若き徳川家康の試練~三河一向一揆・上和田の戦い
永禄七年(1564年)1月11日、三河一向一揆の中で最も激しい戦いとなった上和田の戦いがありました。
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戦国の群雄割拠の中で領国=三河(みかわ=愛知県東部)を守ろうと、隣国の駿河(するが=静岡県東部)&遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領する大物=今川義元(いまがわよしもと)の力を借りるべく、父=松平広忠(まつだいらひろただ)が未だ6歳の息子=竹千代(たけちよ)を今川への人質に出したのは天文十六年(1547年)の事でした(8月2日参照>>)。
今川に送られるはずが、家臣の裏切りによって、今川と敵対する尾張(おわり=愛知県西部)の織田信秀(おだのぶひで)のもとに送られて、そこで人質生活を送る事になる竹千代=徳川家康(とくがわいえやす=と名乗るのはもっと後ですが、ややこしいのでここから家康さんと呼びます)は、その間に父を内紛で失いながら(3月6日参照>>)も、天文十八年(1549年)11月の安祥城(あんじょうじょう=愛知県安城市安城町)の戦い後の人質交換(11月6日参照>>)で本来の今川の人質となります。
(一旦決行される織田への人質については、奪われたのではなく松平広忠の織田への降伏の証だった説もあります)
とにもかくにも、今川義元のもとでのその後の家康は、義元の姪である瀬名姫(せなひめ=後の築山殿)(8月29日参照>>)を娶り、永禄元年(1558年)2月の寺部城(てらべじょう=愛知県豊田市)の戦い(2月5日参照>>)で初陣を飾る今川配下の武将として成長します。
しかし、その2年後の永禄三年(1560年)5月に起こった桶狭間(おけはざま)の戦い(2015年5月19日参照>>)・・・ご存知のように、もはや天下に手が届きそうな海道一の弓取り=今川義元が、未だ尾張の一武将でしかなかった織田信長(おだのぶなが=信秀の息子)に首を取られて、戦国の人物相関図が大きく変わる戦いとなったわけですが、この戦いで、家康の立ち位置も大きく変わります。
本来は、三河を領する松平家の本拠だった岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)ですが、現段階で家康が今川配下となっている以上、この桶狭間の時は今川方の兵が守っていたものの、今回の義元の討死で守りの兵が逃げ出した事によってカラッポになっており、それを知った家康がすかさず岡崎城へと入って三河の領主として独立を果たしたのです(2008年5月19日参照>>)。
しかも、その2年後には尾張の織田信長と同盟を結ぶ(1月15日参照>>)・・・つまり、完全に今川の敵に回ったわけです。
そんな、自立したばかりの家康の前に、大きな試練として降って来たのが、三河一向一揆(みかわいっこういっき)・・・と言っても、後に、織田信長と本願寺顕如(けんにょ)(11月24日参照>>)が10年に渡ってドンパチやる石山合戦(8月2日参照>>)を中心にしたあの一向一揆とは少し赴きが違います。
上記の通り、家康は半ばドサクサ紛れて祖父&父の旧領である三河を回復しましたが、誕生したばかりの家康政権が、それを維持していくためには敵対勢力に負けない備えが必要になるわけで・・・そのためには富国強兵=当然、きびしい年貢と兵役が農民たちに課せられる事になり、これまで今川の支配下地元民は
「こんなんやったら、今川のままの方が良かったやん」
てなるわけです。
もちろん、不満を持つのは農民だけでなく、徳川の家臣の中にも不満の種はあるわけで・・・そこに、やはり不満を持つ浄土真宗本願寺派の三河三ヶ寺(本證寺・上宮寺・勝鬘寺)の寺勢力が加わり、くすぶり続けていた火が一気に燃え上がったという感じです。
なので、約半年に渡る大きな戦いであったにも関わらず、その発端となった出来事がよくわかっていません。
徳川の家臣が、罪人を匿ってるとして本證寺(ほんしょうじ=愛知県安城市野寺町)内にズケズケ入って行ったとか、同じく徳川の家臣が兵糧米をよこせと上宮寺(じょうぐうじ=岡崎市上佐々木町)を襲撃したとか、同じく徳川家臣が上宮寺に勝手に砦を作ろうとしたとか、いずれも、平時ではない戦国時代なら日常茶飯事な出来事をキッカケに、一気に燃え上がったようです。
なので、一揆の発生時期や戦いの詳細等は多くの異説&異論があるところで、重税を課せられた農民と、今川支配時代には保護されていたのに家康になって敵対して来た事に不満の本願寺派、さらに、これを機に、なんなら家康を倒して三河を支配してやろうと考える武将たちが団結して・・・という部分にも、彼らはいわゆる一揆=一味同心ではなく、一向宗派と武将派に分かれていたとも言われます。
そんな中、おそらくは永禄六年(1563年)6月前後から始まった三河一向一揆は、家康が本格的に鎮圧に乗り出した事で、永禄六年(1563年)9月には、砦を落とされた夏目吉信(なつめよしのぶ)らが投降し(9月5日参照>>)、翌月の10月には小豆坂(あずきざか=岡崎市戸崎・羽根町)でも大きな戦闘となる中、いずれも家康が勝利たものの、一揆が収まる事ない中で年を越します。
かくして永禄七年(1564年)1月11日、この三河一向一揆で、最も激しい戦いとなった上和田の戦いが展開されます。
大久保一族が守っていた上和田(かみわだ)の砦を、針崎(はりさき=愛知県岡崎市針崎周辺)・ 土呂(とろ=同岡崎市福岡町周辺)・野寺(のでら=同安城市野寺町付近)の一揆衆が襲撃したのです。
戦いは激烈を極め、あわや落城という時に、家康自身が兵を率いて救援に駆け付け、なんとか維持・・・翌12日と、さらに13日と、戦いは3日間に渡って激戦が繰り広げられ、家康も2発の銃弾を受けました。
たまたま具足の分厚い部分に弾が当たったおかげで、幸いにも家康が負傷する事はありませんでしたが、どんだけスゴイ戦いだったのかはうかがえます。
とは言え、戦いの激しさはここがピークで、同13日に上宮寺の一揆衆が岡崎城に攻撃を仕掛けたのを最後に、戦いは終息の兆しを見せ始めます。
なんせ、家康自身が戦場に出て来るとなると、家臣の中に「殿様に弓引いてる感」を実感する者が多数出てきてしまって「さすがにそこまでは…」とちゅうちょする者が多くいたわけで・・・
もちろん、さすがの家康ですから、水面下での説得も続けていたわけですし・・・で、結局、2月28日頃までには、ほとんどか鎮圧されてしまったのだとか・・・
最後に、敵対した寺院との和睦交渉にて、家康は、
「寺院はもとのままに…」
と約束をしたそうですが、結局、事がすべて治まった後には、ド~ンと一向宗寺院を破却する家康さん・・・
「えぇ?なんで?」
と訴える僧たちに、
「もとのままに…というのは、もとの原野に戻すっちゅー事ですわ」
と言ったとか言わなかったとかwww
後のタヌキっぷりを彷彿とさせるエピソードですが、おおまかな計算で、家臣の半数ほどが一揆側に加担した?と言われる今回の三河一向一揆・・・この時、独立大名の道を走り始めたばかりの家康にとっては、何が何でも、どんな手を使っても鎮圧せねばならない重要な戦いだったという事ですね。
さらに、う~んと後の最終段階では、石山合戦後のゴタゴタを利用して、その勢力を二つにわけて宗教に専念してもらう事で政治への介入を防いだ(1月19日「東西・二つの本願寺」参照>>)手法は、やはり、この若き時の一揆の怖さを身に染みて感じていたからなのでしょうね。
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