本願寺が信長を水攻め!野田福島石山合戦~春日井堤の攻防
元亀元年(1570年)9月14日、織田信長VS三好三人衆の野田福島の戦いに参戦した石山本願寺門徒が淀川対岸の春日井堤にて、織田勢と激しくぶつかりました。
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ご存知のように、織田信長(おだのぶなが)が第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛するまで、畿内を制していたのは三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)・・・
長慶は、室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)を継ぐ細川晴元(はるもと)を破り(6月4日参照>>)、それまで敵対していた義昭の兄で第13代将軍の足利義輝(よしてる=11代諸軍・足利義晴の息子)とも和睦して(11月27日参照>>)、事実上、戦国初の天下人となりました。
しかし、その後に次々と身内を亡くした長慶が、うつ病を発症して、彼もまた失意のままに亡くなってしまいます。
そのため、後を継いだのは、わずか16歳の三好義継(みよしよしつぐ=長慶の甥)・・・そこで、三好三人衆と呼ばれる三好長逸(みよしながやす)・三好政康(まさやす)・石成友通(いわなりともみち)ら3人の三好一族の者が若き当主を支えるのですが、この3人が将軍=義輝を殺害(5月19日参照>>)して足利義栄(よしひで=義輝の従兄弟)を第14代将軍に据えた事から、兄が襲われた際に身を隠していた弟の義昭が、慌てて、自分を奉じて上洛してくれる力のある武将を捜しまくり、それが岐阜(ぎふ)を手に入れて(8月15日参照>>)『天下布武』の印鑑を使い始めたばかりの織田信長だった(10月4日参照>>)・・・というわけです。
こうして、永禄十一年(1568年)9月、義昭を奉じて上洛した信長・・・(9月7日参照>>)。
この上洛の時、三好当主の義継と重臣の松永久秀(まつながひさひで)は信長のもとにはせ参じて織田傘下となりますが(11月16日の前半部分参照>>)、三好三人衆は信長の行く手を阻んで抵抗し、敗れて阿波(あわ=徳島県)へと撤退しています。
もちろん、このままでは終わらない三好三人衆は、その翌年にも義昭が仮御所として宿泊していた本圀寺(ほんこくじ=当時は京都市下京区付近)を襲撃(1月5日参照>>)したりなんぞして、抵抗を続けていたわけですが、さらにその翌年=元亀元年(1570年)6月、信長に敵対する越前(えちぜん=福井県東部)の朝倉義景(あさくらよしかげ)と朝倉に味方する北近江(きたおうみ=滋賀県北部)の浅井長政(あざいながまさ)との間に姉川の戦いが勃発(6月28日参照>>)。
合戦当日の勝敗そのものは織田方の勝利だったものの、浅井・朝倉もある程度兵力を温存したまま、この先、京都への侵攻を狙っていた状況だった事で、これをチャンスと見た三好三人衆は、浅井・朝倉と連絡を取りつつ摂津(せっつ=大阪府北部・兵庫県南東部)に侵出し、野田・福島(のだ・ふくしま=同福島区)の2か所に砦を構築し、反信長の兵を挙げたのです。
一方、姉川のあと、一旦岐阜に戻っていた信長は、この三好三人衆の動きを知って畿内へ舞い戻り、8月26日、野田福島の砦を包囲します。
こうして始まった野田福島の戦い(くわしい戦いの経緯は8月26日参照>>)・・・大量の兵を投入する織田軍の情勢を見て、織田方に呼応する者が次々と現れる中、「形勢不利」とみた三好三人衆は和睦交渉を申し入れますが、信長は「NO!」を突き付けなおも攻撃。
もはや三好勢は風前の灯かに思われた9月12日、全国本願寺の総本山=石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪市中央区)が、三好方にて参戦して来たのです(9月12日参照>>)。
信長が最初に上洛した頃は、将軍の手前もあって、おとなしく上納金など納めていた本願寺11代法主の顕如(けんにょ)でしたが、寺の目の前でドンパチやられるのも迷惑なら、ここんところの「本願寺の建ってる場所、譲ってほしいから立ち退いてくれへん?」の信長の申し出も大迷惑・・・で、ここに来てついに立ち上がり、全国の本願寺門徒に向けて「今こそ、開山・親鸞聖人の恩誼(おんぎ)に報いる時、その命惜しまず忠節を見せてくれ!けぇーへん者は破門にすんぞ!」と声を挙げたのです。
これが、この先10年に渡って繰り広げられる石山合戦のはじまりです。
本願寺門徒は合戦素人の烏合の衆とは言え、その人数はハンパなく多い・・・
「九月十二日夜半に寺内(本願寺)の鐘つかせられ候へば、即ち人数集まりけり。織田方仰天なりと云う」『細川両家記』
この本願寺門徒の勢いに、風前の灯だった三好の士気も一気に盛り返し、翌13日に未明には野田福島の砦から、淀川を挟んで対岸にあたる堤防を、足軽を動員して切断し、海の水を敵側に流したのです。
現在の大阪福島区はすっかり陸地ですが、この頃はまだ、付近一帯は淀川の流れを巻き込みつつ、その中洲が少し陸地となっているような湿地帯で、そこを、野田福島の砦は、わずかに残る陸地を堤防で以ってガッチリ固めて砦を構築し、南北東に広がる沼のような湿地の中、唯一西側に広がる海が、そのまま瀬戸内へとつながる物資の補給路でもあるという天然の要害でありました。
しかも、この時、にわかに西風が吹いて海から高塩水が吹きあがり、淀川の水が逆に流れるほどに勢いを増した事から、切られた堤防から、水は一気に織田側の陣営の方へ来たため、信長方の陣屋がことごとく水に浸かってしまったとか・・・
この水は、翌日になっても退かず、このあたりの信長方の将兵は皆、物見やぐらに登ってこれを凌ぐのが精いっぱい・・・そんな元亀元年(1570年)9月14日、天満ヶ森(てんまがもり=大阪市北区南森町付近)に出陣した石山本願寺の大坂方と、それに応戦する信長方とで淀川対岸の春日井堤(かすがいつつみ・滓上江堤=かすがえつつみ)で激戦が繰り広げられます。
1番手に佐々成政(さっさなりまさ)が出撃するも負傷ため、退かざるを得なくなります。
代わって、2番手として登場したのが前田利家(まえだとしいえ)・・・1番手の軍勢が退く中、前田利家が堤の上、中央に留まり、槍で以って撃ちかかると、右手からは中野一安 (なかのかずやす)が弓を射かけ、左手からは野村越中守 (のむらえっちゅうのかみ)、湯浅直宗(ゆあさなおむね)、毛利長秀(もうりながひで)、兼松正吉(かねまつまさよし)など信長の近習(きんじゅう=主君の側近く使える者)の者たちが先を争って戦い、何とか打ち勝ちます。
『信長公記』では、
この時、毛利長秀と兼松正吉は、二人協力して本願寺内衆(うちしゅう)=下間頼総(しもま・しもつまよりふさ)の家臣=長末新七郎(ながすえしんしちろう)を打ち伏せますが、毛利が兼松に「さぁ、首を取れ!」と言うと、兼松は「いや、俺手伝っただけやし、君が取ったらええがな」と譲り合っているうちに、長末新七郎は逃げてしまい、みすみす首を取り損ねたのだとか・・・
↑てな逸話を読むと、ちょっとゆる~い雰囲気ですが、上記の通り、この戦いで佐々成政は負傷するし、野村越中守は討死するし・・・なので、やはりかなり激しい戦いであったでは?と想像します。
また、堤で踏ん張った前田利家には、このあと「堤の上の槍」なるニックネームがついたとか・・・
石山合戦の関係図 ↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
「石山戦争図」部分(和歌山市立博物館蔵)
その翌日=15日~17日にかけては鉄砲の撃ち合いもなく、和平への機運も高まりますが、信長としては、ここでウダウダやっている間に諸国の本願寺門徒が結集してしまう事態は避けたい・・・
しかし、そんなこんなの9月20日には、大坂方が撃って出て近在の刈田を行った事から、これを阻止しようとする信長方と合戦となりました。
この戦いでは、織田方の損害は少なかったと言いますが、一説には先ほどの野村越中守の討死は、この日の戦いであったという話もあります。
しかも、なんたってこの9月20日という日・・・そう、琵琶湖の西岸で宇佐山城の戦い(9月20日参照>>)があった日です。
これは・・・
三好&石山本願寺と連携する浅井&朝倉が琵琶湖西岸を南下して来て、織田方の森可成(もりよしなり)の守る宇佐山城(うさやまじょう=滋賀県大津市)を攻撃した戦い。
宇佐山ヤバしの情報を聞いて、すぐさま信長自ら援軍として坂本(さかもと=滋賀県大津市)へ向かい、何とか宇佐山城自体は持ちこたえましたが、これまで苦楽をともにして来た重臣=森可成は討死してしまっていました。
さらに、宇佐山城を落とせなかった浅井&浅倉のは軍勢は、そのまま南下して、21日には京都の山科(やましな=京都市山科区)や醍醐(だいご=京都市伏見区)付近まで進撃し、周辺に放火して回りました。
一方の信長も、その日のうちに配下の明智光秀(あけちみつひで)や柴田勝家(しばたかついえ)、村井貞勝(むらいさだかつ)らを京都に入らせて二条御所(にじょうごしょ=義昭御所→2月2日参照>>)の警備を固めさせ、翌22日には警備役についた4~500の将兵に京都界隈の見廻りをさせて警戒しますが、この同じ22日付けの浅井長政から大坂方に宛てた書状には
「一両日中に京都に入るので、安心して野田福島で頑張ってね~」
てな内容が書かれていますので、浅井&朝倉勢もヤル気満々だった事がうかがえますね。
この状況に、9月23日、ついに野田福島の包囲を解いて京都に退いた信長は、今後は、浅井&浅倉への対応を主におく事にするのですが、信長としては、これだけの四面楚歌の状況でも、何とか負けた感を最小限に抑えて石山本願寺と和睦したいわけで・・・
で、かの足利義昭が、この合戦の当初から乗り気ではなく、なるべく早く収めたがってた事を利用して、将軍&朝廷に介入してもらって和睦交渉をする事にします。
この交渉中にも、11月16日には長島一向一揆(ながしまいっこういっき=長島一帯の本願寺門徒の一揆)が古木江城(こきえじょう=愛知県愛西市)を襲撃したり(11月21日参照>>)、11月26日には浅井勢が織田方の堅田(かただ=滋賀県大津市)の砦を奇襲したり(11月26日参照>>)、などありつつも、11月30日には本願寺の本所(本願寺は青蓮院傘下)である青蓮院(しょうれんいん)の尊朝法親王(そんちょうほうしんのう=伏見宮邦輔親王の第6王子で天台座主)が調停工作に動き始めてくれ、ついに12月14日、時の天皇=正親町天皇(おおぎまちてんのう)の休戦綸旨(りんじ=天皇の意を受けて発給する命令文書)が発せられ、何とか、織田&本願寺の面目を保ったまま、野田福島の戦いは停戦となったのでした。
とは言え、ご存知のように、この小休止で態勢を整えた信長は、翌年が明けてまもなくの2月、浅井方の佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)を奪い(2月24日参照>>)、再び、浅井&朝倉との合戦を再開し(5月6日参照>>)、周辺の近江の一向一揆ともドンパチ(9月3日参照>>)・・・となって、石山本願寺とも、またもや~となるのですが、、、なんせ、10年続きますからね~石山合戦は、、、
いつものように、「続きはコチラのページで…」と言いたいところですが、これからの信長さんは、いわゆる『信長包囲網(のぶながほういもう)』ってヤツで囲まれまくりの周囲敵ばかりで戦いまくりなので、とりあえずは【織田信長の年表】>>の1571年あたりから流れを見ていただけるありがたいです。
に、しても・・・
「合戦で水攻め」と言えば、秀吉ばかり思い浮かべますが、本願寺もやってるんですね~
やはり、戦国のお坊さんは強いです!
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