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2019年10月27日 (日)

飛騨の関ヶ原~八日町の戦いで江馬輝盛が討死

 

天正十年(1582年)10月27日、飛騨八日町にて姉小路頼綱(三木自綱)と戦っていた江馬輝盛が討死し、江馬氏が滅亡しました。

・・・・・・・・・

「飛騨の関ヶ原」とも呼ばれる八日町(ようかまち=岐阜県高山市国府町八日町)の戦い・・・

このブログでは「〇〇の関ヶ原」と呼ばれる戦いを、いくつかご紹介していますが、それらは、あの関ヶ原の戦いと同時期に起こった東西それぞれに味方する武将が別の場所で戦った合戦の事で、たとえば、石田三成(いしだみつなり)と懇意にする会津(あいづ=福島県西部)直江兼続(なおえかねつぐ=西軍) が、徳川家康(とくがわいえやす)に通じる最上義光(もがみよしあき=東軍)と戦った長谷堂の戦い(10月1日参照>>)「東北の関ヶ原」と呼んだり、豊後(ぶんご=大分県)奪回を狙う大友義統(おおともよしむね=西軍)黒田如水(くろだじょすい・官兵衛孝高=東軍)と戦う石垣原の戦い(9月13日参照>>)「九州の関ヶ原」と呼んだりします。

しかし、今回の八日町の戦いの「関ヶ原」はそういう意味ではなく、飛騨(ひだ=岐阜県北部)地方の戦国に決着をつけるような・・・いわゆる「天下分け目の関ヶ原」なら、コチラは「飛騨分け目の八日町」という意味で「飛騨の関ヶ原」と呼ばれているのです。

なんせ、飛騨という場所は、これまで、越後(えちご=新潟県)から南西へ=信濃(しなの=長野県)北陸をと狙う上杉謙信(うえすぎけんしん)と、甲斐(かい=山梨県)から、やはり信濃を牛耳る武田信玄(たけだしんげん)という大物二人に挟まれ、あの川中島での勝敗に左右されたり、両者の動向に翻弄されたりしながら、

飛騨大野(おおの=岐阜県北西部)を本領する小鷹利城(こたかりじょう=岐阜県飛騨市河合町)牛丸(うしまる)
隣接する吉城(よしき=岐阜県北東部)を本領とする高原諏訪城(たかはらすわじょう=岐阜県飛騨市神岡町)江馬(えま)
益田(ました=岐阜県中東部)に拠点を持ち鍋山城(なべやまじょう=岐阜県高山市松ノ木)を居城とする三木(みき)
飛騨国府(こくふ=岐阜県高山市周辺)高堂城(たかどうじょう=岐阜県高山市国府町)を居城とする広瀬(ひろせ)
の彼ら飛騨に根付く武将たちは、血で血を洗う戦国を生き抜いて来ていたのです。

そんな中、三木氏の三木自綱(みつきよりつな)が、飛騨の国司であった姉小路(あねのこうじ)の名跡を乗っ取って姉小路頼綱(あねがこうじよりつな)と名を改め、室町幕府15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき・義秋)を奉じての上洛(9月7日参照>>)で上り調子の尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)の奥さん=(のう)妹を娶って親族となり、その力を借りて勢力を伸ばし始めます

それでも、まだ謙信&信玄の目の黒いうちは、大きく情勢が変わる事はありませんでしたが(8月4日参照>>)、天正元年(1573年)に信玄が亡くなって(4月16日参照>>)その2年後に後を継いだ武田勝頼(かつより)長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市長篠)織田&徳川連合軍に敗退し(5月21日参照>>)、天正六年(1578年)には謙信が亡くなった(3月13日参照>>)上杉家で後継者争いが勃発(3月17日参照>>)・・・

戦国の力関係が大きく変わる中で、上杉との月岡野(つきおかの=富山県富山市)の戦い(10月4日参照>>)に織田の親族として参戦して勝利した姉小路頼綱が、勢いを増して松倉城(まつくらじょう=岐阜県高山松倉町)を新築します。

すると、それを脅威に感じた広瀬城(ひろせじょう=同高山市国府町)広瀬宗域(ひろせむねくに)は、頼綱の三木氏と政略的婚姻関係を結んで脅威を取り除き、逆にこれまで懇意にしていた牛丸親綱(うしまるちかつな)牛丸氏の名跡を奪おうと小鷹利城を攻めますが、それはウマく行かず・・・

ところが、そうこうしている間に、またもや戦国の情勢が目まぐるしく変わります。

天正十年(1582年)3月に、あの武田が滅ぶと(3月11日参照>>)、そのわずか3ヶ月後の6月に、武田を滅亡させた信長が本能寺にて横死(6月2日参照>>)したのです。

このゴタゴタを見逃さなかったのが姉小路頼綱&と広瀬宗域&牛丸親綱・・・今度は、この三者が連合を組んで、これまで何かと目障りだった名門家=江馬氏の江馬輝盛(えまてるもり)をぶっ潰して、飛騨の覇権を抑えてしまおうと画策したのです。

もちろん、江馬輝盛の方も、このゴタゴタが絶好のチャンスなのは重々承知・・・ここで、長年の悲願であった古川盆地への進出を画策するのです。

八日町の戦い・位置関係図
八日町の戦い・位置関係図
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(背景は地理院地図>>)

かくして信長横死から約5か月後の天正十年(1582年)10月下旬、江馬輝盛は3000余騎を率いて(数については諸説あり)高原諏訪城を出立して古川盆地への侵攻を開始したのです。

これを知った姉小路頼綱は、始め、鉄壁の要害と自負する自身の松倉城に敵を引き寄せて討とうか?とも考えましたが、たとえ籠城が長期に渡ったとしても、今以上に新手の援軍が来るわけでもない今回の戦いでは籠城戦は難しいと判断し、広瀬宗域&牛丸親綱らと組んで撃って出る作戦に切り替えます。

そして、敵を大坂峠(おおさかとうげ=岐阜県高山市)付近から荒城川(あらきがわ)河畔に追い込んで、そこを戦場にして雌雄を決する覚悟で準備を開始し、自身は八日町付近に布陣して江馬勢を待ち受けました。
その数、約2000(数については諸説あり)

かくして天正十年(1582年)10月26日午後2時頃、江馬勢は姉小路配下である小島時光(こじまときみつ)の拠る小島城(こじまじょう=岐阜県飛騨市古川町沼町)へと迫ります。

しかし、ここで激しい抵抗に遭い、小島城を落とす事ができず、その日は態勢を整えるべく荒城方面へと引き返しました。

Youkamatiema700a 翌・10月27日江馬輝盛は一気に敵を攻め潰すべく、再び姉小路勢に押し寄せ、広瀬方面にまで進んで来ます。

姉小路頼綱としては、ここで江馬氏の支城である梨打城(なしうちじょう=岐阜県高山市国府町八日町)を基点に扇状に広がった江馬勢を相手にすれば分が悪い・・・そのため、敵の態勢を崩すべく、あらかじめ八日町付近にかくしていた伏兵を使い、これを一気に江馬輝盛のいる本隊向けて発進させたのです。

この伏兵の存在に気づいていなかった江馬勢大いに慌て、隊が一気に乱れます

すかざす輝盛が陣を立て直そうとしたその時・・・姉小路側から放たれた銃弾が輝盛を貫きました。

ひるむ輝盛を牛丸配下の者が討ち取り、その首を挙げます。

大将の討死に、江馬勢は総崩れとなり、完全に形勢逆転・・・江馬勢は討ち取られるか、敗走するか。。。

この時、江馬輝盛の側近13名が大坂峠で自害して、その後地元民に葬られた事から、この大坂峠は地元では通称「十三墓峠」と呼ばれているとか・・・

このあと姉小路勢は、江馬の本拠である高原まで攻め込み、ここに11代続いた江馬氏は滅亡しました。

ちなみに、この八日町の戦いは、この飛騨で初めて鉄砲が使用された戦いと言われていますが、それも、織田信長に近づいた姉小路頼綱が、(さかい=大阪府堺市)にて、いち早く鉄砲を手に入れた事で、この飛騨では一歩先に出た・・・という所でしょうか。。。

とは言え、それぞれの武将の本心は、自分自身が飛騨のすべてを手に入れる事・・・今回は、江馬駆逐のために連合しただけで、そもそもはライバル同士なわけで・・・

案の定、この八日町の戦いから3ヶ月後の天正十一年(1583年)1月27日、姉小路頼綱は牛丸親綱を攻撃し、さらにその翌年に広瀬宗域を騙し討ちして広瀬城を奪い、頼綱は晴れて飛騨統一する事になるのですが(1月27日後半部分参照>>=前半は内容がカブッてますがお許しを…)

その頼綱の短い春を終わらせるのが、賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)(4月21日参照>>)を終え、小牧長久手(愛知県小牧市ほか)(11月16日参照>>)真っ最中で、天下の見えて来た羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)という事になります(8月28日参照>>)
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2019年10月21日 (月)

斎藤妙椿の応仁の乱~東美濃の戦い

 

文明五年(1473年)10月21日、美濃の斎藤妙椿が梅戸城の戦いに出陣しました。

・・・・・・・・・

斎藤妙椿(さいとうみょうちん)は、応永十八年(1411年)に美濃(みの=岐阜県南部)守護代(しゅごだい=副知事)斎藤宗円(そうえん)の次男として生まれ、Saitoumyoutin500a 長禄四年(1460年)に父の後を継いで守護代を務めていた兄の斎藤利永(としなが)が死去すると、その後を継いだ甥っ子の斎藤利藤(としふじ)を後見する立場となりますが、その実力はハンパなく、守護代の利藤どころか、主家で美濃守護(しゅご=県知事)である土岐成頼(ときしげより)をも凌ぐ勢いを持ち始めていました。

そんな中で勃発したのが、あの応仁の乱(5月20日参照>>)・・・

ご存知のように、この応仁の乱は第8代室町幕府将軍=足利義政(あしかがよしまさ)の後継者を巡っての争いに、管領家(かんれいけ=将軍の補佐・No.2になる家柄)斯波(しば)畠山(はたけやま)やらの後継者争いが加わり、さらに、それぞれを支持する武将が東西に分かれて争った大乱ですが、

その中で、山名宗全(やまな そうぜん=持豊)率いる西軍に属する妙椿は、代表として京都にて戦っている土岐成頼に代わって、長江(ながえ)など美濃における東軍勢や彼らを応援する京極(きょうごく)氏に打ち勝ち、もはや美濃一国を西軍一色に変える勢いを見せていました。

ただ、一方では、奪った土地を「10首の和歌と交換して平和的に返す」なんていう風流な一面を匂わせる逸話も残っていますが(5月12日参照>>)

その強さを伝え聞いた六角高頼(ろっかくたかより)からの援護要請に応え、近江(おうみ=滋賀県)に出陣して東軍の京極政経(きょうごくまさつね)多賀高忠(たがたかただ)軍を撃破してみせ、その豪勇ぶりは京都の細川勝元(ほそかわかつもと)陣営を震え上がらせるほどでした。

そんなこんなの文明五年(1473年)春、「その妙椿が美濃の軍勢を率いて上洛するようだ」との噂が京都を駆け巡ります。

早速、細川陣営は比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市)へ援護の要請を発し、将軍=義政は信濃(しなの=長野県)小笠原家長(おがさわらいえなが)木曾家豊(きそいえとよ)らに、「背後から美濃へと侵入して土岐成頼を討つように」と命じたのです。

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応仁の乱~東美濃の戦い位置関係図
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そんな中、3月18日に山名宗全が死去(3月18日参照>>)して後、妙椿の甥っ子で養子の斎藤妙純(みょうじゅん=利国・利藤の弟)が近江に侵入すると、いよいよ妙椿も、本格的に上洛の兆しを見せ、これを受けた細川陣営は、未だ出陣していなかった先の小笠原&木曽に東からの美濃侵攻を催促するとともに、北伊勢(きたいせ=三重県北部)の東軍武将=世保 (よやす)氏や富島(とみしま・としま)に西側から攻めさせ、美濃を挟み撃ちにする作戦を狙います。

これを知った妙椿ら土岐勢は10月、西の脅威をぶっ潰すべく妙純が北伊勢へ侵入し、世保氏ら北伊勢勢の籠る梅戸城(うめどじょう=三重県いなべ市大安町)への攻撃を開始します。

しかし、これがなかなか手ごわい・・・かくして文明五年(1473年)10月21日斎藤妙椿自らが数万騎を率いて出陣したのです。

さらに10月29日には、妙椿配下の石丸利光(いしまるとしみつ=斎藤利光)も加わって、ついに梅戸城を落とします。

しかし、手薄になったこの間に小笠原&木曽の信濃勢が美濃に侵攻し、わずかな城兵しかいなかった大井城(おおいじょう=岐阜県恵那市大井町)萩島城(はぎしまじょう=岐阜県瑞浪市釜戸町)を猛攻撃して陥落させると、その勢いに乗って南下して地元の土豪たちを降伏させ、東美濃を支配下に治めたのです。

やむなく土岐氏は東美濃を諦め、これ以上の美濃への侵入を防ぐべく、御嵩(みたけ=岐阜県可児郡)顔戸(ごうど=同可児郡)金山(かなやま=同可児市兼山)の3ヶ所に支城を構築して防御を強めました。

おかげで、これ以上の信濃勢による美濃侵攻はなく、現状、西美濃を維持している限り、土岐&斎藤妙椿らは京都や近江との連絡が絶たれる事は無いわけで、とりあえず一安心・・・

とは言え、このあとも、近江での六角&京極の戦いに援軍として進出し、縦横無尽の活躍をする事になるのですが、そのお話は【応仁の乱・近江の乱~京極×六角の近江争奪戦】>>でどうぞm(_ _)m
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2019年10月14日 (月)

真田幸隆VS斎藤憲広の岩櫃城の戦い

 

永禄六年(1563年)10月14日、武田配下の真田幸隆が斎藤憲広の岩櫃城に総攻撃を仕掛けました。

・・・・・・・

岩櫃城(いわびつじょう=群馬県吾妻郡東吾妻町)吾妻郡(あがつまぐん=群馬県の西北部分)の中心になる城で、鎌倉時代あるいは南北朝時代にこの地を収めた吾妻(あがつま)が築城したとも、室町中期に吾妻氏の子孫と称する斎藤憲行(さいとうのりゆき)が築城または主君から奪った物とも言われますが、

とにもかくにも、室町時代以降に斎藤氏の居城となってからは、信州真田(さなだ)氏と同族の滋野(しげの)一族の海野(うんの)浦野(うらの)西窪(にしくぼ)など吾妻郡一帯の地侍を支配下に置いて、かなりブイブイ言わせてたみたいですが・・・

しかし、戦国期に入った永禄三年(1561年)、滋野一族の鎌原幸重(かんばらゆきしげ)が武田家臣の真田幸隆 (さなだゆきたか=幸綱)甘利昌忠(あまりまさただ)を通じて甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)の傘下に加わった事から、当時の岩櫃城主=斎藤憲広(さいとうのりひろ)が、鎌原幸重の 鎌原城(かんばらじょう=群馬県吾妻郡嬬恋村)に圧力をかけて来ます。

翌・永禄四年(1561年)の羽尾幸全(はねおゆきてる?)らとともに鎌原城を攻撃して陥落させた斎藤憲広は、ここを羽尾氏に守らせます。

Sanadayukitaka300a 一方、敗れた鎌原幸重は信濃(しなの=長野県)に逃走しますが、彼らの訴えを聞いた武田信玄は、さらに翌年の永禄五年(1562年)8月に真田幸隆 & 甘利昌忠に3000の兵をつけて鎌原城を攻めさせて奪還に成功・・・鎌原城は再び鎌原幸重の手に戻りました。

ここで、さすがに「相手は大物=信玄」と踏んだ斎藤憲広は、武田に対抗すべく越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)を味方にして後ろ盾とします。

信玄は、そんな斎藤憲広への抑えとして長野原城(ながのはらじょう=群馬県吾妻郡長野原町)を真田幸隆の弟=常田隆永(ときだたかなが)に守らせて備えました。

そんなこんなの永禄六年(1563年)、またもや斎藤憲広が動きます。

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岩櫃城の戦い位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

9月、まずは長野原城を攻めて、これを落とし、その勢いのまま鎌原城攻略へと向かいます。
(一説には常田隆永と息子の俊綱(としつな)はこの戦いで討死したとも…)

真田幸隆は、信玄傘下となっている手子丸城(てこまるじょう=群馬県吾妻郡東吾妻町・大戸城)浦野重成(うらのしげなり)ら3000の兵を以って暮坂(くれさか=群馬県吾妻郡中之条町)雁ヶ沢(がんがさわ=群馬県吾妻郡東吾妻町)大戸(おおど=群馬県吾妻郡東吾妻町)三方面から岩櫃城を囲みます。

一方の斎藤憲広は、上杉配下の沼田城(ぬまたじょう=群馬県沼田市)などに援軍を要請して、9月15日、手子丸城へと迫りつつ、雁ヶ沢にて真田勢とぶつかりました。

暮坂方面から侵入した真田幸隆隊は、岩櫃城守備の背後の要である成田(なりた)仙蔵城(せんぞうじょう=群馬県吾妻郡中之条町)を攻略しましたが、これ以上の力攻めを止め、ここで一旦、斎藤憲広と和睦します。

しかし、その後すぐに、斎藤憲広の一族の離反(斎藤則実か?)や、憲広配下の海野幸光(うんのゆきみつ・ゆきてる)輝幸(てるゆき)兄弟が真田に降った事で、永禄六年(1563年)10月14日3度目の岩櫃城総攻撃を仕掛けたのです。

総大将が真田と言えど、バックにはあの武田信玄がついているわけで・・・やむなく斎藤憲広は、嫡子の則宗(のりむね)とともに上杉謙信を頼って越後へと落ちていったという事です。

今回の真田幸隆が流浪の身から武田の家臣となって頑張り、息子の真田昌幸(まさゆき)、さらに、その息子の信之(のぶゆき=信幸)幸村(ゆきむら=信繁)兄弟へとつながっていく・・・今回のお話は、ドラマや小説でよく描かれる時代の一時代前のお話という事になりますが、

ドラマで描かれるその時代の頃には、今回の岩櫃城も沼田城も仙蔵城も、真田の城として登場するワケですから、戦国の群雄割拠する中で「父ちゃん&爺ちゃん、メッチャがんばったね~」って感じですね。。。

2007年放送の大河ドラマ「風林火山」では、チョコッとこの時代のお話が出てきましたが、また、この有名武将の父ちゃんたちの時代のドラマも見てみたいですね~
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2019年10月 9日 (水)

石上神宮VS興福寺~布留郷一揆

 

文明十五年(1483年)10月9日、布留郷民の反発に怒った興福寺が石上神宮に乱入して郷民を破った布留郷一揆がありました。

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応仁元年(1467年)に勃発した応仁の乱(5月20日参照>>)は、将軍家の後継者争いに管領家(かんれいけ=将軍を補佐する家柄)の後継者争いが絡み、それぞれを指示する武将たちが東西に分かれて戦った大乱でしたが、それは、乱の発端でもある畠山(はたけやま)の後継者争い(10月18日参照>>)のおかげで約10年に渡って度々戦場となった奈良の領民にとっても、田畑は荒らされ、略奪が横行する、大変迷惑な物であったわけです。

もともとは、古くから興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)守護(しゅご=県知事みたいな)に相当する立場を持っていて仏教とのつながり深かった大和の人々ではありましたが、乱で疲弊した中でも、その権威を振りかざして段銭(たんせん=税金)を要求し、言う事を聞かねば僧兵(そうへい=武将した僧侶)で以って強硬策に出る姿勢に、もはや領民たちも我慢の限界が来ていたわけで・・・

かくして文明十四年(1482年)10月、奈良は石上神宮(いそのかみじんぐう=奈良県天理市布留町)に厚い信仰を寄せる布留郷(るふごう=現在の天理市中心部から東の山間部にかけての一帯)の領民が、「興福寺への段銭を拒否し、郷内の通行を一方的に禁じる」という態度に出たのです。

もちろん、一方の興福寺は激怒して、即座に衆徒たちに出陣命令を下します。

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布留郷一揆の関係図 ↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

文明十五年(1483年)10月7日、興福寺の西金堂東金堂の前に掲げられた御旗に前に集合した僧兵&衆徒たちは、その旗を先頭に、一路、布留郷を目指して出発・・・この興福寺からの陣触れは、瞬く間に大和一帯に伝えられ、興福寺に味方する国人(こくじん=土着の武士)土豪(どごう=土地に根付く小豪族)、修学者たちも、それぞれが思い思いに武装して、その軍団に加わっていきました。

翌8日に、興福寺の軍勢は布留郷に侵入して村を焼き払いにかかり、それに追われるように郷民約4000が石上神宮に立て籠もり、必死の抗戦を開始します。

ただし、記録によれば、この時の布留郷がイザという時のために用意していた具足は800領もあったという事なので、コチラもなかなかのもの・・・「ただの郷民」と侮れません。

とは言え、興福寺の僧兵は=この時代の僧兵は僧はどこへやらの兵士そのものですし、国人や土豪は戦いのプロである武士ですから、さすがに「まともに戦っては勝ち目が無い」とばかりに、郷民側は各所でゲリラ的な戦いを展開していくのです。

その突き所は・・・実は、この時の興福寺側も一枚岩ではなく、天理(てんり)周辺に根付く豊田(とよだ)井戸(いど)などは、表向きには興福寺に協力して出陣してはいるものの、裏では布留郷に、今回の合戦に備えての具足の提供をしたりなんぞしています。

なんせ、布留郷もバックには石上神宮が付いてるわけで、天理の地元民としては敵対した際の神罰が怖い・・・何たって石上神宮は古代軍事の神であり格は由緒正しき神宮ですし。

オマケに、この何日か前に神火(じんか)と呼ばれる原因不明の不思議な火が布留郷一帯に出現するという怪現象も手伝って、興福寺寄りの武士の中にでも「どっちの味方もせず、何とかウマくやり過ごしたい」と思ってた人たちもいたようで・・・

ただ、8日の合戦で、興福寺に全面協力する古市(ふるいち)氏は、ヤル気満々で、最初のぶつかりで郷民らに蹴散らされた豊田隊の連中に「お前らヤル気あんのか!」と罵声をあびせながら、今度は、自分たちが手足として動かせる六方衆(ろっぽうしゅう)と呼ばれる興福寺&その末寺の衆徒たちを、田村荘(たむら=奈良県天理市田町)と、その周辺に点在させ、それぞれを連携させて一斉に攻撃を仕掛けていったのです。

六方衆の一斉攻撃にも何とか耐えて、抗戦を続けていた布留郷民たちでしたが、文明十五年(1483年)10月9日の明け方になって山城やましろ=京都府南部)の国の椿井(つばい)氏が300の兵を連れて興福寺側の援軍として駆け付けて来た事で戦況は一気に変わります。

新手の軍勢を得た事で、興福寺側が総攻撃を仕掛けたのです。

それでも踏ん張って抗戦していた郷民たちでしたが、やがて敗戦の色が濃くなり、やむなく、石上神宮を捨てて、それぞれに落ちて行ったのです。

その後、興福寺側の兵は、郷民たちが去った石上神宮の境内へとなだれ込み、集会所や庵などに火を放ち、周辺の宝物や物品を略奪・・・さらに、その日の夕刻には古市隊が、郷民に味方した丹波市村(たんばいちむら=奈良県天理市丹波市町)一帯を焼き払い、今回の布留郷一揆と呼ばれる一件は終りを迎えたのでした。

ちなみに、今回の布留郷民は、永禄十一年(1568年)に、織田信長(おだのぶなが)軍&松永久秀(まつながひさひで)とも戦っています。

当時は、奈良の覇者だった筒井(つつい)をも破って破竹の勢いだった久秀に、これまた上り調子の織田勢という事で、さすがに布留郷民も太刀打ちできず、石上神宮内に織田勢が乱入して暴れまわり、社殿も壊され神領も没収されるという憂き目に遭い、石上神宮は一旦消滅しますが、ご存知のように、人々の信仰の火は消える事無く続き、明治の世になって石上神宮は復活・・・今に至っています
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2019年10月 2日 (水)

応仁の乱~東岩倉の戦いと大内政弘の参戦

 

応仁元年(1467年)10月2日、応仁の乱の中で展開された東岩倉の戦いが終結しました。

・・・・・・

これまで何度も、このブログに登場している応仁の乱

そもそもは・・・
未だ後継ぎが生まれていないにも関わらず、一刻も早く引退して趣味に走りたい第8代室町幕府将軍=足利義政(あしかがよしまさ)が、弟の足利義視(よしみ)を後継者に指名したものの、その直後に義政と奥さん= 日野富子(ひのとみこ)との間に男子=義尚(よしひさ)が誕生。

そうなると、なんとか我が子を次期将軍にしたい富子は、時の実力者ある山名宗全(やまなそうぜん・持豊)(3月18日参照>>)に相談しますが、一方の義視は義視で「息子生まれて…俺の立場ヤバイんちゃうん?」と、これまた時の実力者である細川勝元(ほそかわかつもと)に近づく。

そんなこんなの応仁元年(1467年)1月17日、以前から後継者争いでモメていた管領家(かんれいけ=将軍の補佐役を代々受け継ぐ家柄)畠山(はたけやま)同士の争い=御霊合戦が勃発(1月17日参照>>)しますが、 この合戦で、懇意にしている畠山政長(はたけやままさなが)から援助を求められた細川勝元は「応援したいのはやまやまなんやけど、将軍さんが私的な争いに関与したらアカンでいうてはるので…」と静観していました。

Ouninnoransoukanzu2 ところが対立する畠山義就(よしなり)側には宗全の孫である山名政豊(まさとよ)が関与してバッチリ勝利をつかんだ事を知り、激おこの勝元は「戦火から御所を守る」という名目で将軍の住まう「花の御所」を占拠し、将軍から「都を荒らす山名方追討」の命令を取り付け、その総大将には義視が任命されます(5月20日参照>>)

御所を抑えられた山名宗全は、やむなく、そこから西へ500mほどの自身の邸宅近くに本陣を構えました(これが西陣です)

ここに、「山名宗全=西軍」「細川勝元=東軍」という応仁の乱の基本の形が形成され、そこに、先の畠山氏の後継者争いや、同じく以前から後継者でモメていた管領家=斯波(しば)が加わり、さらに、それらの大物の系列である全国の武士たちが、東西いずれかに加担して参戦した事で、応仁の乱は歴史上屈指の大乱となるわけです。

最初のぶつかり合いは、5月26日~27日の2日間・・・戦場となった一条大宮周辺が焦土と化す激しい戦いではあったものの、決着がつきそうに無い状況に、将軍=義政が5月28日に停戦命令を出して、一応の静寂が蘇りました(5月28日参照>>)

しかし、その10日後の6月8日に将軍=義政が細川勝元に牙旗(がき=錦の御旗みたいな)を与えた事で、東軍が官軍に、西軍が賊軍に認定されてしまったのです。

当然ですが「コチラにも正義がある」という思いで参加していた西軍の武将たちの士気は下がり、領国に戻ってしまう者までいて、もはや西軍の運命は風前の灯・・・

と思いきや、ここで、西方から大きな助け船が動いて来ます。

かねてより、宗全が声をかけていた西国の大物=大内政弘(おおうちまさひろ)周防(すおう=山口県東南部)長門(ながと=山口県西部)はもちろん、分国の石見(いわみ=島根県西部)伊予(いよ=愛媛県)の軍勢まで連れて、西軍に参戦するために上洛して来るのです。

すでに5月10日のうちに周防を発っていた大内政弘は、7月20日に兵庫(ひょうご)に上陸・・・これを受けて山名勢が活発になる事を警戒した将軍=義政は、弟=義視に対し「徹底追討」の命令を下します。

対する大内勢は、摂津(せっつ=大阪府北部・兵庫県南東部)国人(こくじん=地元に根付い武士)たちを味方に加えて、大内の上洛を阻止せんと派遣された細川配下の秋庭元明(あきばもとあき)&赤松配下の浦上則宗(うらがみのりむね)ら東軍側と小規模な戦闘を繰り返しながら、(よど=京都市伏見区)山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町)を経て京都へと入り、8月23日、洛北にある船岡山(ふなおかやま=京都府京都市北区)に陣取ります。

彼ら大内勢と小競り合いを繰り返しながら、その後を追うように京都に入った秋庭&浦上勢は、何とか東軍の主力部隊と合流しようと試みますが、西軍の猛攻に阻まれ、やむなく南禅寺(なんぜんじ=京都市左京区)近くの東岩倉(ひがしいわくら=京都府京都市東山区粟田口)に陣を置きました。

この時、援軍到着に勢いづいた西軍山名勢が、東軍側の複数陣所に攻撃を仕掛けたため、時の後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)が花の御所に避難してくる場面もあったとか・・・

Ouninhigasiiwakura
東岩倉の戦い~位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんな時、一大事件が起こります。

大内政弘が入京した、その日の夜、東軍の総大将であったはずの足利義視が、密かに陣を抜け出して姿をくらましたのです。

実は、以前から義視と対立関係にあり、次期将軍にも義尚を推していた伊勢貞親(いせさだちか)を、この5月に、将軍=義政と細川勝元が呼び戻して東軍に加えたのを義視は快く思っていなかったし、そもそも日野富子&義尚母子と自分は同じ花の御所にいるわけで・・・その事で、何となく「自分の居場所は東軍じゃないんじゃ??」と考え始めた義視は、東軍に属しながらも義政から上洛を許されていなかった伊勢北畠教具(きたばたけのりとも)を頼って脱走したのでした。

総大将のトンズラは、東軍の士気を一気に鈍らせ、西軍の勢いを増加させます。

勢いに乗った西軍は9月1日、畠山義就に土岐(とき)六角(ろっかく)の兵を加えた5万の大軍で、東軍側の武田信賢(たけだのぶかた)の拠る三宝院(さんぼういん=京都市伏見区醍醐)を襲撃し、その勢いのまま京極持清(きょうごくもちきよ)の守る浄花院(じょうかいん=京都市上京区元浄花院町)を陥落させます。

さらに13日には、山名宗全自らが軍を率いて細川勝元邸を攻撃する一方で、畠山義就が内裏(だいり=天皇の住まい)を占拠し、下京のほとんどを西軍が制圧する形となりました。

かくして9月18日、本隊と連絡が取れず孤立していた東岩倉の秋庭&浦上の陣に対して、西軍が猛攻撃を仕掛けたのです。

これが、約15日間に渡っての激戦で南禅寺や青蓮院(しょうれんいん=京都市東山区粟田口)が廃墟と化してしまう事になる東岩倉の戦いです。

応仁元年(1467年)10月2日西軍がようやく攻撃を休めて洛内へと戻った事で、そのスキに秋庭&浦上隊は北へ迂回して上御霊神社(かみごりょうじんじゃ= 京都府京都市上京区 )側から東軍本陣へと合流する事ができたのでした。

東軍の諸将は、何とか無事の合流を喜んだものの、今や、東軍は花の御所と、それに隣接する相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)など上京のわずかの場所だけに押し込まれる事になってしまいました。

さらに、この東岩倉が収まった翌日の10月3日、西軍は畳みかけるように、その相国寺に攻撃を仕掛け、応仁の乱の中でも屈指の激しい戦闘となる相国寺の戦いが繰り広げられる事になるのですが、そのお話のくわしくは2009年10月3日のページで>>

とは言え、この相国寺の戦いは東西の両軍ともに大きな損害を受けて、しばらくは大きな乱闘を起こす気力もない状態となります。

その後12月7日に、東軍が船岡山に陣取る大内軍を攻撃しますが、大打撃を与える事はできず・・・結局、両者は京都市内の各所にそれぞれ陣を構えて警戒しつつ対峙しながら年を越し、翌年の稲荷山攻防戦(3月21日参照>>)へと向かっていく事になります。
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