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2019年10月 9日 (水)

石上神宮VS興福寺~布留郷一揆

 

文明十五年(1483年)10月9日、布留郷民の反発に怒った興福寺が石上神宮に乱入して郷民を破った布留郷一揆がありました。

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応仁元年(1467年)に勃発した応仁の乱(5月20日参照>>)は、将軍家の後継者争いに管領家(かんれいけ=将軍を補佐する家柄)の後継者争いが絡み、それぞれを指示する武将たちが東西に分かれて戦った大乱でしたが、それは、乱の発端でもある畠山(はたけやま)の後継者争い(10月18日参照>>)のおかげで約10年に渡って度々戦場となった奈良の領民にとっても、田畑は荒らされ、略奪が横行する、大変迷惑な物であったわけです。

もともとは、古くから興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)守護(しゅご=県知事みたいな)に相当する立場を持っていて仏教とのつながり深かった大和の人々ではありましたが、乱で疲弊した中でも、その権威を振りかざして段銭(たんせん=税金)を要求し、言う事を聞かねば僧兵(そうへい=武将した僧侶)で以って強硬策に出る姿勢に、もはや領民たちも我慢の限界が来ていたわけで・・・

かくして文明十四年(1482年)10月、奈良は石上神宮(いそのかみじんぐう=奈良県天理市布留町)に厚い信仰を寄せる布留郷(るふごう=現在の天理市中心部から東の山間部にかけての一帯)の領民が、「興福寺への段銭を拒否し、郷内の通行を一方的に禁じる」という態度に出たのです。

もちろん、一方の興福寺は激怒して、即座に衆徒たちに出陣命令を下します。

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布留郷一揆の関係図 ↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

文明十五年(1483年)10月7日、興福寺の西金堂東金堂の前に掲げられた御旗に前に集合した僧兵&衆徒たちは、その旗を先頭に、一路、布留郷を目指して出発・・・この興福寺からの陣触れは、瞬く間に大和一帯に伝えられ、興福寺に味方する国人(こくじん=土着の武士)土豪(どごう=土地に根付く小豪族)、修学者たちも、それぞれが思い思いに武装して、その軍団に加わっていきました。

翌8日に、興福寺の軍勢は布留郷に侵入して村を焼き払いにかかり、それに追われるように郷民約4000が石上神宮に立て籠もり、必死の抗戦を開始します。

ただし、記録によれば、この時の布留郷がイザという時のために用意していた具足は800領もあったという事なので、コチラもなかなかのもの・・・「ただの郷民」と侮れません。

とは言え、興福寺の僧兵は=この時代の僧兵は僧はどこへやらの兵士そのものですし、国人や土豪は戦いのプロである武士ですから、さすがに「まともに戦っては勝ち目が無い」とばかりに、郷民側は各所でゲリラ的な戦いを展開していくのです。

その突き所は・・・実は、この時の興福寺側も一枚岩ではなく、天理(てんり)周辺に根付く豊田(とよだ)井戸(いど)などは、表向きには興福寺に協力して出陣してはいるものの、裏では布留郷に、今回の合戦に備えての具足の提供をしたりなんぞしています。

なんせ、布留郷もバックには石上神宮が付いてるわけで、天理の地元民としては敵対した際の神罰が怖い・・・何たって石上神宮は古代軍事の神であり格は由緒正しき神宮ですし。

オマケに、この何日か前に神火(じんか)と呼ばれる原因不明の不思議な火が布留郷一帯に出現するという怪現象も手伝って、興福寺寄りの武士の中にでも「どっちの味方もせず、何とかウマくやり過ごしたい」と思ってた人たちもいたようで・・・

ただ、8日の合戦で、興福寺に全面協力する古市(ふるいち)氏は、ヤル気満々で、最初のぶつかりで郷民らに蹴散らされた豊田隊の連中に「お前らヤル気あんのか!」と罵声をあびせながら、今度は、自分たちが手足として動かせる六方衆(ろっぽうしゅう)と呼ばれる興福寺&その末寺の衆徒たちを、田村荘(たむら=奈良県天理市田町)と、その周辺に点在させ、それぞれを連携させて一斉に攻撃を仕掛けていったのです。

六方衆の一斉攻撃にも何とか耐えて、抗戦を続けていた布留郷民たちでしたが、文明十五年(1483年)10月9日の明け方になって山城やましろ=京都府南部)の国の椿井(つばい)氏が300の兵を連れて興福寺側の援軍として駆け付けて来た事で戦況は一気に変わります。

新手の軍勢を得た事で、興福寺側が総攻撃を仕掛けたのです。

それでも踏ん張って抗戦していた郷民たちでしたが、やがて敗戦の色が濃くなり、やむなく、石上神宮を捨てて、それぞれに落ちて行ったのです。

その後、興福寺側の兵は、郷民たちが去った石上神宮の境内へとなだれ込み、集会所や庵などに火を放ち、周辺の宝物や物品を略奪・・・さらに、その日の夕刻には古市隊が、郷民に味方した丹波市村(たんばいちむら=奈良県天理市丹波市町)一帯を焼き払い、今回の布留郷一揆と呼ばれる一件は終りを迎えたのでした。

ちなみに、今回の布留郷民は、永禄十一年(1568年)に、織田信長(おだのぶなが)軍&松永久秀(まつながひさひで)とも戦っています。

当時は、奈良の覇者だった筒井(つつい)をも破って破竹の勢いだった久秀に、これまた上り調子の織田勢という事で、さすがに布留郷民も太刀打ちできず、石上神宮内に織田勢が乱入して暴れまわり、社殿も壊され神領も没収されるという憂き目に遭い、石上神宮は一旦消滅しますが、ご存知のように、人々の信仰の火は消える事無く続き、明治の世になって石上神宮は復活・・・今に至っています
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