徳川幕府の初期を支えた学者~林羅山の最期
明暦三年(1657年)1月23日、徳川幕府初期の4代の将軍に仕えた学者・林羅山が死去しました。
・・・・・・・
林羅山(はやしらざん)は、加賀(かが=石川県南西部)の国の武士の末裔と言われる林信時(のぶとき)の長子として天正十一年(1583年)に京都の四条にて生まれたとされますが、当時、父が病弱で働けず、かなりの貧乏生活だったらしい・・・
そんな中、父がある人から「鐘の銘文を書いてほしい」と頼まれたものの、病気のために思うように事が進んでしなかったところ、見かねた羅山がサラッと書いて見せ、それが見事な銘文だった事で周囲は大いに驚いたのだとか・・・これが羅山7歳の時。
さらに8歳の時は、となりで、とある武士が『太平記』を読むのを聴いていて、すぐさま、そのすべてをそらんじて、
「この子は、1度聞いた物を全部覚えるスゴイ子供だ」
と人々は驚いたのだとか・・・
とは言え、いくら聡明でも貧乏は貧乏・・・あまりの貧乏っぷりに、ほどなく米穀商を営んでいた叔父の吉勝(よしかつ)のもとに養子に出されますが、その後、13歳にて建仁寺(けんにんじ=京都市東山区)に入って仏教を学びます。
しかし僧になる事は無く・・・というより、むしろ仏教を嫌って儒学(じゅがく=孔子の教え)の書を読みふけり、朱子学(しゅしがく=儒教の新体制)に没頭するのです。
さらに独学で勉強を続けていた中、20歳の頃に朱子学の大家=藤原惺窩(ふじわらせいか)に出会い即座に入門・・・与えた知識をどんどん吸収していく羅山の天才ぶりを大いに喜んだ惺窩は、慶長十年(1605年)、二条城(にじょうじょう=京都市中京区)に赴いて羅山を徳川家康(とくがわいえやす)に紹介します。
有名学者の惺窩の紹介という事もあって、家康はすぐに羅山を召し抱え、羅山は23歳の若さで家康のブレーンの一人となったのです。
その後、京都と駿河(するが=静岡県東部)を行き来して、徳川の家臣たちへの朱子学研修に務めるかたわら、例の大坂の陣の発端となった方広寺(ほうこうじ=京都府京都市東山区)の銘文事件(7月21日参照>>)にも関与・・・
豊臣秀頼(とよとみひでより=豊臣秀吉の息子)が寄進した方広寺の鐘の銘文にかかれていた『国家安康』の文字列を「家康の名を分断して呪っている」、同じく『君臣豊楽』の文字列を「豊臣家の繁栄を願う」、という意味だとイチャモンをつけた金地院崇伝(こんちいん すうでん=以心崇伝)や南光坊天海(なんこうぼうてんかい)ら両家康ブレーンを後押しするがの如く、羅山も『右僕射源朝臣家康』は「家康を射る」という意味だと称しています。
ま、この数年前には、家康の命令によって、嫌っていたはずの僧になって道春(どうしゅん)と号していますので、もはや身も心も徳川ドップリの人になっていたのでしょうね。
と言っても、コレ↑は悪口じゃないですよ~
なんせ家康に雇われて、徳川家のもとで出世していってるわけですから、僧で学者と言えど、徳川家のために&徳川に有利なように行動するのは当たり前の事・・・なんせ、この頃は、まだまだ家康の前に豊臣が立ちはだかってた頃ですから(【関ヶ原~大坂の陣・徳川と豊臣の関係】参照>>) 。
家康に始まった徳川ドップリは、その後、徳川秀忠(ひでただ)→家光(いえみつ)→家綱(いえつな)と、4代の将軍に仕えた羅山は、江戸幕府初期の土台造りに大きく貢献していきます。
それは、伝記や歴史書の編さん、古書&古記録の整理にはじまり、『武家諸法度(ぶけしょはっと)』(7月7日参照>>)の制定にまで・・・多岐にわたりました。
寛永七年(1630年)には、江戸は上野(うえの=東京都大東区)忍岡に1353坪の土地を与えられ、そこで私塾と文庫と孔子廟を設けて、朱子学の発展と後進の育成に尽力しました。
この私塾は、後に昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ=湯島聖堂)と呼ばれる江戸幕府直轄の教学施設に発展しています。
晩年になっても年間700冊の本を読んで勉学に励んでいたと言われる羅山・・・そんな本の虫だった羅山は、最後の最後に、その命を縮める大きな出来事に遭遇します。
明暦三年(1657年)1月18日に起こったあの明暦の大火です。
【げに恐ろしきは振袖火事】>>
【江戸都市伝説~明暦の大火の謎】>>
三日三晩燃え続け、江戸の町を焦土と化したこの火事で、羅山は自身の邸宅と書庫を焼失してしまいます。
この時、蔵書の中で残ったのは、慌てて手に持って逃げた1冊だけだったとか・・・これに相当なショックを受けたであろう羅山は、火事の4日後の明暦三年(1657年)1月23日、75歳にして、この世を去りました。
ところで・・・
羅山に関して、こんな話が残っています。
ある時、羅山が史記(しき)の『樊噲伝(はんかいでん=前漢時代の中国の武将の伝記)』について講義をしていると、そばで聞いていた彦根2代藩主の井伊直孝(いいなおたか=井伊直政の息子)が、こんな事を言いました。
「樊噲(はんかい)はスゴイ武将で真っ先に弓矢をかいくぐり敵陣に攻めて行ったと言いますが、敵陣に突っ込む勇気なら、僕も負けてません」
と・・・
すると羅山は
「樊噲は卑しい身分の出身ですから、血筋においても、あなた様の方が勝っているでしょうね。
けど、合戦で真っ先に突っ込んでいくのは、むしろ下っ端がやる事で、彼が讃えられるのは、そんな事ではありません。
合戦で活躍するのも武勇ですが、それは武士なら当たり前…樊噲がスゴイのは、例え相手が主君であっても、堂々と諫言(かんげん=目上の人の過失などを指摘して忠告すること)した事です。
敵ばかりではなく、内側も、そして自らの事もじっくりと考えなければなりません。
どうですか?あなたには、それができていますか?」
と答えたのです。
実は、この頃、周囲のあまりのイエスマンぶりに嫌気がさした徳川家光が、病気と称して諸大名に会う事を避けていた事を受けての助言だったとか・・・もちろん、井伊直孝は、心にズシーンと来て、自らの軽さを恥じ、大いに反省したのです。
『常山紀談』によると、この言葉は、世間では「羅山一生の格言」と称されているのだそうです。
人生の最後に失意に見舞われた羅山でしたが、その生涯は、自らの知識と知恵をおしみなく徳川に捧げた有意義な一生だった事でしょう。
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