井伊谷の戦いと徳川家康の今川領・遠江侵攻
永禄十一年(1568年)12月13日、武田信玄と連携して今川領に侵攻する徳川家康が遠江に入りました。
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永禄三年(1560年)、駿河(するが=静岡県東部)と遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領する海道一の弓取り=今川義元(いまがわよしもと)が、尾張(おわり=愛知県西部)の織田信長(おだのぶなが)の奇襲攻撃によって桶狭間(おけはざま)(2007年5月19日参照>>)で倒れた事は、甲斐(かい=山梨県)の武田信玄(たけだしんげん=晴信)にも大きな影響を与えました。
去る天文二十二年(1553年)に相模(さがみ=神奈川県)の北条(ほうじょう)とともに今川との間にも甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=三者による同盟)(3月3日参照>>)を結んでいた信玄は、本来なら、義元の後を継いだ息子の今川氏真(うじざね)を盛り立てていかねばならない立場だったところでしたが、
この桶狭間キッカケで今川からの独立を果たして信長と同盟を結んだ(1月15日参照>>)三河(みかわ=愛知県東部)の徳川家康(とくがわいえやす=松平元康)(2008年5月19日参照>>)が 互いの隣国である遠江を狙い始めた事や、これまで甲斐より北に位置する信濃(しなの=長野県)からさらに北へと侵攻していたものの越後(えちご=新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん)から川中島(8月3日参照>>)で激しい抵抗に遭って阻まれていた事、
などなどで、信玄はここで一気に方向転換・・・今川との同盟の証として義元の娘と結婚していた嫡男=武田義信(よしのぶ)を廃嫡(はいちゃく=後継者から外す事)して幽閉し(10月19日参照>>)、今川の領地へと目を向けたのです。
この信玄の転換を察知した信長は、おそらく義信の次の後継者になるであろう信玄四男の武田勝頼(かつより)に姪っ子の龍勝院(りゅうしょういん)を養女=自分の娘として嫁に出して信玄と友好関係を結んだ後、自身の同盟者である徳川家康と連携しての今川領侵攻をアドバイス・・・
かくして永禄十一年(1568年)12月6日、甲府を出発した武田軍は12日に薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)を越えて駿河へ侵入します(12月12日参照>>)。
そして、その翌日に信玄は、氏真の本拠である今川館(静岡県静岡市葵区)を攻撃(12月13日参照>>)し、氏真はたまらず掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市掛川)へと避難するのですが、この同じ日=永禄十一年(1568年)12月13日、徳川家康は陣座峠(じんざとうげ=愛知県豊橋市と静岡県浜松市の境の峠)を越えて遠江へ侵入したのです。
その日のうちに中宇利(なかうり)小幡(おばた=愛知県新城市・小畑)まで軍を進めたところ、東三河の菅沼定盈(すがぬまさだみつ)なる者が出迎えて道案内を買って出たのです。
実はコレ以前、以前から徳川派だった菅沼定盈の仲介で、家康は菅沼忠久(すがぬまただひさ)・近藤康用(こんどうやすもち)・鈴木重時(すずきしげとき)の3人=後に井伊谷三人衆(いいのやさんにんしゅう)と称される事になる3人を味方につけていて、前日の12月12日の日付にて起請文(きしょうもん=神仏に誓って約束する文書)を提出し、その協力に対するそれなりの恩賞を約束していたのです。
しかし、この時、出迎えたのは菅沼定盈だけ・・・三人衆は来てませんでした。
実は、彼ら三人衆は、家康は海側を通って来ると勘違いしてソチラの道に向かっていたのだとか・・・で、その後、慌てて菅沼定盈は、その日のうちにかの3人を連れて行き、家康に謁見すると、
「この先の道では浜名荘(はまなしょう=静岡県湖西市の白須賀・境宿の付近)の後藤(ごとう)が出てくるかも知れないので備えを怠らぬように」
との家康の言葉に菅沼定盈は、
「ヤツらが兵を挙げても、この定盈一隊で蹴散らせてみせます!」
と大ハリキリ・・・
ただし、ちょっと心配なので牧野康成(まきのやすなり)と松平虎千代(まつだいらとらちよ=後の康長)を浜名荘に残して、徳川本隊は先に進む事にしますが、心配していた後藤らは、むしろ敵対していた仲間らを説得して徳川に属さんと参上・・・菅沼定盈が大喜びで、その事を家康に報告すると、家康は彼らを定盈の配下の属させて、さらに菅沼隊を強化した後、拓植山(つげやま=愛知県新城市黄楊野付近の山)の奥道を通って、すでに家康に通じた僧の拠る方広寺(ほうこうじ=浜松市北区)に向かったと言います。
しかし、上記の通り、彼ら=菅沼定盈や井伊谷三人衆などは徳川についていたものの、この時、彼らの拠り所であった井伊谷城(いいのやじょう=静岡県浜松市北区)は、信玄の駿河侵攻のドサクサで、今川氏真の命を受けた井伊家家老の小野道好(おのみちよし=政次)に占領されてしまっていたため、家康は井伊谷三人衆を井伊谷城へ派遣して井伊谷城を奪還・・・敗北した道好は城を捨てて逃亡しました(翌年処刑されます)。
さらに、この井伊谷城の他にも刑部城(おさかべじょう=静岡県浜松市)や白須賀城(しらすかじょう=静岡県湖西市)などを破竹の勢いで次々と落としていった家康は、12月18日に引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市)に入って(12月20日参照>>)周辺の今川方の武将に調略仕掛けますが、すでに目の当たりにしている徳川方の進撃ぶりや、かの今川氏真の掛川逃避などなどが相まって、もはや周辺の武将は、われ先にと家康に帰属する状況だったとか・・・
翌12月19日、今川から徳川に鞍替えしたばかりの久野宗能(くのうむねよし)に船橋(ふなばし=小舟で造った橋)を架けさせて天竜川を渡った家康は、翌20日、掛川城近くへと迫ります。
その後、信玄との約束通り、掛川城の今川氏真を攻める事になるのですが、これが、なかなかに手間取ったうえに、その和睦条件に憤慨した信玄が、やがては織田&徳川と手切れに至るのですが、そのお話はそれぞれのページで・・・
永禄十二年(1569年)1月18日の
【第2次薩埵峠の戦い】>>
3月27日【気賀堀川城一揆】>>
5月17日【掛川城・攻防戦】>>
7月2日【信玄の大宮城の戦い】>>
と…さらには、例の三方ヶ原へとまだまだ続きますが、これ以降は
戦国・安土の年表>>でどうぞ
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