・直後に父から家督を譲られた信昌は、同盟の証として家康の長女=亀姫(かめひめ)と婚約して、徳川の物となった長篠城の主となります。

実は、この時、信昌には、コチラも同盟の証として武田の人質となっているおふうという16歳の奥さんがいたのですが、この奥さんと勝手に離縁しての亀姫との婚約・・・なので、この奥さんと、同じく武田の人質となっていた弟の千丸など、武田の人質となっている奥平の面々が9月21日に、武田によって処刑されています。

こういうのは戦国の常とは言え、今回のおふうさんは、ちょっと悲し過ぎる・・・

で、ここで徳川の物となった長篠城を武田勝頼が取り返しに来るのが、2年後=天正三年(1575年)の、有名なあの長篠設楽ヶ原の戦い・・・という事になります。

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武田の猛攻に耐える長篠城の様子…「長篠合戦図屏風」部分(犬山城白帝文庫蔵)

●関連ページ
【いよいよ始まる長篠城・攻防戦】>>
【史上最強の伝令・鳥居強右衛門勝商】>>
【設楽原で準備万端…どうする?勝頼】>>
【もう一人の伝令~信長勝利の鍵】>>
【長篠の勝敗を決定づけた?鳶ヶ巣山砦・奇襲】>>
【決戦!長篠の戦い】>>
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2019年9月 1日 (日)

織田信長の美濃侵攻~関城の戦い

 

永禄八年(1565年)9月1日、織田信長が斎藤方の長井道利の拠る美濃関城を攻め落としました。

・・・・・・

かねてより、度々隣国同志で争っていた尾張(おわり=愛知県西部)美濃(みの=岐阜県)(9月22日参照>>)でありましたが、天文十八年(1549年)頃に、尾張の織田信秀(おだのぶひで)の息子=信長(のぶなが)と、美濃の斉藤道三(さいとうどうさん)の娘=濃姫(のうひめ=帰蝶)との婚姻が成立して和睦(4月20日参照>>)、ひとときの平穏が保たれました。

しかし弘治二年(1556年)に、その道三が息子の義龍(よしたつ)に敗れて(4月22日参照>>)政権交代した事で、直後から義父の弔い合戦を意識する信長・・・なんせ信長は、自分を裏切った息子と戦う先日の道三から【「美濃を譲る」の遺言状】>>を受け取っていたという話もありますから (遺言状は偽物の噂もありますが…)

Odanobunaga400aとは言え、かの義龍がなかなかの名将であった事で美濃には容易に手は出せず、また、自身の弟=信行(のぶゆき)(11月2日参照>>)尾張を統一の事など・・・目先の事も解決しなければならないわけで・・・

しかし、そんんなこんなの永禄三年(1560年)、信長が、ご存知桶狭間(おけはざま)今川義元(いまがわよしもと)を破って(5月19日参照>>)全国ネットに躍り出る一方で、斎藤では、この翌年=永禄四年(1561年)5月11日に義龍が死去し、未だ14歳の息子=龍興(たつおき)が家督を継ぐという出来事が・・・

これをチャンスと見た信長は、即座に美濃攻略に出陣・・・5月14日の森部(森辺)の戦い(5月14日参照>>)と23日の美濃十四条の戦い(5月23日参照>>)に勝利しました。

さらに、翌年の永禄五年(1562年)に織田信賢(のぶかた)を追放して尾張一国を統一した信長は、いよいよ本格的に美濃攻略に乗り出す決意を固め、永禄六年(1563年)には、美濃侵攻の拠点とするべく、小牧山(こまきやま=愛知県小牧市)に新たな城を築きました。

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信長の美濃侵攻~位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

その後、永禄七年(1564年)に犬山城(いぬやまじょう=愛知県犬山市)の家老の内応により、その犬山城が織田方の物となると、斎藤配下だった加治田城(かじたじょう=岐阜県加茂郡富加町)佐藤忠能(さとうただよし)忠康(ただやす)父子が織田方に転向します。

そして犬山城攻略の勢いに乗った織田勢は、犬山と加治田の間にある大沢基康(おおさわもとやす)鵜沼城うぬまじょう=岐阜県各務原市多治見修理(たじみしゅり)猿啄城(さるばみじょう=岐阜県加茂郡坂祝町)を攻略し、両城から敗走した兵が逃げ込んだ岸信周(きしのぶちか)堂洞城(どうほらじょう=岐阜県加茂郡富加町)を囲みます。

ここで、速やかなる開城を交渉する信長でしたが、岸信周は堂洞城にて預かっていた佐藤忠能の娘を磔刑(たっけい=はりつけの刑)に処して反発・・・結局、大激戦の末、堂洞城は陥落する(8月28日参照>>)のですが、この時、堂洞城の後方支援として織田勢の背後を狙っていたのが、関城(せきじょう=岐阜県関市)長井道利(ながいみちとし)でした。

この長い道利は、斎藤道三の息子ともされる人物で(8月28日参照>>)、それならば現当主=龍興の叔父になるわけですが、その真偽はともかく、かなり主家に近しい人物であり、龍興が信頼を寄せる武将でした。

今回の信長の美濃侵攻に当たっても、その忠誠心で以って、先の佐藤忠能や岸信周らと「信長との徹底抗戦」を誓い、互いに同盟を結んでいたわけですが、上記の通り佐藤忠能には裏切られ、そのせいもあって、堂洞城を目の前にしながら岸信周を自刃させてしまった事に、誰よりも悔しい思いをしていたのです。

かくして、憎い信長を迎え撃つべく関城に籠城する道利・・・

この関城は、南側に3つの砦が連立したさらに南に津保川(つぼがわ)が西に向かって流れ、北側は湧き水による湿地帯・・・しかも、その湿地帯から城の東西両側を2つの川が南下するという見事な天然の要害で、備える兵力もなかなかの物なうえに、それを指揮するのが長井道利という事で、信長も、堂洞城陥落後すぐに攻撃を仕掛けず、しっかりと見据えつつ、まずは、佐藤忠能に斎藤新五(しんご=新五郎利治・長龍:斎藤道三の末子?)を加勢につけて攻めさせる事に・・・

8月29日、連日の晴天続きで、かなり水かさが減っていた津保川をなんなく渡河した織田勢・約1000は、関城を守る砦の一つである肥田瀬砦(ひだせとりで=岐阜県関市)の攻撃に取り掛かりますが、ここで「関城からの救援が無い」と見て、さらに進んで関城の大手口へと迫ります。

しかし、ここで長井勢の強い反撃を受けて撤退・・・翌日、丸一日かけて将兵の休息と、今後の作戦を練って大勢を整えた永禄八年(1565年)9月1日、先と同じく斎藤&佐藤勢を先鋒に、丹羽長秀(にわながひで)隊、河尻秀隆(かわじりひでたか)隊、金森長近(かなもりながちか)隊などの諸隊が続き、やはり先日と同じく津保川を渡って関城へと迫り、各所の砦を攻撃し始めます。

ここを支えきれなくなった砦の守兵は次々と本城へと退いて、籠城戦に加わっていきました。

ここまで、長井道利のゲリラ的奇襲を警戒して遠くから指示を出していた信長は、ここで、自身の本陣を肥田瀬へと移動して、「東西南の三方向から一気に関城に総攻撃をかけよ!」と指示を出します。

もちろん、道利も檄を飛ばして必死の防戦に努めますが、東からの斎藤勢の攻撃に対抗していると西からの丹羽勢が攻めかかり・・・と、城内外入り乱れての大混戦となるうち、長井勢が次々と討たれはじめ、とうとう、道利の息子=道勝(みちかつ=井上道勝*討死してない説もあります)など、側近までも討死してしまいます。

「もはや、これまで!」
と自刃も覚悟した道利でしたが、主君=龍興の今後を思うと、
やはり「ここで死ぬわけにはいかない!」
と思い直し、数人の従者を連れて城を脱出・・・主を失った関城は陥落しました。

これにて東濃(とうのう=美濃東部=岐阜県南東部)における反信長勢力は一掃され、斎藤氏の本拠=稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)の外郭を抑えた事になります。

こうして、信長はいよいよ念願の稲葉山城攻略へと向かうわけですが、そのお話は約2年後の永禄十年(1567年)・・・
*8月1日の【美濃三人衆の内応】>>
*8月15日の【天下への第一歩~稲葉山城・陥落】>>
それぞれのページでどうぞ
(内容がかぶってる部分もありますが、お許しを…m(_ _)m)
 .

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