秀吉の中国攻め~毛利VS宇喜多の麦飯山八浜合戦
天正九年(1581年)2月18日、信長の命による秀吉の中国攻めの真っただ中、秀吉の依頼を受けた宇喜多忠家が籠る麦飯山城を、毛利方の穂井田元清が攻撃しました。
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天正九年(1581年)と言えば、まさに豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)の中国攻め真っただ中・・・もちろん、これは、秀吉の主君である織田信長(おだのぶなが)の命令によっての侵攻なわけですが・・・
そもそもの発端は・・・
永禄十二年(1569年)に、自らが滅ぼした周防(すおう=山口県)の大内氏(おおうちし)(4月3日参照>>)の残党=大内輝弘(おおうちてるひろ)と交戦中だった安芸(あき=広島県)の毛利元就(もうりもとなり)が、その背後を突いて出雲(いずも=島根県)を奪回しようと動き始めた尼子氏(あまこし)(10月28日参照>>)の残党に協力する姿勢を見せた但馬(たじま=兵庫県北部)の守護=山名祐豊(やまなすけとよ)を「東側からけん制してほしい」と信長に依頼し、それを受けた信長が、秀吉に2万の軍勢をつけて送り出した事にはじまる織田の中国攻め・・・
しかし、その後、信長に敵対して(7月18日参照>>)京都を追われた第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)が毛利に逃げ込んで(11月16日参照>>)再起を狙ってる事や、すでに勃発していた石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)との戦いで、本願寺の救援要請に毛利が応じた(7月13日参照>>)事、
また逆に、先の山名祐豊や尼子の再興を願う尼子勝久(かつひさ)らが織田傘下となった事などなどで、元就の後を継いだ孫の毛利輝元(てるもと)が当主を務める頃には、スッカリ織田VS毛利の対立構造になっていたのです。
そんな中、天正五年(1577年)には但馬を攻略した(10月23日参照>>)後、上月城(こうづきじょう=兵庫県佐用郡)(11月28日参照>>)&福原城(ふくはらじょう=兵庫県佐用郡佐用町・佐用城とも)(12月1日参照>>)を奪取して、翌天正六年(1578年)の春からは三木城(みきじょう=兵庫県三木市)の包囲(3月29日参照>>)・・・と確実に駒を進めていく秀吉。。。
もちろん毛利も黙ってはいません。
奪取後、秀吉が尼子勝久に守らせていた上月城を攻撃(5月4日参照>>)・・・秀吉が援護に向かうも7月には落城し(7月3日参照>>)、事実上、尼子氏は滅亡します。
一方、備中兵乱(びっちゅうひょうらん=岡山周辺の戦国武将の戦い)(6月2日参照>>)のドサクサで主家の浦上(うらがみ)を追放した宇喜多直家(うきたなおいえ)が、このあたりで毛利方から織田方へ方向転換(2月17日参照>>)・・・2年に渡る戦いでようやく三木城を落とした(1月17日参照>>)秀吉が、英賀城(あがじょう=兵庫県姫路市飾磨区英賀宮町)を攻撃し(4月1日参照>>)、播磨(はりま=兵庫県南西部)地方を平定(4月24日参照>>)する天正八年(1580年)には、もうすっかり織田傘下となって毛利と戦う宇喜多でした(6月15日【祝山合戦】参照>>)。
そんなこんなの天正九年(1581年)、「備中侵入を容易に推進するには、児島半島を制圧しておきべき」と考えた秀吉は、宇喜多直家に児島への出兵を依頼します。
←このあたりの位置関係は以前の「祝山合戦の図」を参考に…
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
ところが、あいにく直家は病気療養中・・・というより、直家は、この天正九年(1581年)の 2月14日に死亡していたとも言われ(死亡は天正十年1月9日とも)、すでに、宇喜多家内では、息子の宇喜多秀家(ひでいえ)が家督を継いでいたものの、未だ10歳の秀家が当主とあらば心もとなく、叔父の宇喜多忠家(ただいえ)が、秀家の後見人となって事実上の運営をしつつ、直家の死はひた隠しにしていたのだとか・・・
そこで忠家は、直家の死を隠したまま、児島の東北端に位置する小串城(こぐしじょう=岡山県岡山市南区)に攻撃を仕掛けます。
これを受けた毛利側では、輝元の叔父(元就の四男)で猿掛城(さるかけじょう=岡山県倉敷市)主の穂井田元清(ほいだもときよ=穂田元清)を向かわせて、児島の最西端に位置する天城(あまぎ=岡山県倉敷市藤戸町天城)に砦を築き、ここを拠点に宇喜多と対峙・・・
これを受けた宇喜多側は麦飯山城(むぎいやまじょう=岡山県玉野市)に入って防御を固めて、毛利の東進を食い止めるべく籠城しつつ、毛利勢の海上からの攻撃に備えて八浜(はちはま=岡山県玉野市八浜町)に二子山城(ふたこやまじょう=双両児山城)を構築して南水道を抑えます。
しかし、この時、かねてより進行しつつあった水面下での毛利の画策が物を言い始め、宇喜多の中に毛利への内応者が出始めたのです。
内応者が毛利に通じたのを確認した穂井田元清は、天正九年(1581年)2月18日、麦飯山城に攻撃を仕掛けます。
現在は宇喜多の物となっている常山城(つねやまじょう=岡山県岡山市南区&玉野市)と、かの二子山城の間に位置する麦飯山城を奪って、常山&二子山両城の連携を断ち、逆に毛利の物である番田城(ばんだじょう=岡山県玉野市番田)と麦飯山城を連動させて宇喜多を窮地に追い込もうという作戦。
(ちなみに、この常山城↑は、あの女軍の戦い(6月7日参照>>)で知られる天正三年(1575年)に毛利方が奪った城ですが、その後、当時は同盟関係にあった宇喜多に譲られていました)
福原城の戦い・位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
やがて、内応者の手引きにより、籠城を続けるのが困難だと悟った宇喜多忠家は、やむなく麦飯山城から撤退します。
3日後の2月21日には麦飯山城を奪回すべく、忠家嫡男の宇喜多基家(もといえ)が麦飯山城から東へ約一里(約4kim)にある八浜に押し寄せ、そこで大きな戦いに発展・・・しかし、毛利軍の鉄砲隊による迎撃作戦が成功し、毛利が宇喜多を撃退したのだとか・・・
しかし、もちろん忠家は、まだあきらめません。
次に息子=基家に宇喜多の主力部隊を与えて二子山城守らせ、そのサポートとして、家老の岡家利(おかいえとし)を近くの日向山城(ひゅうがさんじょう= 岡山県玉野市)に配置し、常山城の戸川秀安(とがわひでやす)と連携して麦飯山城を挟み撃ちにする作戦に・・・
一方、麦飯山城を奪った穂井田元清は、この麦飯山城を、より強固な城として手直しつつ、番田城には乃美宗勝(のみむねかつ=浦宗勝とも)を派遣して両者の連携を構築します。
さらに水軍力において勝る毛利は、村上景広(むらかみかげひろ=能島村上氏・村上武吉の従兄弟)率いる村上水軍300隻を児島と岡山の間に位置する海上に派遣して交通を遮断しました。
こうして、しばらくのこう着状態が続いた後の同・天正九年(1581年)8月22日(24日とも)、足軽同志の争いから、再び毛利VS宇喜多の戦いが再開されます。
麦飯山城近くの草刈り場で始まった些細な小競り合いは、どんどん拡大していき、大崎村の柳畑(玉野市八浜町大崎)の浜辺での大合戦となり、さらにそれが北上して大崎八幡宮(おおさきはちまんぐう=岡山県玉野市八浜町)の丘陵へと展開し、優勢に進める毛利軍に宇喜多軍は押されぎみに・・・しかも、海上からは、あの村上水軍が宇喜多の側面を突こうと構えます。
この宇喜多軍を指揮していた宇喜多基家・・・形勢不利と見た基家は戦場を移動させるべく、自軍を鼓舞しながら采配を振りますが、そこへ、どこからともなく飛んで来た銃弾を受け、馬上から転落。
側近がすぐさま駆け寄りますが、すでに絶命・・・即死だったとの事。
大将を討ち取られた宇喜多軍は崩れるばかりで、もはや惨敗か??
と思った、その瞬間、常山城から駆け付けた戸川秀安率いる援軍が登場・・・後に「八浜七本槍」と呼ばれる事になる能勢頼吉(のせよりよし)らの勇士が、決死の覚悟で敵中に突っ込んでいき、なんとか形勢を逆転したのです。
勢いづいていた毛利軍もこれにて終了・・・戦況を挽回する事ができないと見た穂井田元清はやむなく撤退を決意し、麦飯山城を捨てて退却して行ったのです。
ギリギリのところで勝ちを得た宇喜多勢・・・この後、秀吉率いる織田の大軍が備中へとやって来るのを待つ事になります。
★今後の秀吉の中国攻めの展開は
【鳥取の干殺し】>>
【備中高松城・水攻め】>>
へと進みます
‥…━━━☆
とまぁ、「今日は何の日?」というテーマでブログを展開している以上、日付がハッキリしないと、お話を進め難いので、上記のような紹介の仕方になりましたが、実のところ、今回の麦飯山八浜合戦(むぎいやまはちはまかっせん)は謎多き戦いなのです。
たとえば『備前軍記』などでは、この戦いを天正四年(1576年)の事としていますが、
上記の通り、おそらく天正四年の段階では、未だ毛利と宇喜多は同盟関係にあったはず(文中にある宇喜多が毛利から常山城を譲り受けたのは毛利が奪い取った天正三年(1575年)より後のはず)ですから、両者が児島を巡って戦う事は、まず、考え難いのです。
なので、毛利と宇喜多の関係と織田配下の秀吉の進軍具合などから察して、今のところ、今回の麦飯山・八浜合戦は天正九年か、その翌年の天正十年の事であろうとの見方が強い事から、今回は、このような日付でお話を進めさせていただきましたので、それらの事をご理解いただければ幸いです。
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