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2020年1月28日 (火)

藤原兼隆による藤原実資の下女襲撃事件

 

長和三年(1014年)1月28日、藤原兼隆の従者による藤原実資の下女襲撃事件がありました。

・・・・・・・・

藤原兼隆(ふじわらのかねたか)は、第65代花山天皇(かざんてんのう)の時代に関白(かんぱく=成人天皇の補佐役)だった兄=藤原道隆(みちたか)の後を次いで関白に就任した藤原道兼(みちかね)の息子です。

Fuziwarasikeizu3 ←藤原氏略系図(クリックで大きく)

とにもかくにも、自らの力が及ぶ人物を天皇に据えて栄華を誇ろうと、藤原一族同志で画策していた時代・・・

花山天皇の後ろ盾だった藤原伊尹(これただ)が亡くなった時、その花山天皇を半ば騙すように出家させて(2月8日参照>>)、第66代の一条天皇(いちじょうてんのう)にバトンタッチさせた張本人が藤原道兼です。

おかげで、上記の通り、兄の道隆が亡くなった後、見事関白に就任する道兼でしたが、その時はすでに病にかかっていて、わずか数日後に死去・・・よって道兼は「七日関白」なんて呼ばれたりもするのですが・・・

その死を受けて、関白&左大臣が空席のまま、一足飛びに右大臣に昇進して、事実上のトップとなったのが道兼の弟だった藤原道長(みちなが)でしたが、その昇進に不満を持ったのが、道隆の息子で、今回、道長に飛び越えられてしまった内大臣の藤原伊周(これちか)で、しばらくの間、両者の間でモメ事が耐えませんでした。

そんな中、不満ムンムンの伊周派を花山院闘乱事件(1月16日参照>>)をキッカケに失脚させて、有無を言わせぬ藤原氏のトップとなる道長・・・

この時、本日主役の藤原兼隆は、ちゃっかり道長側について伊周と敵対した事で、それ以降、道長の側近としての道を歩む事になります。

おかげで、その後はある程度、順調に出世していくわけですが、やはり主たるラインは道長の血筋なわけで、なんとななく、道長の息子たちに追い越されていく感が拭えない兼隆さん・・・

そんなこんなの長和三年(1014年)1月28日、事件は起こります。

Fuziwaranosanesuke600a 藤原一族の中でも当代一流の学識人として知られる藤原実資(さねすけ)の下女の家宅にやって来た藤原兼隆の従者たちが、いきなり家財を略奪しつくしただけでなく、家屋そのものを破壊したのです。

もちろん、これは下っ端の者が勝手にやったのではなく、藤原兼隆の命令があって従者たちがやった事・・・では、なぜに、そんな暴挙に出たのか?

実は、その少し前・・・
兼隆家の下女が実資家の下女の家の井戸の水を、無断で使用した事に始まります。

自分ちの井戸で勝手に水を汲んでいた兼隆家の下女に対し、
「アンタ、何を勝手に使ってんねん!」
と詰め寄る実資家の下女・・・

井戸端で口論となり、それがつかみ合いのケンカになり・・・と、いかにも女同士のしょーもないケンカだったわけですが、その勢いで、実資家の下女にどつかれ、着物を剥がされた兼隆の下女は泣く泣く自宅へと戻り、当然、この事を兼隆に報告・・・

この状況に
「ワシの私有地で…何て事しくさる!いてまえ~」
と、自分の土地に不当に住んでいる者がいると知った兼隆は激怒し、その実資家の下女を追放するつもりで、従者に徹底的に潰してしまうようにと命令を出したのです。

しかし、それは兼隆の大きな勘違い・・・

実は、その場所は兼隆の土地ではなく、はなから実資の私有地であり、かの下女は、ちゃんと実資に許可を取って、その場所に住んでいたのです。

後々の取り調べや書状のやり取りで、この事実を知った兼隆は、ただただ実資に平謝り・・・

「ウチの下女が殴られたり着物を奪われた事は不問にするし、ソチラの下女の損害は、すべて補償するので、どうか穏便に…」

この兼隆の申し出を受けた実資は、『小右記(しょうゆうき)という自身の日記の中で、
「やたら媚びて、すり寄って来て気持ち悪い」
と一言・・・

なんせ、この兼隆という人は、この前年の8月に、自らに仕える厩舎人(うまやのとねり)を殴り殺した過去があった。。。

厩舎人とは馬の世話係って事ですが、この馬の世話係は、主人が騎馬で外出する時には、その馬を引く係でもあるわけで、身分が低いワリには、意外と、その主人と直に接する機会も多々ある従者です。

おそらくは、何かしらの失態をしたか、あるいは兼隆の気にさわる事をしたのでしょうけど、だからと言って殴り殺す人はなかなかいない・・・もちろん、身分高き王朝貴族ですから、自分が殴ったというよりは、それこそ、他の従者に殴らせたんでしょうが、そんな内輪のモメ事が世間に知れ渡ってしまう事は、貴族としては、かなりカッコ悪いわけで・・・

実資は、その日記の中で続けて
「あの人は、自分の従者に対してもあんなんやから、他人の従者にやったら、どんなヒドイ事をするやワカラン…そもそも嘘つきやし」
と、その印象は、相当悪かったようです。

この時の兼隆は、すでに29歳の男盛り・・・若気の至りでは済まされない、血気盛ん過ぎる性格のようですが、実は彼の息子=藤原兼房(かねふさ)も・・・

この事件の7年後の治安元年(1021年)の12月に清涼殿で行われていた 仏名会(ぶつみようえ=1年間の罪を償い祈る仏教行事)の席で、そばにいた源経定(みなもとのつねさだ)と口論になり、取っ組み合いのケンカから、周囲の者が力づくで引き離すまで、一方的に兼房が経定を殴り倒す という事件を起こしています。

この時は、息子の恥ずい姿に、人目もはばからずおいおいと泣きたおしながら退席して行ったという兼隆さん・・・自身の事を棚に上げた完全に「おまいう」状態ですが、そもそも、そういう血筋&性格の人たちだったのか?

あるいは、平安時代の貴族社会という物が、うっ憤たまりまくりの要素満載だったのかも知れませんね。
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2020年1月27日 (月)

大河ドラマ『麒麟がくる』第2回「道三の罠」を見て

 

2回目で目が慣れて来たのか???
画面の彩度上げすぎより、合戦で太鼓叩いてる人が気になって仕方がない今日この頃ww

大河ドラマ『麒麟がくる』第2回「道三の罠」を拝見させていただきました~

・・・にしても、久々に大人数の合戦シーンをやって下さってありがたいのなんの。

しかも、さすがはNHK様クオリティ!
山城の雰囲気やら土塁やら・・・あんなん造るだけでも相当な諭吉はんが飛んで行ってる物と思われますが、見ていて本当にスゴイ!

ま、さすがに槍の扱い方は「叩く」ではなくセオリー通りの「突く」でしたが・・・

途中、
「えっ?何?光秀、叔父さんと戦ってんの?」
と混乱するも、後でソックリさんだと分かって一安心。。。

叔父さんの治療を優先し過ぎ、医者と看護師の仕事ハード過ぎ、ではあるものの、ここで看護師=(こま)
「戦いは嫌じゃ!」
とか言わないのはウレシイですね~

ここ何年かのファンタジー大河では、何かと言えば、そればっかり・・・てか、これくらい合戦シーンを描いてくれて、死人&ケガ人続出シーンがあってならまだしも、いつぞやアレとかは、それらのシーンをナレーションスルーして「戦いは嫌じゃ!」でしたから、説得力も何もありゃしない。。。そこからの脱却はお見事です。

全体的に、少し、韓国時代劇か中国時代劇のふりかけがかかってるような気がしないでも無いですが、それが「新しい大河ドラマを作っていこう」とのスタッフさんの気合のようにも感じますので、それはそれで良いのかも知れません。

昨日は「加納口の戦い」(9月22日参照>>)が中心でしたが、合戦に負けた信秀さんが
「帰って寝る」
という捨て台詞を言うところなんかも、緊張の中にクスッとする緩和があって良い感じです。

ま、大阪人としては
「風呂入って屁こいて寝る」
やと爆笑でしたが、大河でそれは無理というもの。。。

ブラックな斎藤道三(さいとうどうさん)がお茶で毒殺・・・となると、この先、あの本木さんのお茶CMのおっとり具合がどうなるのか気になりつつも、

その道三と配下の皆々との間に何となく溝があるような雰囲気、そして、予告では、息子の義龍(よしたつ=現在は高政)
「自分の父親は、本当に道三なのか?」
と疑い始めるみたいな流れのようで・・・

これは、あの道三最期の戦いとなる「長良川の戦い」への布石なのでしょうか?
 長良川の戦いについては↓
  ●道三から信長へ~「美濃を譲る」の遺言状>>
  ●道三より大物?義龍の「親から国盗り物語」>>
  ●長良川の戦い~斎藤道三の最期>>

とにもかくにも、これからが楽しみな第2回でした~満足満足(^o^)
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2020年1月23日 (木)

徳川幕府の初期を支えた学者~林羅山の最期

 

明暦三年(1657年)1月23日、徳川幕府初期の4代の将軍に仕えた学者・林羅山が死去しました。

・・・・・・・

林羅山(はやしらざん)は、加賀(かが=石川県南西部)の国の武士の末裔と言われる林信時(のぶとき)の長子として天正十一年(1583年)に京都の四条にて生まれたとされますが、当時、父が病弱で働けず、かなりの貧乏生活だったらしい・・・

Hayasirazan600a そんな中、父がある人から「鐘の銘文を書いてほしい」と頼まれたものの、病気のために思うように事が進んでしなかったところ、見かねた羅山がサラッと書いて見せ、それが見事な銘文だった事で周囲は大いに驚いたのだとか・・・これが羅山7歳の時。

さらに8歳の時は、となりで、とある武士が『太平記』を読むのを聴いていて、すぐさま、そのすべてをそらんじて、
「この子は、1度聞いた物を全部覚えるスゴイ子供だ」
と人々は驚いたのだとか・・・

とは言え、いくら聡明でも貧乏は貧乏・・・あまりの貧乏っぷりに、ほどなく米穀商を営んでいた叔父の吉勝(よしかつ)のもとに養子に出されますが、その後、13歳にて建仁寺(けんにんじ=京都市東山区)に入って仏教を学びます。

しかし僧になる事は無く・・・というより、むしろ仏教を嫌って儒学(じゅがく=孔子の教え)の書を読みふけり、朱子学(しゅしがく=儒教の新体制)に没頭するのです。

さらに独学で勉強を続けていた中、20歳の頃に朱子学の大家=藤原惺窩(ふじわらせいか)に出会い即座に入門・・・与えた知識をどんどん吸収していく羅山の天才ぶりを大いに喜んだ惺窩は、慶長十年(1605年)、二条城(にじょうじょう=京都市中京区)に赴いて羅山を徳川家康(とくがわいえやす)に紹介します。

有名学者の惺窩の紹介という事もあって、家康はすぐに羅山を召し抱え、羅山は23歳の若さで家康のブレーンの一人となったのです。

その後、京都と駿河(するが=静岡県東部)を行き来して、徳川の家臣たちへの朱子学研修に務めるかたわら、例の大坂の陣の発端となった方広寺(ほうこうじ=京都府京都市東山区)の銘文事件(7月21日参照>>)にも関与・・・

豊臣秀頼(とよとみひでより=豊臣秀吉の息子)が寄進した方広寺の鐘の銘文にかかれていた『国家安康』の文字列を「家康の名を分断して呪っている」、同じく『君臣豊楽』の文字列を「豊臣家の繁栄を願う」、という意味だとイチャモンをつけた金地院崇伝(こんちいん すうでん=以心崇伝)南光坊天海(なんこうぼうてんかい)ら両家康ブレーンを後押しするがの如く、羅山も『右僕射源朝臣家康』「家康を射る」という意味だと称しています。

ま、この数年前には、家康の命令によって、嫌っていたはずの僧になって道春(どうしゅん)と号していますので、もはや身も心も徳川ドップリの人になっていたのでしょうね。

と言っても、コレ↑は悪口じゃないですよ~
なんせ家康に雇われて、徳川家のもとで出世していってるわけですから、僧で学者と言えど、徳川家のために&徳川に有利なように行動するのは当たり前の事・・・なんせ、この頃は、まだまだ家康の前に豊臣が立ちはだかってた頃ですから(【関ヶ原~大坂の陣・徳川と豊臣の関係】参照>>)

家康に始まった徳川ドップリは、その後、徳川秀忠(ひでただ)家光(いえみつ)家綱(いえつな)と、4代の将軍に仕えた羅山は、江戸幕府初期の土台造りに大きく貢献していきます。

それは、伝記や歴史書の編さん、古書&古記録の整理にはじまり、『武家諸法度(ぶけしょはっと)(7月7日参照>>)の制定にまで・・・多岐にわたりました。

寛永七年(1630年)には、江戸は上野(うえの=東京都大東区)忍岡に1353坪の土地を与えられ、そこで私塾と文庫と孔子廟を設けて、朱子学の発展と後進の育成に尽力しました。

この私塾は、後に昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ=湯島聖堂)と呼ばれる江戸幕府直轄の教学施設に発展しています。

晩年になっても年間700冊の本を読んで勉学に励んでいたと言われる羅山・・・そんな本の虫だった羅山は、最後の最後に、その命を縮める大きな出来事に遭遇します。

明暦三年(1657年)1月18日に起こったあの明暦の大火です。
【げに恐ろしきは振袖火事】>>
【江戸都市伝説~明暦の大火の謎】>>

三日三晩燃え続け、江戸の町を焦土と化したこの火事で、羅山は自身の邸宅と書庫を焼失してしまいます。

この時、蔵書の中で残ったのは、慌てて手に持って逃げた1冊だけだったとか・・・これに相当なショックを受けたであろう羅山は、火事の4日後の明暦三年(1657年)1月23日75歳にして、この世を去りました。

ところで・・・
羅山に関して、こんな話が残っています。 

ある時、羅山が史記(しき)『樊噲伝(はんかいでん=前漢時代の中国の武将の伝記)について講義をしていると、そばで聞いていた彦根2代藩主の井伊直孝(いいなおたか=井伊直政の息子)が、こんな事を言いました。

樊噲(はんかい)はスゴイ武将で真っ先に弓矢をかいくぐり敵陣に攻めて行ったと言いますが、敵陣に突っ込む勇気なら、僕も負けてません」
と・・・

すると羅山は
「樊噲は卑しい身分の出身ですから、血筋においても、あなた様の方が勝っているでしょうね。
けど、合戦で真っ先に突っ込んでいくのは、むしろ下っ端がやる事で、彼が讃えられるのは、そんな事ではありません。

合戦で活躍するのも武勇ですが、それは武士なら当たり前…樊噲がスゴイのは、例え相手が主君であっても、堂々と諫言(かんげん=目上の人の過失などを指摘して忠告すること)した事です。

敵ばかりではなく、内側も、そして自らの事もじっくりと考えなければなりません。
どうですか?あなたには、それができていますか?」
と答えたのです。

実は、この頃、周囲のあまりのイエスマンぶりに嫌気がさした徳川家光が、病気と称して諸大名に会う事を避けていた事を受けての助言だったとか・・・もちろん、井伊直孝は、心にズシーンと来て、自らの軽さを恥じ、大いに反省したのです。

『常山紀談』によると、この言葉は、世間では「羅山一生の格言」と称されているのだそうです。

人生の最後に失意に見舞われた羅山でしたが、その生涯は、自らの知識と知恵をおしみなく徳川に捧げた有意義な一生だった事でしょう。
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2020年1月20日 (月)

色鮮やかな「麒麟がくる」始まりました!

いやはや、始まりましたね~大河ドラマ「麒麟がくる」

とにかく色鮮やか!

空は青く、田んぼは緑・・・あぜ道の雑草でさえ見事な色。。。

農民は色とりどりの着物を着て、野盗軍団までオシャレ満載!

あっちもこっちも明るい明るい!

なんせ、以前の「平清盛」みたいにリアルに迫ると、どこぞのエライさんから、「暗い」だの「汚い」だの「埃っぽい」だの言われるご時世ですから、茶々的には、これくらい明るいのもアリだと思います。
(注:個人的には「平清盛は良かった」と思ってる派です

若い頃の明智光秀(あきちみつひで)の事は、未だほとんどわかってないですから、ここらあたりはほぼほぼ架空の話ですが、思ってたほど荒唐無稽ではなく、良い意味で予想を逸脱する事もない物語に仕上がってましたね。

まぁ、物語と言っても、第1回は光秀の京都&堺への旅を通じて、「今回の(麒麟がくるでの)戦国時代はこんな感じですよ~」ってな、世界観というか背景というかの紹介みないな感じでしたから、第1回を見ただけでは、感想を言えるような物ではありませんが、それはそれで、歴史に興味のない方が視聴してもわかりやすい造りだと思います。

(史実はともかく)盛大なる爆死をしてほしい松永久秀(まつながひさひで)のキャラもステキでしたし、話題の濃姫(のうひめ)もチョロッと出て来ただけですが、力入ってんのがわかる緊張感が初々しくて良かったです。

ドラマオリジナルの架空の人物である望月東庵(もちづきとうあん)は、やはり曲直瀬道三(まなせどうさん=正盛)(1月4日参照>>)がモデルなんだろうなぁ~と思うくらいキャラ設定が一致してますが、おそらくは、この先のドラマの中で、かなり光秀に接触して影響を与える人物になる予定なんでしょうねぇ~←なので実在の人物である曲直瀬道三にしてしまうと、創作が入りすぎの曲直瀬道三やりたい放題になってしまうので、そこは架空の人物で…って事なのでしょうが、ここんトコの大河は、実在の人物である主人公がやりたい放題過ぎる気がしていたので、そこは、それで良いのだと思います。

とにもかくにも、脚本家さんが、あの「太平記」の方だと聞いて、密かに期待していた茶々としては、非常に満足した第1回でありました。

予告を見る限りでは、来週からは信長父ちゃんの織田信秀(おだのぶひで)斎藤道三(さいとうどうさん)の戦い、さらに今川義元(いまがわよしもと)や家康父ちゃんの松平広忠(まつだいらひろただ)やらとの戦いが描かれるのかな?

★織田信秀関連ページ
●【井ノ口の戦い】>>
●【加納口の戦い】>>
●【第2次小豆坂の戦い】>>

とにかく、戦国時代好きの私としては、楽しみな1年になりそうです。
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2020年1月16日 (木)

長徳の変~関白家没落のキッカケ花山院闘乱事件

 

長徳二年(996年)1月16日、藤原伊周が花山法皇に矢を射かけた花山院闘乱事件が発覚し、伊周&隆家兄弟が没落する長徳の変となりました。

・・・・・・・

長徳二年(996年)1月16日、その日の勤務を終え、内裏から自宅へともどったばかりの藤原実資(ふじわらのさねすけ)のもとに、右大臣の藤原道長(みちなが)から緊急速報が送られて来ます。

あわてて書状を読む実資は、その内容に驚き、わなわなと手が震えます。

その内容は…
「故・太政大臣藤原為光(ためみつ)の邸宅にて遭遇した花山法皇(かざんほうおう=第65代花山天皇・天皇を退いて出家してるので法皇)と、藤原伊周(これちか)&その弟ご一行が闘乱(とうらん)となり、花山法皇に仕える二人の童子が殺害されて、その首を持ち去られたと聞きました」
という物でした。

平安時代の王朝貴族の言う「闘乱」とは、要は単なるケンカ・・・ただし、一対一ではなく従者を含めた集団乱闘の事です。

平安の王朝貴族と聞けばいかにもおだやかで雅な世界を想像してしまいますが、意外に上記のようなモメ事は多くあり、集団乱闘事件自体は、さほど珍しい事では無かったのですが、ただ、その当事者が前天皇と現内大臣という大物同志だった事は、やはり捨て置けません。

Fusiwaranokoretika500a 左大臣が欠員となっていた当時、朝廷のトップである右大臣は藤原道長・・・内大臣の藤原伊周は、その次=朝廷のナンバー2という事になります。

そのナンバー2が弟である中納言の藤原隆家(たかいえ)とともに、かつて天皇であったやんごとなきお方に・・・しかも従者二人の首を取って持ち帰ったって事ですから、これが問題にならないはずはありません。

それでも、集団乱闘だけなら、(上記の通り結構ある事なので…)何とか収まりそうな雰囲気でしたが、その乱闘の原因のなったそもそもの伊周&隆家兄弟の最初の行為が嵐を呼ぶのです。

そもそも今回の乱闘事件・・・起こった場所は、先に書いた通り藤原為光という人のお屋敷です。

実は藤原伊周は、この藤原為光の屋敷に住む三女のもとに夜な夜な通って・・・つまり、ここの三女さんが、伊周のカノジョだったわけですが、いつのほどからか、その同じ屋敷に花山法皇も通い始めている事が噂になっていました。

花山法皇はかなりのプレイボーイとの噂・・・
「こらいかん!カノジョ取られるやん」
と焦った伊周が弟を誘って屋敷で待ち伏せ・・・やって来た花山天皇に、伊周&隆家兄弟の従者が矢を射かけたのです。

もちろん、伊周&隆家だって、本気で花山法皇を射殺しようなんて気は毛頭ありません。

あくまで脅し&威嚇のつもりだったのですが、放たれた矢は、偶然にも花山法皇の着衣を貫き、あわや、その身体を傷つけかねない、ある意味正確に放たれ過ぎちゃってたんです。

よく、主君を裏切る事や反旗をひるがえす事を「弓を引く」と言いますが、文字通り、今回は「弓を引いちゃった」わけで、これは大逆罪に問われても仕方のない行為です。

そして、この矢を射かけた事をキッカケに両者は乱闘となったわけです。

とは言え、実は、この一件を表沙汰にしたくなかった人が・・・

それは伊周でも隆家でもなく、矢を放たれた側の花山法皇でした。

ぞもぞも、花山法皇がこの藤原為光の屋敷に通っていたお目当ては、実は伊周のカノジョである三女ではなく、その妹の四女=藤原儼子(たけこ)に会うため・・・つまりは伊周が「カノジョ取られる~」と思ったのは完全なる勘違いだったわけですが、別人&誤解だったとは言え、花山法皇が女の子の家に通っていた事は事実なわけで・・・

花山法皇としては、法皇=出家している身で若い愛人宅へ夜な夜な通ってる事は、あまり他人に知られたく無い事だったわけです。

なので被害者である花山法皇も、自身が無事だった事もあって、この件に関しては固く口をつぐんでいて、大ごとにはならないようにしていたのです。

しかし、これを表沙汰にしたのが、かの藤原道長・・・このスキャンダルを見逃さず、ライバル失脚に利用したのです。

Fuziwarasikeizu2 ←藤原氏略系図(クリックで大きく)

実は、この事件の前年に亡くなった伊周の父=藤原道隆(みちたか)は道長の兄・・・

つまり道長と伊周&隆家兄弟は叔父と甥っこの関係になるわけですが、時の権力者=関白(かんぱく=天皇を補佐する官職)であった生前の道隆は、我が子=伊周を自らの後継者にしようと必死のパッチで出世街道を歩ませ、半ば強引に官位を引き上げてのゴリ押し状態に、周囲も眉をひそめる状況だったのです。

なので、長徳元年(995年)4月10日に道隆が病死した後に、すんなりと伊周が後継者に・・・とはいかず、半月ほどの関白不在の期間を経た4月27日に関白に就任したのは道隆の異母弟である藤原道兼(みちかね)でした。

しかし、その道兼は、この時すでに疫病にかかっていて、就任後わずか7日目に死去・・・

で、道兼の弟である道長と、道隆の息子である伊周との間で関白の後継を巡っての争いが勃発していたわけです。(7月24日参照>>)

その結果・・・翌月の5月に道長に宣旨(せんじ=天皇の命令文書)が下り、道長が内大臣の伊周を飛び越えて右大臣に昇進し、氏長者(うじのちょうじゃ=藤原氏のトップ)も獲得したのでした。

つまり、後継者争いは道長の勝利となっていたのです。

しかし、当然、納得いかない伊周・・・この夏頃には、会議の席で不満をぶちまけて激しい口論となったり、都大路で遭遇した両者の従者同志で乱闘騒ぎになった事もありました。

そんな中で起こったのが、今回の花山院闘乱事件だったわけです。

関係者がひた隠しにしていたこの事件を知った道長は、チャンスとばかりにこれを公にし、一条天皇(いちじょうてんのう=第66代)の命を受けた検非違使(けびいし=治安維持・検察)伊周&隆家兄弟の罪状を固めるべく、本格的な捜査を開始したのです。

家宅捜索によって複数の私兵を雇っていたいた事がバレたり、いつの間にか、一条天皇の母親を呪詛(じゅそ=呪いをかける事)していた罪もプラスされ、結局、伊周に連なる面々が、ことごとく処分されました。

伊周は大宰府(だざいふ=福岡県太宰府市)に、隆家は出雲(いずも=島根県東部)に左遷・・・後に許されて都に戻り、「道長暗殺計画」なんぞ企てる伊周派たちでしたが、結局、再び政治的に浮かび上がる事は無く、ご存知の藤原道長の単独トップ全盛時代へと向かっていく事になります(12月4日参照>>)

この一連の政変は長徳の変(ちょうとくのへん)と呼ばれます。

トップからのいきなりの転落・・・そもそもは法皇に矢を放っちゃった以上、自業自得なんでしょうが、その高低差にに耳キーンとなる出来事でした。
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2020年1月11日 (土)

若き徳川家康の試練~三河一向一揆・上和田の戦い

 

永禄七年(1564年)1月11日、三河一向一揆の中で最も激しい戦いとなった上和田の戦いがありました。

・・・・・・・

戦国の群雄割拠の中で領国=三河(みかわ=愛知県東部)を守ろうと、隣国の駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領する大物=今川義元(いまがわよしもと)の力を借りるべく、父=松平広忠(まつだいらひろただ)が未だ6歳の息子=竹千代(たけちよ)今川への人質に出したのは天文十六年(1547年)の事でした(8月2日参照>>)

今川に送られるはずが、家臣の裏切りによって、今川と敵対する尾張(おわり=愛知県西部)織田信秀(おだのぶひで)のもとに送られて、そこで人質生活を送る事になる竹千代=徳川家康(とくがわいえやす=と名乗るのはもっと後ですが、ややこしいのでここから家康さんと呼びます)は、その間に父を内紛で失いながら(3月6日参照>>)も、天文十八年(1549年)11月の安祥城(あんじょうじょう=愛知県安城市安城町)の戦い後の人質交換(11月6日参照>>)で本来の今川の人質となります。
(一旦決行される織田への人質については、奪われたのではなく松平広忠の織田への降伏の証だった説もあります)

とにもかくにも、今川義元のもとでのその後の家康は、義元の姪である瀬名姫(せなひめ=後の築山殿)(8月29日参照>>)を娶り、永禄元年(1558年)2月の寺部城(てらべじょう=愛知県豊田市)の戦い(2月5日参照>>)で初陣を飾る今川配下の武将として成長します。

しかし、その2年後の永禄三年(1560年)5月に起こった桶狭間(おけはざま)の戦い(2015年5月19日参照>>)・・・ご存知のように、もはや天下に手が届きそうな海道一の弓取り=今川義元が、未だ尾張の一武将でしかなかった織田信長(おだのぶなが=信秀の息子)に首を取られて、戦国の人物相関図が大きく変わる戦いとなったわけですが、この戦いで、家康の立ち位置も大きく変わります

本来は、三河を領する松平家の本拠だった岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)ですが、現段階で家康が今川配下となっている以上、この桶狭間の時は今川方の兵が守っていたものの、回の義元の討死で守りの兵が逃げ出した事によってカラッポになっており、それを知った家康がすかさず岡崎城へと入って三河の領主として独立を果たしたのです(2008年5月19日参照>>)

しかも、その2年後には尾張の織田信長と同盟を結ぶ(1月15日参照>>)・・・つまり、完全に今川の敵に回ったわけです。

Tokugawaieyasu600 そんな、自立したばかりの家康の前に、大きな試練として降って来たのが、三河一向一揆(みかわいっこういっき)・・・と言っても、後に、織田信長と本願寺顕如(けんにょ)(11月24日参照>>)が10年に渡ってドンパチやる石山合戦(8月2日参照>>)を中心にしたあの一向一揆とは少し赴きが違います。

上記の通り、家康は半ばドサクサ紛れて祖父&父の旧領である三河を回復しましたが、誕生したばかりの家康政権が、それを維持していくためには敵対勢力に負けない備えが必要になるわけで・・・そのためには富国強兵=当然、きびしい年貢と兵役が農民たちに課せられる事になり、これまで今川の支配下地元民は
「こんなんやったら、今川のままの方が良かったやん」
てなるわけです。

もちろん、不満を持つのは農民だけでなく、徳川の家臣の中にも不満の種はあるわけで・・・そこに、やはり不満を持つ浄土真宗本願寺派の三河三ヶ寺(本證寺・上宮寺・勝鬘寺)の寺勢力が加わり、くすぶり続けていた火が一気に燃え上がったという感じです。

なので、約半年に渡る大きな戦いであったにも関わらず、その発端となった出来事がよくわかっていません。

徳川の家臣が、罪人を匿ってるとして本證寺(ほんしょうじ=愛知県安城市野寺町)内にズケズケ入って行ったとか、同じく徳川の家臣が兵糧米をよこせと上宮寺(じょうぐうじ=岡崎市上佐々木町)を襲撃したとか、同じく徳川家臣が上宮寺に勝手に砦を作ろうとしたとか、いずれも、平時ではない戦国時代なら日常茶飯事な出来事をキッカケに、一気に燃え上がったようです。

なので、一揆の発生時期や戦いの詳細等は多くの異説&異論があるところで、重税を課せられた農民と、今川支配時代には保護されていたのに家康になって敵対して来た事に不満の本願寺派、さらに、これを機に、なんなら家康を倒して三河を支配してやろうと考える武将たちが団結して・・・という部分にも、彼らはいわゆる一揆=一味同心ではなく、一向宗派と武将派に分かれていたとも言われます。

そんな中、おそらくは永禄六年(1563年)6月前後から始まった三河一向一揆は、家康が本格的に鎮圧に乗り出した事で、永禄六年(1563年)9月には、砦を落とされた夏目吉信(なつめよしのぶ)らが投降し(9月5日参照>>)、翌月の10月には小豆坂(あずきざか=岡崎市戸崎・羽根町)でも大きな戦闘となる中、いずれも家康が勝利たものの、一揆が収まる事ない中で年を越します。

かくして永禄七年(1564年)1月11日、この三河一向一揆で、最も激しい戦いとなった上和田の戦いが展開されます。

大久保一族が守っていた上和田(かみわだ)の砦を、針崎(はりさき=愛知県岡崎市針崎周辺)・ 土呂(とろ=同岡崎市福岡町周辺)野寺(のでら=同安城市野寺町付近)の一揆衆が襲撃したのです。

戦いは激烈を極め、あわや落城という時に、家康自身が兵を率いて救援に駆け付け、なんとか維持・・・翌12日と、さらに13日と、戦いは3日間に渡って激戦が繰り広げられ、家康も2発の銃弾を受けました。

たまたま具足の分厚い部分に弾が当たったおかげで、幸いにも家康が負傷する事はありませんでしたが、どんだけスゴイ戦いだったのかはうかがえます。

とは言え、戦いの激しさはここがピークで、同13日に上宮寺の一揆衆が岡崎城に攻撃を仕掛けたのを最後に、戦いは終息の兆しを見せ始めます。

なんせ、家康自身が戦場に出て来るとなると、家臣の中に「殿様に弓引いてる感」を実感する者が多数出てきてしまって「さすがにそこまでは…」とちゅうちょする者が多くいたわけで・・・

もちろん、さすがの家康ですから、水面下での説得も続けていたわけですし・・・で、結局、2月28日頃までには、ほとんどか鎮圧されてしまったのだとか・・・

最後に、敵対した寺院との和睦交渉にて、家康は、
「寺院はもとのままに…」
と約束をしたそうですが、結局、事がすべて治まった後には、ド~ンと一向宗寺院を破却する家康さん・・・

「えぇ?なんで?」
と訴える僧たちに、
「もとのままに…というのは、もとの原野に戻すっちゅー事ですわ」
と言ったとか言わなかったとかwww

後のタヌキっぷりを彷彿とさせるエピソードですが、おおまかな計算で、家臣の半数ほどが一揆側に加担した?と言われる今回の三河一向一揆・・・この時、独立大名の道を走り始めたばかりの家康にとっては、何が何でも、どんな手を使っても鎮圧せねばならない重要な戦いだったという事ですね。

さらに、う~んと後の最終段階では、石山合戦後のゴタゴタを利用して、その勢力を二つにわけて宗教に専念してもらう事で政治への介入を防いだ(1月19日「東西・二つの本願寺」参照>>)手法は、やはり、この若き時の一揆の怖さを身に染みて感じていたからなのでしょうね。
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2020年1月 4日 (土)

目の前の命を救う~戦国の名医・曲直瀬道三

 

文禄三年(1594年)1月4日、戦国の名医で当代第一の文化人でもあった曲直瀬道三が病死しました。

・・・・・・・

これまで、このブログでも、そのお名前だけがチョイチョイ登場している曲直瀬道三(まなせどうさん=正盛)

  • 天正五年(1577年)、丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部)丹後(たんご=京都府北部) 平定に、プラス石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)との天王寺合戦(5月3日参照>>)やら、雑賀(さいか・さいが)の陣(3月15日参照>>)やら、松永久秀(まつながひさひで)謀反(10月3日参照>>)やらで忙し過ぎの明智光秀(あけちみつひで)が体調を崩して曲直瀬道三の治療を受けて回復した(10月29日参照>>)とか、
  • 天正十二年(1584年)、病をおして合戦に出陣していた筒井順慶(つついじゅんけい)曲直瀬道三の治療を受けるため京都を訪れた(8月11日参照>>)とか、
  • 後に豊臣秀吉(とよとみひでよし)の主治医として福祉に活躍する施薬院全宗(やくいんぜんそう)が、寺を出てまず医学の教えを請うたのが曲直瀬道三だった(12月10日参照>>)とか、

そう・・・曲直瀬道三は戦国時代のお医者さん。
それも天下の名医と呼ばれた人なのです。

近江源氏(おうみげんじ)の流れを汲む佐々木氏(ささきし)庶流の父と多賀氏(たがし)の母との間に永正四年(1507年)に生まれたという曲直瀬道三ですが、自身の出産で母を亡くし、そのすぐ後に父も戦死してしまったため、叔母に育てられたのち、幼くして出生地である滋賀県守山市(もりやまし)の寺に入ったと言います。

Manasedousan590as その後、13歳の時に京都の相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)に入って修行したのち、二十歳を過ぎた頃に関東に下って足利学校(あしかががっこう=栃木県足利市)で学びますが、ここで、すでに関東にて名医の誉れ高かった田代三喜斎(たしろさんきさい)に出合って医学の道に進む事を決意・・・三喜斎から李朱医学(りしゅいがく)を学びます。

李朱医学とは、
病気になった時、発汗や嘔吐を則したり、あるいは下剤等を使って「とにかく体の中にある悪い物を出す」という考え方だったこれまでの治療法とは一線を画す、栄養補給を中心とした体内環境の改善を目的とした治療法で、それを中国で学んで来た第一人者が田代三喜斎だったのです。

三喜斎のもとで10数年学んで、その奥義を取得した道三は、関東を出る気が無かった三喜斎に別れを告げ、自身は天文十五年(1546年)京都へと戻り、ここで還俗(げんぞく=僧を辞めて一般人に戻る事)して本格的に医師に専念する事になりますが、その噂は瞬く間に広まり、やがて道三宅の門の前には治療してもらいたい人々が群れをなして訪れるようになったのだとか・・・

そんな時、未だ坂本(さかもと=滋賀県大津市)に避難中だった若き将軍=足利義輝(あしかがよしてる=第13代室町幕府将軍:当時は義藤)の病をたちまちに治した事から、さらに評判に・・・

しかも、その後に義輝が、時の権力者=細川晴元(ほそかわはるもと)と和睦した事から、その晴元や、家臣の三好長慶(みよしながよし)など、今をときめく武将らをも診察する有名医師となります。
(この頃の晴元や三好長慶について嵯峨の戦い参照>>)

特に、三好長慶の家臣の松永久秀(まつながひさひで)とは、中国の書をヒントに道三自らが記した夜のマニュアル本=『黄素妙論(こうそみょうろん)を伝授するほどの仲だったとか・・・
(久秀がコッソリ読んで「なるほど…欲望にまかせた自分本位のHはアカンのか~」とか考えてる所を想像すると笑てしまう(#^o^#))

もちろん、後進の育成も怠る事なく・・・京都に啓迪院(けいてきいん=京都府京都市上京区上長者町付近)なる学校を創建して800人とも3000人とも言われる門徒に医学を教えたのです。

永禄五年(1562年)には、将軍=義輝から、ただいま絶賛戦闘中↓
(石見銀山争奪戦参照>>)
(白鹿城攻防戦参照>>)
安芸(あき=広島県)毛利(もうり)出雲(いずも=島根県)尼子(あまご)の仲を調停させるべく命を受けて中国地方へと下向・・・その時、病気療養中だった毛利元就(もうりもとなり)の治療をするかたわら、その元就にも、敵対する尼子義久(あまごよしひさ)にも粘り強く和睦を働きかけます。

ただ、ご存知のように毛利×尼子の戦闘は収まる事無く、結局、尼子の本拠=月山富田城(がっさんとだじょう=島根県安来市広瀬町)は毛利によって落とされるので(11月28日参照>>)、和睦に関してはかたくなな姿勢を崩さなかった元就ではありましたが、一方で道三の安芸滞在中には、彼に対してかなり気を使い、様々な便宜を図っていた様子もうかがえますので、和睦交渉人としての成果は薄かったものの、病気の治療の方はウマくいったようで、この間に道三は、門弟たちに語った療法をまとめた『雲陣夜話(うんじんやわ)を残しています。

また、天正二年(1574年)には自らが記した8巻にわたる医学書『啓迪集(けいてきしゅう)正親町天皇(おおぎまちてんのう=第106代)に献上するとともに、天皇を診察します。

さらに、あの織田信長(おだのぶなが)が上洛した(9月7日参照>>)後には、その信長も診察し、喜んだ信長から蘭奢待(らんじゃたい=東大寺の香木)(3月28日参照>>)もプレゼントされたとか・・・

天正十二年(1584年)にはイエズス会宣教師オルガンティノを診察して洗礼を受けたり、天正二十年(1592年)には第107代・後陽成天皇(ごようぜいてんのう)から、(たちばな)の姓を賜ったり・・・と、まさに、ここに医師の頂点を極めり!!

こうして、時の権力者とのつながりも持った道三でしたが、一方で、彼が権力者の力を頼る事はありませんでした。

冒頭にも書いた、道三の弟子である施薬院全宗は、その紹介ページにも書かせていただいたように、時の権力者である豊臣秀吉の力をフル活用して医師の道を究めました(再び12月10日参照>>)

もちろん、私個人としては、それも悪い事では無いと思っています・・・なんせ、福祉にはお金がかかりますから。

薬を手配するにも、従事する人手を集めるにも、第一、施設の建設費や設備費もハンパ無いですから、そこの部分を権力者に頼りながら、自身の理想を叶えていくやり方も、一つの方法だと考えます。

ただ、道三は、それをせず、あくまで在野の一医師としての道を選び、数多くの著書を残し、後進の育成と、今、目の前にいる一つの命を救う事に理想を求めたのです。

文禄三年(1594年2月23日)1月4日 、長男をすでに亡くしていた道三は、娘婿の玄朔(げんさく)を養子に向かえ、2代目曲直瀬道三を名乗らせてバトンタッチ・・・静かに89年の生涯を閉じました。

その後も、かの施薬院全宗を頂点としつつ、曲直瀬玄朔を含めた曲直瀬一門の医療体制が確立されていき、日本の医療界を主導していく事となります。
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2020年1月 1日 (水)

新年のごあいさつ…そして今年は「麒麟がくる」

 

新年 明けましておめでとうございます

2020coco

今年も、歴史のあんな事、こんな事、
色々と楽しんでいきましょう!

ところで…
今年の大河ドラマ「麒麟がくる」

私も、かなり昔からの大河ドラマファンですが、やはり大好きな戦国時代の一年だとウレシさ倍増です。

題名にある「麒麟」は、ご存知のように動物園にいるあのキリンではなく、中国の神話に登場する想像上の生き物・・・いわゆる霊獣(れいじゅう)とされる麒麟(きりん)ですね。

霊獣は瑞獣(ずいじゅう)とも言われ、この世に存在するありとあらゆる動物たちのご先祖、あるいは、その種の根源であり長であるとされ、瑞兆(ずいちょう=良い事が起こる前兆・吉兆)=つまり、良い事が起こる時に姿を現すとされています。

霊獣の中でも、四霊(しれい=あるいは四神)に含まれる4種の瑞獣は特別視されていて、麒麟は、その4種の中に入っています。

4種の中で、最もよく知られているのが(りゅう=応竜)・・・日本でも多くの伝説や昔話に登場し、竜神伝説など恵みの雨をもたらす神獣としても知られていますが、中国では徳のある皇帝のシンボルとされ、建物や絵画等にも多く用いられています。

一方、徳のある皇后のシンボルに用いられるのが鳳凰(ほうおう)・・・クジャクのような鳥の姿で、雄が「鳳(ほう)、雌が「凰(おう)なので、つまりは鳳凰と言えば雄雌一対の事を指しますので「皇帝の龍に対する皇后の鳳凰」とされる一方で、鳳凰だけでも徳の高い王者の出現を指す場合もあるようです。

次に霊亀(れいき)・・・字でお察しの通り、霊的な亀の事で、仙人が住むとされる蓬莱山(ほうらいざん)を背負う姿である事から、長寿を表すとともに、治水に長けた帝王の出現を現しているとされます。

そして麒麟・・・あらゆる獣の長であり、仁の心を持つ君主が出現する時に姿を現すとされ、一方で、殺生を嫌いどんな生命も傷つけない。。。移動する時には小さなアリも避けて通るのだとか・・・

大河ドラマの麒麟は、この「仁の心を持つ君主」「殺生を嫌う」あたりから発展した「麒麟がくる」なのでしょうね。

瑞獣には、四霊のほかにも、
平安な世に現れる霊鳥=(らん)
善悪を冷静に判断できる優れた審判者が現れる前兆で羊に似た一角獣の獬豸(かいち)
王の守り神でありながら、その王に徳が無いと見るや革命を起こすという九尾の狐(きゅうびのきつね)
などがあります。

・・・で、ここまで書いててお察しの通り、私個人的に抱く明智光秀(あけちみつひで)という人のイメージは、麒麟というよりは九尾の狐のなのですが、「九尾の狐がくる」では、リズムが合わないし、なんか化けて騙されそうでコワイww

ただ、公式サイトによると麒麟出現の対象者が光秀とは決まってない(←メイン画面の長谷川博巳さんの後ろに麒麟おるけどね)みたいですが、なんだかんだで主役なんですから、主役の特権を満載しつつ、「仁の心を持つ」と「殺生を嫌う」のイメージで、ダイナミックに麒麟がやって来る所を描いていただきたと思っています。

またもや信長さんが殺生しまくりの悪人に描かれそうですが、そこンとこはドラマなので「是非に及ばず」。。。ホント楽しみにしてます。

ちなみに、おそらくは序盤あたりで放送されるであろう明智城(あけちじょう=岐阜県可児市)の落城については【光安の自刃で明智城落城~明智光秀は脱出?】>>で、

それ以外の明智光秀の関連ページは、
 ●将軍・足利義昭擁立で初登場!謎の明智光秀
 ●信長上洛後…本圀寺の変と桂川の戦い
 ●明智光秀の丹波攻略・前半戦~籾井城の戦い
 ●織田信長軍による福知山攻略戦
 ●八上城攻防戦は光秀の謀反のきっかけとなったか?
 ●「丹波の赤鬼」赤井直正と明智光秀の黒井城・攻略
 ●明智光秀の丹波攻略~和藤合戦と山家城の戦い
 ●明智光秀と丹波・福知山の明智藪
 ●愛宕山での連歌会の句は本能寺の意思表明か?
 ●天正十年6月1日~本能寺・前夜
 ●本能寺の変~『信長公記』より
 ●本能寺~その日の安土城と留守役・蒲生賢秀
 ●本能寺の変~数時間のタイム・ラグを埋める物は?
 ●本能寺の変~家康、暗殺計画説
 ●明智光秀と細川幽斎~二人の別れ道
 ●洞ヶ峠を決め込んだのは明智光秀
 ●古文書の虚偽と真実~これぞ歴史の醍醐味!
 ●明智光秀と斉藤利三と長宗我部元親と…
 ●天下分け目の天王山!山崎の合戦
 ●黒衣の宰相・天海=明智光秀説
 ●光秀の手紙の原本発見(2017年ニュース)
 ●本能寺へのルート?明智越(史跡巡り)
 ●戦国・安土の年表
などからご覧いただければ幸いです。

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文末になりましたが、
昨年同様、本年もよろしくお願い致します。
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