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2020年2月25日 (火)

大河ドラマ『麒麟がくる』第6回「三好長慶襲撃計画」の感想

 

大河ドラマ『麒麟がくる』第6回「三好長慶襲撃計画」・・・

真っ赤な紅葉のじゅうたんの中の手に汗握るチャンバラ三昧は、なかなか良かったです。

ただ・・・
主人公=光秀が中央政府に絡みまくり!~どころか、三好長慶(みよしながよし)の命の恩人になっちゃいましたよ~

しかも、2日間に渡って生死を彷徨うような重症を負っている恩人に対して、
「ほな送って行ったって」
の一言で、応急処置もせずに屋敷から追い出し、マチャアキ医師の所まで送るはずだった案内人は途中でどっか行ってしまい、曰く
「私の家の前で倒れてたんです」
↑んな、アホな!

しかも、その後、マチャアキ医師の自宅で養生する光秀のもとに藤孝が見舞いに来て、
「感謝感激雨霰」お礼の言葉に
「お前はスゴイ」の持ち上げに
挙句の果てに「いっしょにやろう」って将軍配下に誘っちゃう・・・

そんな重要人物なら、その場で手当てしてやれ~
ヘタすりゃ、あのまま死んでたかもワカランのに・・・

「美濃でせねばならぬ事がある」と光秀が断るから良いものの・・・なんか不思議。

なんらなら、この時点で、ここまで将軍や細川や三好に絡みまくりで、ここまでスゴイ人物なら、このまま将軍に仕えちゃっても良いような気がして来た(笑)
どうせ前半生は謎なんですから・・・

とまぁ、今回はちょっとツッコミ入れさせていただきましたが、おおむね楽しんで拝見させていただいております。

なので、あくまで個人的な好みの問題なのですが・・・
私としては、やはり光秀の前半生は謎であってほしいと思うのです。

もちろん、ドラマですから、視聴者側には、何をやってるか?どう生きているか?というのは描く必要ありますが、あくまで、それは水面下の出来事で、将軍はもちろん、実在の有名人に絡む事無く、むしろ遠くから、その様子を見ていて
「いつか、俺ものし上がってやる!」
的な夢を抱いている方が、個人的には良かったかな?

そもそも、光秀はその出自も曖昧です。
以前、【光安自刃で明智城落城~明智光秀は脱出?】のページ>>で、光秀は、自らの妹=小見の方(おみのかた)斎藤道三(さいとうどうさん)に嫁がせて、道三の傘下に入っていた明智光綱(あけちみつつな)の息子で、早くに父を亡くした事から叔父(光綱の弟)明智光安(みつやす) 、その後見人となって・・・と書かせていただきましたが、そのページにもあるように、それは江戸時代に成立した軍記物のお話です。

だいたい、光秀が明智の嫡流で道三の家臣なら、もうちょっと古文書等に出てきていても不思議じゃないです。

また、ご本人が本能寺の1年前に定めた有名な『家中軍法』にある、
「瓦礫沈淪(がれきちんりん=かわらや小石のごとく沈んでいた境遇)のような低い身分の自分を信長様が取り立ててくれて、膨大な軍勢や重要な任務を任されるようになった」
という内容とも、辻褄が合いません。

光秀が、土岐(とき)一族の庶流の明智の嫡流なら、斯波(しば)氏の陪臣(ばいしん=家臣の家臣)である織田信長(おだのぶなが)の家系には勝るとも劣らぬ血筋・・・少なくとも瓦礫沈淪ではないです。

私としては、おそらく血筋もさほど良くない無名の人物が、いきなり歴史上に登場した時に、すでに一流の兵法を身につけていて、鉄砲を自在に操り、オシャレな京言葉を話し、都会的で世間の状勢にもくわしく、頭も良い即戦力で登場して来るところがオモシロイと思っているのです。

そんな人材がいきなり現れたからこそ、信長は大いに気に入ったわけで・・・

しかも、そんな感じの途中採用でありながら、父の代からの譜代の家臣である柴田勝家しばたかついえ)や、光秀より10年以上先輩である木下藤吉郎(きのしたとうきちろう=豊臣秀吉)らを追い越し、織田家内で最初の城持ち大名となるような出世を果たすというところも私的にはオモシロイ・・・

もちろん、そのためには無名時代にかなりの修行というか鍛錬というかをやってないといけないわけで・・・そのあたりのところにスポットを当てて描いていく感じが良かったかな?
とも、思うのですが、やはりドラマですから、それなりに大物との絡みが無いと、実際にはつまらないドラマになるのかも知れません。

とにもかくにも、相変わらず、物語の進むスピードが遅い。。。結局、今回も、わずか半年ほどの出来事に一回分の時間を費やされたわけですが、それもこれも、例のあの方の撮影分が10話ほどあったという事なので、その10話に到達するまでは、色々と時間調整や何やらがあるのかも・・・所詮、奥さんになるわけではない駒とのラブラブ一夜も、そんな時間調整の苦肉の策なのかも知れません。

にしても、おそらくこの頃は、何かあると近江に逃げていた将軍=義輝に、光秀君はズゴイ演説をブッこいて多大な期待していたけど、それよりも、もう少し、長慶と細川晴元&将軍家のアレコレをやっていただきたかったかな?

とは言え、連歌の会や能の場面など、美しい画面が展開される今年の大河は、おおむね楽しく見ています。
来週にも期待!
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2020年2月24日 (月)

信長が仕掛ける浅井滅亡への一手~佐和山城の戦い

 

元亀二年(1571年)2月24日、織田勢に包囲されていた浅井方の磯野員昌が守る佐和山城が開城されました。

・・・・・・・・

佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)と言えば、即、あの石田三成(いしだみつなり)を思い浮かべる 方も多かろうと思いますが(私もそうです(^o^;))、実は、その歴史は古く、築城されたのは鎌倉時代・・・その頃に近江(おうみ=滋賀県)を任されていた近江源氏佐々木(ささき)が構築したとされます。

源平合戦の「宇治川の先陣争い」(1月17日参照>>)で有名な佐々木高綱(ささきたかつな)さんの一族ですね。

もちろん、その頃は城郭というよりは砦みたいな物だったでしょうが・・・

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現在の佐和山城跡

で、ご存知のように、その佐々木氏の流れを汲むのが六角(ろっかく)・・・室町時代に入ってからの六角氏は、幕府将軍をも手こずらせるほどの勢力を誇り(12月13日参照>>)、同じ佐々木氏の流れを汲む京極氏(きょうごくし)とともに近江の南北(六角=南、京極=北)を支配する形となっていましたが、あの応仁の乱(5月20日参照>>)の最中に起こった京極家内の後継者争い(8月7日参照>>)によって、京極氏の弱体化が始まり、いつしか京極氏の根本被官(こんぽんひかん=応仁の乱以前からの譜代の家臣)だった浅井氏の浅井亮政(あざいすけまさ)が主家を凌ぐ力をつけていき(4月6日参照>>)戦国時代も後半になると、もう北近江は、事実上浅井の物になって、佐和山城は浅井が本拠とする小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町)の支城として、元亀年間には浅井長政(あざいながまさ=亮政の孫)の家臣=磯野員昌(いそのかずまさ)が城主を務めていました。

そんなこんなの元亀元年(1570年)6月に起こったのが、あの姉川(あねがわ)の戦いです。
【いよいよ姉川…小谷に迫る】>>
【姉川の合戦】>>
【姉川の七本槍】>>

これは、去る永禄十一年(1568年)の9月に、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛した(9月7日参照>>)織田信長(おだのぶなが)が、その後の再三の上洛要請に応じなかった越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)金ヶ崎城(かながさきじょう・かねがさきじょう=福井県敦賀市)を元亀元年(1570年)に攻撃した(金ケ崎手筒山の戦い>>)時、織田の味方であったはずの浅井氏が朝倉について、あわや挟み撃ちとなるところ、なんとか岐阜(ぎふ)に戻って来た(金ヶ崎の退き口>>)という、まさに信長危機一髪だった出来事に対して、その3ヶ月後に報復!とばかりに信長が小谷近くに攻め寄せた戦いです。

しかし、この姉川で勝利した信長が、敗走する浅井・朝倉勢を深追いする事がなかったため、浅井・朝倉は負けたとは言え、ある程度の兵力を温存したまま・・・

この時、織田本陣に迫る活躍をした磯野員昌ではありましたが、負け戦となり、何とか敵陣を突破して、自身の佐和山城に戻り、休む間もなく城の防備強化にまい進します。

そのおかげか?姉川からほどない7月1日に、諸軍を率いて佐和山城を攻めに来た信長は、その守りの固さを見て、
「すぐには落ちぬ」
との判断し、城の東に位置する百々屋敷(どどやしき=滋賀県彦根市小野)に砦を築いて、そこに丹羽長秀(にわながひで)を置き、西の尾末山(おすえやま=同彦根市)には市橋長利(いちはしながとし)を、南の里根山(さとねやま=同彦根市)には水野信元(みずののぶもと)を、彦根山(ひこねやま=現在の彦根城がある小山)には河尻秀隆(かわじりひでたか)と、万全の包囲網を作っておいて、自身は7月4日に京都の足利義昭に帰郷の挨拶をして岐阜へと戻りました。

ところが、その3か月後の9月には、浅井・朝倉にゲリラ的に宇佐山城(滋賀県大津市)を攻められてしまい、信長は弟の織田信治(のぶはる)と重臣の森可成(もりよしなり)を失ってしまいます(9月20日参照>>)
(↑彼らの奮戦により落城は免れます)

さらに翌10月には、新たな2万の兵を率いて琵琶湖(びわこ)の西岸を南下して来た浅井・朝倉勢に対して、信長は堅田(かたた=滋賀県大津市)に砦を構えて応戦(11月26日参照>>)・・・しかし、この戦いは12月14日に時の天皇である正親町(おおぎまち)天皇から合戦中止の綸旨(りんじ=天皇の命令)が下されたため、やむなく、両者一応の和睦となりました。

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佐和山城周辺の位置関係図
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

この間にも、佐和山城へのけん制は続けられていたわけですが、長期の包囲にも関わらず、未だ降伏には至らず・・・

とは言え、春までにはここ佐和山は押さえておきたい・・・なんせ雪解けの時期になれば、当然、雪国越前の朝倉の動きは活発になるわけで、またもや浅井と合同で南下してくるやも知れませんし、なんたって、ここを奪取しておけば岐阜から京都への動線が確保されます。

ちょうど、その頃、昨年末から活発になり始めた長島一向一揆(ながしまいっこういっき)(11月21日参照>>)に対抗すべく、信長は丹羽長秀を長島へ派遣・・・代わりに、木下秀吉(きのしたひでよし=豊臣秀吉)が百々屋敷に入ります。

もちろん、佐和山城攻略の役目も秀吉が引き継ぐ事に・・・早速、秀吉は側近の蜂須賀正勝(はちすかまさかつ=小六)と作戦を練ります。

まずは堀次郎(ほりじろう=堀秀政の従兄弟?)樋口直房(ひぐちなおふさ)の400の兵と蜂須賀の400余りで佐和山城を三方から囲み、湖上に展開する前野長康(まえのながやす)の500余騎にて琵琶湖を封鎖して兵糧の運び込みを断つ・・・さらに、「佐和山城はすでに織田方に落ちた」とのフェイクニュースを流す。。。

さすれば、孤立した佐和山城の兵糧は20日ともたないであろう・・・と、

当然、その間には開城を促す交渉も必要です。

元亀二年(1571年)2月2日、秀吉は、蜂須賀と前野の2名に書状を持たせて使者として送り、佐和山城の磯野との交渉を開始します。

それから20日余り経った元亀二年(1571年)2月24日、磯野員昌から「籠城する500余りの城兵の命を助けるのであれば開城する」との返答を受け取った秀吉が、その申し入れを受け入れ佐和山城は開城となりました。

籠城していた将兵の多くは、船で琵琶湖の対岸へと逃げていったのだとか・・・

交渉に応じて降伏した磯野員昌は佐和山の代わりに琵琶湖の北西に位置する高島郡(たかしまぐん=滋賀県高島市)を与えられるという破格の待遇を受けて織田の配下となり、佐和山城へは丹羽長秀が入りました。

なんせ、この頃は、上記の佐和山の丹羽をはじめ、今回の秀吉も、柴田勝家(しばたかついえ)明智光秀(あけちみつひで)などなど、織田配下のそうそうたるメンバーが、皆、琵琶湖の周辺に配置されていましたから、それを踏まえれば、琵琶湖の北西は、かなりの厚遇です。

そのおかげで、天正元年(1573年)には、あの金ヶ崎の退き口の際に信長に発砲した杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅぼう)を、高島郡の潜伏先にて捕縛するという手柄にも、磯野員昌は恵まれています(5月19日参照>>)

ただ・・・晩年は、信長さんと折り合いが悪く、出奔して農業に従事していたという事らしいですが、そのあたりはちょっと謎です。

とにもかくにも、ここで佐和山城が落ちただけではなく、この佐和山落城のニュースを聞いた太尾山城(ふとおやまじょう=滋賀県米原市)の浅井家臣=中島直親(なかしまなおちか)もが、すぐに退去して小谷城へと走り去ってくれた事で、秀吉は佐和山と太尾山の二城を手に入れる事ができたのです。

もちろん、これが2年後の天正元年(1573年)の浅井・朝倉の滅亡へとつながっていく重要な一手となる事は、皆さまご存知の通りです。

この後の展開は・・・
●【信長&秀吉VS浅井~箕浦の戦い】>>
【山本山城の戦いと虎御前山城構築】>>
【刀禰坂の戦い】>>
【朝倉氏滅亡~一乗谷】>>
【小谷城・落城~浅井滅亡】>>
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2020年2月18日 (火)

秀吉の中国攻め~毛利VS宇喜多の麦飯山八浜合戦

 

天正九年(1581年)2月18日、信長の命による秀吉の中国攻めの真っただ中、秀吉の依頼を受けた宇喜多忠家が籠る麦飯山城を、毛利方の穂井田元清が攻撃しました。

・・・・・・・

天正九年(1581年)と言えば、まさに豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)中国攻め真っただ中・・・もちろん、これは、秀吉の主君である織田信長(おだのぶなが)の命令によっての侵攻なわけですが・・・

そもそもの発端は・・・
永禄十二年(1569年)に、自らが滅ぼした周防(すおう=山口県)大内氏(おおうちし)(4月3日参照>>)の残党=大内輝弘(おおうちてるひろ)と交戦中だった安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)が、その背後を突いて出雲(いずも=島根県)を奪回しようと動き始めた尼子氏(あまこし)(10月28日参照>>)の残党に協力する姿勢を見せた但馬(たじま=兵庫県北部)の守護=山名祐豊(やまなすけとよ)「東側からけん制してほしい」と信長に依頼し、それを受けた信長が、秀吉に2万の軍勢をつけて送り出した事にはじまる織田の中国攻め・・・

しかし、その後、信長に敵対して(7月18日参照>>)京都を追われた第15代室町幕府将軍足利義昭(あしかがよしあき)が毛利に逃げ込んで(11月16日参照>>)再起を狙ってる事や、すでに勃発していた石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)との戦いで、本願寺の救援要請に毛利が応じた(7月13日参照>>)事、

また逆に、先の山名祐豊や尼子の再興を願う尼子勝久(かつひさ)らが織田傘下となった事などなどで、元就の後を継いだ孫の毛利輝元(てるもと)が当主を務める頃には、スッカリ織田VS毛利の対立構造になっていたのです。

そんな中、天正五年(1577年)には但馬を攻略した(10月23日参照>>)後、上月城(こうづきじょう=兵庫県佐用郡)(11月28日参照>>)福原城(ふくはらじょう=兵庫県佐用郡佐用町・佐用城とも)(12月1日参照>>)を奪取して、翌天正六年(1578年)の春からは三木城(みきじょう=兵庫県三木市)の包囲(3月29日参照>>)・・・と確実に駒を進めていく秀吉。。。

もちろん毛利も黙ってはいません。

奪取後、秀吉が尼子勝久に守らせていた上月城を攻撃(5月4日参照>>)・・・秀吉が援護に向かうも7月には落城し(7月3日参照>>)、事実上、尼子氏は滅亡します。

一方、備中兵乱(びっちゅうひょうらん=岡山周辺の戦国武将の戦い)(6月2日参照>>)のドサクサで主家の浦上(うらがみ)を追放した宇喜多直家(うきたなおいえ)が、このあたりで毛利方から織田方へ方向転換(2月17日参照>>)・・・2年に渡る戦いでようやく三木城を落とした(1月17日参照>>)秀吉が、英賀城(あがじょう=兵庫県姫路市飾磨区英賀宮町)を攻撃し(4月1日参照>>)播磨(はりま=兵庫県南西部)地方を平定(4月24日参照>>)する天正八年(1580年)には、もうすっかり織田傘下となって毛利と戦う宇喜多でした(6月15日【祝山合戦】参照>>)

そんなこんなの天正九年(1581年)、「備中侵入を容易に推進するには、児島半島を制圧しておきべき」と考えた秀吉は、宇喜多直家に児島への出兵を依頼します。

Syukuyamamuziiyama←このあたりの位置関係は以前の「祝山合戦の図」を参考に…
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

ところが、あいにく直家は病気療養中・・・というより、直家は、この天正九年(1581年)の 2月14日に死亡していたとも言われ(死亡は天正十年1月9日とも)、すでに、宇喜多家内では、息子の宇喜多秀家(ひでいえ)が家督を継いでいたものの、未だ10歳の秀家が当主とあらば心もとなく、叔父の宇喜多忠家(ただいえ)が、秀家の後見人となって事実上の運営をしつつ、直家の死はひた隠しにしていたのだとか・・・

そこで忠家は、直家の死を隠したまま、児島の東北端に位置する小串城(こぐしじょう=岡山県岡山市南区)に攻撃を仕掛けます。

これを受けた毛利側では、輝元の叔父(元就の四男)猿掛城(さるかけじょう=岡山県倉敷市)主の穂井田元清(ほいだもときよ=穂田元清)を向かわせて、児島の最西端に位置する天城(あまぎ=岡山県倉敷市藤戸町天城)に砦を築き、ここを拠点に宇喜多と対峙・・・

これを受けた宇喜多側は麦飯山城(むぎいやまじょう=岡山県玉野市)に入って防御を固めて、毛利の東進を食い止めるべく籠城しつつ、毛利勢の海上からの攻撃に備えて八浜(はちはま=岡山県玉野市八浜町)二子山城(ふたこやまじょう=双両児山城)を構築して南水道を抑えます。

しかし、この時、かねてより進行しつつあった水面下での毛利の画策が物を言い始め、宇喜多の中に毛利への内応者が出始めたのです。

内応者が毛利に通じたのを確認した穂井田元清は、天正九年(1581年)2月18日麦飯山城に攻撃を仕掛けます。

現在は宇喜多の物となっている常山城(つねやまじょう=岡山県岡山市南区&玉野市)と、かの二子山城の間に位置する麦飯山城を奪って、常山&二子山両城の連携を断ち、逆に毛利の物である番田城(ばんだじょう=岡山県玉野市番田)麦飯山城を連動させて宇喜多を窮地に追い込もうという作戦。

(ちなみに、この常山城↑は、あの女軍の戦い(6月7日参照>>)で知られる天正三年(1575年)に毛利方が奪った城ですが、その後、当時は同盟関係にあった宇喜多に譲られていました)

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福原城の戦い・位置関係図
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

やがて、内応者の手引きにより、籠城を続けるのが困難だと悟った宇喜多忠家は、やむなく麦飯山城から撤退します。

3日後の2月21日には麦飯山城を奪回すべく、忠家嫡男の宇喜多基家(もといえ)が麦飯山城から東へ約一里(約4kim)にある八浜に押し寄せ、そこで大きな戦いに発展・・・しかし、毛利軍の鉄砲隊による迎撃作戦が成功し、毛利が宇喜多を撃退したのだとか・・・

しかし、もちろん忠家は、まだあきらめません。

次に息子=基家に宇喜多の主力部隊を与えて二子山城守らせ、そのサポートとして、家老の岡家利(おかいえとし)を近くの日向山城ひゅうがさんじょう= 岡山県玉野市)に配置し、常山城の戸川秀安(とがわひでやす)と連携して麦飯山城を挟み撃ちにする作戦に・・・

一方、麦飯山城を奪った穂井田元清は、この麦飯山城を、より強固な城として手直しつつ、番田城には乃美宗勝(のみむねかつ=浦宗勝とも)を派遣して両者の連携を構築します。

さらに水軍力において勝る毛利は、村上景広(むらかみかげひろ=能島村上氏・村上武吉の従兄弟)率いる村上水軍300隻を児島と岡山の間に位置する海上に派遣して交通を遮断しました。

こうして、しばらくのこう着状態が続いた後の同・天正九年(1581年)8月22日(24日とも)、足軽同志の争いから、再び毛利VS宇喜多の戦いが再開されます。

麦飯山城近くの草刈り場で始まった些細な小競り合いは、どんどん拡大していき、大崎村の柳畑(玉野市八浜町大崎)の浜辺での大合戦となり、さらにそれが北上して大崎八幡宮(おおさきはちまんぐう=岡山県玉野市八浜町)の丘陵へと展開し、優勢に進める毛利軍に宇喜多軍は押されぎみに・・・しかも、海上からは、あの村上水軍が宇喜多の側面を突こうと構えます。

この宇喜多軍を指揮していた宇喜多基家・・・形勢不利と見た基家は戦場を移動させるべく、自軍を鼓舞しながら采配を振りますが、そこへ、どこからともなく飛んで来た銃弾を受け、馬上から転落。

側近がすぐさま駆け寄りますが、すでに絶命・・・即死だったとの事。

大将を討ち取られた宇喜多軍は崩れるばかりで、もはや惨敗か??
と思った、その瞬間、常山城から駆け付けた戸川秀安率いる援軍が登場・・・後に「八浜七本槍」と呼ばれる事になる能勢頼吉(のせよりよし)らの勇士が、決死の覚悟で敵中に突っ込んでいき、なんとか形勢を逆転したのです。

勢いづいていた毛利軍もこれにて終了・・・戦況を挽回する事ができないと見た穂井田元清はやむなく撤退を決意し、麦飯山城を捨てて退却して行ったのです。

ギリギリのところで勝ちを得た宇喜多勢・・・この後、秀吉率いる織田の大軍が備中へとやって来るのを待つ事になります。

★今後の秀吉の中国攻めの展開は
 【鳥取の干殺し】>>
 【備中高松城・水攻め】>>
 へと進みます

‥…━━━☆

とまぁ、「今日は何の日?」というテーマでブログを展開している以上、日付がハッキリしないと、お話を進め難いので、上記のような紹介の仕方になりましたが、実のところ、今回の麦飯山八浜合戦(むぎいやまはちはまかっせん)謎多き戦いなのです。

たとえば『備前軍記』などでは、この戦いを天正四年(1576年)の事としていますが、
上記の通り、おそらく天正四年の段階では、未だ毛利と宇喜多は同盟関係にあったはず(文中にある宇喜多が毛利から常山城を譲り受けたのは毛利が奪い取った天正三年(1575年)より後のはず)ですから、両者が児島を巡って戦う事は、まず、考え難いのです。

なので、毛利と宇喜多の関係と織田配下の秀吉の進軍具合などから察して、今のところ、今回の麦飯山・八浜合戦は天正九年か、その翌年の天正十年の事であろうとの見方が強い事から、今回は、このような日付でお話を進めさせていただきましたので、それらの事をご理解いただければ幸いです。
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2020年2月17日 (月)

大河ドラマ『麒麟がくる』第5回「伊平次を探せ」の感想

 

いやはや、先週とは打って変わって、有名人出まくり&接触しまくり大河ドラマ『麒麟がくる』第5回「伊平次を探せ」

当時の京都の人口が何万人か知らんけど、あないに簡単に有名人に出まくれるのか?・・・とは思うものの、出会わなければ話が面白くならないのがドラマですから、そこは主役の特権・・・

中でも体育会系の主人公=明智光秀(あけちみつひで)と文系の細川藤孝(ほそかわふじたか)の出会い・・・

この先、
第15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)織田信長(おだのぶなが)を結びつけるのもこの二人なら、
(【義昭の上洛希望】参照>>)
三好三人衆(三好長逸・三好政康・石成友通)らに本圀寺(ほんこくじ=当時は京都市下京区付近)を襲撃された義昭を守るのも、この二人・・・
(【本圀寺の変と桂川の戦い】参照>>)

後に、信長が中国地方の平定に乗り出す時も、羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)には但馬播磨(はりま=兵庫県南西部)方面の攻略を(10月23日参照>>)、光秀と藤孝に丹波丹後(たんご=京都府北部)方面の攻略を命じるし・・・
(【和藤合戦と山家城の戦い】参照>>)
光秀は娘を藤孝息子の嫁にやるし・・・
(【花と散る~細川ガラシャの壮絶最期】>>)

まさに、本能寺のあの日まで、親友と呼ぶにふさわしい
(【明智光秀と細川幽斎~二人の別れ道】>>)
二人の出会いには、少々、胸アツでございました~

ただ、実際の史料に光秀が登場する(藤孝と行動をともにする)までには、まだ20年以上ある中で、こんなに早く出会っちゃって大丈夫?という不安はあるものの、ここからしばらくは、まだまだ「単なる知り合い」程度で終わる可能性もあるし・・・ま、一視聴者のホンネとしては、ここらへんでは、まだまだ重要人物には絡ませ過ぎず、良い感じで描かれていく事を期待してますが。。。

…にしても、今回の大河・・・けっこう頑張ってはりますね~
それは、あの遊郭の場面。。。
(美しい障壁画とか残ってるので武家のお屋敷ならあったと思いますが)そこらへんの遊郭で、あんなにたくさん、ピッシリした襖貼りの個室があったのか?
そのあたりは、私も調べてみないとわからないので、何とも言えませんが、遊女の描写や遊郭の雰囲気は、日曜ゴールデンのNHK様としては、なかなか挑戦的に描いてはりました。

また、鉄砲を「合戦の道具」ではなく「抑止力」と言い、「持つ数の上限を決めようか?」なんて、まるで現代の「核合意問題」のようなくだりは、見ている側にとてもわかりやすかったと思います。

合戦なのに、門や屋敷の前で十数人程度がゴチャゴチャやってるだけの感じだった、ここんとこの戦国大河とは違い、主人公がフットワーク軽く、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりして戦国の全体像をスケール大きい感じで描いているところも、個人的には好きかも・・・

ただ、物語の進み具合はちと気になる・・・

先週が天文十七年(1548年)3月の第2次小豆坂(あずきざか=愛知県岡崎市)の戦いから始まり、今週はひとときの平和な雰囲気。。。来週は、細川晴元(ほそかわはるもと)三好長慶(みよしながよし)がモメ始めるみたいなので天文十八年(1549年)6月の江口の戦い(6月24日参照>>)が描かれるのかも?やけど、その間はたったの1年3ヶ月・・・

しかも、その途中の天文十八年(1549年)には2月24日には信長と濃姫の結婚(2月24日参照>>)があるけど、未だに1度も出てない信長はどないなるんやろ?

ただでさえ今年は、例のアレで初回が遅れたうえ夏のオリンピックで飛ばされるため、いつもよりは7~8回少ないんですよね?
さすがに、本能寺の変>>天王山>>がナレーションスルーになる事は無いと思いますが、エピソード満載の信長配下時代が、このスピードで大丈夫なのか?

まだまだ先の話で、アレコレ気になる今週の「麒麟がくる」でしたww

★「足利義輝+細川晴元」&「三好長慶+松永久秀」が、上司&部下の関係にも関わらず、なんでモメるのかは「細川家内訌~嵯峨の戦い」=【細川氏綱の抵抗と三好長慶の反転】>> のページでどうぞm(_ _)m
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2020年2月11日 (火)

織田信秀が那古野城を奪取~そして名古屋城

 

天文元年(1532年)2月11日、織田信秀が今川氏豊から那古野城を奪いました

・・・・・・・

那古野城(なごやじょう)は、あの「尾張名古屋は城で持つ」の金の鯱(しゃちほこ)で有名な名古屋城(なごやじょう=愛知県名古屋市)とほぼ同じ場所にあった城です。

もちろん、古い那古野城のほうが、かなり規模は小さいですが・・・

最初にこの城を構築したのは、今川氏親(いまがわうじちか=今川義元の父)もしくは、その一族の誰かとされていますが、駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)に本拠を持つ今川が尾張(おわり=愛知県西部)に城を??と、ちょっと不思議な気もしますが、

ご存知のように、今川はあの室町幕府全盛の頃からの押しも押されぬ駿河守護(しゅご=県知事みたいな)・・・一方、尾張の守護であった斯波(しば)は力衰えはじめ、守護代(しゅごだい=副知事みたいな)であった織田(おだ)が主家をしのぐ勢いを持ちはじめるものの、その織田家の中での諸将の力関係が微妙で・・・と何やらゴタゴタしてた一時期があったわけで、

どうやら、そんな頃に、今川氏が支配領域を拡大して尾張の東部まで進出・・・この時期に那古野城を構築したらしいです。

・・・で、この那古野城の城主だったのが今川氏豊(いまがわうじとよ)という人物で、あの今川義元(よしもと)の弟だったとされるのですが、そのあたりの話はどうも怪しく、謎な人であります。

ただ、その出自は謎ですが、この天文元年(1532年)前後に那古野城の城主であった事は確か・・・

そこを巧みに狙ったのが、織田家の本拠であった清州城(きよすじょう=清須市)にて清洲三奉行(きよすさんぶぎょう)と呼ばれる家柄の一人であった織田信秀(おだのぶひで)・・・あの織田信長(おだのぶなが)のお父ちゃんです。

大永七年(1527年)に17歳で家督を譲られ、清洲三奉行の一人の座を継いだ信秀は、現段階では今川に取られた形となっている那古野を奪回せんと、密かに策を練ります。

『名古屋合戦記』『明良洪範』等によると・・・

今川氏豊が大の連歌(れんが)好きである事を知った信秀は、那古野城で開催される連歌会に度々出席し、自分も連歌好きである事をアピールしながら氏豊に接近し、徐々に親しくなっていきます。

何度も通うち、かなり仲良くなって、やがて那古野城に宿泊するほどになり、氏豊から信秀専用の客間を与えてもらえるほどの信頼を得ていきます。

いつ事でしょうか。。。その与えられた客間から本丸に向かって狭間(さま=お城にある鉄砲や矢を撃つための小さな窓の事です)のようにも見える窓を、信秀が勝手に造った時には、さすがに怪しんだ家臣が、氏豊に
「変です」
と進言しましたが、氏豊は、
「彼は風流な人やから、夏の風を室内に取り込むために開けたんやろう」
と言って聞く耳を持たなかったとか・・・

それほど、信秀の事を信頼していたようです。

そこまでの信頼を得た信秀・・・

かくして天文元年(1532年)2月11日、那古野城にて信秀は、病気と称して居城の勝幡城(しょうばたじょう=愛知県愛西市)から幾人かの家臣を呼び寄せて城内の自分の部屋に招き入れておき、同時に、城外に多数の兵を忍ばせて準備万端。

その日、城内で信秀が火を放って騒ぎを起こしたのを合図に、城外の兵が城へと乱入・・・内と外で氏豊らを挟み撃ちにする形で、那古野城を乗っ取ってしまったのです。

ほとんど防戦できなかった氏豊は、命からがら城を脱出し、奥さんの実家である斯波氏を頼って京都(きょうと)へと逃れました。
(奥さんの父である斯波義達(よしたつ)が隠居して京都にいた)

そう、実は、この行動が「氏豊は本当に義元の弟つまり氏親の息子)なのか?」って疑問を呼ぶわけです。

氏親の息子で義元の弟なら、京都に逃げなくても駿河に逃げれば良いわけで・・・

しかも、この5年後の天文五年(1536年)6月には、義元の二人の兄=氏輝(うじてる)彦五郎(ひこごろう)連続急死して、そのすぐ下の弟=玄広恵探(げんこうえたん)と、さらにその下の弟=義元(当時は栴岳承芳)の間で、この今川の家督を巡っての争い=花倉の乱(はなくらのらん)(6月10日参照>>)が勃発(この戦いに勝利したので義元が今川を継いでます)しているわけですが、この今川家を揺るがす一大事に、その下の弟であるはずの氏豊は、おそらく、まだ京都にいて、この争いにまったく関与していません。

ま、晩年には再び駿河に戻って来ているようですので、縁があった事は確かですが、そういう点から見て「どうやら氏豊は、義元の弟では無いのではないか?」との疑いがかけられているのです。

とにもかくにも、ここで那古野城を奪った信秀・・・

Odanobunaga400aこの2年後の天文三年(1534年)に信長が生まれているので、おそらく、信長の誕生の地は、この那古野城だったのだろうと言われています(異説あり)

その後、信秀は、未だ幼き信長に那古野城を譲り、信秀自身は、新しく構築した古渡城(ふるわたりじょう=愛知県名古屋市中区)に移り、そこから、三河(みかわ=愛知県東部)松平(まつだいら=家康の父ちゃんたちです)(12月5日参照>>)やら、今川義元(9月19日参照>>)やら、美濃(みの=岐阜県南部)斎藤道三(さいとうどうさん)やら(9月23日参照>>)戦って、戦国の波に呑まれていくわけですが・・・くわしくは【信長の父ちゃん~織田信秀】のページ参照>>

その後、父亡き後に織田家を継いだ信長が、当時の守護代であった織田信友(のぶとも)から、尾張の本拠である清洲城(きよすじょう=愛知県清須市)を奪って、そちらに拠点を移した事から、やがて那古野城は廃城となります。

ちなみに、今回の織田が守護代の時代から、信長を経て豊臣秀吉(とよとみひでよし)政権のあたりまで、尾張国の本拠は、この清須城で、あの関ヶ原の頃には福島正則(ふくしままさのり)が、ここ清洲城を拠点に尾張を治めていました。

つまり、この間は、尾張の地に「なごやじょう」という城は無かったのですね。

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「元禄拾年御城絵図」(名古屋城古地図)

関ヶ原直後には、徳川家康(とくがわいえやす)の九男である徳川義直(よしなお)が清須城主として入ったりしてましたが、慶長十四年(1609年)に、その家康が、以前に那古野城があった場所に、新しい名古屋城を構築して、ここを尾張の拠点と定めた事で今に至る・・・というワケですね。(その後清洲城は廃城となります)
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2020年2月10日 (月)

大河ドラマ『麒麟がくる』第4回「尾張潜入指令」を見て

 

尾張潜入で、いよいよ信長が出ると思いきや、家康が出ちゃったよ~の第4回『麒麟がくる』

●なんで幼い家康が織田にいるのか?は↓
 【少年・徳川家康の命の値段】>>
●織田から今川に移る話は↓
 【安祥城の戦いで人質交換】>>
●今川から独立する話は↓
 【桶狭間の戦いの家康は…】>>

…にしても、今回の柿のくだりは、アレですか?

今の今まで、私は、
12月に入る頃に本能寺の変>>があり、
秀吉が中国大返し>>で戻って来て、
あの天王山>>へと突入し、光秀の死を以って最終回になる・・・と思っておりましたが、

ひょっとして光秀=天海説(10月2日参照>>)を取って、第3代将軍=德川家光(とくがわいえみつ)の時代までやっちゃうつもり…てな事はないですよねぇ~NHKさんww

…というのも、関ヶ原の頃に突如現れて(←この頃にすでに70歳くらいだったと言われている)徳川家康(とくがわいえやす)のブレーンとして活躍して江戸幕府初期の基礎を築いたとされる僧=天海(てんかい)の逸話の中に・・・

ある時、将軍=家光から柿をごちそうになった天海が、食べ終わった柿の種を、丁寧に紙に包み持ち帰ろうとしたところ、家光が
「そんな物、持って帰ってどうする?」
と聞くと、天海は、
「もちろん、植えます」
と・・・

「いやいや、90越えてる君が持って帰って植えたとて…桃栗三年柿八年、柿はなかなか成らんぞ」
と言う家光に、
「将軍たるもの、そないに性急に物事を決めつけたらあきまへんで~もそっとジックリ先を見据えなはれ~」
と言ったという天海・・・

果たして何年か後、天海は、この時に植えた柿の実を、家光に献上した・・・という逸話があるのですよ。

幼き家康に干し柿を与えながら「今は我慢の時」てな事を言う光秀は、まさに家光を諭す天海のようでした。

ま、さすがに「光秀=天海」は無いでしょうけど・・・

にしても、望月東庵菊丸さんなど、架空の人物出ずっぱりのほぼほぼオリジナルストーリーの今回でしたが、さずがはしっかりとした脚本家さん・・・いつかのアレとかコレとかとは違い、創作部分も破天荒になり過ぎず、ここまで斎藤家の話ばかりだった中で「一方、その頃、織田では…」みたいな感じの織田家紹介程度にとどまっていて、イイ感じです。

とは言え、どうやら菊丸さんは、ただの農民ではなさそうですね~
どう考えても光秀を助けたのは、菊丸の仲間・・・しかも、菊丸の護衛に近い?

菊丸さんは菊丸さんで、命懸けのような敵地潜入ミッションを何のためらいもなく、やってのけるわけで・・・これはタダの農民では無い感満載です。

ひょっとして、この先、超有名な人物に化けるんでしょうか?

実は超有名かつ重要人物で、本来なら主役級を演じる役者さんがやるべき役だけど、最初の登場は農民Aとして・・・なので、大物である事がバレないように、有名ではあるけれど俳優さんではないナイナイ岡村さんを起用した。。。てな事だとすると、実に見事なキャスティングですね~ついつい期待しちゃいます。

鉄砲と国友と本能寺の関係をさりげなく紹介する所なんかも良かったです。

現代の感覚でいくと、お寺や僧侶が武器製造を?って思っちゃいますが、この先、織田信長と戦う石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)を見ても(【天王寺合戦】参照>>)、この時代、お寺が持ってる金と人材の豊富さはハンパないわけで、そんじょそこらの武将じゃ太刀打ちできないほどの財力と武力を持っていた事は確かなのです。

今回、この鉄砲と本能寺の事を話の中に差し込んでくださった事で、おそらく、この先描かれるであろう比叡山焼き討ち(9月22日参照>>)も、ただの信長の非情な殺戮や残虐性として、ありきたりに描く事は無いのだろうなぁ~という期待を持ちました。。。

ま、最近の研究では、「比叡山焼き討ちを積極的に行ったのは光秀」と言われたりなんかしてますので、むしろ、中盤1番の盛り上がりとして描かれるのかも知れません。

ところで、先週、斎藤義龍(さいとうよしたつ)の目の前で、遠くに吊るされたひょうたん(ひょっとして秀吉を意識してる?)を一発で仕留めたほどの鉄砲の腕前を持っていたはずの光秀が、今回は、かなりヘタッピーになってたのは、なんでなんだろう??(撮り直しの関係でVが前後してる?)

ま、他にもツッコミ所が無いわけではないですが、それもあれも、この先のフラグ&伏線かも知れない事を踏まえつつ、来週にも期待したい「麒麟がくる」でした。
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2020年2月 4日 (火)

大河ドラマ『麒麟がくる』第3回「美濃の国」を見て

 

背景の田んぼの畔と光秀の着物の色の同化っぷりが気になって仕方がない今日この頃ww
いや、もう色彩の事は言いますまい・・・

大河ドラマ『麒麟がくる』第3回「美濃の国」を拝見させていただきました~

加納口の戦いで負傷した家臣に代って、その人の田んぼを耕す長谷川光秀・・・

一方で、主筋の尾美頼芸「操り人形には毒は盛りません」と言い放つ本木道三・・・

巷では、本木さん演じる道三と伊藤さん演じるその息子=義龍のあまりの存在感っぷりに、「主人公の存在感が無い」との声が出ているようですが、個人的には「今はそれで良い」と思うのです。

現段階の光秀は、未だ海の物とも山の物ともわからない、ただの若者・・・
(それにしては鉄砲の腕前とか孫子の兵法の理解ぶりとかがスゴイですが、そこは主役の特権)

前半生が謎なぶん、ある程度の年齢になった設定で始まった今年の大河ですが、いつもの大河なら、まだ子役ちゃんが演じている序盤の段階なのですから、ここで、主人公が存在感を出す必要はなく、ノホホンと田んぼを耕したり、準備不足で少々緊張気味の川口帰蝶姫のお相手をしているくらいが、ちょうど良いと思います。

望月東庵や農民菊丸さんなど、架空の人物が頻繁に登場して主人公に絡む間は、あくまで創作中心になるのですから、そこに史実や実在の人物を絡め過ぎると、逆におかしな事になってしまいそうですものね。

斎藤親子の確執や実子じゃないかも疑惑などの斎藤家内のシーンは重厚に、光秀のシーンは軽めに・・・で正解だと、私は感じています。

で、今週の第3回は、天文十六年(1547年)の加納口の戦い(9月22日参照>>)が終わった所から始まり、翌・天文十七年(1548年)の第2次小豆坂の戦い(3月19日参照>>)までが描かれていたわけですが・・・

「長い人生…たった半年描くのに1回分=45分の放送時間を使って大丈夫かい?」という疑問は置いといて、ここまで見ていて、ちょいとややこしい部分があったので、自分自身がドラマを理解するためにも少々、簡単&簡潔におさらいを・・・(注:あくまでざっくり…です)

そもそも、名門で美濃(岐阜県南部)守護(しゅご)であった土岐(とき)氏は、先代の時に兄の土岐頼武(ときよりたけ)と弟の土岐頼芸(よりのり )の間で後継者争いが勃発したのですが、その時に守護代であった斎藤利良(さいとうとしなが)は兄の頼武を推し、代官長井長弘(ながいながひろ)とその家臣の長井新左衛門尉(しんざえもんのじょう=本名:松波庄五郎)は弟の頼芸を推し、両者は勝ったり負けたりの複数回の合戦の末、弟=頼芸が勝利し、天文五年(1536年)に頼芸が正式に守護に任命されます。

その間に長井長弘が亡くなって(暗殺説あり)息子の長井景弘(かげひろ)に、家臣の長井新左衛門尉も病死してコチラも息子の長井規秀(のりひで)に、それぞれ世代交代。。。。

一方の負けた頼武も浮いたり沈んだりしつつ、政情不安&対立構造を残したまま亡くなり、こちらも、ここらあたりで息子の土岐頼純(よりずみ)に世代交代。。。さらに、同じくこのあたりで長井景弘がこっそり退室フェードアウト(←いつの間にか史料に出て来なくなる)

やがて天文七年(1538年)に守護代の斎藤利良が病死すると、長井規秀がその名跡を奪って斎藤利政(としまさ=道三)と名乗ります。

その間にも利政=道三からの和議したりしなかったりの調略を受けた頼純は、母の実家である朝倉(あさくら)を頼って越前(えちぜん=福井県東部)へ亡命・・・その後、その朝倉氏の朝倉孝景(あさくらたかかげ)尾張(おわり=愛知県西部)織田信秀(おだのぶひで)支援を得た頼純が美濃へと進出・・・これが天文十三年(1544年の)井ノ口の戦いです(9月23日参照>>)

この時は、斎藤道三に痛い敗北を喰らった朝倉&織田でしたが、その2年後の天文十五年(1546年)に、朝倉&織田だけでなく頼芸の味方である近江(おうみ=滋賀県)六角(ろっかく)までもが仲介役を買って出た事で、頼純と頼芸&道三の間で和議が成りました。

ただ、この時の和睦の条件が、頼芸の引退と頼純の守護就任であったため、今度は頼純が守護になり、同時に道三との娘=帰蝶(きちょう=濃姫)と結婚します(←大河の第1回はココらへんから)

しかし、翌天文十六年(1547年)9月には、織田信秀が美濃に侵攻して、あの加納口の戦い・・・ここでも、道三が信秀に勝ったわけですが、それから2ヶ月後の11月、守護就任から、わずか1年で頼純が24歳の若さで急死するのですね(←第2回がココ:ドラマでは伊右衛門の毒茶接待

で、第3回で尾美頼芸さんが、おっしゃてた通り、その後の土岐氏は完全にお飾りとなるわけです。

‥…━━━☆

・・・にしても、
「もう出るやろ」「もう出るやろ」と思わせておいて「まだ出ない」織田信長(おだのぶなが)は、主人公が尾張に潜入する来週は、いよいよ出るのか?出ないのか?

その5年後の正徳寺道三と信長の会見(4月20日参照>>)は、やるのか?やらないのか?

とにもかくにもまだまだ先は長い・・・次回も楽しみですね。
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2020年2月 3日 (月)

恵方巻の風習と節分お化けの記憶

 

今日、2月3日は節分・・・

節分とは、立春を明日にひかえた、その前日の冬から春へと向かう季節の分かれ目の事で、昔は、この日が一年の始まり・・・今でも、お正月の挨拶に「初春」とか「迎春」とかって言うのは、この立春が昔のお正月だったからで、その前日に豆をまいて去って行く年の邪気を払うのが、豆まき・・・くわしくは、以前書かせていただいた【節分・豆まきの起源と鬼】のページ>>で見ていただくとして、本日は、その節分の行事として、全国的に定着しつつある?(あるいはすでに定着している?)恵方巻(えほうまき)について・・・

ちなみに、恵方巻とは、節分の日に、その年の恵方(えほう=正月の神様がやって来る方向もしくは縁起が良い方角)を向いて、切っていない巻きずし1本を、無言で食べきると良い事がある・・・てな風習ですが、

実は、この風習について、本日は、少々の思う所を吐露させていただきたいと思います。

・・・というのも、この恵方巻が全国ネットになった事で、その起源というか由来というか…な部分で、不肖茶々が、これまで聞いた事もないような話が流布しているからです。

もちろん、私が聞いた事無いので「それは間違い」という気は毛頭ございません。

私が聞いた事ないだけで、実際には、それがルーツなのかも知れませんからね。

ただ、我が家では、大正生まれの祖母が物心ついた頃からですから、おそらくは70~80年近く前から節分に巻きずしをまるかぶりして来たわけですので(さすがに物のない戦時中は中断してたと思いますが…)、そんな我家が「その由来は聞いた事がない」という事だけはお伝えしておきたく、自分への備忘録的なつもりで書かせていただいときます。

その「聞いた事が無い」という恵方巻の由来は、
「明治の終わりか大正の初め頃に、船場の花街で、男性のアレに見立てた巻きずしを、遊女や芸者さんたちにまるかぶりさせて、その様子を旦那衆が見て楽しんでいたのが起源」というような内容の話です。

そのために
「恵方巻の由来を聞いて、恵方巻が嫌いになった」
とか
「あんなゲスな由来の恵方巻をうれしそうに食べてる人はバカなの?」
みたいな書き込みが、ここ2~3年前からネット上に散見されるようになり、上記の通り、7~80年ほど前から、節分に巻きずしをまるかぶりしていた家の者としては、とても悲しい気持ちになっているワケです。

なので、あらためて言わせていただきます。。。
大阪生まれの大阪育ちで、ウチの家系では80年くらい前から食べておりますが、
「そんな話は聞いた事がありません」
(どなたか「男性のアレ」の出典をご存知の方、お知らせください)

また、恵方巻の由来はともかく、歴史上、大阪の船場に花街があった事はありません。
船場は昔から商いの町ですから。。。

不肖私、今は別の場所に住んでいるおけいはん(京阪電車に乗る人)ですが、このブログでもチョイチョイお話しています通り、実家は大阪城の近くです。

ただ、そこは、瀬戸内海のとある島出身の水軍末裔の父が大阪に出て来て商売を始めた場所なので、80年ほど前から節分に巻きずしを丸かぶりしていた母方の実家は別の場所にあるのですが、さほど遠くはない場所ではあります。

母方のご先祖は高松の士族でしたが、例の明治維新で禄がもらえなくなった(負け組やしね(ToT))事を受けて、大阪に出てきて和菓子屋を営んでいたと聞いています。

そこで思うのは、
明治から大正&昭和を生きた母方の曾祖父は、落語家さんのタニマチやったり、芸者遊びに興じる事もある芸事が好きな人だったと聞いていますが、もし例の「男性のシンボルに見立てた巻きずしを…」って話が本当の事だとすると、ウチの曾祖父は、同時代にどこかの花街にも出入りしていたであろうにも関わらず、そんなオゲレツな事を、自分の娘や孫にさせていた事になりますよね?

さすがに身内として、それは信じたくない・・・

なんせ、普段の曾祖父は、「ウチは士族だから…」(←スンマセンm(_ _)m昔の人なので…許してやってください)と、コスイ事やズルイ事を嫌う厳格な明治生まれの人だったと聞いておりますので、いくら芸事が好きでも、遊びとそうでない場合をキッチリ分けていたと思うのです。

なので、私としては(希望的観測も含めて)、やっぱり1年の無事を祈っての風習なんやと思いたいです~知らんけど…(^o^:)

もちろん「恵方巻」という名前は、大阪にもともとあった、この巻きずし丸かぶりの風習を知ったセブンイレブンが1990年頃から「恵方巻」の名前で売り出して、徐々に全国に広がっていったという事は、周知の事実です。

それ以前は、ウチでも、単に「巻きずし丸かぶり」と呼んでいました。

また1950年代頃までは、節分の日にお寿司屋さんに行って巻きずしを注文した時にも、
「切らんといてね。。。丸かぶり用のヤツやから」
と念を押さないと、いつものように切られてしまうという事があったようですので、その頃は、未だ大阪のお寿司屋さんでも、すべてには浸透しておらず、あくまで、知ってる人は知ってる一部地域の風習だったような事も聞いております。

ただ、ここらあたりまでは一部地域で行われていた風習を、皆がお寿司を味わえるようになった戦後の高度成長期に合わせて、「一儲けしよう」と考えたお寿司屋さんが、その宣伝に使った事は確かだと思います。

なんせ、兵庫県出身の歌手の南野陽子(みなみのようこ)さんがアイドル全盛時代の頃、東京で収録のとある歌番組で
司会者さん:「陽子ちゃんの実家の地域では節分に巻きず
       しを丸かぶりする風習があるんだってね」

陽子さん :「はい、そうです」
観客   :「へぇ~」(←ちょっと驚いた感じのへぇ~)
というやり取りがあったので、この1980年代頃には、すでに関西一帯に広がっていたわけですから、わずか30年で、その広がりのスピードがハンパない!
(逆に私は「えっ?アレ全国的やなかったん?」と驚いた記憶がありますww)

以上が、私の記憶&実家で聞いた話ですが、「昔からやっていた幸せを呼ぶ行事」というだけで、起源そのものは、結局わからず仕舞いで、申し訳ないです。
Setubun
ところで、大阪の節分の風習といえば「節分お化け」というのもあります。

それこそ、私が、まだ小さい頃には残っていた風習ですが(お前いくつやねん!というツッコミはなしで…)、この「お化け」というのは、いわゆる「化け物」=「Q太郎のオバケ」ではなく、「化ける」あるいは「変身する」という意味で、節分の夜に仮装して出歩くのです。

つまり、今で言えばハロウィンみたいな感じです。

あまりに小さい頃なので、仮装して出歩いて何をしたのか覚えていないのですが、自分が巫女さんや白拍子のような恰好して写っている写真などが残っているし、「節分お化け」という名称も覚えているのです。

で、先日、京都祇園の花街では、今も、この「節分お化け」が行われている事を知って、その界隈に住んでおられた知り合いのお婆ちゃまに確認してみたところ、
「昔は大阪の方が盛んやったのよ~」
との事。。。

やはり、幼い頃の記憶は間違っていませんでした。

大阪の商人たちの間で行われていた「節分お化け」が、近畿周辺の町衆に徐々に広がって行ったものの、平成&令和の今ではすたれしまって、現在は町おこしの一環あるいはイベントとして祇園の花街などで行われているようです。

皆の衆!
日本人なら、ハロウィンより「節分お化け」でっせ!
と言いたいところですが、1年で最も寒いであろうこの時期に、万が一、肌を露出した仮装をしようという人がいたら困るので、やっぱムリそうかな?(^o^:)
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