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2019年10月21日 (月)

斎藤妙椿の応仁の乱~東美濃の戦い

 

文明五年(1473年)10月21日、美濃の斎藤妙椿が梅戸城の戦いに出陣しました。

・・・・・・・・・

斎藤妙椿(さいとうみょうちん)は、応永十八年(1411年)に美濃(みの=岐阜県南部)守護代(しゅごだい=副知事)斎藤宗円(そうえん)の次男として生まれ、Saitoumyoutin500a 長禄四年(1460年)に父の後を継いで守護代を務めていた兄の斎藤利永(としなが)が死去すると、その後を継いだ甥っ子の斎藤利藤(としふじ)を後見する立場となりますが、その実力はハンパなく、守護代の利藤どころか、主家で美濃守護(しゅご=県知事)である土岐成頼(ときしげより)をも凌ぐ勢いを持ち始めていました。

そんな中で勃発したのが、あの応仁の乱(5月20日参照>>)・・・

ご存知のように、この応仁の乱は第8代室町幕府将軍=足利義政(あしかがよしまさ)の後継者を巡っての争いに、管領家(かんれいけ=将軍の補佐・No.2になる家柄)斯波(しば)畠山(はたけやま)やらの後継者争いが加わり、さらに、それぞれを支持する武将が東西に分かれて争った大乱ですが、

その中で、山名宗全(やまな そうぜん=持豊)率いる西軍に属する妙椿は、代表として京都にて戦っている土岐成頼に代わって、長江(ながえ)など美濃における東軍勢や彼らを応援する京極(きょうごく)氏に打ち勝ち、もはや美濃一国を西軍一色に変える勢いを見せていました。

ただ、一方では、奪った土地を「10首の和歌と交換して平和的に返す」なんていう風流な一面を匂わせる逸話も残っていますが(5月12日参照>>)

その強さを伝え聞いた六角高頼(ろっかくたかより)からの援護要請に応え、近江(おうみ=滋賀県)に出陣して東軍の京極政経(きょうごくまさつね)多賀高忠(たがたかただ)軍を撃破してみせ、その豪勇ぶりは京都の細川勝元(ほそかわかつもと)陣営を震え上がらせるほどでした。

そんなこんなの文明五年(1473年)春、「その妙椿が美濃の軍勢を率いて上洛するようだ」との噂が京都を駆け巡ります。

早速、細川陣営は比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市)へ援護の要請を発し、将軍=義政は信濃(しなの=長野県)小笠原家長(おがさわらいえなが)木曾家豊(きそいえとよ)らに、「背後から美濃へと侵入して土岐成頼を討つように」と命じたのです。

Saitoumyoutinhigasimino
応仁の乱~東美濃の戦い位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんな中、3月18日に山名宗全が死去(3月18日参照>>)して後、妙椿の甥っ子で養子の斎藤妙純(みょうじゅん=利国・利藤の弟)が近江に侵入すると、いよいよ妙椿も、本格的に上洛の兆しを見せ、これを受けた細川陣営は、未だ出陣していなかった先の小笠原&木曽に東からの美濃侵攻を催促するとともに、北伊勢(きたいせ=三重県北部)の東軍武将=世保 (よやす)氏や富島(とみしま・としま)に西側から攻めさせ、美濃を挟み撃ちにする作戦を狙います。

これを知った妙椿ら土岐勢は10月、西の脅威をぶっ潰すべく妙純が北伊勢へ侵入し、世保氏ら北伊勢勢の籠る梅戸城(うめどじょう=三重県いなべ市大安町)への攻撃を開始します。

しかし、これがなかなか手ごわい・・・かくして文明五年(1473年)10月21日斎藤妙椿自らが数万騎を率いて出陣したのです。

さらに10月29日には、妙椿配下の石丸利光(いしまるとしみつ=斎藤利光)も加わって、ついに梅戸城を落とします。

しかし、手薄になったこの間に小笠原&木曽の信濃勢が美濃に侵攻し、わずかな城兵しかいなかった大井城(おおいじょう=岐阜県恵那市大井町)萩島城(はぎしまじょう=岐阜県瑞浪市釜戸町)を猛攻撃して陥落させると、その勢いに乗って南下して地元の土豪たちを降伏させ、東美濃を支配下に治めたのです。

やむなく土岐氏は東美濃を諦め、これ以上の美濃への侵入を防ぐべく、御嵩(みたけ=岐阜県可児郡)顔戸(ごうど=同可児郡)金山(かなやま=同可児市兼山)の3ヶ所に支城を構築して防御を強めました。

おかげで、これ以上の信濃勢による美濃侵攻はなく、現状、西美濃を維持している限り、土岐&斎藤妙椿らは京都や近江との連絡が絶たれる事は無いわけで、とりあえず一安心・・・

とは言え、このあとも、近江での六角&京極の戦いに援軍として進出し、縦横無尽の活躍をする事になるのですが、そのお話は【応仁の乱・近江の乱~京極×六角の近江争奪戦】>>でどうぞm(_ _)m
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