長徳の変~藤原伊周の没落のキッカケ…花山院闘乱事件
長徳二年(996年)1月16日、藤原伊周が花山法皇に矢を射かけた花山院闘乱事件が発覚し、伊周&隆家兄弟が没落する長徳の変となりました。
・・・・・・・
長徳二年(996年)1月16日、その日の勤務を終え、内裏から自宅へともどったばかりの藤原実資(ふじわらのさねすけ)のもとに、右大臣の藤原道長(みちなが)から緊急速報が送られて来ます。
あわてて書状を読む実資は、その内容に驚き、わなわなと手が震えます。
その内容は…
「故・太政大臣藤原為光(ためみつ)の邸宅にて遭遇した花山法皇(かざんほうおう=第65代花山天皇・天皇を退いて出家してるので法皇)と、藤原伊周(これちか)&その弟ご一行が闘乱(とうらん)となり、花山法皇に仕える二人の童子が殺害されて、その首を持ち去られたと聞きました」
という物でした。
平安時代の王朝貴族の言う「闘乱」とは、要は単なるケンカ・・・ただし、一対一ではなく従者を含めた集団乱闘の事です。
平安の王朝貴族と聞けばいかにもおだやかで雅な世界を想像してしまいますが、意外に上記のようなモメ事は多くあり、集団乱闘事件自体は、さほど珍しい事では無かったのですが、ただ、その当事者が前天皇と現内大臣という大物同志だった事は、やはり捨て置けません。
左大臣が欠員となっていた当時、朝廷のトップである右大臣は藤原道長・・・内大臣の藤原伊周は、その次=朝廷のナンバー2という事になります。
そのナンバー2が弟である中納言の藤原隆家(たかいえ)とともに、かつて天皇であったやんごとなきお方に・・・しかも従者二人の首を取って持ち帰ったって事ですから、これが問題にならないはずはありません。
それでも、集団乱闘だけなら、(上記の通り結構ある事なので…)何とか収まりそうな雰囲気でしたが、その乱闘の原因のなったそもそもの伊周&隆家兄弟の最初の行為が嵐を呼ぶのです。
そもそも今回の乱闘事件・・・起こった場所は、先に書いた通り藤原為光という人のお屋敷です。
実は藤原伊周は、この藤原為光の屋敷に住む三女のもとに夜な夜な通って・・・つまり、ここの三女さんが、伊周のカノジョだったわけですが、いつのほどからか、その同じ屋敷に花山法皇も通い始めている事が噂になっていました。
花山法皇はかなりのプレイボーイとの噂・・・
「こらいかん!カノジョ取られるやん」
と焦った伊周が弟を誘って屋敷で待ち伏せ・・・やって来た花山天皇に、伊周&隆家兄弟の従者が矢を射かけたのです。
もちろん、伊周&隆家だって、本気で花山法皇を射殺しようなんて気は毛頭ありません。
あくまで脅し&威嚇のつもりだったのですが、放たれた矢は、偶然にも花山法皇の着衣を貫き、あわや、その身体を傷つけかねない、ある意味正確に放たれ過ぎちゃってたんです。
よく、主君を裏切る事や反旗をひるがえす事を「弓を引く」と言いますが、文字通り、今回は「弓を引いちゃった」わけで、これは大逆罪に問われても仕方のない行為です。
そして、この矢を射かけた事をキッカケに両者は乱闘となったわけです。
とは言え、実は、この一件を表沙汰にしたくなかった人が・・・
それは伊周でも隆家でもなく、矢を放たれた側の花山法皇でした。
ぞもぞも、花山法皇がこの藤原為光の屋敷に通っていたお目当ては、実は伊周のカノジョである三女ではなく、その妹の四女=藤原儼子(たけこ)に会うため・・・つまりは伊周が「カノジョ取られる~」と思ったのは完全なる勘違いだったわけですが、別人&誤解だったとは言え、花山法皇が女の子の家に通っていた事は事実なわけで・・・
花山法皇としては、法皇=出家している身で若い愛人宅へ夜な夜な通ってる事は、あまり他人に知られたく無い事だったわけです。
なので被害者である花山法皇も、自身が無事だった事もあって、この件に関しては固く口をつぐんでいて、大ごとにはならないようにしていたのです。
しかし、これを表沙汰にしたのが、かの藤原道長・・・このスキャンダルを見逃さず、ライバル失脚に利用したのです。
実は、この事件の前年に亡くなった伊周の父=藤原道隆(みちたか)は道長の兄・・・
つまり道長と伊周&隆家兄弟は叔父と甥っこの関係になるわけですが、時の権力者=関白(かんぱく=天皇を補佐する官職)であった生前の道隆は、我が子=伊周を自らの後継者にしようと必死のパッチで出世街道を歩ませ、半ば強引に官位を引き上げてのゴリ押し状態に、周囲も眉をひそめる状況だったのです。
なので、長徳元年(995年)4月10日に道隆が病死した後に、すんなりと伊周が後継者に・・・とはいかず、半月ほどの関白不在の期間を経た4月27日に関白に就任したのは道隆の異母弟である藤原道兼(みちかね)でした。
しかし、その道兼は、この時すでに疫病にかかっていて、就任後わずか7日目に死去・・・
で、道兼の弟である道長と、道隆の息子である伊周との間で関白の後継を巡っての争いが勃発していたわけです。(7月24日参照>>)
その結果・・・翌月の5月に道長に宣旨(せんじ=天皇の命令文書)が下り、道長が内大臣の伊周を飛び越えて右大臣に昇進し、氏長者(うじのちょうじゃ=藤原氏のトップ)も獲得したのでした。
つまり、後継者争いは道長の勝利となっていたのです。
しかし、当然、納得いかない伊周・・・この夏頃には、会議の席で不満をぶちまけて激しい口論となったり、都大路で遭遇した両者の従者同志で乱闘騒ぎになった事もありました。
そんな中で起こったのが、今回の花山院闘乱事件だったわけです。
関係者がひた隠しにしていたこの事件を知った道長は、チャンスとばかりにこれを公にし、一条天皇(いちじょうてんのう=第66代)の命を受けた検非違使(けびいし=治安維持・検察)が伊周&隆家兄弟の罪状を固めるべく、本格的な捜査を開始したのです。
家宅捜索によって複数の私兵を雇っていたいた事がバレたり、いつの間にか、一条天皇の母親を呪詛(じゅそ=呪いをかける事)していた罪もプラスされ、結局、伊周に連なる面々が、ことごとく処分されました。
伊周は大宰府(だざいふ=福岡県太宰府市)に、隆家は出雲(いずも=島根県東部)に左遷・・・後に許されて都に戻り、「道長暗殺計画」なんぞ企てる伊周派たちでしたが、結局、再び政治的に浮かび上がる事は無く、ご存知の藤原道長の単独トップ全盛時代へと向かっていく事になります(12月4日参照>>)。
この一連の政変は長徳の変(ちょうとくのへん)と呼ばれます。
トップからのいきなりの転落・・・そもそもは法皇に矢を放っちゃった以上、自業自得なんでしょうが、その高低差にに耳キーンとなる出来事でした。
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