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2019年9月24日 (火)

上杉謙信の能登平定~松波城の戦い

 

天正五年(1577年)9月24日、上杉謙信の命を受けた長沢光国が畠山氏の松波義親の守る松波城を攻撃しました。

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戦国屈指のライバル同士の戦い=川中島・・・
(くわしい戦いの経緯は下記参照リンクで…)

隣国・信濃(しなの=長野県)を制して、さらに北に進もうとする甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)と、それを阻む越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)との5回=約10余に渡る戦いですが、ここでドンパチやってる間に戦国の情勢が大きく変わります。

永禄三年(1560年)の桶狭間(おけはざま)の戦い(2007年5月19日参照>>)で、当時、天下に1番近い男と言われていた駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)の守護=今川義元(いまがわとしもと)が、尾張(おわり=愛知県西部)の一武将=織田信長(おだのぶなが)に敗れ、

しかも、その信長がほどなく尾張を統一(11月1日参照>>)して隣国=美濃(みの=岐阜県南部)を狙い始めるわ(8月28日参照>>)
桶狭間キッカケで今川での人質生活から独立した(2008年5月19日参照>>)三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす=松平元康)が、その信長と同盟を結んで(1月15日参照>>)、義元亡き後の隣国=遠江を狙い始めるわ・・・
(*参考=この頃、後の15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき=義秋)が謙信に対し、しきりに自身を奉じて上洛する事を希望していますが、当時の謙信には、その気がなかったようで…結局、永禄十一年(1568年)9月に信長が義昭を奉じて上洛します…10月4日参照>>

で、この時期に謙信&信玄ともに、こう着状態の川中島から、それぞれシフトチェンジ・・・信玄は南下して今川領へと侵攻し(7月2日参照>>)謙信は祖父の代からの悲願だった北陸平定(9月19日参照>>)を実現すべく、西に向けて進み始めるのです。

Uesugikensin500 そして天正五年(1577年)9月、いよいよ能登(のと=石川県北部)七尾城(ななおじょう=石川県七尾市古城町)へと迫った謙信・・・

ここ七尾城は、代々、守護(しゅご=県知事みたいな)である畠山氏(はたけやまし)が治めていましたが、度重なる当主の交代で、この頃は、わずか5~6歳?くらいの幼い畠山春王丸(はたけやまはるおうまる)が当主を務めており、それをサポートしていたのが重臣の長続連(ちょうつぐつら)綱連(つなつら)父子。

しかし、謙信に攻められた七尾城内で春王丸は病死し、長父子も殺され、七尾城は9月15日に陥落(9月13日参照>>)します。

畠山一門の松波義親(まつなみよしちか)と長続連の息子=長連龍(つらたつ=綱蓮の弟)は何とか脱出したものの、今は亡き前当主=畠山義隆(よしたか=春王丸の父)の奥さんも上杉の保護を受ける事に・・・

この時、脱出した長蓮龍が、
去る天正元年(1573年)に越前(えちぜん=福井県西部)朝倉義景(あさくらよしかげ)を倒し(8月20日参照>>)、 天正三年(1575年)8月には越前の一向一揆を制覇(8月12日参照>>)・・・

と徐々に北陸に進出して来ていた織田信長に援助を求めた(8月14日の前半部分参照>>)事で、織田家内の北陸担当であった柴田勝家(しばたかついえ)が、謙信とぶつかる事になります。

これが天正五年(1577年)9月18日、もしくは9月23日にあったとされる手取川(てとりがわ)の戦い(9月18日参照>>)なのですが、そのページにも書かせていただいたように、戦いに関する史料が少なく、あったのか?無かったのか?どんな感じだったのか?が、今以ってよくわからない状況ではあります。

一方、同じく七尾城落城の際に脱出した松波義親・・・彼が逃げ込んだのが松波城(まつなみじょう=石川県鳳珠郡能登町)でした。

この松波城は文明六年(1474年)の頃に、能登畠山の当主であった七尾城の畠山義統(よしむね)の三男だった義智(よしとも)が構築したとされ、そこから苗字を松波とし、義親は、その6代目と言われます(義隆の弟とも)

言わば勝手知ったる古巣と言える松波城に入った松波義親は、早速、城内の諸将を集めて、
「やがて長蓮龍が、織田の援軍を連れて戻って来るであろうから、それまで 畠山の名誉をかけて、この城を死守しよう」
と面々の士気を高めて籠城戦に入るとともに、周辺に配下の者を走らせて領民による一揆を扇動させたのです。

松波城は海からさほど遠くない丘の上に建っており、見通しはきくし、すぐ前には要害となる川も流れていたなかなかの堅城ではありますが、なんせ上杉の大軍に対抗できるほどの軍勢を持ち合わせていませんから、少しでも人員が欲しい・・・

ところが、その準備もままならない間に、謙信の電光石火の攻撃により、一揆勢は集結する間もなく蹴散らされてしまいます。

そして9月23日、上杉方の長沢光国(ながさわみつくに)の軍勢によって、松波城は囲まれてしまうのです。

寄せる長沢隊は1000ほど・・・守る松波隊は、わずかに300。

かくして天正五年(1577年)9月24日長沢勢からの総攻撃が開始されます。

兵力に劣る松波勢は、迫りくる長沢勢をかく乱しつつ、幾度か衝突して奮戦するのですが、いかんせん多勢に無勢・・・

徐々に包囲は狭められて行き、やがて大手門から城内へと長沢勢が侵入すると、それぞれ阻止すべく戦いに挑む松波勢が次々と討死してしまったのです。

自らも大手門で奮戦した義親も重傷を負い、近臣に担がれながらも、なんとか本丸に戻って来ますが、もはや、その本丸もケガ人ばかり・・・

終焉を察した義親は、一人、香を焚き込めた奥の間へと入って自刃を遂げ、残された将兵たちも、燃え盛る城とともに、主君の後を追って果てたのでした。

ここに、能登一帯の守護大名であった能登畠山氏は、事実上滅亡したのです。

七尾城を落として後、さらに南に進んで加賀(かが=石川県南部)方面にいたとされる謙信は、「長沢勢大勝」の一報を聞いて大いに喜び、9月26日に能登に戻って七尾城の修復にかかるとともに、自ら本丸に上って美酒に酔いつつ、畠山氏の重臣でありながら上杉に協力してくれた遊佐続光(ゆさつぐみつ)らに褒美を約束するなど、かなりの上機嫌だったようです。

なんせ、今も鉱山跡が残る宝達金山(ほうだつきんざん=石川県羽咋郡宝達志水町)松倉金山(まつくらきんざん=富山県魚津市)と、未だ開発前の金鉱が、このあたりには眠っていたわけですから、さすがの謙信も笑いが止まらなかった事でしょう。

この後、長沢をはじめとする功績のあった諸将に、能登に点在する城の守りを命じて、この年の12月、謙信は越後へと戻りました。

もちろん、翌年、春になれば、再び、この地へ侵攻するつもりで・・・

しかし、ご存知のように、謙信は、翌年天正六年(1578年)の春=3月13日に亡くなり(3月13日参照>>)、それと同時に上杉家内での後継者争いが勃発し【御館(おたて)の乱】参照>>)その予定は大いに狂う事になります。

そして、その上杉のゴタゴタを受けて、8月には長連龍が再び動き出し(前記の8月14日の後半部分参照>>)9月には織田信長も【(9月24日【月岡野の戦い】参照>>)という展開となります。

もし、謙信がもう1年長く生きていたなら、この先どうなっていたのでしょう?
歴史は紙一重で変わってしまう事を痛感させられます。

そら、徳川家康は健康に気をつかうはずですな。。。
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