武田信玄の死を受けて徳川家康が動く~長篠城の戦い
天正元年(元亀4年=1573年)9月8日、武田信玄の死を知った徳川家康が、武田方の菅沼正貞らが守る三河長篠城を攻め落しました。
・・・・・・・
鉄砲の三段撃ちがあったのか?
武田の騎馬軍団は強かったのか?
とまぁ、教科書にも載りまくりで超有名な「長篠の戦い」ですが、今回の長篠城の戦いは、それ以前に起こり、その長篠の戦いにもつながる長篠城の争奪戦です。
ここで、徳川が、武田方だった長篠城を奪って徳川傘下の城とした事で、それを武田が取り返しに来たのが有名な長篠の戦いとなるのですが、実際には長篠城近くの設楽ヶ原(したらがはら)で、武田VS織田徳川連合軍の戦いが展開され、長篠城自体は、そのまま徳川方が守り切りますので、このブログでは以前から、有名なあの長篠の戦いの方は「長篠設楽ヶ原の戦い」と呼んでおります。
・‥…━━━☆てな事で本題…
永禄三年(1560年)の桶狭間(おけはざま=愛知県名古屋市)(2007年5月19日参照>>)キッカケで今川(いまがわ)からの独立(2008年5月19日参照>>)を果たした三河(みかわ=愛知県東部)の徳川家康(とくがわいえやす)は、その2年後には、桶狭間の勝者である隣国=尾張(おわり=愛知県西部)の織田信長(おだのぶなが)と同盟を結んで(1月15日参照>>)自身の西側の憂いを無くし、大黒柱を失って衰え始めた今川の領地の一部=遠江(とうとうみ=静岡県西部)=つまり東側へと目を向けます。
一方、これまで自身の領地より北にあたる信濃(しなの=長野県)方面への領地拡大を図って、越後(えちご=新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん)と何度もドンパチ(川中島参照>>) やっていた甲斐(かい=山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)も、この状況を見て南へと方向転換・・・今川の領地の東半分=駿河(するが=静岡県東部)に狙いを定め、家康の同盟者である信長の嫡男=織田信忠(のぶただ)と自身の五女=松姫(まつひめ=信松尼)の婚約を成立させた信玄は、翌年の永禄十一年(1568年)、信長の仲介によって家康と手を組み、大井川以東を武田が、以西を徳川が、それぞれ攻め取る約束を交わし、二人連携して義元の後を継いだ今川氏真(うじざね)に迫ったのです。
この年の12月に、信玄が薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)を越え(12月12日参照>>)て氏真の居館である今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市葵区・現在の駿府城)を襲撃(12月13日参照>>)し、やむなく今川館を捨てて掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)へと逃走した氏真を、今度は家康が攻撃します(12月27日参照>>)。
この両者の見事な連携プレーに怒り爆発なのが、かつて結んだ甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=今川&武田&北条の同盟)(3月3日参照>>)が未だ継続中のつもりでいた相模(さがみ=神奈川県)の北条氏康(うじやす)・・・翌・永禄十二年(1569年)1月、息子の北条氏政(うじまさ)に4万5千の大軍をつけて再び薩埵峠に出陣し、信玄の侵攻を阻止しよう(1月18日参照>>)とします。
しかし、そんな薩埵峠がこう着状態の中、この間も徳川の攻撃中だった掛川城にて北条の仲介で和睦交渉が進み、5月17日に無血開城・・・それも、北条と徳川との間で同盟が成立して、今後の氏真の身は北条にて保護する事と、氏政の息子である北条氏直(うじなお)が、その氏真の猶子(ゆうし=契約上の養子)となって今川家の家督を継ぎ、駿河&遠江の支配を任される事が決定されたのです。
もちろん、実際には、上記の通り、未だ駿河&遠江にて信玄が戦ってる段階なので、徳川&北条の間での「氏直の駿河&遠江」はあくまで名目上の支配権ですが、自分の知らないところで徳川と北条だけで支配権云々てのは、おそらく信玄にとっては「何、勝手にやっとんねん!」てな感じだったかも知れません。
ここで完全に、徳川&北条はもちろん織田とも手切れとなったであろう信玄は、このあと7月の大宮城(おおみやじょう=静岡県富士宮市)(7月2日参照>>)、10月の小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)からの三増峠(みませとうげ=神奈川県愛甲郡愛川町)(10月6日参照>>)、さらに12月の蒲原城(かんばらじょう=静岡県静岡市清水区)(12月6日参照>>)と自力での領地拡大に勤しむ事になり、当然ですが、武田VS織田+徳川+北条の関係は最悪状態に・・・
そんな中、去る永禄十一年(1568年)9月に、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛(9月7日参照>>)を果たした信長が、すでにその義昭との関係がギクシャクし始めて(1月23日参照>>)いるうえに、かつて畿内を制していた三好(みよし)や全国本願寺の総本山である石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)の顕如(けんにょ)と敵対(9月12日参照>>)・・・さらに敵対する越前(えちぜん=福井県東部)の朝倉(あさくら)や北近江(きたおうみ=滋賀県北部)の浅井(あざい)(6月28日参照>>)の残党を匿ったとして比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市・天台宗総本山)を焼き討ちに(9月12日参照>>)
これには信玄も「天魔ノ変化(てんまのへんげ)」と激おこ・・・なんせ信玄は、そんな信長に「天台座主(てんだいざす=天台宗のトップ)沙門」とハッタリかますほど天台宗ドップリでしたから・・・
ここらへんで、いわゆる「信長包囲網(のぶながほういもう)」に参戦したであろう信玄は、元亀三年(1572年)10月、おそらく上洛?するつもりで、大軍を率いて躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた=山梨県甲府市古府中)を出陣・・・世に言う西上作戦(せいじょうさくせん)(2008年12月22日参照>>)を開始するのです。
おそらく上洛?と疑問符がつくのは・・・
10月13日の一言坂(ひとことざか=静岡県磐田市)(10月13日参照>>)、
10月~12月の二俣城(ふたまたじょう=浜松市天竜区)(10月14日参照>>)まで南下した後、
10月22日の伊平城(いだいらじょう=静岡県浜松市北区・小屋山城とも井伊小屋とも)(10月22日参照>>)、
そして12月22日のご存知、三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)(12月22日参照>>)と来て、
さらに年が明けた元亀四年(1573年=7月に天正に改元)1月11日の野田城(のだじょう=愛知県新城市豊島)(1月11日参照>>)と、ここまで家康の領地を西へ進みつつあった武田軍が、この野田城を最後に、再び甲斐に戻ってしまうからです。
実はコレ・・・この野田城攻防の後の4月12日に御大=信玄が亡くなってしまっていたからなのですが・・・
この信玄の死・・・
「俺の死は3年間は隠せ」の信玄の遺言により、その死は3年隠されて、後を継いだ武田勝頼(かつより=信玄の四男)も遺言に従って3年後に葬儀を行っていますが(4月15日参照>>)、実のところ「信玄死す」の情報は、けっこう素早くバレちゃってます。
ま、急に戻っちゃう時点で「アレ?」と思うのが当たり前だし、そうなると、なんやかやのスパイ的な人物を放って情報を集めるのが戦国の常識ですから・・・
そんな中で、日付がハッキリしてるのが家康さん・・・
実は、その死から約2ヶ月後の6月22日に、当時は武田の傘下であった作手城(つくでじょう=愛知県新城市・亀山城とも)の奥平定能(おくだいらさだよし=貞能)・信昌(のぶまさ=当時は貞昌)父子の使者が、家康の浜松城(はままつじょう=静岡県浜松市)を訪れ、信玄の死を知らせるとともに、今後、奥平一族が徳川方につく意思がある事を伝えて来ていたのです。
これを聞いた家康は、早速、翌7月の19日、軍事行動を起こします。
武田と徳川の国境線近くの奥三河にある長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市長篠)に拠る菅沼正貞(すがぬままささだ)を攻める事にしたのです。
『長篠軍記』によれば・・・
まずは八名郡乗本(やなぐんのりもと=現在の愛知県新城市乗本周辺)の中山という場所に付城(つけじろ=攻撃拠点となる城)を構築して、そこに酒井忠次(さかいただつぐ)を置き、設楽郡(したらぐん=愛知県北設楽郡設楽町周辺)一帯に複数の陣を張り、攻撃準備に入ります。
もちろん、長篠城から、この知らせを聞いた武田側も直ちに動きます。
勝頼の従兄弟にあたる武田信豊(のぶとよ=信玄の甥)を大将にした約8000騎、馬場信春(ばばのぶはる= 馬場信房)率いる5000騎が長篠城の救援隊として出発し、信豊隊は黒瀬(くろせ=同新城市)にて待機、馬場隊は長篠近くにて陣取ります。
が、すでに、その頃には、三河勢による城中への火矢の撃ちかけ、城壁への攻め寄せなどが開始されていましたが、長篠城兵側も、これをよく防ぎ、互いに勝ったり負けたりのせめぎ合い・・・
そんな中の8月8日、この日はかなり風が強かった事から、三河勢は大量に集めた松葉を小分けにし、あちこちに火をつけて回ります。
これは陣払い(じんばらい=陣を引き払って退却)と見せかけて、これに反応した武田勢が「追撃せん」と出張って来るのを、伏兵が一気に倒す・・・という徳川方の作戦。。。
案の定、敵兵が進み出て来たところを「すわっ!」と伏兵が襲い掛かりますが、その場所に行った時にはもぬけの殻・・・一瞬「出て来た!」と思った敵兵はすぐに退却して、伏兵が出向いた頃には一人もいなくなっていたのです。
実は、徳川の作戦は、すでに馬場信春が見破っていて「乗ったふりしてすぐに撤退」という逆引っ掛け作戦だったのですが・・・
そんな小競り合いが続く中の8月21日、それまで武田の救援隊の中にいた奥平父子は、一族郎党を連れて密かに作手城を出て徳川方へと走ります。
これを知った武田側では、26日に黒瀬に滞在していた信豊隊が空になった作手の城に後詰め(ごつめ=先陣の後方に待機している予備軍)として入り、その後、さらに後方へ移動・・・
そんな救援隊のゴタゴタが影響したのか?
天正元年(元亀4年=1573年)9月8日、菅沼正貞は、徳川に降伏して開城する事を決意・・・長篠城から脱出して北へと向かい、かの援軍に合流したのです。
しかし、あまりにアッサリと開城した事で徳川への内通を疑われた菅沼正貞は、この後、小諸城(こもろじょう=長野県小諸市)に幽閉され、その幽閉が解かれないまま、武田が滅亡する天正十年(1582年)頃に獄中死したと言われます。
一方、実際にはコッチが内通していた奥平父子・・・直後に父から家督を譲られた信昌は、同盟の証として家康の長女=亀姫(かめひめ)と婚約して、徳川の物となった長篠城の主となります。
実は、この時、信昌には、コチラも同盟の証として武田の人質となっているおふうという16歳の奥さんがいたのですが、この奥さんと勝手に離縁しての亀姫との婚約・・・なので、この奥さんと、同じく武田の人質となっていた弟の千丸など、武田の人質となっている奥平の面々が9月21日に、武田によって処刑されています。
こういうのは戦国の常とは言え、今回のおふうさんは、ちょっと悲し過ぎる・・・
で、ここで徳川の物となった長篠城を武田勝頼が取り返しに来るのが、2年後=天正三年(1575年)の、有名なあの長篠設楽ヶ原の戦い・・・という事になります。
武田の猛攻に耐える長篠城の様子…「長篠合戦図屏風」部分(犬山城白帝文庫蔵)
●関連ページ
【いよいよ始まる長篠城・攻防戦】>>
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