目の前の命を救う~戦国の名医・曲直瀬道三
文禄三年(1594年)1月4日、戦国の名医で当代第一の文化人でもあった曲直瀬道三が病死しました。
・・・・・・・
これまで、このブログでも、そのお名前だけがチョイチョイ登場している曲直瀬道三(まなせどうさん=正盛)。
- 天正五年(1577年)、丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部)・丹後(たんご=京都府北部)の 平定に、プラス石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)との天王寺合戦(5月3日参照>>)やら、雑賀(さいか・さいが)の陣(3月15日参照>>)やら、松永久秀(まつながひさひで)の謀反(10月3日参照>>)やらで忙し過ぎの明智光秀(あけちみつひで)が体調を崩して曲直瀬道三の治療を受けて回復した(10月29日参照>>)とか、
- 天正十二年(1584年)、病をおして合戦に出陣していた筒井順慶(つついじゅんけい)が曲直瀬道三の治療を受けるため京都を訪れた(8月11日参照>>)とか、
- 後に豊臣秀吉(とよとみひでよし)の主治医として福祉に活躍する施薬院全宗(やくいんぜんそう)が、寺を出てまず医学の教えを請うたのが曲直瀬道三だった(12月10日参照>>)とか、
そう・・・曲直瀬道三は戦国時代のお医者さん。
それも天下の名医と呼ばれた人なのです。
近江源氏(おうみげんじ)の流れを汲む佐々木氏(ささきし)庶流の父と多賀氏(たがし)の母との間に永正四年(1507年)に生まれたという曲直瀬道三ですが、自身の出産で母を亡くし、そのすぐ後に父も戦死してしまったため、叔母に育てられたのち、幼くして出生地である滋賀県守山市(もりやまし)の寺に入ったと言います。
その後、13歳の時に京都の相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)に入って修行したのち、二十歳を過ぎた頃に関東に下って足利学校(あしかががっこう=栃木県足利市)で学びますが、ここで、すでに関東にて名医の誉れ高かった田代三喜斎(たしろさんきさい)に出合って医学の道に進む事を決意・・・三喜斎から李朱医学(りしゅいがく)を学びます。
李朱医学とは、
病気になった時、発汗や嘔吐を則したり、あるいは下剤等を使って「とにかく体の中にある悪い物を出す」という考え方だったこれまでの治療法とは一線を画す、栄養補給を中心とした体内環境の改善を目的とした治療法で、それを中国で学んで来た第一人者が田代三喜斎だったのです。
三喜斎のもとで10数年学んで、その奥義を取得した道三は、関東を出る気が無かった三喜斎に別れを告げ、自身は天文十五年(1546年)京都へと戻り、ここで還俗(げんぞく=僧を辞めて一般人に戻る事)して本格的に医師に専念する事になりますが、その噂は瞬く間に広まり、やがて道三宅の門の前には治療してもらいたい人々が群れをなして訪れるようになったのだとか・・・
そんな時、未だ坂本(さかもと=滋賀県大津市)に避難中だった若き将軍=足利義輝(あしかがよしてる=第13代室町幕府将軍:当時は義藤)の病をたちまちに治した事から、さらに評判に・・・
しかも、その後に義輝が、時の権力者=細川晴元(ほそかわはるもと)と和睦した事から、その晴元や、家臣の三好長慶(みよしながよし)など、今をときめく武将らをも診察する有名医師となります。
(この頃の晴元や三好長慶について嵯峨の戦い参照>>)
特に、三好長慶の家臣の松永久秀(まつながひさひで)とは、中国の書をヒントに道三自らが記した夜のマニュアル本=『黄素妙論(こうそみょうろん)』を伝授するほどの仲だったとか・・・
(久秀がコッソリ読んで「なるほど…欲望にまかせた自分本位のHはアカンのか~」とか考えてる所を想像すると笑てしまう(#^o^#))
もちろん、後進の育成も怠る事なく・・・京都に啓迪院(けいてきいん=京都府京都市上京区上長者町付近)なる学校を創建して800人とも3000人とも言われる門徒に医学を教えたのです。
永禄五年(1562年)には、将軍=義輝から、ただいま絶賛戦闘中↓
(石見銀山争奪戦参照>>)
(白鹿城攻防戦参照>>)
の安芸(あき=広島県)の毛利(もうり)と出雲(いずも=島根県)の尼子(あまご)の仲を調停させるべく命を受けて中国地方へと下向・・・その時、病気療養中だった毛利元就(もうりもとなり)の治療をするかたわら、その元就にも、敵対する尼子義久(あまごよしひさ)にも粘り強く和睦を働きかけます。
ただ、ご存知のように毛利×尼子の戦闘は収まる事無く、結局、尼子の本拠=月山富田城(がっさんとだじょう=島根県安来市広瀬町)は毛利によって落とされるので(11月28日参照>>)、和睦に関してはかたくなな姿勢を崩さなかった元就ではありましたが、一方で道三の安芸滞在中には、彼に対してかなり気を使い、様々な便宜を図っていた様子もうかがえますので、和睦交渉人としての成果は薄かったものの、病気の治療の方はウマくいったようで、この間に道三は、門弟たちに語った療法をまとめた『雲陣夜話(うんじんやわ)』を残しています。
また、天正二年(1574年)には自らが記した8巻にわたる医学書『啓迪集(けいてきしゅう)』を正親町天皇(おおぎまちてんのう=第106代)に献上するとともに、天皇を診察します。
さらに、あの織田信長(おだのぶなが)が上洛した(9月7日参照>>)後には、その信長も診察し、喜んだ信長から蘭奢待(らんじゃたい=東大寺の香木)(3月28日参照>>)もプレゼントされたとか・・・
天正十二年(1584年)にはイエズス会宣教師オルガンティノを診察して洗礼を受けたり、天正二十年(1592年)には第107代・後陽成天皇(ごようぜいてんのう)から、橘(たちばな)の姓を賜ったり・・・と、まさに、ここに医師の頂点を極めり!!
こうして、時の権力者とのつながりも持った道三でしたが、一方で、彼が権力者の力を頼る事はありませんでした。
冒頭にも書いた、道三の弟子である施薬院全宗は、その紹介ページにも書かせていただいたように、時の権力者である豊臣秀吉の力をフル活用して医師の道を究めました(再び12月10日参照>>)。
もちろん、私個人としては、それも悪い事では無いと思っています・・・なんせ、福祉にはお金がかかりますから。
薬を手配するにも、従事する人手を集めるにも、第一、施設の建設費や設備費もハンパ無いですから、そこの部分を権力者に頼りながら、自身の理想を叶えていくやり方も、一つの方法だと考えます。
ただ、道三は、それをせず、あくまで在野の一医師としての道を選び、数多くの著書を残し、後進の育成と、今、目の前にいる一つの命を救う事に理想を求めたのです。
文禄三年(1594年2月23日)1月4日 、長男をすでに亡くしていた道三は、娘婿の玄朔(げんさく)を養子に向かえ、2代目曲直瀬道三を名乗らせてバトンタッチ・・・静かに89年の生涯を閉じました。
その後も、かの施薬院全宗を頂点としつつ、曲直瀬玄朔を含めた曲直瀬一門の医療体制が確立されていき、日本の医療界を主導していく事となります。
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コメント
19日からの麒麟がくるの登場人物の「望月東庵」のモデルでは?
経歴がほぼ東庵そのものであるから。
投稿: えびすこ | 2020年1月 7日 (火) 15時19分
えびすこさん、こんにちは~
…でしょうね。
曲直瀬道三だと、ある程度記録が残ってるので、あまりに自由な行動を取らせ難くなるので架空の人物にしたんでしょうね。
投稿: 茶々 | 2020年1月 8日 (水) 16時33分
記事に関連した追記になります。
「明智光秀が医者の顔も持っていた(医学の知識を有していたという意味か)」という資料が見つかったそうです。
だから望月東庵が出るというのも納得ですね。
最近思うのですが「大河ドラマの番組カレンダー」と言う物があってもいいと思います。
原則として1~12月の放送だから、秋に販売すれば売れると思います。
NHKが作成した物は今までないのでは?
投稿: えびすこ | 2020年1月10日 (金) 10時10分
えびすこさん、こんばんは~
大河ドラマになると、色々新資料が出て来る事、多いですよね~
もともと光秀の前半生は謎が多いですから…
投稿: 茶々 | 2020年1月10日 (金) 16時40分