信長が仕掛ける浅井滅亡への一手~佐和山城の戦い
元亀二年(1571年)2月24日、織田勢に包囲されていた浅井方の磯野員昌が守る佐和山城が開城されました。
・・・・・・・・
佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)と言えば、即、あの石田三成(いしだみつなり)を思い浮かべる 方も多かろうと思いますが(私もそうです(^o^;))、実は、その歴史は古く、築城されたのは鎌倉時代・・・その頃に近江(おうみ=滋賀県)を任されていた近江源氏の佐々木(ささき)氏が構築したとされます。
源平合戦の「宇治川の先陣争い」(1月17日参照>>)で有名な佐々木高綱(ささきたかつな)さんの一族ですね。
もちろん、その頃は城郭というよりは砦みたいな物だったでしょうが・・・
で、ご存知のように、その佐々木氏の流れを汲むのが六角(ろっかく)氏・・・室町時代に入ってからの六角氏は、幕府将軍をも手こずらせるほどの勢力を誇り(12月13日参照>>)、同じ佐々木氏の流れを汲む京極氏(きょうごくし)とともに近江の南北(六角=南、京極=北)を支配する形となっていましたが、あの応仁の乱(5月20日参照>>)の最中に起こった京極家内の後継者争い(8月7日参照>>)によって、京極氏の弱体化が始まり、いつしか京極氏の根本被官(こんぽんひかん=応仁の乱以前からの譜代の家臣)だった浅井氏の浅井亮政(あざいすけまさ)が主家を凌ぐ力をつけていき(4月6日参照>>)、戦国時代も後半になると、もう北近江は、事実上浅井の物になって、佐和山城は浅井が本拠とする小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町)の支城として、元亀年間には浅井長政(あざいながまさ=亮政の孫)の家臣=磯野員昌(いそのかずまさ)が城主を務めていました。
そんなこんなの元亀元年(1570年)6月に起こったのが、あの姉川(あねがわ)の戦いです。
●【いよいよ姉川…小谷に迫る】>>
●【姉川の合戦】>>
●【姉川の七本槍】>>
これは、去る永禄十一年(1568年)の9月に、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛した(9月7日参照>>)織田信長(おだのぶなが)が、その後の再三の上洛要請に応じなかった越前(えちぜん=福井県東部)の朝倉義景(あさくらよしかげ)の金ヶ崎城(かながさきじょう・かねがさきじょう=福井県敦賀市)を元亀元年(1570年)に攻撃した(金ケ崎手筒山の戦い>>)時、織田の味方であったはずの浅井氏が朝倉について、あわや挟み撃ちとなるところ、なんとか岐阜(ぎふ)に戻って来た(金ヶ崎の退き口>>)という、まさに信長危機一髪だった出来事に対して、その3ヶ月後に報復!とばかりに信長が小谷近くに攻め寄せた戦いです。
しかし、この姉川で勝利した信長が、敗走する浅井・朝倉勢を深追いする事がなかったため、浅井・朝倉は負けたとは言え、ある程度の兵力を温存したまま・・・
この時、織田本陣に迫る活躍をした磯野員昌ではありましたが、負け戦となり、何とか敵陣を突破して、自身の佐和山城に戻り、休む間もなく城の防備強化にまい進します。
そのおかげか?姉川からほどない7月1日に、諸軍を率いて佐和山城を攻めに来た信長は、その守りの固さを見て、
「すぐには落ちぬ」
との判断し、城の東に位置する百々屋敷(どどやしき=滋賀県彦根市小野)に砦を築いて、そこに丹羽長秀(にわながひで)を置き、西の尾末山(おすえやま=同彦根市)には市橋長利(いちはしながとし)を、南の里根山(さとねやま=同彦根市)には水野信元(みずののぶもと)を、彦根山(ひこねやま=現在の彦根城がある小山)には河尻秀隆(かわじりひでたか)と、万全の包囲網を作っておいて、自身は7月4日に京都の足利義昭に帰郷の挨拶をして岐阜へと戻りました。
ところが、その3か月後の9月には、浅井・朝倉にゲリラ的に宇佐山城(滋賀県大津市)を攻められてしまい、信長は弟の織田信治(のぶはる)と重臣の森可成(もりよしなり)を失ってしまいます(9月20日参照>>)。
(↑彼らの奮戦により落城は免れます)
さらに翌10月には、新たな2万の兵を率いて琵琶湖(びわこ)の西岸を南下して来た浅井・朝倉勢に対して、信長は堅田(かたた=滋賀県大津市)に砦を構えて応戦(11月26日参照>>)・・・しかし、この戦いは12月14日に時の天皇である正親町(おおぎまち)天皇から合戦中止の綸旨(りんじ=天皇の命令)が下されたため、やむなく、両者一応の和睦となりました。
佐和山城周辺の位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
この間にも、佐和山城へのけん制は続けられていたわけですが、長期の包囲にも関わらず、未だ降伏には至らず・・・
とは言え、春までにはここ佐和山は押さえておきたい・・・なんせ雪解けの時期になれば、当然、雪国越前の朝倉の動きは活発になるわけで、またもや浅井と合同で南下してくるやも知れませんし、なんたって、ここを奪取しておけば岐阜から京都への動線が確保されます。
ちょうど、その頃、昨年末から活発になり始めた長島一向一揆(ながしまいっこういっき)(11月21日参照>>)に対抗すべく、信長は丹羽長秀を長島へ派遣・・・代わりに、木下秀吉(きのしたひでよし=豊臣秀吉)が百々屋敷に入ります。
もちろん、佐和山城攻略の役目も秀吉が引き継ぐ事に・・・早速、秀吉は側近の蜂須賀正勝(はちすかまさかつ=小六)と作戦を練ります。
まずは堀次郎(ほりじろう=堀秀政の従兄弟?)&樋口直房(ひぐちなおふさ)の400の兵と蜂須賀の400余りで佐和山城を三方から囲み、湖上に展開する前野長康(まえのながやす)の500余騎にて琵琶湖を封鎖して兵糧の運び込みを断つ・・・さらに、「佐和山城はすでに織田方に落ちた」とのフェイクニュースを流す。。。
さすれば、孤立した佐和山城の兵糧は20日ともたないであろう・・・と、
当然、その間には開城を促す交渉も必要です。
元亀二年(1571年)2月2日、秀吉は、蜂須賀と前野の2名に書状を持たせて使者として送り、佐和山城の磯野との交渉を開始します。
それから20日余り経った元亀二年(1571年)2月24日、磯野員昌から「籠城する500余りの城兵の命を助けるのであれば開城する」との返答を受け取った秀吉が、その申し入れを受け入れ佐和山城は開城となりました。
籠城していた将兵の多くは、船で琵琶湖の対岸へと逃げていったのだとか・・・
交渉に応じて降伏した磯野員昌は佐和山の代わりに琵琶湖の北西に位置する高島郡(たかしまぐん=滋賀県高島市)を与えられるという破格の待遇を受けて織田の配下となり、佐和山城へは丹羽長秀が入りました。
なんせ、この頃は、上記の佐和山の丹羽をはじめ、今回の秀吉も、柴田勝家(しばたかついえ)や明智光秀(あけちみつひで)などなど、織田配下のそうそうたるメンバーが、皆、琵琶湖の周辺に配置されていましたから、それを踏まえれば、琵琶湖の北西は、かなりの厚遇です。
そのおかげで、天正元年(1573年)には、あの金ヶ崎の退き口の際に信長に発砲した杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅぼう)を、高島郡の潜伏先にて捕縛するという手柄にも、磯野員昌は恵まれています(5月19日参照>>)。
ただ・・・晩年は、信長さんと折り合いが悪く、出奔して農業に従事していたという事らしいですが、そのあたりはちょっと謎です。
とにもかくにも、ここで佐和山城が落ちただけではなく、この佐和山落城のニュースを聞いた太尾山城(ふとおやまじょう=滋賀県米原市)の浅井家臣=中島直親(なかしまなおちか)もが、すぐに退去して小谷城へと走り去ってくれた事で、秀吉は佐和山と太尾山の二城を手に入れる事ができたのです。
もちろん、これが2年後の天正元年(1573年)の浅井・朝倉の滅亡へとつながっていく重要な一手となる事は、皆さまご存知の通りです。
この後の展開は・・・
●【信長&秀吉VS浅井~箕浦の戦い】>>
●【山本山城の戦いと虎御前山城構築】>>
●【刀禰坂の戦い】>>
●【朝倉氏滅亡~一乗谷】>>
●【小谷城・落城~浅井滅亡】>>
.
「 戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事
- 大和平定~織田信長と松永久秀と筒井順慶と…(2024.10.10)
- 浅井&朝倉滅亡のウラで…織田信長と六角承禎の鯰江城の戦い(2024.09.04)
- 白井河原の戦いで散る将軍に仕えた甲賀忍者?和田惟政(2024.08.28)
- 関東管領か?北条か?揺れる小山秀綱の生き残り作戦(2024.06.26)
- 本能寺の変の後に…「信長様は生きている」~味方に出した秀吉のウソ手紙(2024.06.05)
コメント