那須七騎の一人~無念の千本資俊・謀殺
天正十三年(1585年)12月8日、太平寺に誘い出された千本資俊&資政父子が大関高増らによって殺害されました。
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千本資俊(せんぼんすけとし)の千本家は、鎌倉時代から 下野(しもつけ=栃木県)の那須郡(なすぐん=栃木県の北東地域)に根を張り、一説には源平屋島の戦いの「扇の的」>>で有名な那須与一(なすのよいち)の子孫(あくまで伝説です)とも言われる那須(なす)氏の家臣で、「那須七騎(なすしちき)」の一つにも数えられる名家でした。
ところが、そんな主家=那須氏の第19代当主=那須高資(なすたかすけ)の時代にお家騒動が勃発します。
そもそもは、先代である父=政資(まさすけ)から息子=高資への交代劇の時も、未だ譲る気のない父と、新当主=高資を擁立しようとする家臣=大関宗増(おおぜきむねます=那須七騎の一人)との間でモメにモメた末の当主交代だったのですが、父亡き後、今度は異母弟である資胤(すけたね)との間に、後継者争いが勃発したのです。
長男の高資の母は陸奥(むつ=福島県・宮城県・岩手県・青森県)大館城(おおだてじょう=福島県いわき市)主の岩城常隆(いわきつねたか)の娘、次男の資胤の母は那須氏家臣の大田原資清(おおたわらすけきよ=那須七騎の一人)の妹・・・この抗争には、当然、それぞれの実家が絡んでいるわけですが・・・
資胤を那須家の跡継ぎにしたい大田原氏は、資胤を大田原城(おおたわらじょう=栃木県大田原市)に招いて高資討伐を進言・・・一方、これをうけた高資側も資胤を亡き者にしようと画策します。
身の危険を感じた資胤は、熊野参詣を理由に一時的に身を隠します。
そんなこんなの天文十八年(1549年)、かねてより宇都宮(うつのみや=栃木県の中部地域)への侵攻を目論んでいた那須高資が宇都宮領内へと侵攻し、喜連川五月女坂の戦い(きつれがわそうとめざかのたたかい=栃木県さくら市喜連川付近)で宇都宮氏当主=宇都宮尚綱(うつのみやひさつな)とぶつかりますが、この戦いで尚綱は討死してしまいます。(9月17日参照>>)
しかも、そのドサクサで家臣の壬生綱房(みぶつなふさ)に宇都宮城(うつのみやじょう=栃木県宇都宮市)を乗っ取られてしまったのです。
この時、わずか5歳の幼子であった尚綱の息子=宇都宮広綱(ひろつな)は、家臣の芳賀高定(はがたかさだ)に守られて、何とか城から脱出して落ち延びましたが、その2年後の天文二十年(1551年)、その芳賀高定が高根沢(たかねざわ=栃木県高根沢町・栃木県中央東部地域)の領地と資胤の次期那須当主の座を約束に千本資俊に支援を求めて来たのです。
かくして天文二十年(1551年)1月22日、千本資俊は自らの千本城(せんぼんじょう=栃木県芳賀郡)に、主君=那須高資を招待し、泥酔したところを殺害したのです。
高資の死によって、那須家の当主の座が資胤に転がり込んだ事で、千本資俊と息子=資政(すけまさ)は、資胤の腹心として大いに権勢を振るうとともに、資政は大関高増(たかます=大田原資清の息子で大関宗増の養子)の娘を正室に娶り、那須家内の家臣同志の繋がりも固くなったかに見えました。
しかし結局は、千本家と大関家による那須家内の主導権争いは収まらず・・・永禄九年(1566年)には、常陸(ひたち=茨城県)の佐竹義重(さたけよししげ)の力を借りた大関高増に攻められ、激しい戦いに発展した事もありました。
(この時に千本城が佐竹側に奪取されたとの話もあり…秋田藩家蔵文書)
ところが、天正十一年(1583年)に資胤が死去し、その息子の那須資晴(すけはる)が当主となって2年が過ぎた天正十三年(1585年)、那須資晴は大関や大田原に対して、「太平寺(たいへいじ=栃木県那須烏山市)にて千本父子を追討せよ」との命令を出したのです。
その理由としては・・・
実は、資政が生まれる前、まだ子供がいなかった千本資俊は茂木城(もてぎじょう=栃木県芳賀郡)に拠る茂木治清(もてぎはるきよ)の息子を養子に向かえ、千本義隆(よしたか)として彼に千本家を継がせるつもりでいたのですが、やがて実子の資政が生まれた事によって義隆がうっとぉしくなり、配下の田野辺重之(たのべしげゆき)に義隆を預けて田野辺隆継(たかつぐ)と名乗らせたりしていましたが、結局、居場所がなくなった彼=義隆は、実家の茂木に戻ったのですが、当然、その心の内はよろしくない
また、もう一人の大関も・・・
先に書いた通り千本資政の奥さんは大関家の娘だったわけですが、これが嫁×姑バトルの果てに離縁となって奥さんが実家に戻っており、那須家臣内での主導権争いに加えて、ますます千本父子は許しがたいわけで・・・
で、千本義隆と大関高増が結託して、そこに高増弟の大田原綱清(おおたわらつなきよ)が加わり、主君である那須資晴を味方に誘って説得し、上記の命令を出させたわけです。
なんせその資晴も、後継者争いの末とは言え、千本資俊に先々代=伯父の那須高資を騙し討ちされてますから・・・
さらに千本義隆の実家の茂木も誘います。
はじめ茂木家は、この計略に乗り気ではりませんでしたが、大関高増による再三の説得と、成功のあかつきには大谷津(おおやつ=栃木県芳賀郡市貝町大谷津周辺)の地を与えるという条件により、仲間に加わりました。
かくして、使者によってもたらされた
「那須上庄の家臣が謀叛を企てて奥州の白河(しらかわ=福島県白河)に寝返ったので、まずは大関&大田原が現地に向かいますが、その前にもろもろ相談したいので、急ぎ太平寺にお越しください」
との知らせを受けた千本資俊&資政父子は、天正十三年(1585年)12月8日、従者17~8人を連れて千本城を出立したのです。
途中、千本資俊の馬の前を「白狐が横切りつつ、しきりに鳴いた」という事があり、「不吉だ」として資俊は1度引き返そうとしますが、息子の資政が、
「この季節になるとキツネが鳴く事なんてよくあります。これで引き返したら臆病者と言われますよ」
と言って父をなだめた事から、そのまま一同は太平寺への道を急ぎます。
まぁ、那須資晴から、そんな命令が出てるなんで知る由もありませんからね。
やがて到着した太平寺では、僧が出迎え、千本父子の来訪を大いに喜びますが、「内々の密談があるので…」と供の者たちを門外に留め置いて、千本父子を奥の間へと招き入れます。
そして千本資俊が奥に入ろうとしたところを、福原資孝(ふくはらすけたか=那須七騎の一人)が「上意!」と叫びつつ、正面より左の肩先から右胸にかけて斬りつけました。
息子=資政は一礼していたところを大田原綱清が太刀を抜きざまに討ちました。
資政は一太刀で絶命するも、資俊は反撃しようと試みますが、そこを背後から大関高増が斬りつけました。
千本資俊=享年67、千本資政=享年25の生涯でした。
千本父子の叫び声に気づいた従者が、壁を打ち破って寺内に駆け込もうとしますが、そこに大関&大田原&福原の配下の者=数十名が躍り出て、門外にて戦闘状態となりますが、当然、多勢に無勢では勝ち目はなく、一部を除いてほとんどの者が討ち取られてしましました。。。ちなみにかつての一時期、千本義隆を養父となっていた田野辺重之も、この時に討死したと言います。
この出来事を千本城にて聞いた資俊の奥さんは、はじめは自害しようとするものの、家臣によって実家の長倉(ながくら)氏に戻るよう説得され、川上実三(かわかみじつぞう?)なる者を共に連れて逃避するものの、途中で、その川上が荷物やら何やらを持ったまま逃げてしまい、途方に暮れているところ山里の住人に助けられて近くの庵に宿泊させてもらう事ができました。
その時、病に伏せっていた住人の子供に持っていた薬を与えて助けた事から、感謝した住人たちによって無事に実家に送り届けられたのだとか・・・やがて、敗軍の城となった千本城には多くの浪人や百姓たちが押し寄せ、財宝の略奪行為が行われたとの事なので、奥さん無事に実家に戻れて、何よりでしたね。
奥さんを助けたのも名も無き戦国の人々なら、千本城に略奪に入るのも名も無き戦国の人々・・・平時に持つ人間のやさしさと戦時下に持つ狂気、このどちらもが人が本来持つ姿なのだと感じさせられますね。
千本父子の死によって、再び千本義隆が嫡子となって千本城を継ぎ、その領地は千本義隆や大関高増らによって分配されました。
この頃と言えば・・・
西では、織田信長(おだのぶなが)亡き後に勢いをつけた羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が四国を手に入れ(7月26日参照>>)、東は飛騨(ひだ=岐阜県北部)(8月10日参照>>)&越中(えっちゅう=富山県)(8月6日参照>>)にまで手を伸ばした頃・・・
東北では、この半月ほど前にあの伊達政宗(だてまさむね)の人取橋(ひととりばし)の戦い(2007年11月17日参照>>)が展開されていたわけですが、それらに挟まれたこの場所で展開されていた彼らの勢力争いも、やがて天下統一の波に呑まれていく事になります。
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