平安貴族殺害事件~源政職の最期
寛仁四年(1020年)閏12月26日、現職の加賀守である王朝貴族・源政職が殺害されました。
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時は平安・・・第67代=三条天皇(さんじょうてんのう)から第68代=後一条天皇(ごいちじょうてんのう)に代ろうかという頃のお話。
ちなみに、三条天皇の先代が第66代が一条天皇(いちじょうてんのう=三条天皇の従兄弟)で、その皇后であった藤原彰子(ふじわらのしょうし)との間に生まれたのが後一条天皇です。
この後一条天皇が即位した時、奥さん=彰子の父であるご存じ藤原道長(ふじわらのみちなが)が、天皇の外戚(母方の祖父)として我が世の春を迎え、
♪この世をば わが世とぞ思う 望月の
欠けたることの なしと思えば♪(10月16日参照>>)
の歌を詠んだのが寛仁二年(1018年)なので、まさに道長全盛の頃で、彰子の家庭教師だったあの紫式部(むらさきしきぶ)が雅な恋愛模様を描いた源氏物語の世界の時代なわけですが・・・
実は、その少し前の長和三年(1014年)6月16日の事・・・白昼の平安京を騒がす一大事件が起こります。
当時、加賀守(かがのかみ)という現役の受領(ずりょう=行政責任を負う筆頭者)だった源政職(みなもとのまさもと)が白昼堂々と衆人環視のもと拉致されたという・・・
しかも、その状況は政職が、公道(場所は定かでない)で数人の男に取り囲まれ、自分の足で歩いて連行されていくという光景だったのです。
この源政職という人は、その姓でわかる通り、立派な源氏の一門で第58代光孝天皇(こうこうてんのう)の子孫、官位も従五位下(じゅごいのげ)で、ギリではあるものの、いわゆる王朝貴族に分類される人ですから、公衆の面前で徒歩で連れて行かれるなんて事は、本来、あり得ない事で、「前代未聞」「尋常ではない」と、お公家さんたちも大騒ぎです。
なんせ、当時の王朝貴族は、例え犯罪者として連行される場合でも牛車(ぎっしゃ)を使うのが通例でしたから、政職にとってはかなりの屈辱・・・しかも、連れて行かれた先で、殴る蹴るの暴行まで受けてしまいます。
その連れて行かれた場所は、左大臣を務める藤原顕光(ふじわらのあきみつ)の邸宅である堀河院(ほりかわいん)で、この事件の主犯である敦明親王(あつあきらしんのう)の住まう場所でした。
この敦明親王は三条天皇の第1皇子で、親王という事ですから、次期天皇候補でもあるお方・・・敦明親王の奥さんが藤原顕光の娘である藤原延子(えんし)だったので、奥さんの実家である堀河院に住んでたわけです(当時の主流は通い婚なので、そのまま奥さんの家に住んでる事はよくある)。
未だ皇太子では無いとは言え、現天皇の皇子が起こした事件は貴族たちを大いに驚かせたわけですが、ここで誹謗中傷の的となったのは、当の敦明親王ではなく、舅の藤原顕光でした。
なんせ敦明親王まだ21歳・・・「若い皇子の日ごろの行動を監督するのは岳父(がくふ=舅)の役目」とばかりに、その責任を追及したのだとか・・・とは言え、顕光さんは顕光さんで、表立って批判した相手を呪詛(じゅそ=のろい)したりなんぞしてますし、2年前には今回の敦明親王とまったく同じような暴力事件を顕光さん自身が起こしてますので、本人にとってはどこ吹く風だったのかも知れません。
ところで・・・
話忘れておりましたが、そもそも今回の襲撃事件の原因は・・・
敦明親王という人は源政職以外とも、別の襲撃事件を起こしている暴れん坊親王ではありますが、さすがに、何も無いのにただただ襲撃しに行ったわけ無い・・・
実は源政職は、 敦明親王の妹である禎子内親王(ていし ないしんのう=母は藤原道長の娘)に多額の債務があったのです。
王朝貴族が借金??
と思っちゃいますが、実はこの時代、債務を抱えてる貴族は多くいて、実は先ほど書いた藤原顕光自身が2年前に起こした暴力事件の原因も、とある貴族に対する借金の取り立てだったのです。
それは、この時代、ある程度の官職を得るには、地位のある誰かに推挙=いわゆる口利きをしてもらって任官を得るというのが当たり前にになっていて、当然、それには「口利き料=任料」が発生する・・・しかも、大抵の場合、あの人にもこの人にも口きいてもらってるので、それが多重債務となってしまう事が多々あったのです。
(他にもイロイロあったと思いますが、今日のところは棚の上で…m(_ _)m)
それらをテキパキと返せる財力があれば良いですが、さすがに皆が皆、そこまでの財力あるわけないので、
とりあえずは上位ランクのコワイ人順に返していく
→からの、
途中から返せなくなって来る
→からの、
(貸してる側からすれば)俺てそんな順番下なん?
→からの、俺の事軽んじてるんちゃうん?
→からの、返す気あるん?ウヤムヤにしようとしてない?
となってしまうのです。
こんな感じで、平安時代の雅なイメージとはうらはらに、債権の回収に暴力が行使される事はしばしばあり、中には集団乱闘となった事件もありましたが、大抵の場合は、殴る蹴るの暴行を受けるものの、念書を書かせたり、約束を再認識させたりで落ち着き、命まで取られる事はなかったようです。
(賄賂や口利き料の是非については今回は問わない事に…)
今回の政職さんも、この拉致監禁暴行事件の後も健在で、その翌年の7月には、政職の妻とされる少将(しょうしょう=あるいは小少将)と呼ばれる女性の自宅に、禎子内親王の執事(しつじ)の平為忠(たいらのためただ)が、検封(けんぷう)=この場合は「差し押さえ」のために乗り込んで来て、家財道具や財産のすべてが差し押さえられたのだとか・・・
この少将と呼ばれる女性は、藤原彰子に仕えていた女房だったようで、どうやら、この後、藤原道長に泣きついて事なきを得たようですが・・・にしても政職さん、暴行事件の後も、まだ返して無かったんかい!
先にも書いた通り、この時の政職は現役受領であり、現職の加賀守・・・いくらなんでも口利き料を返済できないほどの財力しか持ってないとは考え難いですし、公家の日記によると、この頃の政職は、加賀国へ割り当てられた朝廷への貢納さえも滞納していたようですので、ここまで来たら、この方も、あの「想像を絶するルーズさ」に分類される人だったのかも知れません。
とは言え、この時の拉致監禁暴力事件では助かった源政職ですが、結局この後、非業の最期を遂げる事になるのです。
それは事件から6年後の寛仁四年(1020年)閏12月26日の夜の事・・・自宅に強盗が押し入り、その強盗の槍で突かれて殺害されたのです。
ただし、そこにも噂が・・・
実は、この少し前、加賀の国の百姓たちが、32か条にも及ぶ政職の違法行為を列挙した書状を提出して訴えを起こし、それと同時に、そんな政職の横暴ぶりに耐えかねて田畑を捨てて逃亡する者が後を絶たないというニュースが都まで届いていたのだとか・・・
つまり政職の領国経営に不満を持っていた者も少なからずいたという事。
果たして、源政職殺害事件は、本当に、単なる金目当ての強盗だったのか???
それとも、どこかの誰かが強盗の仕業として処理したかっただけなのか???
とにもかくにも、源政職の最期は、王朝貴族の雅な雰囲気とはかけ離れた凄惨な現場であった事は確かなようです。
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