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2019年11月24日 (日)

岩村城奪回作戦~秋山虎繁VS織田信忠

 

天正三年(1575年)11月24日、武田方の秋山虎繁に奪われていた岩村城を奪回した織田信忠が岐阜へと帰還しました。

・・・・・・・・

永禄十一年(1568年)9月に足利義昭(あしかがよしあき)を奉じての上洛を果たし(9月7日参照>>)、その義昭を第15代室町幕府将軍に据えて(10月18日参照>>)以来、事実上、京都を制した形になっていた織田信長(おだのぶなが)ではありましたが、その後、徐々に義昭と信長の距離間が遠くなるわ(1月23日参照>>)琵琶湖(びわこ=滋賀県)周辺では越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)+北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)連合軍とのドンパチが始まるわ(6月19日参照>>)、それキッカケで上洛の際に散らした三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)は戻って来るわ(8月26日参照>>)、その三好に石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)顕如(けんにょ)が賛同して(9月14日参照>>)全国の本願寺門徒に一揆の蜂起(ほうき)を呼びかけてアッチャコッチャで一向一揆(いっこういっき)が始まるわ(長島一向一揆)(近江一向一揆>>)、浅井&朝倉の残党を匿う比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ=滋賀県大津市)に文句言うたら反発して来るわ(9月12日参照>>)、と周囲敵ばかりの大忙し・・・いわゆる『信長包囲網(のぶながほういもう)です。

そんなこんなの元亀三年(1572年)10月、いよいよ甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん=晴信)が動き出します。

かねてより、将軍=義昭から信長の討伐&上洛を呼びかけられていたし、天台座主(てんだいざす=延暦寺の住職)覚恕(かくじょ=後奈良天皇の皇子・法親王)の甲斐亡命のもととなった例の比叡山焼き討ちに信玄自身がメッチャ怒ってた事もあって、自ら2万5千の大軍を率いて躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた=山梨県甲府市古府中)を出陣し、世に言う西上作戦(せいじょうさくせん)(2008年12月22日参照>>)を開始したのです。

Akiyamatorasige700a この時、信玄本隊が飯田からほぼ天竜川に沿って南下し青崩峠(あおくずれとうげ)を越えて侵攻する(一言坂>>)(二俣城>>)のと同時に、家臣の山県昌景(やまがたまさかげ)遠江(とおとうみ=静岡県西部)から(10月22日参照>>)秋山虎繁(あきやまとらしげ=晴近・信友)美濃(みの=岐阜県)方面から徳川家康(とくがわいえやす)の領する三河(みかわ=愛知県東部)への侵攻を任され、武田の別動隊として各地で諸城を落としつつ転戦していて、秋山虎繁が攻略した城の中の一つが岩村城(いわむらじょう=岐阜県恵那市岩村町)でした。

この岩村城は、鎌倉時代の昔から岩村遠山(とおやま)が治める城でしたが、すでに、この城の重要性に気づいていた信長の父=織田信秀(のぶひで)が、城主の遠山景任(とおやまかげとう)妹を嫁がせて懇意にしていた中で、この年の8月に景任が子供を持たないまま病死してしまった事から、信長が自身の息子=御坊丸(ごぼうまる・信長の四男か五男で後の勝長または信房)を養子として送り込んで継がせていたので事実上、織田の城となっていたのでした。

この岩村城を、この秋ごろから囲んだ秋山勢でしたが堅固な城はなかなか落ちず・・・この時、御坊丸はまだ6歳の幼子だったので実際に城内を仕切っていたのは遠山に嫁いだ信秀の妹=おつやの方(おゆうの方・お直の方)だったのですが、ジワジワと攻めて来る秋山虎繁は、なんと!戦場でおつやの方に求婚。。。
「俺と結婚してくれたら、城も命も助ける」と・・・

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信玄の西上ルートと周辺広域図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この武田方の動きに、信長も森長可(もりながよし)らの猛将を先鋒に約2万の軍勢で以って対抗しますが、小競り合いはあるものの決着はつかず・・・やがて3ヶ月余りの籠城の末、年が明けた元亀四年(1573年)3月2日、おつやの方は虎繁の条件を呑んで岩村城を開城(3月2日参照>>)・・・信長の息子=御坊丸は養子という名の人質として甲斐に送られてしまいました。

この状況に、激おこの信長ではありましたが、ご存知の通り、この間に、あの三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市)(三方ヶ原>>)(犀ヶ崖>>)から野田城(のだじょう=愛知県新城市)攻防戦(1月11日参照>>)武田はどんどん西へと進んで行きますし、あの将軍=義昭がいよいよ信長に反旗を翻す(2月20日参照>>)しで、ここンとこの信長は、アチコチに兵を分配しなければならなかったわけで・・・

ところが、そんな中、その野田城攻防戦を最後に、それまで西へ向かっていた武田軍が甲斐へと戻って行きます。
そう、ご存知のようにこの元亀四年(1573年・7月に天正に改元)4月12日に信玄が病死したのです(4月16日参照>>)

その遺言により「3年隠せ」とされた信玄の死は、意外に早く周囲にも知れ渡る事になり、徳川家康は、このスキに武田方の長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市長篠)を奪ったり(9月8日参照>>)なんぞしているのですが、

信長の方は・・・
7月には、あの義昭がまたまた挙兵するし(7月18日参照>>)、あの浅井&朝倉との決着もあるし(8月20日参照>>)、もちろん本願寺門徒との一向一揆も継続中ですし(10月25日参照>>)、奈良の松永久秀(まつながひさひで)は裏切るし(12月26日参照>>)・・・で、信長は対武田にあまり兵を割く事ができず、この後しばらくは、信玄の後を継いだ武田勝頼(かつより)明智城(あけちじょう=岐阜県可児市)を奪ったり(2月5日参照>>)高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)を陥落させたり(5月12日参照>>)して武田の健在ぶりをアピールする事になるのですが、

しかし天正三年(1575年)5月、先の信玄死のドサクサで家康に奪われていた長篠城を武田勝頼が取り返しに来る事で勃発した有名な長篠設楽ヶ原(したらがはら)の戦い(5月21日参照>>)織田&徳川の連合軍で勝利した信長は、
「ようやく時が来た!」
とばかりに、この年の11月、嫡男=織田信忠(のぶただ)に2万の兵をつけて岩村城奪還に向かわせ、自らも1万の兵とともに後詰(ごづめ=本隊の後方に待機する予備軍)として鶴ヶ城(つるがじょう=岐阜県瑞浪市土岐町・神箆城・国府城・高野城)に着陣します。

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岩村城奪回戦と恵那郡十八砦の位置関係図
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

もともと戦略的に重要な場所である岩村城含む恵那(えな=岐阜県南東部)周辺には、武田方からの侵攻を阻止すべく、織田や遠山によって「恵那郡十八砦」と呼ばれる砦や出城が形勢されていたのですが、ここンとこの勝頼の勢いで、この時点では、それらはすっかり武田の砦になってしまっていて、岩村城奪回を任された信忠は、まずは、これらの砦から攻略しなければならない・・・

と思っていたところ、今回の「織田の大軍が来たる!」の一報により、浮足づいた守備兵らが、かの岩村城に集結してしまったため、各砦に残されていたのは「強い主君ならどっちでもイイ」あるいは「もともとは織田の配下だった」って感じの美濃出身の者が中心で、織田軍が近づくとアッサリと砦を放棄したり寝返ったりする者ばかり・・・信忠隊は、ほとんど無傷のまま、予想外に素早く周辺の砦を取り戻し、秋山虎繁の立て籠もる岩村城へと向かう事ができ、この状況を見た後詰の信長も一旦岐阜へと帰還します。

一方、敵軍に迫られた岩村城からの救援要請を受けた武田勝頼は、早速、軍を率いて伊那(いな=長野県南部)まで来ますが、おりからの大雪に阻まれて、それ以上進めず・・・

織田軍の包囲によって補給路を断たれ、援軍も望めなくなった岩村城は、この窮地を脱するべく、11月10日、水晶山(すいしょうやま=岐阜県恵那市岩村町)に布陣していた織田軍に夜襲をかけます。

地の利が無い場所で夜間に襲撃された事で、ここに布陣していた織田方はアッという間に散り々々にされてしまいましたが、勝ちに乗じた岩村城方が、さらに進撃しようとすると、そこに織田方の河尻秀隆(かわじりひでたか)をはじめとする救援隊が駆け付け、見事な戦いぶりで大将格21人のほか多数の城兵を討ち取り、やむなく出撃した城兵は城内へ退却・・・戻れなかった者も周辺の山中へと逃げて行きました。

織田軍大将の信忠は、岩村城の堅固な構えを踏まえて、それでも力攻めをせず、厳重な包囲網を維持しつつ兵糧攻めを続けますが、当然、やがて兵糧も尽き、城内の兵たちの疲れもピークの達した頃、織田方の塚本小大膳(つかもとこたいぜん)のもとに城内からの使者がやって来て、
「城兵の命を助けてくれるなら開城しても良い」
と申し出て来たのです。

そこで、
「大将3名が岐阜まで来て謝罪するなら…」
という条件で、11月21日、秋山虎繁以下大島杢之助(おおしまもくのすけ)座光寺為清(ざこうじためきよ)の3名が捕らえられて岐阜へと送られ、岩村城は開城となりました。

かくして天正三年(1575年) 11月24日、奪還に功績のあった河尻秀隆を岩村城に置き、織田信忠は岐阜へと戻ったのでした。

ところが・・・
岐阜に到着した秋山以下3名は、即座に長良川の河原にて磔刑(たっけい=はりつけの刑)に処せられてしまいます。

これは、信長が、息子を武田の人質に差し出しおきながら自らはちゃっかり(←否、苦悩の末だとは思うが)奥さんに納まってたおつやの方に怒り心頭だったから・・・なんて事も言われますが、

別の説では、先の徳川家康の長篠城奪取の際(再び9月8日参照>>)に武田の人質となっていた奥平信昌(おくだいらのぶまさ=当時は貞昌)奥さんと弟を、有無を言わさず磔刑に処した事に対する報復とも考えられています。
(世は戦国ですから、信長だけではなく武田も色々ヤッちゃってます)

しかし、「岐阜に出向いての謝罪=その後は許されるかも」と思ってい岩村籠城組の面々は、
「約束と、ちゃうやないかい!」
怒り爆発し、再び戦いが勃発するのですが、もはや岩村の残党に成すすべなく、次々と討ち取られ・・・おつやの方の親衛隊として最後まで岩村城にて仕えていた遠山七頭衆をはじめとする勇将たちも討死、あるいは自決して果てたと言います。

この結果を耳にした武田勝頼は、仕方なく甲斐へと引き返して行きました。

ちなみに、秋山虎繁らと前後して捕らえられたとされるおつやの方も、同じく長良川の河畔で磔刑に処せられますが、よほど信長は怒っていたのか?血縁のある未だ20代とおぼしき彼女を逆さ磔にしたのだとか・・・
(設楽ヶ原の時の鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもんかつあき)のような逆さ磔>>だったら…と想像するとコワイ)

この後、この11月の末に嫡男の信忠に織田家の家督を譲った(11月28日参照>>)信長は、翌天正四年(1576年)2月に安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)の構築に着手します(2月23日参照>>)が、

一方の敵側には、今まさに日本海側を越前の目前の越中富山(とやま=富山県富山市)まで侵攻(3月17日参照>>)して来ていた越後(えちご=新潟県)の大物=上杉謙信(うえすぎけんしん)が、信玄亡き後の穴を埋めるように『信長包囲網』に加わり(5月18日参照>>)、信長と本願寺との戦いも激化していくのですが、そのお話は【織田信長の年表】>>のそれぞれのページで・・・

また、先の岩村城の落城で甲斐に送られた信長の息子=御坊丸は、このあと10年くらい甲斐で人質生活を送り、信長のもとに戻って来るのは武田が滅亡する寸前の頃だとか・・・そして、それからほどなく、あの本能寺の変が起き、御坊丸こと織田勝長(おだかつなが)は、父ちゃん&兄ちゃんとともに命を落とす事になります(4月4日参照>>)
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2019年11月17日 (日)

伊達政宗の人取橋の戦い~老臣・鬼庭良直の討死

 

天正十三年(1585年)11月17日、伊達政宗と佐竹率いる連合軍が戦った人取橋の戦いで鬼庭良直が討死しました。

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天正十年(1582年)6月に、あの本能寺で横死(6月2日参照>>)した織田信長(おだのぶなが)に代わって、山崎の戦いで主君の仇を討った羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が勢いを増すものの、その後は四国(7月26日参照>>)九州(4月6日参照>>)の平定に忙しく、北は北陸(8月29日参照>>)どまりで、関東や東北は未だ手つかずの状態であった頃、

東北では、
米沢城(よねざわじょう=山形県米沢市)を本拠とした伊達(だて)出羽(でわ)南部(山形県と秋田県南部)陸奥(むつ)南部(宮城県南部・福島県北部)という広大な領地を有してはいたものの、
周辺には
山形城(やまがたじょう=山形県山形市)最上(もがみ)や、
寺池城(てらいけじょう=宮城県登米市)葛西(かさい)
名生城(みょうじょう=宮城県大崎市)大崎(おおさき)に、
小高城(おだかじょう=福島県南相馬市)相馬(そうま)
大館城(おおだてじょう=秋田県大館市)岩城(いわき)に、
黒川城(くろかわじょう=福島県会津若松市・後のの若松城)蘆名(あしな)
須賀川城(すかがわじょう=福島県須賀川市)二階堂(にかいどう)・・・

さらに南の常陸(ひたち=茨城県)から北への侵攻を狙う佐竹(さたけ)などなど、様々な有力大名がしのぎを削りながら、時には味方になり、時には敵に回りという群雄割拠の状態だったのです。

そんな中、天正十二年(1584年)10月、父の伊達輝宗(だててるむね)から家督を譲られ、伊達家の若き当主となった伊達政宗(だてまさむね=当時18歳)に対し、はじめは恭順な態度を取っていた小浜城(おばまじょう=福島県二本松市)大内定綱(おおうちさだつな)蘆名に寝返るという事件が起こります。

これに対し、政宗は大内の支城である小手森城(おでもりじょう=福島県二本松市)を攻撃し、城兵はおろか婦女子まで根絶やしにするという倍返しどころやない非常な仕返しをしたのです。

これに恐怖したのが二本松城(にほんまつじょう=福島県二本松市)畠山義継(はたけやまよしつぐ)・・・なんせ、陰で大内を支援していて、この時、小手森城を脱出した大内定綱が逃げ込んで来ていたのですから、次はコチラに矛先が向くやも知れません。

ここはひとまず降伏・・・とばかりに畠山義継は、領地の半分を伊達家に献上して、後継ぎの国王丸(くにおうまる)を人質に出すという条件で伊達との和睦を成立させますが、その和睦成立から、わずか2日後の10月8日、伊達輝宗が陣所にしていた宮森城(みやもりじょう=同二本松市)に和睦の挨拶をしに来たはずの畠山義継が、いきなり刀を抜いて伊達輝宗を拉致して逃亡してしまいます。

父の異変を知った政宗が、すぐに後を追い、川を越えたら二本松城という阿武隈川(あぶくまがわ)のほとりで追いついたものの、どうする事もできず、やむなく義継もろとも父=輝宗を鉄砲で撃ち殺してしまったのです(10月8日参照>>)

義継を失った二本松城では、国王丸を人質に出すどころか、この幼い新当主を中心に気勢を挙げ、籠城して政宗を迎え撃つ覚悟・・・一方の政宗も父の弔い合戦とばかりに10月15日、二本松城を囲みます。

しかし二本松城は天然の要害を備えた堅城で、しかもこの旧暦の10月15日は、新暦で言えば12月6日・・・包囲を開始した翌日から雪が降り始め、やがてそれは大雪となり、やむなく政宗は、一旦包囲を解いて小浜城に引き上げました。

するとこの間に畠山は、佐竹をはじめ、蘆名や相馬、岩城や二階堂などなど伊達領の南に位置する武将らに援軍を求めます。

常日頃から伊達が南下して来る事を警戒していた彼らは、すんなりと畠山の要請に応じ、佐竹義重(さたけよししげ)を総大将とする3万もの連合軍となって伊達領に向かって北上して来たのです。

Oniwayosinao500a この一報を受けた政宗は、天正十三年(1585年)11月17日、小浜城を出て観音堂山(かんのんどうやま)に布陣しますが、味方の軍勢はわずかに8千・・・政宗にとっては明らかに不利な戦いに突入する事になりますが、

この戦いで先陣を務めたのが、代々伊達家に仕える鬼庭(おにわ)氏の13代目=鬼庭良直(おにわよしなお=左月斎)でした。

良直自身も、伊達稙宗(たねむね)晴宗(はるむね)そして輝宗→政宗と4代の当主に仕えていて、この時73歳・・・高齢のために重い甲冑を帯びる事ができず、水色の法被(はっぴ)に黄色の綿帽子という装備を身に着け、政宗から拝領した金色の采配を手に出陣していたのでした。

伊達VS連合軍・・・両者は観音堂山の麓の瀬戸川(せとがわ=阿武隈川の支流)周辺でぶつかります。

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人取橋の戦いと東北諸将の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

瀬戸川に架かる一本橋を、約60騎の自隊を率いて先陣を切る鬼庭隊・・・それを見た政宗の右腕=片倉景綱(かたくらかげつな=小十郎)(10月14日参照>>)が機転をきかせ、
「政宗がここにおる!」
と良直を援護すべく、主君の声をまねて高らかに宣言すると、
その心中を察した良直が、
「おぉ!御屋形様(おやかたさま)が来てくださったぞ!」
と叫び、味方の士気を高めると同時に、敵を怯ませます。

敵が景綱に気を取られ動揺するスキを狙って一本橋を突進する良直は、その細い橋の上を向かって来る敵を一人ずつ待ち伏せて討っていくのです。

この橋の上で200余の敵兵を討ち取った良直率いる鬼庭隊でしたが、さすがに多勢に無勢・・・やがて押されはじめた伊達軍に迫る連合軍は本陣近くまで押し寄せ、政宗自身も鉄砲を受ける事態となり、伊達軍は撤退を余儀なくされますが、そうなると先陣だった鬼庭隊が、今度は殿(しんがり=軍の最後尾)となるわけで・・・

主君を逃がすべく踏ん張った良直は、ともに戦った多くの兵とともに、ここで壮絶な討死を遂げました。

良直らの活躍によって無事引き上げる事に成功した政宗は、夜を迎えるとともに野営し、明日に向かっての態勢を整えるのですが、なんとその夜に、留守にしている領国を水戸城(みとじょう=茨城県水戸市)江戸重通(えどしげみち)安房(あわ=千葉県南部)里見義頼(さとみよしより)が攻めに来る」という一報を受けた佐竹が自軍を連れて撤退してしまうのです。

この一報には、政宗発進のフェイクニュースとの見方もあるようですが、とにかく、連合軍と言えど、ほとんどが佐竹隊だった敵側は、もはや伊達軍を相手にする兵力は残っておらず、今回の戦闘は、このまま終焉を迎えるのです。

勝敗としては連合軍の勝利と言えますが、全滅を免れた政宗も次回に賭ける事ができるわけで、翌日の明らかなる負け戦を回避できた事は政宗にとって一安心・・・良直の功績を讃えた政宗は、残された彼の妻に多くの知行を与えたと言います。

また、ここで多くの兵を討ち取られた事で、瀬戸川に架かるこの一本橋は、人取橋(ひととりばし)と呼ばれるようになり、本日のこの戦いも「人取橋の戦い」と呼ばれます。
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2019年11月10日 (日)

頼朝の愛人・亀の前を襲撃~北条政子の後妻打

 

寿永元年(1182年)11月10日、北条政子の命を受けた牧宗親が、源頼朝の愛人=亀の前を保護する伏見広綱宅を襲撃しました。

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北条政子(ほうじょうまさこ)は、ご存知、平家(へいけ)を倒して鎌倉幕府を開いた(7月12日参照>>)源頼朝(みなもとのよりとも)の奥さん。

そもそもは、天皇家の権力争いに摂関家が絡んだ保元元年(1156年)の保元の乱(ほうげんのらん)(7月11日参照>>)に勝利しながらも、その後、思うように出世できなかった派が起こした平治元年(1159年)の平治の乱(へいじのらん)(12月15日参照>>)・・・この時、思うように出世できていた派の平清盛(たいらのきよもり)の活躍により乱は鎮圧され(12月25日参照>>)、敗れて敗走した源義朝(みなもとのよしとも)は、翌・平治二年(1160年)1月4日、潜伏先で家臣に裏切られ、無念の最期を遂げました(1月4日参照>>)

この義朝には9人の息子がいたものの下の5人は未だ幼く、上の4人が父に従って平治の乱に参戦していたのですが、敗戦が決定的になった時、追手を混乱させるべく、それぞれ別行動で敗走・・・しかし、長男の義平(よしひら)は捕縛されて処刑され(1月25日参照>>)、次男の朝長(ともなが)は逃走中に負傷し自害、四男の義門(よしかど)は不明(合戦中に死亡した可能性が高いとされます)、そして三男で嫡子(ちゃくし=後継ぎ)の頼朝も近江(おうみ=滋賀県)にて捕縛され、本来なら源氏の嫡流として処刑されるはずでしたが、なぜか、命助かり伊豆(いず)ヶ小島(ひるがこじま静岡県伊豆の国市:狩野川の中州)への流罪となったのでした(2月9日参照>>)

一説には平清盛の育ての母である池禅尼(いけのぜんに)「頼朝が亡き息子に似ている」と言って涙ながらに頼朝の命乞いをしたとも言われますが、とにもかくにも、14歳の少年=頼朝は、この時から、この伊豆にて流人生活を送る事になったわけです。

それから約20年、多感なる青春時代を流人として送る事になった頼朝・・・ただ、流人と言っても、わりと近くに以前から仕える乳母(めのと)の一人であった比企尼(ひきのあま)という人がいて、日々の食料や生活面の面倒をみてもらえるし、常に平氏側からの監視下に置かれてはいるものの、逃亡を図ったり、表立ってヤバい事さえしなけれは比較的自由に、頼朝も穏やかに暮らせていた雰囲気ですね。

日々、読経に励み、源氏一門の菩提を弔うのが日課だったと言いますが、この後の行動を見る限り、武芸の鍛錬なども隠れてやれる状況だったのでしょう。

そんな頼朝の監視役だったのが、平氏一門である伊東祐親(いとうすけちか)北条時政(ほうじょうときまさ)の二人・・・実は頼朝さん、この二人の監視役の両方ともの娘に手を出してます。

はじめは伊東さんとこの娘さん・・・たまたま祐親が京都に単身赴任していた間の留守宅に転がり込んで、娘の八重姫(やえひめ)と仲良くなり、子供までもうけてしまいますが、3年経って単身赴任から戻って来た祐親は当然激怒・・・ふたりを引き離し、可愛い孫を殺して自身も出家して平氏一門としての義理を果たしました。

Houzyoumasako600ak で、その伊東祐親の激怒っぷりに恐れおののいて一時避難していた北条時政宅で、頼朝は、またもや、時政が京都番役を命じられて長期不在となったその間に、時政の娘=政子をゲット・・・いやはや、モテるね頼朝さん。

ま、この時代、都から遠く離れた地方に住んでいる若い娘さんにとって、その都は憧れの対象だっただろうし、そんな都の香りをプンプン漂わせたシュッしたイケメンがそばに来たら・・・まして、今は負け組とは言え、あの八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ・10月23日参照>>の嫡流というエリートなわけですしね。

とは言え、さすがに時政も猛反対して、政子と別の男との縁談を進めますが、その婚礼の前夜、嵐の中を家出した政子は、そのまま頼朝のもとに走り、着の身着のまま、二人は駆け落ちするのです。

その結果・・・結局は、二人の仲を許してしまう時政パパ。

ま、そこには、このままずっと流人として生きていくか否かを考えていた頼朝と、関東の一豪族としてこれ以上の出世の見込み無いまま一生を終えるのか否かを考えていた時政、という男二人の野望に、「この男に賭けてみよう」という政子の愛と打算が足し算された答えが、ナイスなタイミングではじき出され、全員がGOサインを出したという事なのでしょう。

なんせ、時政の直系のご先祖様である平直方(なおつね)の娘の嫁ぎ先が源頼義(よりよし)で、この二人の間に生まれたのがかの八幡太郎義家ですから、つまりは、時政は平氏の一門でありながら源氏の親戚でもある立場だったですから、今を脱却する最大のチャンスがコレだったのかも知れません。

とにもかくにも、こうして夫婦になった頼朝&政子でしたが、それこそ当初は平家全盛時代・・・結婚した治承元年(1177年)には、あの鹿ヶ谷の陰謀(ししがだにのいんぼう)事件(5月29日参照>>)も勃発してますから、おそらく二人は、なるべく目立たぬように騒がぬように新婚時代の愛を育んだ事でしょう。

しかし、その翌々年の治承三年(1179年)、陰で暗躍する後白河法皇(ごしらかわほうおう)にブチ切れた平清盛が治承三年の政変(11月17日参照>>)というクーデターを決行し、翌年には、その政変で政界が平家一門の独壇場となった事に不満を持った以仁王(もちひとおう=後白河法皇の第3皇子)が、源頼政(みなもとのよりまさ)とともに決起し、全国の反平家に対して「打倒平家」の令旨(りょうじ=天皇家の人が発する命令書)を発しました(4月9日参照>>)

残念ながら、頼朝のもとにその令旨が届いた時には、すでに以仁王は亡くなってしまっていましたが(2009年5月21日参照>>)、完全に風は吹いて来ました。

その年の8月、頼朝は伊豆にて挙兵します(8月17日参照>>)

はじめは、敗戦して命アブナイ場面もありましたが(8月23日参照>>)、徐々に、関東に住まう源氏(8月27日参照>>)や平氏(9月3日参照>>)を傘下に取りこんでいく事に成功し、治承四年(1180年)10月、いよいよ鎌倉(かまくら)に入って、ここを本拠と定めて妻=政子と暮らす邸宅も準備し、ようやく、流人の身から脱却して、一武将としてのスタートを切る事になったのです(10月6日参照>>)

その半月後には、あの富士川(ふじがわ)の戦いに勝利して(10月20日参照>>)、まさに追い風吹く中、治承五年(1181年)2月に平家の大黒柱である清盛が亡くなります(2月4日参照>>)。

そんな中、その年の12月、俄かに「政子が病気で倒れた」との一報に、心配した人々が鎌倉に集まって来るという出来事がありました。

ここのところの頼朝は、富士川以降は関東の諸将を取り込む事に忙しく、対平家の合戦においては、頼朝の挙兵に触発されてその1ヶ月後に北陸にて挙兵(9月7日参照>>)した木曽義仲(きそよしなか=頼朝の従兄弟・源義仲)横田河原(よこたがわら)の合戦に勝利して(6月14日参照>>)なんとなく一歩リードされた感が拭えない状況だった事に、政子の心労が重なったのでは??てな事が噂されましたが、

それが、翌年の2月になって「御台所様、御懐妊!」のニュースに変わるのです。

政子は、この2~3年前に長女(大姫)を出産していますが、その頃は世を忍ぶ流人時代・・・今回は、晴れて関東をまとめる武将の夫人としての懐妊ですから、それはもう、源氏推し&頼朝推しの皆々にとっては一大ニュースです。

大喜びの頼朝は、安産祈願として、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう=神奈川県鎌倉市雪ノ下)から由比ヶ浜(ゆいがはま)までの続く曲がりくねった道をまっすぐな1本の参詣路として整備するという一大事業をやってのけたのです。
(現在も残る、あの道です)

すでに頼朝は、それほどの人物になっていたのですね~

月が満ちつつあった7月に本宅から産所である比企谷(ひきがや)に移っていた政子は、寿永元年(1182年)8月12日、無事、男の子を出産します。
後に第2代将軍となる源頼家(よりいえ)です。

しかし、この奥さん妊娠中のこの間に・・・
頼朝さんがヤッちゃいます。。。そう、浮気です。

と、言っても、浮気相手の亀の前(かめのまえ)という女性とは流人時代から頼朝は知り合っていて、とっくの昔から浮気しちゃってたわけですが、ここに来て、出産のために政子さんが別宅にいるのを良い事に(←かどうかはご本人しかわかりませんが)彼女を鎌倉に呼び寄せ小坪(こつぼ=神奈川県逗子市)にある小忠太光家(こちゅうたみついえ)という家臣の家に住まわせて、そこに毎日通うようになっていたのです。

出産後に、この話を義母(時政の後妻)牧の方(まきのかた)から聞かされた政子・・・脳天炸裂超絶激怒

「バレたやん!激ヤバ(゜_゜;)アセアセ」と思った頼朝は、今度は飯島(いいじま=同逗子市)伏見広綱(ふしみひろつな)という御家人宅に亀の前を隠し住まわせますが、案の定・・・

寿永元年(1182年)11月10日、政子は、牧の方の父=牧宗親(まきむねちか)に命じて伏見広綱の屋敷を襲撃させ、建物を破壊し尽くしたのです。

伏見広綱とともに命からがら脱出した亀の前は、鐙摺(あぶずり= 神奈川県三浦郡葉山町)大多和義久(おおたわよしひさ)宅にて保護されますが、これに怒った頼朝は、2日後の11月12日、遊興ついでに牧宗親を呼び出して叱責しまくり(奥さんには言えへんのか~い)、泣いて謝る宗親の髻(もとどり=髪を結ってる部分)を切って落とし前をつけさせたのです。

すると、今度は、その頼朝の行動に怒った政子の父=時政が、一族を引き連れて伊豆に帰ってしまうという事態に・・・

鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡(あづまかがみ)には欠落部分があって、このあと、「政子の怒りをかった伏見広綱が遠江(とおとうみ=静岡県西部)に流罪となった」とか、「頼朝の亀の前への愛はさらに深まった(←つまり関係は続いた)とするものの、それ以上の話は出て来ず、亀の前も、これ以降は表に登場しませんし、いつの間にか、怒っていたはずの時政も鎌倉に戻って来て、何事も無かったかのような雰囲気に納まっています。

なので、この事件の落としどころや結末がハッキリしないまま、「政子激怒」「浮気許さん!」「愛人への嫉妬スゴイ」って印象だけが強く残って、ドラマ等でも、そんな風に描かれる事が多いわけですが、、、

しかし、その『吾妻鏡』では、ハッキリと「政子を妻」とし「亀の前を妾」として扱っていて、そこに、この後に鎌倉幕府を主導する北条家の「言いたいこと」が見え隠れしてる?気がするのです。

本来、この時代、一族の棟梁たる人物が、愛人というか妾というか側室というかの女性を複数人かかえる事は当たり前の事でした。

なんせ、生まれた子供が無事に成人する事が難しかった時代ですから、血脈を継ぐ後継ぎは多いに越したことはないですし、合戦や政変が頻繁にあったら、その成人した子供だってどうなるやらわかりません。

現に頼朝の血脈は、わずか3代で途切れてしまうわけですし・・・

なので、「浮気した」「愛人囲った」でいちいち激怒していては、お家の存続が危うくなる事もあるわけで・・・

とは言え、一方で『後妻打(うわなりうち)という風習も中世の日本にはありました。

この風習は平安時代頃から、文献にチョイチョイ登場するようになり、江戸時代の初期にはかなり大がかりになっていたようですが、「徒党を組んで正妻が愛人を(あるいは前妻が後妻を)襲撃する」というパターンは同じような感じです。

つまり『吾妻鏡』が政子を正室とし、亀の前を妾とする事で、この一件は政子の個人的な嫉妬ではなく「後妻打である」としたいわけです。

では、単なる嫉妬と後妻打で何が違うのか?
それは政子と、彼女の後ろにいる北条家の立ち位置です。

嵐の中の駆け落ちという大恋愛で結ばれた頼朝と政子ですが、そもそもは頼朝は源氏の嫡流の御曹司であり、二人の身分は決定的にに違うのです。

頼朝が流人だったおかげで、政子はその座に座り込めたものの、挙兵に成功して鎌倉に居を構え、源氏の大将として関東一円を治めようかとなった今、果たして政子という女性が、源氏の棟梁の正室という座にふさわしいかどうかは、身分の上下を気にするこの時代では、なかなかに難しかったのではないでしょうか?

以前、北条時政から数えて5代目の執権(しっけん)北条時頼(ときより)さんのページ(3月23日参照>>)でも書かせていただきましたが、もともとの身分が低い北条家が、幕府内を牛耳る事に不満を持つ武将も多かったはずなのです。

しかし、政権内のそんなこんなを払拭させたいがために、一族の未来を賭けて平家真っ盛りの世の中で頼朝とともに生きる事に舵を切った政子と北条家なのですから、抑える所は抑えつつ、ハッキリさせるべき所はハッキリとさせ、なんだかんだをウマイ事やってかないと、その立場を維持していけなかったのだと思います。

なので、今回の政子による亀の前襲撃事件は、単なる政子の嫉妬ではなく、政子から見れば「私が頼朝の正室!」、北条家から見れば「俺らが鎌倉幕府の1番のサポーター」という位置をキープするための一件だったような気がします。

ま、この後、頼朝死後のあの承久の乱見事なおカミさんぶりを発揮する政子さん(6月14日参照>>)ですから、アレもコレも計画通り・・・はなから計算づくの行動だったのでしょうね。
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2019年11月 2日 (土)

武田信玄の伊那侵攻~福与城・箕輪の戦い

 

天文十三年(1544年)11月2日、武田信玄が伊那松島原で福与城の藤沢頼親勢と戦い、勝利しました。

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天文十年(1541年)に父・武田信虎(のぶとら)追放して(6月14日参照>>)甲斐(かい=山梨県)一国の当主となった武田信玄(たけだしんげん=当時の名乗りは晴信ですが、今回は信玄で通させていただきます)は、すぐさま、その翌年の天文十一年(1542年)6月に、父の時代からの悲願であった信濃(しなの=長野県)攻略へと動き始め、諏訪一族の1人である高遠頼継(たかとおよりつぐ)を寝返させる事に成功し、それを足がかりに諏訪氏の本拠地である上原城(うえはらじょう=長野県茅野市)を攻撃して陥落させます。

その後、負けた諏訪頼重(すわよりしげ)甲府(こうふ=山梨県甲府市)東光寺にて切腹させられ、ここに諏訪惣領家は滅亡しました(6月24日参照>>)

Takedasingen600bそして、その諏訪氏の遺領は、今後は宮川 (みやがわ=山梨県北杜市を流れる)の以西を高遠頼継の領地に、以東を武田の領地にする事で、一旦は合意したのですが、自らの寝返りによって事を成しえたと自負する高遠頼継は、やっぱり不満・・・

結局、諏訪滅亡から2ヶ月後の9月、高遠頼継は諏訪の遺臣たちを率いて、武田信玄に対して反旗ののろしを挙げるのです。

これに対し、信玄は、亡き諏訪頼重に嫁いでいた自身の妹=禰々(ねね)の生んだ寅王(とらおう=つまり頼重の息子で信玄の甥)前面に推しだして出陣したのです。

この時、その寅王は、生後わずか6ヶ月の乳児でしたから、実質的には完全に信玄の軍だったわけですが、やはり寅王が看板に掲げられている態勢にひるむ諏訪の遺臣たちは、どうしてもかつての主君の遺児に弓を引くことができず、その多くが伊那(いな=長野県伊那市)方面へと逃走・・・

そこを、武田軍の先鋒を預かる駒井高白斎(こまいこうはくさい・政武)(9月26日参照>>)は、9月26日、敵側の拠点であった荒神山砦(こうじんやまとりで=長野県上伊那郡辰野町)を奪取し、その後、頼継と結託している藤沢頼親(ふじさわよりちか)福与城(ふくよじょう=長野県上伊那郡箕輪町:箕輪城とも)を陥落させ、彼らに武田への帰属を誓約させる事で、この一件は落ち着く事になりました。

その翌年の天文十二年(1543年)に、武田の重臣である板垣信方(いたがきのぶかた)を上原城に諏訪郡代として配置し、事は収まったかに見えました。

しかし、これは、あくまで高遠方による「寅王という看板と武田率いる大軍」に対してとったポーズであったようで・・・結局、さらに翌年の天文十三年(1544年)、諏訪領奪回を目論む高遠頼継は、朋友の藤沢頼親に働きかけて、武田に反旗を翻させるのです。

この動きを知った信玄は、10月16日に甲府を出陣し、諏訪に滞在した後、28日に有賀(あるが=長野県諏訪市)に移動し、29日には先発隊を、かの荒神山に派遣して近隣に放火しつつ砦を攻めさせます。

この荒神山砦は、高遠頼継の高遠城(たかとおじょう=長野県伊那市高遠町)と藤沢頼親の福与城の出城とも言うべき位置にある砦・・・この時も、藤沢頼親に味方する信濃守護で義兄(頼親の奥さんが長時の妹)小笠原長時(おがさわらながとき)から派遣された援軍が伊那衆とともに守っていましたが、武田方は、信玄弟の武田信繁(のぶしげ)を大将に、わずか3時間ほどで攻め落としてしまいます(10月29日参照>>内容かなりかぶってますがお許しを…)

かくして天文十三年(1544年)11月2日武田勢は福与城へと迫ります。

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 福与城・箕輪の戦い~位置関係図 クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

迎える福与城兵は松嶋原(まつしまばら=長野県上伊那郡箕輪町)まで繰り出し、ここでぶつかった両者は、そのまま合戦へとなだれ込みました。

史料が少なく、合戦の詳細は不明な中、敵首26を挙げた武田方の勝利となった事は確かなれど、かと言って、その武田方も福与城を落とす事が出来ず・・・そうこうしているうちに、結局、福与城に高遠からの援軍が投入された11月26日に、武田方は福与城への攻撃を諦め、諏訪まで撤退し、信玄自身も12月9日には甲府へと戻ります。

この勢いに乗った高遠勢は、信玄の移動に合わせるかように、12月8日に諏訪へと侵攻し、諏訪大社(すわたいしゃ=長野県の諏訪湖周辺)神長官(じんちょうかん)である守矢頼真(もりやよりざね)屋敷に放火して気勢を挙げたのだとか・・・

とは言え、結局は、この翌年に再び信玄に攻められ、かの高遠城とともに福与城も陥落する事になるのですが、そのお話は、また「その日」に書かせていただきたいと思います。
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