板倉重宗に聞く~京都所司代の心構え
明歴二年(1656年)12月1日、徳川幕府政権下において第3代京都所司代を務めた板倉重宗が 、71歳で死去しました。
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天正十四年(1586年)に、徳川家の旗本=板倉勝重(いたくらかつしげ)の長男として駿府(すんぷ=静岡県静岡市)に生まれた板倉重宗(しげむね)は、幼い頃から徳川秀忠(とくがわひでただ=後の第2代江戸幕府将軍)の小姓として仕え、関ヶ原や大坂の陣にも秀忠の近侍として共に参戦し、元和六年(1620年)に2代目だった父の後を継いで、江戸幕府3代目の京都所司代(きょうとしょしだい)となりました。
京都所司代とは、その名の通り京都の治安維持を任務とする役職で与力(よりき)や同心(どうしん)いった大勢を配下に持つ、今で言えば京都府警のトップ・・・といっても、後に江戸の幕藩体制が確立されて民政の事やなんやかんやが京都奉行所などに譲られるまでは、朝廷や公家の事、畿内より西に位置する諸大名の事など、あれやこれやを一手に引き受けていた役職なので、板倉重宗の頃は、かなり忙しかったのではないか?と・・・
その重要な役職を30年以上に渡って無事こなし、役職引退後も何かと頼られ、幕府大老(たいろう=将軍の補佐No.2)らにも堂々と物申す立場にあったと言いますから、幕府からも相当信頼されていたデキる人物だったのでしょう。
そんな彼は現役時代に訴訟などの決断所に向かう時、まずは西面の廊下にて伏し拝み、中では自身の前に明かり障子を立てて、傍らの茶臼で自ら茶を挽きながら罪人の訴えを聞いたと言います。
「何なん?そのルーティーン」
と、周りは不審に思っていたものの、相手がおエライさんなので聞くに聞けず、「変でっせ」と言う事もできず・・・にいたところ、晩年になって、その事を尋ねた人がいた。。。
その質問に対する板倉重宗さんの答えが『常山紀談(じょうざんきだん)』(湯浅常山・著>>)に書かれています。
・‥…━━━☆
決断所に出向く時、廊下で拝んでたのは愛宕山(あたごやま)の神様(【愛宕神社のお話】参照>>)に対してなんです。
愛宕山の神様は、多くの神様の中でも特に霊験あらたかだと聞いたので、
「今日の案件を判断するにあたって、できる限り私見を挟まないよう努力しますが、もし私が私見を挟み間違えた判断をしてしまったら、どうぞ、この命を召し上げてください。
これだけ長く信心しているのですから、間違えた私を、そのまま生かすような事はしないで下さい」
と、毎日祈っているんです。
また、明確な判断ができないのは心が乱れているからだと…立派なお方は常に心静かだと思いますが、僕は、そんな立派な人間ではないので、心が静かかどうかを、お茶を挽いて確かめております。
心が安らかな時は、挽かれて落ちるお茶が、いかにも細やかなんです。
細やかなお茶が挽けると、
「あぁ、心落ち着いた~」
となって、相手の言い分を冷静に聞けるんです。
あと、明かり障子を隔てて相手の訴訟を聞くのは、人を見た目で判断しなようにするためです。
人というのは、ちょっと見ただけでも、憎たらしそうな奴もいれば、ひねくれてそうな奴も…それこそ千差万別です。
なので、いかにも誠実そうな人の言う事が真実に聞こえて、ワルそうな奴の言う事はウソのように聞こえますし、哀れをそそるような人の言う事は「何かウラがあるのと違うか?」って思ったりしてしまいます。
これらは、その人たちの言い分を聞く前に、自分ですでに判断してしまってる部分もあるわけです。
けど、訴訟の場では、哀れをそそる者にも憎むべき事があるし、憎たらしい者の中に哀れな部分もあるし、どんなに誠実そうに見えても偽りがあるかも知れません。
てか、実際には、そっちの方が多いです。
人の心の内は測り難いです。
顔かたちで決める事はできません。
昔は、質問に答える相手の顔色見て判断する人もいたようですが、僕には、そんな器用な事はできません。
ただえさえ裁判の場なんて普通やない怖い場所に出て来るのに、自分の生き死にを判断する者を目のまえにしたら、大抵の人は震え上がってしまって言いたい事も言えない、こんな雰囲気じゃ~POISON♪ってな事になって、あらぬ処罰を受けてしまう人もいるかも知れない。
なので、お互い、顔を見たり見られたりしないのが1番良いと思って、明かり障子で隔てた場所で対面してるんです。
・‥…━━━☆
と、答えたのだとか・・・
なんとも、スゴイお人です。
父の勝重さんも、かなり評判の良い人だったようですが、後に、「後世にはありがたき賢臣」と評され、庶民には「人を神のごとく敬い、父母のように愛した名臣」と言い伝えられているそうです。
とか何とか言いながら、板倉さん、落語にも興味がおありのようで・・・関連記事【戦乱の世に笑顔を…落語の元祖・安楽庵策伝】>>もどうぞ。。。
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