細川晴元の波乱万丈の生涯~幻の堺幕府
永禄六年(1563年)3月1日、細川京兆家を継いでいた細川晴元が摂津富田の普門寺にて病没しました。
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細川晴元(ほそかわはるもと)は、あの応仁の乱(5月20日参照>>)の東軍大将だった細川勝元(かつもと)の曾孫です。
と言っても、勝元の息子の細川政元(まさもと)が男色オンリーで子供がいなかったために養子とした3人↓
関白・九条政基(まさもと)の子・澄之(すみゆき)、
備中(びっちゅう=岡山県)細川家の高国(たかくに)、
阿波(あわ=徳島県)の細川家の澄元(すみもと)、
のうちの澄元の息子なので、親戚・一族ではあるものの、直系として血のつながった曾孫ではありません。
お爺ちゃんにあたる政元は、管領(かんれい=室町幕府将軍の補佐)の意向によって幕府将軍が交代させる(第10代足利義稙(よしたね=義材)→第11代足利義澄(よしずみ=清晃) へ…)という明応の政変というクーデターをやってのけたほどの実力者でしたが、それが完璧な計画通りとはいかなかったために、自身の後継者候補の養子を3人も取る事になってしまい(くわしい事情は4月22日参照>>)、結局その死後に、この3人の間で後継者争いが勃発してしまうのです。
●永正四年(1507年)8月【百々橋の戦い】>>
●永正八年(1511年)8月【船岡山の戦い】>>
●永正十七年(1520年)5月【等持院表の戦い】>>
などを経て、3人の中から後継を勝ち取った細川高国は、足利義晴(あしかがよしはる)を第12代室町幕府将軍として擁立し、確固たる高国政権樹立に成功したのです。
後継者争いに負けた澄元は故郷の阿波へと逃亡しますが、その1ヶ月後の6月10日に無念の病死・・・この時、家督とともに父の遺志をも継いだのが本日の主役=息子の細川晴元で、そのサポートをするのが阿波細川家臣の三好元長(みよしもとなが)でしたが、この時の晴元は、未だ10歳に満たない(おそらく6~7歳)幼子でしたから、今は事を起こす事なく、その時を待ちます。
そんな中、チャンスはほどなく訪れます。
大永六年(1526年)、高国が、自身の勘違いで重臣の香西元盛(こうざいもともり)を成敗した事から、元盛の身内である波多野元清(はたのもときよ=稙通)と柳本賢治(やなぎもとかたはる)が高国に反旗をひるがえしたのです(【神尾山城の戦い】参照>>)。
すでに、反高国派と連絡を取っていた三好元長は、細川晴元はもちろん、亡き澄元が阿波で庇護し、晴元と兄弟のようにして育った次期将軍候補=足利義維(よしつな=義晴の弟)と、ともに10代の若き後継者を引き連れて上洛し、波多野&柳本と連携して桂川原(かつらかわら)の戦い に勝利(2月13日参照>>)・・・高国と将軍=義晴を近江(おうみ=滋賀県)坂本(さかもと=滋賀県大津市)に退かせました。
現役の将軍と管領が坂本に去った事で、その二人の後を追う幕府官僚も多く、京都は、ほぼもぬけの殻の無政府状態となりますが、その京都には柳本賢治が山崎城(やまざきじょう=京都府乙訓郡大山崎町字大山崎)にて睨みを効かし、元長&晴元&義維らは上洛を急ぐ事無く堺(さかい=大阪府堺市)に本拠を構えます。
これについては、上記の通り、この時の晴元が10代前半、義維が10代後半、最年長者である元長でさえ20代半ばであった事から、イザという時に故郷の阿波との連絡を密にできる堺に留まった物と考えられます。
とは言え、ほどなく義維は、将来将軍になる人がつく官職=左馬守(さまのかみ)を朝廷から与えられ、公家の日記などでも「堺之公方(くぼう)」「堺大樹(たいじゅ)」「堺武家」などと義維を現役の将軍の呼称で記されている事から、将軍不在の京都に代って、一時はこの堺が幕府の機能を果たしていた思われ、『堺幕府』と呼ばれたりします。
しかし、皆さまご存知のように、本来、幕府とは、朝廷から征夷大将軍の宣下を受けた将軍が開く物・・・なので『堺幕府』とは、あくまで「幻の堺幕府」なのです。
堺幕府関連位置関係図↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
とは言え、将軍不在の京都に代って、一時期とは言え、ここ堺が幕府としての機能を果たしていた事は確か・・・義維の御座所が引接寺(いんしょうじ)に、元長の陣所が顕本寺(けんぽんじ=大阪府堺市堺区)であったとされ、現在は引接寺は廃寺となり、顕本寺は移転してしまっていますが、堺幕府当時は、引接寺は現在の宿院頓宮(しゅくいんとんぐう)あたりにあり、顕本寺は現在の開口神社(あぐちじんじゃ)のあたりにあったとされますので、現在の阪堺線の宿院(しゅくいん)駅を挟んで歩いて数分の距離に幕府の中枢があった事になります。
晴元の陣所については、未だ記録がなく不明ですが、幕府運営の主要人物が離れて住む事は考え難いので、おそらく彼も、この宿院周辺に住んでいた物と思われます。
しかし結局、この堺幕府は、わずか5年ほどで、その機能を無くしてしまいます。
その始まりは内部崩壊から・・・元長の力の強大さを脅威に思い始めた晴元が、元長を遠ざけ、同族の三好政長(みよしまさなが=元長の従兄弟)らを重用し始め、それを察した元長は、静かに阿波へと引き上げてしまします。
そこに、坂本に退いていた高国が仕掛け始めます。
水面下でつてを頼って各地を転々としながら支援者を集め、享禄三年(1530年)6月29日には播磨依藤城(よりふじじょう=兵庫県小野市・豊地城)を攻撃中の柳本賢治に刺客を派遣して暗殺した(6月29日参照>>)事で機が熟したと見た高国は、翌7月に摂津(せっつ=大阪府北部)に出陣して摂津の諸城を攻略しつつ、京都の奪回を目指します。
この高国勢の勢いに、もはや風前の灯となった晴元に呼び戻された元長は、早速、天王寺(てんのうじ=大阪府大阪市)周辺にて高国勢と交戦し、大物城(だいもつじょう=兵庫県尼崎市大物町・尼崎城と同一説あり)へと追い込んで捕縛・・・享禄四年(1531年)6月8日、敗北した高国は切腹し、細川管領家の後継者争いに終止符が打たれます(【大物崩れの戦い】参照>>)。
こうして、我が世の春を迎えた晴元でしたが、内部崩壊の火種は、まだ消えていなかったのです。
しかも、ここに来て晴元は、その火種に油を注ぐような行動をとってしまいます。
堺幕府として現政権を倒すはずだった方針を一気に転換して、将軍=足利義晴と和睦し、不必要になった義維を遠ざけるのです。
この義理を欠いた行動に元長が激怒する中、晴元は、今度は元長と不仲であった山城南部の守護代(しゅごだい=守護の補佐役)=木沢長政(きざわながまさ)を「高国征伐の功績があった」して重用し、守護(しゅご=今でいう県知事みたいな感じ)の畠山義堯(はたけやまよしたか=義宣)から独立したがっている長政を支援・・・義堯の要請に応じた三好一秀(みよしかずひで=勝宗・元長の一族)が攻撃している長政の居城の飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)に援軍を派遣したのです。
その援軍とは、山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)第10世法主=証如(しょうにょ=蓮如の曾孫)に帰依する衆徒たち・・・晴元は、彼らに一向一揆(いっこういっき)を起こさせたのです。
3万を超える軍勢となった一向一揆は、飯盛山城へと向かい、三好一秀と畠山義堯を討ち取り、その勢いのまま三好元長の陣所である顕本寺を囲んで元長を自刃に追い込み、足利義維を阿波へと退去させました。
ここまでは晴元の思惑通り・・・しかし、勢い止まらぬ一向一揆は、そのまま大和(やまと=奈良県)へと侵攻し、大和に根付く宗教勢力=興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)や春日神社(かすがじんじゃ=現在の春日大社)を標的に暴れまわり、これが、奈良市中を焦土と化す大和一向一揆となってしまいます(【飯盛山城の戦いと大和一向一揆】参照>>)。
勢いがつき過ぎた一向一揆に脅威を感じた晴元は、今度は法華宗(ほっけしゅう=日蓮宗)に働きかけて法華一揆(ほっけいっき)を誘発させ、近江から駆けつけた六角定頼(ろっかくさだより)らとともに、山科本願寺を攻撃して坊舎をことごとく焼き払います(【山科本願寺の戦い】参照>>)。
何とか逃れた本願寺証如以下衆徒たちは、かつて蓮如(れんにょ)(3月25日参照>>)が隠居所として建てた摂津・大坂の石山御坊(いしやまごぼう=大阪府大阪市)へと移り、以後、ここが本願寺門徒の本拠に・・・これが、後にあの織田信長(おだのぶなが)と戦う事になる石山本願寺(いしやまほんがんじ)(11月24日参照>>)となります。
こうして勢いづいた法華宗が京都の洛中を掌握する事になりますが、これに黙っていなかったのが洛中に多くの所領や末寺を抱える比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市)です。
法華宗の一人勝ちを許さぬ彼らは天文五年(1536年)7月、京都市中にて暴れまわり、市中を焦土と化す事になる天文法華(てんぶんほっけ・てんもんほっけ)の乱(7月27日参照>>)が勃発するのです。
この間、あまりの不安定さに、一時は阿波へと退去していた晴元でしたが、三好元長の嫡男=三好長慶(ながよし)とも和睦して家臣に組み込み、やがて畿内が安定した頃に京都へと戻り、管領として幕政を仕切ります。
しかし、こんだけゴタゴタやっていたせいで、この頃には幕府内での細川家の発言力はガタ落ち・・・まして、以前の高国とともに政治をこなしていた優秀な官僚は、ほとんど近江に行った高国とともに行動していた者たちで、晴元の配下には、うまく政治をこなせる者が少なく、その不安定さはハンパない・・・
そんな中で、以前の火種がまたもやくすぶりはじめます。
ここに来てもなお、三好政長や木沢長政を重用する晴元・・・そもそもは彼らのせいで父=元長を亡くしたにも関わらず、ここまで家臣として大人しく従っていた三好長慶が「時が来た!」とばかりに事を起こします。
天文十二年(1543年)頃から槇尾山城(まきおやまじょう=大阪府和泉市)に拠って旧臣たちをかき集めて、反晴元派として決起していた亡き高国の養子=細川氏綱(うじつな)を支援するべく、ここに来て転身(9月14日参照>>)・・・天文十八年(1549年)6月には江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦い(6月24日参照>>)で政長を討ち取って大勝利を収め、京都を追われた晴元は近江へと敗走する事になります。
ここに、将軍不在のまま、細川氏綱を冠にした三好政権が誕生する事になります。
そんな中、ともに近江へと逃れていた将軍=義晴が天文十九年(1550年)に亡くなった事を受けて、その後を息子の足利義輝(よしてる)が継いで第13代将軍となり、京都奪回を目指して、何度か長慶ら三好勢とぶつかりつつも(2月26日参照>>)、永禄元年(1558年)11月、義輝と長慶の間に正式な和睦が成立し、義輝は将軍として京都に戻り、ようやく、しばしの平和が訪れました。
●【白川口の戦い】参照>>
●【将軍=義輝、京都奪回の日々】参照>>
この間には、一時的に義輝が長慶と和睦した時も、和睦に反対して京都には戻らず、出家して若狭(わかさ=福井県西部)へと退き、またもや義輝と長慶が敵対した先の白川口の戦いにも義輝側として参戦したりなんぞしていた晴元でしたが、さすがに、周辺の諸将たちも皆賛同した今回の永禄元年の和睦には成す術なく、やむなく長慶と和睦・・・摂津の普門寺(ふもんじ=大阪府高槻市富田町)に幽閉され、その2年後の永禄六年(1563年)3月1日、その普門寺にて50年の生涯を閉じました。
晴元の死後の細川家は、嫡男の細川昭元(あきもと)は継ぎますが、当然、かつての勢いはなく、この後は細川家が管領に就く事はありませんでした。
ただ、さすがは名門細川家・・・合戦での勝ちには恵まれなくても、その家柄が重視され、三好政権の後に続く織田&豊臣政権内でも、織田信長の妹=お犬の方(おいぬのかた)を娶ったり、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の御伽衆(おとぎしゅう=話相手となる側近)に抜擢されたりして(貴人の家柄を利用されてる感ありますが…)、命が危険にさらされるような事は無かったようです。
果たして、
堺幕府はあったのか?なかったのか?
晴元は管領だったのか?管領ではなかったのか?
今以って議論が続く、謎多き、その人生は、いかに細川晴元という人の浮き沈みが激しかったかを物語っているようです。
★追記
本日は、ご命日という事で晴元さんの生涯について、ザックリ書かせていただきましたが、当然の如く、波乱万丈の人生は1ページで収まるはずもなく、チョイチョイすっ飛ばしてる部分もあるかと思いますが、ご理解のほど…よろしくお願いします。
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