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2019年11月10日 (日)

頼朝の愛人・亀の前を襲撃~北条政子の後妻打

 

寿永元年(1182年)11月10日、北条政子の命を受けた牧宗親が、源頼朝の愛人=亀の前を保護する伏見広綱宅を襲撃しました。

・・・・・・・・

北条政子(ほうじょうまさこ)は、ご存知、平家(へいけ)を倒して鎌倉幕府を開いた(7月12日参照>>)源頼朝(みなもとのよりとも)の奥さん。

そもそもは、天皇家の権力争いに摂関家が絡んだ保元元年(1156年)の保元の乱(ほうげんのらん)(7月11日参照>>)に勝利しながらも、その後、思うように出世できなかった派が起こした平治元年(1159年)の平治の乱(へいじのらん)(12月15日参照>>)・・・この時、思うように出世できていた派の平清盛(たいらのきよもり)の活躍により乱は鎮圧され(12月25日参照>>)、敗れて敗走した源義朝(みなもとのよしとも)は、翌・平治二年(1160年)1月4日、潜伏先で家臣に裏切られ、無念の最期を遂げました(1月4日参照>>)

この義朝には9人の息子がいたものの下の5人は未だ幼く、上の4人が父に従って平治の乱に参戦していたのですが、敗戦が決定的になった時、追手を混乱させるべく、それぞれ別行動で敗走・・・しかし、長男の義平(よしひら)は捕縛されて処刑され(1月25日参照>>)、次男の朝長(ともなが)は逃走中に負傷し自害、四男の義門(よしかど)は不明(合戦中に死亡した可能性が高いとされます)、そして三男で嫡子(ちゃくし=後継ぎ)の頼朝も近江(おうみ=滋賀県)にて捕縛され、本来なら源氏の嫡流として処刑されるはずでしたが、なぜか、命助かり伊豆(いず)ヶ小島(ひるがこじま静岡県伊豆の国市:狩野川の中州)への流罪となったのでした(2月9日参照>>)

一説には平清盛の育ての母である池禅尼(いけのぜんに)「頼朝が亡き息子に似ている」と言って涙ながらに頼朝の命乞いをしたとも言われますが、とにもかくにも、14歳の少年=頼朝は、この時から、この伊豆にて流人生活を送る事になったわけです。

それから約20年、多感なる青春時代を流人として送る事になった頼朝・・・ただ、流人と言っても、わりと近くに以前から仕える乳母(めのと)の一人であった比企尼(ひきのあま)という人がいて、日々の食料や生活面の面倒をみてもらえるし、常に平氏側からの監視下に置かれてはいるものの、逃亡を図ったり、表立ってヤバい事さえしなけれは比較的自由に、頼朝も穏やかに暮らせていた雰囲気ですね。

日々、読経に励み、源氏一門の菩提を弔うのが日課だったと言いますが、この後の行動を見る限り、武芸の鍛錬なども隠れてやれる状況だったのでしょう。

そんな頼朝の監視役だったのが、平氏一門である伊東祐親(いとうすけちか)北条時政(ほうじょうときまさ)の二人・・・実は頼朝さん、この二人の監視役の両方ともの娘に手を出してます。

はじめは伊東さんとこの娘さん・・・たまたま祐親が京都に単身赴任していた間の留守宅に転がり込んで、娘の八重姫(やえひめ)と仲良くなり、子供までもうけてしまいますが、3年経って単身赴任から戻って来た祐親は当然激怒・・・ふたりを引き離し、可愛い孫を殺して自身も出家して平氏一門としての義理を果たしました。

Houzyoumasako600ak で、その伊東祐親の激怒っぷりに恐れおののいて一時避難していた北条時政宅で、頼朝は、またもや、時政が京都番役を命じられて長期不在となったその間に、時政の娘=政子をゲット・・・いやはや、モテるね頼朝さん。

ま、この時代、都から遠く離れた地方に住んでいる若い娘さんにとって、その都は憧れの対象だっただろうし、そんな都の香りをプンプン漂わせたシュッしたイケメンがそばに来たら・・・まして、今は負け組とは言え、あの八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ・10月23日参照>>の嫡流というエリートなわけですしね。

とは言え、さすがに時政も猛反対して、政子と別の男との縁談を進めますが、その婚礼の前夜、嵐の中を家出した政子は、そのまま頼朝のもとに走り、着の身着のまま、二人は駆け落ちするのです。

その結果・・・結局は、二人の仲を許してしまう時政パパ。

ま、そこには、このままずっと流人として生きていくか否かを考えていた頼朝と、関東の一豪族としてこれ以上の出世の見込み無いまま一生を終えるのか否かを考えていた時政、という男二人の野望に、「この男に賭けてみよう」という政子の愛と打算が足し算された答えが、ナイスなタイミングではじき出され、全員がGOサインを出したという事なのでしょう。

なんせ、時政の直系のご先祖様である平直方(なおつね)の娘の嫁ぎ先が源頼義(よりよし)で、この二人の間に生まれたのがかの八幡太郎義家ですから、つまりは、時政は平氏の一門でありながら源氏の親戚でもある立場だったですから、今を脱却する最大のチャンスがコレだったのかも知れません。

とにもかくにも、こうして夫婦になった頼朝&政子でしたが、それこそ当初は平家全盛時代・・・結婚した治承元年(1177年)には、あの鹿ヶ谷の陰謀(ししがだにのいんぼう)事件(5月29日参照>>)も勃発してますから、おそらく二人は、なるべく目立たぬように騒がぬように新婚時代の愛を育んだ事でしょう。

しかし、その翌々年の治承三年(1179年)、陰で暗躍する後白河法皇(ごしらかわほうおう)にブチ切れた平清盛が治承三年の政変(11月17日参照>>)というクーデターを決行し、翌年には、その政変で政界が平家一門の独壇場となった事に不満を持った以仁王(もちひとおう=後白河法皇の第3皇子)が、源頼政(みなもとのよりまさ)とともに決起し、全国の反平家に対して「打倒平家」の令旨(りょうじ=天皇家の人が発する命令書)を発しました(4月9日参照>>)

残念ながら、頼朝のもとにその令旨が届いた時には、すでに以仁王は亡くなってしまっていましたが(2009年5月21日参照>>)、完全に風は吹いて来ました。

その年の8月、頼朝は伊豆にて挙兵します(8月17日参照>>)

はじめは、敗戦して命アブナイ場面もありましたが(8月23日参照>>)、徐々に、関東に住まう源氏(8月27日参照>>)や平氏(9月3日参照>>)を傘下に取りこんでいく事に成功し、治承四年(1180年)10月、いよいよ鎌倉(かまくら)に入って、ここを本拠と定めて妻=政子と暮らす邸宅も準備し、ようやく、流人の身から脱却して、一武将としてのスタートを切る事になったのです(10月6日参照>>)

その半月後には、あの富士川(ふじがわ)の戦いに勝利して(10月20日参照>>)、まさに追い風吹く中、治承五年(1181年)2月に平家の大黒柱である清盛が亡くなります(2月4日参照>>)。

そんな中、その年の12月、俄かに「政子が病気で倒れた」との一報に、心配した人々が鎌倉に集まって来るという出来事がありました。

ここのところの頼朝は、富士川以降は関東の諸将を取り込む事に忙しく、対平家の合戦においては、頼朝の挙兵に触発されてその1ヶ月後に北陸にて挙兵(9月7日参照>>)した木曽義仲(きそよしなか=頼朝の従兄弟・源義仲)横田河原(よこたがわら)の合戦に勝利して(6月14日参照>>)なんとなく一歩リードされた感が拭えない状況だった事に、政子の心労が重なったのでは??てな事が噂されましたが、

それが、翌年の2月になって「御台所様、御懐妊!」のニュースに変わるのです。

政子は、この2~3年前に長女(大姫)を出産していますが、その頃は世を忍ぶ流人時代・・・今回は、晴れて関東をまとめる武将の夫人としての懐妊ですから、それはもう、源氏推し&頼朝推しの皆々にとっては一大ニュースです。

大喜びの頼朝は、安産祈願として、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう=神奈川県鎌倉市雪ノ下)から由比ヶ浜(ゆいがはま)までの続く曲がりくねった道をまっすぐな1本の参詣路として整備するという一大事業をやってのけたのです。
(現在も残る、あの道です)

すでに頼朝は、それほどの人物になっていたのですね~

月が満ちつつあった7月に本宅から産所である比企谷(ひきがや)に移っていた政子は、寿永元年(1182年)8月12日、無事、男の子を出産します。
後に第2代将軍となる源頼家(よりいえ)です。

しかし、この奥さん妊娠中のこの間に・・・
頼朝さんがヤッちゃいます。。。そう、浮気です。

と、言っても、浮気相手の亀の前(かめのまえ)という女性とは流人時代から頼朝は知り合っていて、とっくの昔から浮気しちゃってたわけですが、ここに来て、出産のために政子さんが別宅にいるのを良い事に(←かどうかはご本人しかわかりませんが)彼女を鎌倉に呼び寄せ小坪(こつぼ=神奈川県逗子市)にある小忠太光家(こちゅうたみついえ)という家臣の家に住まわせて、そこに毎日通うようになっていたのです。

出産後に、この話を義母(時政の後妻)牧の方(まきのかた)から聞かされた政子・・・脳天炸裂超絶激怒

「バレたやん!激ヤバ(゜_゜;)アセアセ」と思った頼朝は、今度は飯島(いいじま=同逗子市)伏見広綱(ふしみひろつな)という御家人宅に亀の前を隠し住まわせますが、案の定・・・

寿永元年(1182年)11月10日、政子は、牧の方の父=牧宗親(まきむねちか)に命じて伏見広綱の屋敷を襲撃させ、建物を破壊し尽くしたのです。

伏見広綱とともに命からがら脱出した亀の前は、鐙摺(あぶずり= 神奈川県三浦郡葉山町)大多和義久(おおたわよしひさ)宅にて保護されますが、これに怒った頼朝は、2日後の11月12日、遊興ついでに牧宗親を呼び出して叱責しまくり(奥さんには言えへんのか~い)、泣いて謝る宗親の髻(もとどり=髪を結ってる部分)を切って落とし前をつけさせたのです。

すると、今度は、その頼朝の行動に怒った政子の父=時政が、一族を引き連れて伊豆に帰ってしまうという事態に・・・

鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡(あづまかがみ)には欠落部分があって、このあと、「政子の怒りをかった伏見広綱が遠江(とおとうみ=静岡県西部)に流罪となった」とか、「頼朝の亀の前への愛はさらに深まった(←つまり関係は続いた)とするものの、それ以上の話は出て来ず、亀の前も、これ以降は表に登場しませんし、いつの間にか、怒っていたはずの時政も鎌倉に戻って来て、何事も無かったかのような雰囲気に納まっています。

なので、この事件の落としどころや結末がハッキリしないまま、「政子激怒」「浮気許さん!」「愛人への嫉妬スゴイ」って印象だけが強く残って、ドラマ等でも、そんな風に描かれる事が多いわけですが、、、

しかし、その『吾妻鏡』では、ハッキリと「政子を妻」とし「亀の前を妾」として扱っていて、そこに、この後に鎌倉幕府を主導する北条家の「言いたいこと」が見え隠れしてる?気がするのです。

本来、この時代、一族の棟梁たる人物が、愛人というか妾というか側室というかの女性を複数人かかえる事は当たり前の事でした。

なんせ、生まれた子供が無事に成人する事が難しかった時代ですから、血脈を継ぐ後継ぎは多いに越したことはないですし、合戦や政変が頻繁にあったら、その成人した子供だってどうなるやらわかりません。

現に頼朝の血脈は、わずか3代で途切れてしまうわけですし・・・

なので、「浮気した」「愛人囲った」でいちいち激怒していては、お家の存続が危うくなる事もあるわけで・・・

とは言え、一方で『後妻打(うわなりうち)という風習も中世の日本にはありました。

この風習は平安時代頃から、文献にチョイチョイ登場するようになり、江戸時代の初期にはかなり大がかりになっていたようですが、「徒党を組んで正妻が愛人を(あるいは前妻が後妻を)襲撃する」というパターンは同じような感じです。

つまり『吾妻鏡』が政子を正室とし、亀の前を妾とする事で、この一件は政子の個人的な嫉妬ではなく「後妻打である」としたいわけです。

では、単なる嫉妬と後妻打で何が違うのか?
それは政子と、彼女の後ろにいる北条家の立ち位置です。

嵐の中の駆け落ちという大恋愛で結ばれた頼朝と政子ですが、そもそもは頼朝は源氏の嫡流の御曹司であり、二人の身分は決定的にに違うのです。

頼朝が流人だったおかげで、政子はその座に座り込めたものの、挙兵に成功して鎌倉に居を構え、源氏の大将として関東一円を治めようかとなった今、果たして政子という女性が、源氏の棟梁の正室という座にふさわしいかどうかは、身分の上下を気にするこの時代では、なかなかに難しかったのではないでしょうか?

以前、北条時政から数えて5代目の執権(しっけん)北条時頼(ときより)さんのページ(3月23日参照>>)でも書かせていただきましたが、もともとの身分が低い北条家が、幕府内を牛耳る事に不満を持つ武将も多かったはずなのです。

しかし、政権内のそんなこんなを払拭させたいがために、一族の未来を賭けて平家真っ盛りの世の中で頼朝とともに生きる事に舵を切った政子と北条家なのですから、抑える所は抑えつつ、ハッキリさせるべき所はハッキリとさせ、なんだかんだをウマイ事やってかないと、その立場を維持していけなかったのだと思います。

なので、今回の政子による亀の前襲撃事件は、単なる政子の嫉妬ではなく、政子から見れば「私が頼朝の正室!」、北条家から見れば「俺らが鎌倉幕府の1番のサポーター」という位置をキープするための一件だったような気がします。

ま、この後、頼朝死後のあの承久の乱見事なおカミさんぶりを発揮する政子さん(6月14日参照>>)ですから、アレもコレも計画通り・・・はなから計算づくの行動だったのでしょうね。
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コメント

>脳天炸裂超絶激怒

こんにちわ、茶々様!

中井貴一主演の「武田信玄」をyoutubeで見ているんですが、奥さんの三条の方がブチ切れているのと重なって爆笑しました!

投稿: DAI | 2019年11月11日 (月) 17時46分

DAIさん、こんばんは~

「武田信玄」でも、そんなシーンあったんですか?
三条の方は公家出身なので、政子より強烈そうですww

投稿: 茶々 | 2019年11月12日 (火) 05時48分

こんにちわ、茶々様!

>公家出身なので
公家出身、武家出身、平民出身のお姫様の逸話・剛勇話はいろいろとありますが(以前に女傑のアンケートありましたよね)、 次回のアンケートでは是非 是非『嫉妬の鬼 決定戦』をしてもらいたいです。男の私にしてみれば怖いもの見たさです。

よろしくお願いします。

投稿: DAI | 2019年11月13日 (水) 07時02分

DAIさん、こんにちは~

戦国の方々は、気丈でないと生き抜いていけないぶん、スゴかったでしょうね。。。

アンケート…しばらくやってないですが、またやりたいです。

投稿: 茶々 | 2019年11月13日 (水) 12時41分

こんばんは。
英雄たちの選択を見ていながら気が付いたのは大友も島津も頼朝の子孫と称しているのですが、九州という土地もありますが島津と大友は何故か戦国を生き延びた大名です。
その逸話から見ても相当頼朝は隠し子がいたのではと思いました。
政子などの北条家は戦国時代でも慕われているのを見ますとかなり善政を行った感じがします。

投稿: non | 2019年12月 1日 (日) 20時56分

nonさん、こんばんは~

大友や島津は子孫と言っても、直系とかではなく、家臣かあるいは平たく見た一族的な意味合いの方が強いように思います。
鎌倉から室町にかけてのあたりで守護や地頭的な役割を仰せつかってるので源とのつながりがあった事は確かだと思いますが…

北条家は鎌倉幕府とともに執権が滅びてからは、子孫の詳細はウヤムヤになるので戦国時代に慕われていたかどうかは私は存知ませんが、
北条早雲の北条家に対して「(無関係なのに)北条を名乗るな」的な事を言って、常に「後北条」と鎌倉時代の北条氏とは区別していた武将がいたという話は小耳に挟んだ事があります。

投稿: 茶々 | 2019年12月 2日 (月) 03時41分

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