応仁の乱~東岩倉の戦いと大内政弘の参戦
応仁元年(1467年)10月2日、応仁の乱の中で展開された東岩倉の戦いが終結しました。
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これまで何度も、このブログに登場している応仁の乱。
そもそもは・・・
未だ後継ぎが生まれていないにも関わらず、一刻も早く引退して趣味に走りたい第8代室町幕府将軍=足利義政(あしかがよしまさ)が、弟の足利義視(よしみ)を後継者に指名したものの、その直後に義政と奥さん= 日野富子(ひのとみこ)との間に男子=義尚(よしひさ)が誕生。
そうなると、なんとか我が子を次期将軍にしたい富子は、時の実力者ある山名宗全(やまなそうぜん・持豊)(3月18日参照>>)に相談しますが、一方の義視は義視で「息子生まれて…俺の立場ヤバイんちゃうん?」と、これまた時の実力者である細川勝元(ほそかわかつもと)に近づく。
そんなこんなの応仁元年(1467年)1月17日、以前から後継者争いでモメていた管領家(かんれいけ=将軍の補佐役を代々受け継ぐ家柄)の畠山(はたけやま)氏同士の争い=御霊合戦が勃発(1月17日参照>>)しますが、 この合戦で、懇意にしている畠山政長(はたけやままさなが)から援助を求められた細川勝元は「応援したいのはやまやまなんやけど、将軍さんが私的な争いに関与したらアカンでいうてはるので…」と静観していました。
ところが対立する畠山義就(よしなり)側には宗全の孫である山名政豊(まさとよ)が関与してバッチリ勝利をつかんだ事を知り、激おこの勝元は「戦火から御所を守る」という名目で将軍の住まう「花の御所」を占拠し、将軍から「都を荒らす山名方追討」の命令を取り付け、その総大将には義視が任命されます(5月20日参照>>)。
御所を抑えられた山名宗全は、やむなく、そこから西へ500mほどの自身の邸宅近くに本陣を構えました(これが西陣です)。
ここに、「山名宗全=西軍」「細川勝元=東軍」という応仁の乱の基本の形が形成され、そこに、先の畠山氏の後継者争いや、同じく以前から後継者でモメていた管領家=斯波(しば)氏が加わり、さらに、それらの大物の系列である全国の武士たちが、東西いずれかに加担して参戦した事で、応仁の乱は歴史上屈指の大乱となるわけです。
最初のぶつかり合いは、5月26日~27日の2日間・・・戦場となった一条大宮周辺が焦土と化す激しい戦いではあったものの、決着がつきそうに無い状況に、将軍=義政が5月28日に停戦命令を出して、一応の静寂が蘇りました(5月28日参照>>)。
しかし、その10日後の6月8日に将軍=義政が細川勝元に牙旗(がき=錦の御旗みたいな)を与えた事で、東軍が官軍に、西軍が賊軍に認定されてしまったのです。
当然ですが「コチラにも正義がある」という思いで参加していた西軍の武将たちの士気は下がり、領国に戻ってしまう者までいて、もはや西軍の運命は風前の灯・・・
と思いきや、ここで、西方から大きな助け船が動いて来ます。
かねてより、宗全が声をかけていた西国の大物=大内政弘(おおうちまさひろ)が周防(すおう=山口県東南部)・長門(ながと=山口県西部)はもちろん、分国の石見(いわみ=島根県西部)や伊予(いよ=愛媛県)の軍勢まで連れて、西軍に参戦するために上洛して来るのです。
すでに5月10日のうちに周防を発っていた大内政弘は、7月20日に兵庫(ひょうご)に上陸・・・これを受けて山名勢が活発になる事を警戒した将軍=義政は、弟=義視に対し「徹底追討」の命令を下します。
対する大内勢は、摂津(せっつ=大阪府北部・兵庫県南東部)の国人(こくじん=地元に根付い武士)たちを味方に加えて、大内の上洛を阻止せんと派遣された細川配下の秋庭元明(あきばもとあき)&赤松配下の浦上則宗(うらがみのりむね)ら東軍側と小規模な戦闘を繰り返しながら、淀(よど=京都市伏見区)・山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町)を経て京都へと入り、8月23日、洛北にある船岡山(ふなおかやま=京都府京都市北区)に陣取ります。
彼ら大内勢と小競り合いを繰り返しながら、その後を追うように京都に入った秋庭&浦上勢は、何とか東軍の主力部隊と合流しようと試みますが、西軍の猛攻に阻まれ、やむなく南禅寺(なんぜんじ=京都市左京区)近くの東岩倉(ひがしいわくら=京都府京都市東山区粟田口)に陣を置きました。
この時、援軍到着に勢いづいた西軍山名勢が、東軍側の複数陣所に攻撃を仕掛けたため、時の後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)が花の御所に避難してくる場面もあったとか・・・
東岩倉の戦い~位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
そんな時、一大事件が起こります。
大内政弘が入京した、その日の夜、東軍の総大将であったはずの足利義視が、密かに陣を抜け出して姿をくらましたのです。
実は、以前から義視と対立関係にあり、次期将軍にも義尚を推していた伊勢貞親(いせさだちか)を、この5月に、将軍=義政と細川勝元が呼び戻して東軍に加えたのを義視は快く思っていなかったし、そもそも日野富子&義尚母子と自分は同じ花の御所にいるわけで・・・その事で、何となく「自分の居場所は東軍じゃないんじゃ??」と考え始めた義視は、東軍に属しながらも義政から上洛を許されていなかった伊勢の北畠教具(きたばたけのりとも)を頼って脱走したのでした。
総大将のトンズラは、東軍の士気を一気に鈍らせ、西軍の勢いを増加させます。
勢いに乗った西軍は9月1日、畠山義就に土岐(とき)や六角(ろっかく)の兵を加えた5万の大軍で、東軍側の武田信賢(たけだのぶかた)の拠る三宝院(さんぼういん=京都市伏見区醍醐)を襲撃し、その勢いのまま京極持清(きょうごくもちきよ)の守る浄花院(じょうかいん=京都市上京区元浄花院町)を陥落させます。
さらに13日には、山名宗全自らが軍を率いて細川勝元邸を攻撃する一方で、畠山義就が内裏(だいり=天皇の住まい)を占拠し、下京のほとんどを西軍が制圧する形となりました。
かくして9月18日、本隊と連絡が取れず孤立していた東岩倉の秋庭&浦上の陣に対して、西軍が猛攻撃を仕掛けたのです。
これが、約15日間に渡っての激戦で南禅寺や青蓮院(しょうれんいん=京都市東山区粟田口)が廃墟と化してしまう事になる東岩倉の戦いです。
応仁元年(1467年)10月2日、西軍がようやく攻撃を休めて洛内へと戻った事で、そのスキに秋庭&浦上隊は北へ迂回して上御霊神社(かみごりょうじんじゃ= 京都府京都市上京区 )側から東軍本陣へと合流する事ができたのでした。
東軍の諸将は、何とか無事の合流を喜んだものの、今や、東軍は花の御所と、それに隣接する相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)など上京のわずかの場所だけに押し込まれる事になってしまいました。
さらに、この東岩倉が収まった翌日の10月3日、西軍は畳みかけるように、その相国寺に攻撃を仕掛け、応仁の乱の中でも屈指の激しい戦闘となる相国寺の戦いが繰り広げられる事になるのですが、そのお話のくわしくは2009年10月3日のページで>>
とは言え、この相国寺の戦いは東西の両軍ともに大きな損害を受けて、しばらくは大きな乱闘を起こす気力もない状態となります。
その後12月7日に、東軍が船岡山に陣取る大内軍を攻撃しますが、大打撃を与える事はできず・・・結局、両者は京都市内の各所にそれぞれ陣を構えて警戒しつつ対峙しながら年を越し、翌年の稲荷山攻防戦(3月21日参照>>)へと向かっていく事になります。
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