武田信玄の伊那侵攻~福与城・箕輪の戦い
天文十三年(1544年)11月2日、武田信玄が伊那松島原で福与城の藤沢頼親勢と戦い、勝利しました。
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天文十年(1541年)に父・武田信虎(のぶとら)を追放して(6月14日参照>>)甲斐(かい=山梨県)一国の当主となった武田信玄(たけだしんげん=当時の名乗りは晴信ですが、今回は信玄で通させていただきます)は、すぐさま、その翌年の天文十一年(1542年)6月に、父の時代からの悲願であった信濃(しなの=長野県)攻略へと動き始め、諏訪一族の1人である高遠頼継(たかとおよりつぐ)を寝返させる事に成功し、それを足がかりに諏訪氏の本拠地である上原城(うえはらじょう=長野県茅野市)を攻撃して陥落させます。
その後、負けた諏訪頼重(すわよりしげ)は甲府(こうふ=山梨県甲府市)の東光寺にて切腹させられ、ここに諏訪惣領家は滅亡しました(6月24日参照>>)。
そして、その諏訪氏の遺領は、今後は宮川 (みやがわ=山梨県北杜市を流れる)の以西を高遠頼継の領地に、以東を武田の領地にする事で、一旦は合意したのですが、自らの寝返りによって事を成しえたと自負する高遠頼継は、やっぱり不満・・・
結局、諏訪滅亡から2ヶ月後の9月、高遠頼継は諏訪の遺臣たちを率いて、武田信玄に対して反旗ののろしを挙げるのです。
これに対し、信玄は、亡き諏訪頼重に嫁いでいた自身の妹=禰々(ねね)の生んだ寅王(とらおう=つまり頼重の息子で信玄の甥)を前面に推しだして出陣したのです(9月25日参照>>)。
この時、その寅王は、生後わずか6ヶ月の乳児でしたから、実質的には完全に信玄の軍だったわけですが、やはり寅王が看板に掲げられている態勢にひるむ諏訪の遺臣たちは、どうしてもかつての主君の遺児に弓を引くことができず、その多くが伊那(いな=長野県伊那市)方面へと逃走・・・
そこを、武田軍の先鋒を預かる駒井高白斎(こまいこうはくさい・政武)(9月26日参照>>)は、9月26日、敵側の拠点であった荒神山砦(こうじんやまとりで=長野県上伊那郡辰野町)を奪取し、その後、頼継と結託している藤沢頼親(ふじさわよりちか)の福与城(ふくよじょう=長野県上伊那郡箕輪町:箕輪城とも)を陥落させ、彼らに武田への帰属を誓約させる事で、この一件は落ち着く事になりました。
その翌年の天文十二年(1543年)に、武田の重臣である板垣信方(いたがきのぶかた)を上原城に諏訪郡代として配置し、事は収まったかに見えました。
しかし、これは、あくまで高遠方による「寅王という看板と武田率いる大軍」に対してとったポーズであったようで・・・結局、さらに翌年の天文十三年(1544年)、諏訪領奪回を目論む高遠頼継は、朋友の藤沢頼親に働きかけて、武田に反旗を翻させるのです。
この動きを知った信玄は、10月16日に甲府を出陣し、諏訪に滞在した後、28日に有賀(あるが=長野県諏訪市)に移動し、29日には先発隊を、かの荒神山に派遣して近隣に放火しつつ砦を攻めさせます。
この荒神山砦は、高遠頼継の高遠城(たかとおじょう=長野県伊那市高遠町)と藤沢頼親の福与城の出城とも言うべき位置にある砦・・・この時も、藤沢頼親に味方する信濃守護で義兄(頼親の奥さんが長時の妹)の小笠原長時(おがさわらながとき)から派遣された援軍が伊那衆とともに守っていましたが、武田方は、信玄弟の武田信繁(のぶしげ)を大将に、わずか3時間ほどで攻め落としてしまいます(10月29日参照>>内容かなりかぶってますがお許しを…)。
かくして天文十三年(1544年)11月2日、武田勢は福与城へと迫ります。
福与城・箕輪の戦い~位置関係図 ↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
迎える福与城兵は松嶋原(まつしまばら=長野県上伊那郡箕輪町)まで繰り出し、ここでぶつかった両者は、そのまま合戦へとなだれ込みました。
史料が少なく、合戦の詳細は不明な中、敵首26を挙げた武田方の勝利となった事は確かなれど、かと言って、その武田方も福与城を落とす事が出来ず・・・そうこうしているうちに、結局、福与城に高遠からの援軍が投入された11月26日に、武田方は福与城への攻撃を諦め、諏訪まで撤退し、信玄自身も12月9日には甲府へと戻ります。
この勢いに乗った高遠勢は、信玄の移動に合わせるかように、12月8日に諏訪へと侵攻し、諏訪大社(すわたいしゃ=長野県の諏訪湖周辺)の神長官(じんちょうかん)である守矢頼真(もりやよりざね)の屋敷に放火して気勢を挙げたのだとか・・・
とは言え、結局は、この翌年に再び信玄に攻められ、かの高遠城とともに福与城も陥落する事になるのですが、そのお話は、また「その日」に書かせていただきたいと思います。
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