飛騨の関ヶ原~八日町の戦いで江馬輝盛が討死
天正十年(1582年)10月27日、飛騨八日町にて姉小路頼綱(三木自綱)と戦っていた江馬輝盛が討死し、江馬氏が滅亡しました。
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「飛騨の関ヶ原」とも呼ばれる八日町(ようかまち=岐阜県高山市国府町八日町)の戦い・・・
このブログでは「〇〇の関ヶ原」と呼ばれる戦いを、いくつかご紹介していますが、それらは、あの関ヶ原の戦いと同時期に起こった東西それぞれに味方する武将が別の場所で戦った合戦の事で、たとえば、石田三成(いしだみつなり)と懇意にする会津(あいづ=福島県西部)の直江兼続(なおえかねつぐ=西軍) が、徳川家康(とくがわいえやす)に通じる最上義光(もがみよしあき=東軍)と戦った長谷堂の戦い(10月1日参照>>)を「東北の関ヶ原」と呼んだり、豊後(ぶんご=大分県)奪回を狙う大友義統(おおともよしむね=西軍)が黒田如水(くろだじょすい・官兵衛孝高=東軍)と戦う石垣原の戦い(9月13日参照>>)を「九州の関ヶ原」と呼んだりします。
しかし、今回の八日町の戦いの「関ヶ原」はそういう意味ではなく、飛騨(ひだ=岐阜県北部)地方の戦国に決着をつけるような・・・いわゆる「天下分け目の関ヶ原」なら、コチラは「飛騨分け目の八日町」という意味で「飛騨の関ヶ原」と呼ばれているのです。
なんせ、飛騨という場所は、これまで、越後(えちご=新潟県)から南西へ=信濃(しなの=長野県)&北陸をと狙う上杉謙信(うえすぎけんしん)と、甲斐(かい=山梨県)から、やはり信濃を牛耳る武田信玄(たけだしんげん)という大物二人に挟まれ、あの川中島での勝敗に左右されたり、両者の動向に翻弄されたりしながら、
飛騨大野(おおの=岐阜県北西部)郡を本領する小鷹利城(こたかりじょう=岐阜県飛騨市河合町)の牛丸(うしまる)氏、
隣接する吉城(よしき=岐阜県北東部)郡を本領とする高原諏訪城(たかはらすわじょう=岐阜県飛騨市神岡町)の江馬(えま)氏、
益田(ました=岐阜県中東部)郡に拠点を持ち鍋山城(なべやまじょう=岐阜県高山市松ノ木)を居城とする三木(みき)氏、
飛騨国府(こくふ=岐阜県高山市周辺)の高堂城(たかどうじょう=岐阜県高山市国府町)を居城とする広瀬(ひろせ)氏、
の彼ら飛騨に根付く武将たちは、血で血を洗う戦国を生き抜いて来ていたのです。
そんな中、三木氏の三木自綱(みつきよりつな)が、飛騨の国司であった姉小路(あねのこうじ)家の名跡を乗っ取って姉小路頼綱(あねがこうじよりつな)と名を改め、室町幕府15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき・義秋)を奉じての上洛(9月7日参照>>)で上り調子の尾張(おわり=愛知県西部)の織田信長(おだのぶなが)の奥さん=濃(のう)姫の妹を娶って親族となり、その力を借りて勢力を伸ばし始めます。
それでも、まだ謙信&信玄の目の黒いうちは、大きく情勢が変わる事はありませんでしたが(8月4日参照>>)、天正元年(1573年)に信玄が亡くなって(4月16日参照>>)その2年後に後を継いだ武田勝頼(かつより)が長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市長篠)で織田&徳川連合軍に敗退し(5月21日参照>>)、天正六年(1578年)には謙信が亡くなった(3月13日参照>>)上杉家で後継者争いが勃発(3月17日参照>>)・・・
戦国の力関係が大きく変わる中で、上杉との月岡野(つきおかの=富山県富山市)の戦い(10月4日参照>>)に織田の親族として参戦して勝利した姉小路頼綱が、勢いを増して松倉城(まつくらじょう=岐阜県高山松倉町)を新築します。
すると、それを脅威に感じた広瀬城(ひろせじょう=同高山市国府町)の広瀬宗域(ひろせむねくに)は、頼綱の三木氏と政略的婚姻関係を結んで脅威を取り除き、逆にこれまで懇意にしていた牛丸親綱(うしまるちかつな)の牛丸氏の名跡を奪おうと小鷹利城を攻めますが、それはウマく行かず・・・
ところが、そうこうしている間に、またもや戦国の情勢が目まぐるしく変わります。
天正十年(1582年)3月に、あの武田が滅ぶと(3月11日参照>>)、そのわずか3ヶ月後の6月に、武田を滅亡させた信長が本能寺にて横死(6月2日参照>>)したのです。
このゴタゴタを見逃さなかったのが姉小路頼綱&と広瀬宗域&牛丸親綱・・・今度は、この三者が連合を組んで、これまで何かと目障りだった名門家=江馬氏の江馬輝盛(えまてるもり)をぶっ潰して、飛騨の覇権を抑えてしまおうと画策したのです。
もちろん、江馬輝盛の方も、このゴタゴタが絶好のチャンスなのは重々承知・・・ここで、長年の悲願であった古川盆地への進出を画策するのです。
八日町の戦い・位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
かくして信長横死から約5か月後の天正十年(1582年)10月下旬、江馬輝盛は3000余騎を率いて(数については諸説あり)高原諏訪城を出立して古川盆地への侵攻を開始したのです。
これを知った姉小路頼綱は、始め、鉄壁の要害と自負する自身の松倉城に敵を引き寄せて討とうか?とも考えましたが、たとえ籠城が長期に渡ったとしても、今以上に新手の援軍が来るわけでもない今回の戦いでは籠城戦は難しいと判断し、広瀬宗域&牛丸親綱らと組んで撃って出る作戦に切り替えます。
そして、敵を大坂峠(おおさかとうげ=岐阜県高山市)付近から荒城川(あらきがわ)河畔に追い込んで、そこを戦場にして雌雄を決する覚悟で準備を開始し、自身は八日町付近に布陣して江馬勢を待ち受けました。
その数、約2000(数については諸説あり)
かくして天正十年(1582年)10月26日午後2時頃、江馬勢は姉小路配下である小島時光(こじまときみつ)の拠る小島城(こじまじょう=岐阜県飛騨市古川町沼町)へと迫ります。
しかし、ここで激しい抵抗に遭い、小島城を落とす事ができず、その日は態勢を整えるべく荒城方面へと引き返しました。
翌・10月27日、江馬輝盛は一気に敵を攻め潰すべく、再び姉小路勢に押し寄せ、広瀬方面にまで進んで来ます。
姉小路頼綱としては、ここで江馬氏の支城である梨打城(なしうちじょう=岐阜県高山市国府町八日町)を基点に扇状に広がった江馬勢を相手にすれば分が悪い・・・そのため、敵の態勢を崩すべく、あらかじめ八日町付近にかくしていた伏兵を使い、これを一気に江馬輝盛のいる本隊向けて発進させたのです。
この伏兵の存在に気づいていなかった江馬勢大いに慌て、隊が一気に乱れます。
すかざす輝盛が陣を立て直そうとしたその時・・・姉小路側から放たれた銃弾が輝盛を貫きました。
ひるむ輝盛を牛丸配下の者が討ち取り、その首を挙げます。
大将の討死に、江馬勢は総崩れとなり、完全に形勢逆転・・・江馬勢は討ち取られるか、敗走するか。。。
この時、江馬輝盛の側近13名が大坂峠で自害して、その後地元民に葬られた事から、この大坂峠は地元では通称「十三墓峠」と呼ばれているとか・・・
このあと姉小路勢は、江馬の本拠である高原まで攻め込み、ここに11代続いた江馬氏は滅亡しました。
ちなみに、この八日町の戦いは、この飛騨で初めて鉄砲が使用された戦いと言われていますが、それも、織田信長に近づいた姉小路頼綱が、堺(さかい=大阪府堺市)にて、いち早く鉄砲を手に入れた事で、この飛騨では一歩先に出た・・・という所でしょうか。。。
とは言え、それぞれの武将の本心は、自分自身が飛騨のすべてを手に入れる事・・・今回は、江馬駆逐のために連合しただけで、そもそもはライバル同士なわけで・・・
案の定、この八日町の戦いから3ヶ月後の天正十一年(1583年)1月27日、姉小路頼綱は牛丸親綱を攻撃し、さらにその翌年に広瀬宗域を騙し討ちして広瀬城を奪い、頼綱は晴れて飛騨統一する事になるのですが(1月27日後半部分参照>>=前半は内容がカブッてますがお許しを…) 、
その頼綱の短い春を終わらせるのが、賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)(4月21日参照>>)を終え、小牧長久手(愛知県小牧市ほか)(11月16日参照>>)真っ最中で、天下の見えて来た羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)という事になります(8月28日参照>>)。
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