藤原兼隆による藤原実資の下女襲撃事件
長和三年(1014年)1月28日、藤原兼隆の従者による藤原実資の下女襲撃事件がありました。
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藤原兼隆(ふじわらのかねたか)は、第65代花山天皇(かざんてんのう)の時代に関白(かんぱく=成人天皇の補佐役)だった兄=藤原道隆(みちたか)の後を次いで関白に就任した藤原道兼(みちかね)の息子です。
とにもかくにも、自らの力が及ぶ人物を天皇に据えて栄華を誇ろうと、藤原一族同志で画策していた時代・・・
花山天皇の後ろ盾だった藤原伊尹(これただ)が亡くなった時、その花山天皇を半ば騙すように出家させて(2月8日参照>>)、第66代の一条天皇(いちじょうてんのう)にバトンタッチさせた張本人が藤原道兼です。
おかげで、上記の通り、兄の道隆が亡くなった後、見事関白に就任する道兼でしたが、その時はすでに病にかかっていて、わずか数日後に死去・・・よって道兼は「七日関白」なんて呼ばれたりもするのですが・・・
その死を受けて、関白&左大臣が空席のまま、一足飛びに右大臣に昇進して、事実上のトップとなったのが道兼の弟だった藤原道長(みちなが)でしたが、その昇進に不満を持ったのが、道隆の息子で、今回、道長に飛び越えられてしまった内大臣の藤原伊周(これちか)で、しばらくの間、両者の間でモメ事が耐えませんでした。
そんな中、不満ムンムンの伊周派を花山院闘乱事件(1月16日参照>>)をキッカケに失脚させて、有無を言わせぬ藤原氏のトップとなる道長・・・
この時、本日主役の藤原兼隆は、ちゃっかり道長側について伊周と敵対した事で、それ以降、道長の側近としての道を歩む事になります。
おかげで、その後はある程度、順調に出世していくわけですが、やはり主たるラインは道長の血筋なわけで、なんとななく、道長の息子たちに追い越されていく感が拭えない兼隆さん・・・
そんなこんなの長和三年(1014年)1月28日、事件は起こります。
藤原一族の中でも当代一流の学識人として知られる藤原実資(さねすけ)の下女の家宅にやって来た藤原兼隆の従者たちが、いきなり家財を略奪しつくしただけでなく、家屋そのものを破壊したのです。
もちろん、これは下っ端の者が勝手にやったのではなく、藤原兼隆の命令があって従者たちがやった事・・・では、なぜに、そんな暴挙に出たのか?
実は、その少し前・・・
兼隆家の下女が実資家の下女の家の井戸の水を、無断で使用した事に始まります。
自分ちの井戸で勝手に水を汲んでいた兼隆家の下女に対し、
「アンタ、何を勝手に使ってんねん!」
と詰め寄る実資家の下女・・・
井戸端で口論となり、それがつかみ合いのケンカになり・・・と、いかにも女同士のしょーもないケンカだったわけですが、その勢いで、実資家の下女にどつかれ、着物を剥がされた兼隆の下女は泣く泣く自宅へと戻り、当然、この事を兼隆に報告・・・
この状況に
「ワシの私有地で…何て事しくさる!いてまえ~」
と、自分の土地に不当に住んでいる者がいると知った兼隆は激怒し、その実資家の下女を追放するつもりで、従者に徹底的に潰してしまうようにと命令を出したのです。
しかし、それは兼隆の大きな勘違い・・・
実は、その場所は兼隆の土地ではなく、はなから実資の私有地であり、かの下女は、ちゃんと実資に許可を取って、その場所に住んでいたのです。
後々の取り調べや書状のやり取りで、この事実を知った兼隆は、ただただ実資に平謝り・・・
「ウチの下女が殴られたり着物を奪われた事は不問にするし、ソチラの下女の損害は、すべて補償するので、どうか穏便に…」
この兼隆の申し出を受けた実資は、『小右記(しょうゆうき)』という自身の日記の中で、
「やたら媚びて、すり寄って来て気持ち悪い」
と一言・・・
なんせ、この兼隆という人は、この前年の8月に、自らに仕える厩舎人(うまやのとねり)を殴り殺した過去があった。。。
厩舎人とは馬の世話係って事ですが、この馬の世話係は、主人が騎馬で外出する時には、その馬を引く係でもあるわけで、身分が低いワリには、意外と、その主人と直に接する機会も多々ある従者です。
おそらくは、何かしらの失態をしたか、あるいは兼隆の気にさわる事をしたのでしょうけど、だからと言って殴り殺す人はなかなかいない・・・もちろん、身分高き王朝貴族ですから、自分が殴ったというよりは、それこそ、他の従者に殴らせたんでしょうが、そんな内輪のモメ事が世間に知れ渡ってしまう事は、貴族としては、かなりカッコ悪いわけで・・・
実資は、その日記の中で続けて
「あの人は、自分の従者に対してもあんなんやから、他人の従者にやったら、どんなヒドイ事をするやワカラン…そもそも嘘つきやし」
と、その印象は、相当悪かったようです。
この時の兼隆は、すでに29歳の男盛り・・・若気の至りでは済まされない、血気盛ん過ぎる性格のようですが、実は彼の息子=藤原兼房(かねふさ)も・・・
この事件の7年後の治安元年(1021年)の12月に清涼殿で行われていた 仏名会(ぶつみようえ=1年間の罪を償い祈る仏教行事)の席で、そばにいた源経定(みなもとのつねさだ)と口論になり、取っ組み合いのケンカから、周囲の者が力づくで引き離すまで、一方的に兼房が経定を殴り倒す という事件を起こしています。
この時は、息子の恥ずい姿に、人目もはばからずおいおいと泣きたおしながら退席して行ったという兼隆さん・・・自身の事を棚に上げた完全に「おまいう」状態ですが、そもそも、そういう血筋&性格の人たちだったのか?
あるいは、平安時代の貴族社会という物が、うっ憤たまりまくりの要素満載だったのかも知れませんね。
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