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2020年3月30日 (月)

大河ドラマ『麒麟がくる』第11回「将軍の涙」の感想~主人公の光秀は連絡係?の巻

 

いやはや、
アノ方の撮影分に追いつき、ようやく通常運転になった感じ?がした大河ドラマ『麒麟がくる』第11回「将軍の涙」の感想です。

は、あくまで個人の感想ですが、
何たって、今回はお駒ちゃん「コレいる?」的なシーンが無かったからww

決してお駒ちゃんが嫌いなワケでは無いですが、これまでは、度々、本筋に関係なさそうな微妙なシーンが長々と続いていたりしたので、やはりアレは時間調整だったのかな?と・・・そして、やっとそれが終わったのかな?と・・・

ところで、先週の疑問だった(第10回「ひとりぼっちの若君」の感想>>)
「安祥城の戦いが終わって、もうすぐ「信広⇔竹千代の人質交換」って事は、天文十八年(1549年)の11月頃。。。畿内では、すでに、この年の6月に江口の戦い(6月24日参照>>)が終わっちゃってますが、ドラマの中ではどうなってるんでしょ?」
の部分は、ちょっとした前後のズレはあるものの、そこは、ネットやテレビでのニュース速報が無い時代に、都から離れた場所に主人公がいる事の誤差で納得できる範囲のズレ方で、ちゃんと描いて下さってましたね~

何年か前の大河では、重要な事が度々スルーされる場合があったので、「今回も?」とチョット疑ってしまいました~ゴメンナサイ

・・・にしても、向井さんの将軍=義輝が絵になってましたね~
庭園を見ながら麒麟の話をするくだりは、
「なんで?駒を助けたオッチャンの話と、まったく同じ話を義輝父がしてるんやろ?」
という疑問も吹っ飛ぶくらい、カッコ良かったです。

先週、次回の予告を見て
「力のない将軍に頼みに行って、どうするんだろう?」
と思ってましたが、なるほど、それこそが「将軍の涙」だったわけですね~

もう一つ、スゴイな~ と思ったシーンは、竹千代君(少年徳川家康)織田信広(信長の兄)人質交換の場面・・・

それこそ、先々週の感想で(第9回「信長の失敗」の感想>>)
「家康父ちゃんを信長が殺した事にしちゃって大丈夫?」
と心配した部分を、翌10回で、
「父ちゃん嫌い」からの
「今川は敵です」からの
「いずれ討つべきと思う」からの
「懐に入り敵を見てみたい」
てなセリフを子役ちゃんに言わせる事で、見事に回収されているだけでなく、

今回は、それがむしろ、この人質交換のシーンを
「大人の事情で、コッチからアッチに譲渡される哀れな幼子」
という、本来ならミジメでかわいそうなイメージ満載なシーンを、逆に
「いずれ来るであろう天命の時を待つための布石」
みたいな、未来へとつながる希望的なイメージのシーンに変えてしまわれた・・・いやはやスゴイ脚本ですね~お見事です。
もちろん、あの子役ちゃんの演技もスゴイんだけど・・・

また、これまで描かれていた感じと少し違う部分が、信長と父ちゃんの関係にもありますね~

これまでのドラマや小説等では、信長母の土田御前をはじめ、織田の家臣のほとんどが、信長より、弟の信勝(信行)の方が後継者に相応しいと思ってる中で、父ちゃん=信秀だけは、信長の器を見抜いていて、かたくなに後継者にしようとしていた風に描かれる事が多かったですが、今年の『麒麟がくる』では父ちゃんまでもが、信長のうつけ演技に騙されてる感じ???

いや、ひょっとしたら、今年の信長さんは、ずっとあんな感じなのか?
それとも、どこかの段階で、見事に化けるのか?
たぶん後者なんでしょうが、それが、どう描かれていくのかも、楽しみですね~

・・・にしても、今回の主人公=光秀は、ただただ連絡係をこなすのみ・・・
「援軍出せへん」を告げに織田に行き
「土岐さんに会わせて!」斎藤高政(義龍)んとこに行き
その高政に「取り次いでくれたら何でもする」てな無謀な約束をして土岐さんに会い
戦でグチャグチャになってる京都へ行き
朽木に引っ込んでる将軍に会い・・・

ものすンごいスピードで駆け抜けておりましたな。。。

ま、ここらあたりは、光秀に感する史実としての記録は無いので、変に重要事項に首突っ込むより(三好長慶の命の恩人になったりするより)は、あくまで連絡係のようにアチコチ行って、現在の状況を視聴者の皆さまにお伝えする役回りにしておいた方が無難でしょう。
これは、仕方ないです。

でも、その京都で細川藤孝に会って、その藤孝が
(京都から)朽木への抜け道を知ってる」
てな事を言って、光秀とともに山道を行くのは、ちょっとクスッとしましたね。

なんせ、この京都⇔朽木の抜け道・・・あの金ヶ崎の退き口(かながさきののきぐち)(4月27日参照>>)で、信長がひた走る道ですよね?

やっぱり、今年の大河はオモシロイ(^o^)

来週は、
帰蝶ちゃんとのほのかな恋も、
駒ちゃんとのドキドキの一夜も、
まるで無かったかのように進展した奥さんとの結婚が実現するみたいですが、またもや、ちょっとしたモヤモヤが吹っ飛ぶくらいの、見事な収まり方を見せていただける物と期待しております。。。楽しみ~
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2020年3月24日 (火)

秀吉の紀州征伐~根来寺&粉河寺の焼き討ちは無かった?

 

天正十三年(1585年)3月23日に根来寺が、24日に粉河寺が、秀吉の紀州征伐によって焼失しました。

・・・・・・・・

主君の織田信長(おだのぶなが)亡き後、仇となった明智光秀(あけちみつひで)山崎(やまざき=京都府向日市付近)に倒して(6月13日参照>>)織田家内での力をつけた羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)が、家臣団の筆頭であった柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずがたけ)(4月21日参照>>)で破って信長の三男・神戸信孝(かんべのぶたか)自刃(5月2日参照>>)に追いやった後、信長次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ)徳川家康(とくがわいえやす)の支援を受けて起こした小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市周辺)の戦いを何とか納めた(11月16日参照>>)のが、天正十二年(1584年)の11月の事でした。

Toyotomihideyoshi600 ここで、ようやくの一息をついた秀吉は、先の小牧長久手の岸和田城(きしわだじょう=大阪府岸和田市)攻防の際に、信雄&家康側に立って抵抗した雑賀(さいが・さいか)根来(ねごろ)といった紀州(きしゅう=和歌山県)一揆勢力の撲滅に着手します。

ここは、かねてより秀吉が「何とかしたい」と思っていた場所・・・いや、何なら信長の時代から「何とかせねば」ならなかった場所です。

雑賀衆というのは、紀州の紀の川流域一帯に勢力を持つ土着の民・・・農業に従事する者もいれば水産&海運に従事する者もあり、彼らは自らを守るために武装し、鉄砲を自在に操り、水軍も持っていて、信長をも何度も手こずらせた相手です。
【孝子峠の戦いと中野落城】参照>>
【丹和沖の海戦】参照>>

一方の根来衆は、現在も和歌山県岩出市にある新義真言宗総本山の寺院=根来寺(ねごろじ=根來寺)の宗徒たちが集った宗教勢力で、この戦国時代には50万石とも70万石とも言われる膨大な寺領を所有しており、それらを守るために、一部が僧兵として武装していた集団です。

そして、もう一つ・・・根来寺より少し東=紀の川の上流に位置する粉河観音宗総本山の粉河寺(こかわでら=和歌山県紀の川市粉河)←コチラも寺務を司るだけでなく、武力も保有する集団でした。

雑賀衆が独立独行を目指す(3月7日参照>>)のに対し、根来衆は、これまで度々起こっていた紀州守護(しゅご=県知事みたいな?)畠山(はたけやま)の権力争い等に積極的に参加する中央介入派(7月12日参照>>)、粉河寺は根来ほどの規模や積極性を持たないものの、各地へ遠征してチョイチョイ戦乱に参戦していたわけで・・・

信長同様、この先、各地を平定し最終的には中央集権体制を目指す事になる秀吉にとっては、こういった独立的な勢力は、規模の大小&抵抗のあるなしに関わらず、そのままにしておくわけにはいかない集団であったわけです。

かくして天正十三年(1585年)3月、秀吉は、これまで何度も計画しながらも、上記の勝家や信雄や家康やらのゴタゴタで延び延びになっていた紀州征伐(きしゅうせいばつ)を決行する事にしたのです。

これを受けた根来ら紀州の諸勢力は、和泉(いずみ=大阪府南西部)近木川(こぎがわ)流域(大阪府貝塚市付近)に、千石堀(せんごくぼり=貝塚市橋本)高井(たかい=貝塚市名越)積善寺(しゃくぜんじ=貝塚市橋本)畠中(はたけなか=貝塚市畠中)などに複数の砦を構え、得意の鉄砲集団を配置し、秀吉の大軍を迎え撃ちます。

しかし、10万越えという予想以上の大軍に、まずは3月21日、千石堀があっけなく陥落した事をキッカケに、堰を切ったように次々と陥落あるいは開城となり、23日に文字通りの最後の砦となった沢城(さわじょう=貝塚市畠中)が開城されてしまった事で、紀州勢力の前線基地は、わずか3日で崩壊してしまうのです。

Hideyosikisyuuseibatu_20200306152601
秀吉の紀州征伐の位置関係図
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

しかも、これら紀州前線隊と戦っていたのは、秀吉軍の一部・・・未だ無傷の予備隊=約6万は、同時進行で根来寺へ向かい、秀吉自身も根来寺の寺域に布陣します。

これほど早くに寺内までやって来るとは予想していなかった根来側・・・ここで、剛力の僧兵が鉄棒を振るって敵をなぎ倒したとか、荒法師が敵陣に斬り込んで壮絶な最期を遂げたとか、鉄砲隊による奮戦とか、激しい戦闘が来る広げらる中で火が放たれ、23日の夜から24日の朝にかけて、根来寺の堂塔は、ことごとく焼き尽くされ、さらに粉河寺に向かった秀吉軍の将兵により、粉河寺の堂塔&坊舎までもが焼き尽くされてしまったのです。

これは、天正十三年(1585年)3月23日根来寺の焼き討ち、翌・3月24日粉河寺の焼き討ちと伝えられています。

とは言え、実は、これ、信長の比叡山焼き討ちと同様に(【信長の比叡山焼き討ちは無かった?】参照>>)「焼き討ち」では無かった可能性があるのです。

もちろん、多くの堂坊が燃えた事は確かなようなのですが・・・

竹中重門(たけなかしげかど=半兵衛重治の息子)の手記によれば、
「寺々はみな明けうせ 僧俄(にわか)に落行(おちゆき)たりと覚えて…」
と、先ほどのような荒法師や鉄砲隊の活躍もなく、根来衆はただただ逃げるばかりであった・・・と、

しかも出火は
「申の刻ばかり…」
つまり、午後3時~5時の、ほぼ昼間に火が出たと・・・

他のいくつかの記録にも、
「秀吉軍の宿所となっている場所から火が上がって、秀吉も山へ逃げた」
とか、
「休憩中の兵士たちが慌てて避難し、具足が燃えた者もいた」
てな事が書かれているのです。

もし、これが、秀吉軍による焼き討ちであるなら、ほぼ無抵抗の明け渡しで占領した場所を、その後に秀吉側が、しかも自分たちの近くに火をつけて燃やした・・・って事になりますよね?

さらに・・・
この時、一部、燃え残った部分があるのですが、それが本堂大塔(多宝塔)という、寺内で最も重要な建物だったのだとか・・・ご存知のように、根来寺に現存する国宝の多宝塔には、今も、秀吉の焼き討ちの時につけられたとされる火縄銃の弾痕が残っています→つまり、ここ=最も重要な部分はこの時に燃えてないわけですね。

粉河寺の焼き討ちに関しても、一連の出来事を伝え聞いた本願寺の記録で「自滅」と記されています。

「自滅」とは、寺の人間が自ら火をつけた・・・という意味です。

そうです。。。ひょっとして、寺側の彼らは、自分たちで火をつけたのかも?

負けて他人の手に渡るなら、自らの手で・・・という考え方もあったのかも知れません。

もちろん、だからと言って「焼き討ちは無かった」と断言する事もできません。

根来周辺の寺々には、この時に焼かれたという記録が複数残っていますし、実際に、この後、秀吉軍は雑賀衆の太田城(おおたじょう=和歌山県和歌山市太田)への攻撃に向かっているわけですしね【紀州征伐~太田城攻防戦】参照>>)

ただ、当時の記録を見る限りでは「無血占領の後、なんらかの原因で焼けちゃった」感が強く、最近では「焼き討ち」と呼べるほどの物では無かった可能性が高いと考えられているようです。

ちなみに、秀吉の後に天下を取った徳川家康は、生前の秀吉が、幼くして亡くなった愛児=鶴松(つるまつ)を弔うために建立した祥雲禅寺(しょううんぜんじ)を、そっくりそのまま根来寺の復興のために寄進・・・これが、その名を根来寺智積院と改められ、現在も、京都は七条通りの一等地に建つ智積院(ちしゃくいん=京都市東山区)です。

信長の比叡山焼き討ちにしろ、今回の秀吉の根来寺&粉河寺焼き討ちにしろ、政権確保のために寺を攻撃するという行為・・・現代の感覚では、無抵抗の信者たちを襲う仏も恐れぬ非情な行為に受け止められるかも知れませんが、その後の家康の行為でもお察しの通り、政権が変れば、前政権の影を払拭するように、次の新政権がかつて攻撃された寺を復興する・・・

この時代は今と違って、政権と寺勢力が、そのように絡み合っていた時代だったという事を忘れてはなりませんね。
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2020年3月23日 (月)

大河ドラマ『麒麟がくる』第10回「ひとりぼっちの若君」の感想~息子世代が聡明過ぎるの巻

 

とにもかくにも、
満年齢なら、5歳の竹千代(後の家康)15歳の信長・・・の息子世代が聡明過ぎるやんかいさ~
と感じた大河ドラマ『麒麟がくる』第10回「ひとりぼっちの若君」の感想です。

いやはや、
その聡明さで、早速、先週の(父ちゃんを殺した信長に恨みを抱くんやないか?という)モヤモヤ(第9回「信長の失敗」の感想>>)をスッパリ解決してくれましたね~竹千代君。。。

恨むどころか、
「父ちゃん嫌い」からの
「今川は敵です」からの
「いずれ討つべきと思う」からの
「懐に入り敵を見てみたい」からの
「敵を討つには敵を知れと言いますから」
「信長様が迷っておられるなら私はどちらでも(織田にいても今川に行っても)構いませんよ」
って、どんだけ大人なんやw(@o@)w

そして、その竹千代を見据えて、最も良い着地点を見極めようとする信長・・・

もしも、この先のドラマの中で、(こんな考えを持ちながら…)駿河にやって来た竹千代に対して、大の大人の今川義元(30歳)が歴史通りの破格の待遇(2月5日の【家康の初陣…】の前半部分参照>>) で迎え入れるのだとしたら、海道一の弓取りとあろうお人が、何とも哀れに思いますが、

ドラマ上、信長が家康父を殺っちゃった設定な中で、この先の桶狭間キッカケの家康の独立(2008年5月19日参照>>)と、信長との清須同盟(1月15日参照>>)の事を考えると、そういう事にしないと辻褄合わなくなっちゃいますからね~

そんな中、一方の父親世代組は、、、

安祥城の戦い(11月6日参照>>)で、今川方に生け捕りにされた息子=織田信広(信長の異母兄)を見捨てる事ができずに、今川からの人質交換(信広⇔竹千代)の要請に迷う父=織田信秀と、

「息子を見捨てられるなら信秀にはまだ器量があるが、そんな器量もない男なら同盟を結ぶ価値はない」
と言い放ったワリには、
「動向が気になるから尾張に行って見て来い」
と光秀をまたまた尾張に行かせる斎藤道三・・・

なんか、父親世代の方がドタバタしてる感じがしましたね~これじゃ、息子世代の誰かに「麒麟がくる」のも仕方ないです。

とは言え、菊丸さんの
「竹千代さんが生き延びてくれるなら、今川に行こうが織田にいようが、どっちでも良い」
という、三河の民の総意のような意見は、良かったですね。

ドラマでは、京都にいる一般人がけっこう出て来るのに、三河の一般人がほとんど出て来ない中で、その思いを代弁してセリフの中に入れてくださったのは、秀逸な脚本だと思いました。

その性格が、なかなかにつかみどころない感が出てる信長さんも良いですね~
スッと表情が変わる所がチョット怖かったり、一方で、子供のように(まだ15歳ですがww)手足をばたつかせて近寄ってきたり・・・染谷さん、お上手です。

京都にいる一般人と言えば、またまたちゃんの「これ、いります?」って思う綱渡りなシーンがありましたが、これはやっぱり時間調整なのかな?
アノ方の撮影部分もそろそろ終わりに近いでしょうから、この先は駒ちゃんのこんなシーンは、極力少なめに・・・あんまり多いと、駒ちゃんを嫌いになりそうです。。。

ところで、相変わらず進み具合の遅い今年の大河・・・今回も約半年くらいの間の出来事だったわけですが、安祥城の戦いが終わって、もうすぐ「信広⇔竹千代の人質交換」って事は、天文十八年(1549年)の11月頃。。。

畿内では、すでに、この年の6月に江口の戦い(6月24日参照>>)が終わっちゃってますが、ドラマの中ではどうなってるんでしょ?

東庵先生が「今の都では松永久秀が1番の実力者」(←おいおい三好長慶はどうした?)てな事を言うてはりましたが、この一言でスルーって事なのかな?

予告を見る限りでは、来週は、主役=光秀が、京都の将軍=足利義輝に、今川×織田×斎藤のゴタゴタを収めてくれるように頼むみたいですが、実際には、上記の江口の戦いで、時の将軍=足利義晴と息子の義輝は近江に逃げちゃってますが、そこらへんはどのように描かれるのか??

ま、前回の家康父暗殺からの信長と竹千代の関係を、なんだかんだでウマイ方向に辻褄を合わせてくださった今年の大河スタッフ様ですから、来週も、おそらくドラマの中では、ちゃんと辻褄が合っている状況になるのだと、個人的には大いに期待しております。

来週も楽しみですね。
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2020年3月17日 (火)

三好長慶VS木沢長政~太平寺の戦い

 

天文十一年(1542年)3月17日、三好長慶が木沢長政を倒した太平寺の戦いがありました。

・・・・・・・・

木沢長政きざわながまさ)は、もともと、河内(かわち=大阪府東部)山城やましろ=京都府南部)守護(しゅご=今でいう県知事みたいな感じ)であった畠山義堯(はたけやまよしたか=義宣)被官(ひかん=官僚)で山城南部の守護代(しゅごだい=守護の補佐役)だったのですが、応仁の乱(5月20日参照>>)の後に管領(かんれい=将軍の補佐)として権力を誇った細川政元(まさもと)(4月22日「明応の政変」参照>>)の死後に起きた3人の養子による後継者争いに勝利し、我が世の春を迎えた細川高国(ほそかわたかくに)に近づき、畠山からの独立(下剋上)を画策していました。

しかし、その高国が、後継者争いのライバルだった細川澄元(すみもと)の息子=細川晴元(はるもと)に大永七年(1527年)の桂川原(かつらかわら)の戦い(2月13日参照>>)に敗れて、時の将軍=と足利義晴(あしかがよしはる=第12代)とともに京都を追われると、居場所を無くして、一時雲隠れ・・・

しかも、4年後の享禄四年(1531年)の大物崩れ(だいもつくずれ)(6月8日参照>>)高国が死亡してしまいます。

こうして、推しメンを失った長政は、今度は、勝利した晴元に近づきます。

この頃の晴元は、京都にいない将軍の代わりに足利義維(よしつな=義晴の弟)堺公方(さかいくぼう)に擁立して、堺を拠点に京都を掌握していた事実上の天下人だった(3月1日参照>>)わけですが、ともに堺幕府を盛り上げていたのが、晴元が阿波(あわ=徳島県)に引きこもっていた時代から支えていた家臣で高国討伐の最大功労者でもある三好元長(みよし もとなが=長慶の父)でした。

ところが、高国という強敵を排除した事で、冠となる将軍はどうでも良くなったのか?
晴元は、いつしか京都を追われていた将軍=義晴と和睦を結ぼうとします。

せっかくの堺幕府を否定するがの如きこの行為に苦言を呈したのが、三好元長と畠山義堯・・・

この晴元と元長のギクシャク感は、やがて三好元長一族の三好一秀(みよしかずひで=勝宗)と畠山義堯が、晴元派の木沢長政の居城の飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)へを攻撃する飯盛山城の戦いへと発展しますが、負けそうになった木沢長政の援軍として、晴元が山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)第10世法主=証如(しょうにょ=蓮如の曾孫)宗徒の出陣を要請した事で形勢は逆転。

天文元年(1532年)6月15日、三好一秀が討ち取られて畠山義堯も自刃に追い込まれたあげく、その後に居所である顕本寺(けんぽんじ=大阪府堺市堺区)を囲まれた元長も自害させられ、堺公方の足利義維をも阿波に退去させられたのでした。

おそらく、細川晴元の予定はここまでだったと思われますが・・・
勢い止まらぬ本願寺衆徒は、そのまま河内を暴れまわり、その勢いのまま奈良へ・・・興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)春日神社(かすがじんじゃ=現在の春日大社)を焼き尽くす大和一向一揆(やまといっこういっき)となって奈良市中は焦土と化しました(7月17日【飯盛山城の戦いと大和一向一揆】参照>>)

これに怒ったのが、亡き三好元長が帰依していた法華宗(ほっけしゅう)門徒・・・予想外の一向一揆の暴れっぷりに困惑する細川晴元の支援を受けて、今度は法華宗門徒が山科本願寺を襲撃して京都を掌握します(8月23日参照>>)

すると、今度は、京都市中に多くの末寺を抱える比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市)が法華宗の一人勝ちを許さず、法華宗の寺院を襲撃・・・これが天文五年(1536年)7月に京都の町を焦土と化す天文法華(てんぶんほっけ・てんもんほっけ)の乱(7月27日参照>>)です。

お察しの通り、今度はチャッカリ比叡山の味方をする晴元・・・もう、ぐちゃぐちゃでんがな。。。

Miyosinagayosi500a そんな中で頭角を現して来るのが、父が自害したアノ時は、未だ10歳の少年だった三好元長の息子=三好長慶(みよしながよし・ちょうけい=当時は利長→範長)です。

父の死後、一揆衆から奪い返していた越水城(こしみずじょう=兵庫県西宮市)に本拠を構える三好長慶は、天文八年(1539年)、将軍=足利義晴の仲介によって細川晴元と和睦して幕府に出仕するようになる一方で、父の時代の勢力を回復すべく、摂津(せっつ=大阪府北中部)や河内一帯での軍事行動を強化していました。

そんなこんなの天文十年(1541年)、長慶は、晴元の命により、三好政長(まさなが=元長の従兄弟)池田信正(いけだのぶまさ=久宗)らとともに、かつての晴元との後継者争いに敗れた細川高国の妹婿にあたる塩川政年(しおかわまさとし)の居城=一庫城(ひとくらじょう=兵庫県川西市・山下城)を攻撃します。

晴元にとっては、未だにくすぶる高国派の残党を一掃する目的であったものと思われますが、この攻撃に物言いを突き付けたのが、塩川政年と姻戚関係にある伊丹城(いたみじょう=兵庫県伊丹市)主の伊丹親興(いたみちかおき)三宅城(みやけじょう=大阪府茨木市)主の三宅国村(みやけくにむら)でした。

彼らは、木沢長政に近づき、木沢を通じて将軍義晴に一庫城攻撃の不法性を訴えるとともに、木沢に援軍を要請しつつ、一庫城を攻撃中の長慶らを、その後方から取り囲み、さらに伊丹の別動隊が長慶の本拠である越水城に攻め寄せたのです。

この状況に、やむなく長慶は一庫城から兵を退き、越水城を囲む伊丹勢を蹴散らして戻り、木沢との決戦に向けての準備を始めます。

この間、木沢長政は将軍=義晴に対し「京都の警固命令を賜りたい」と願い出=つまり、自分が正当(官軍)になろうと画策しますが、義晴はこれに応じず、「本願寺は長政に加担するな」の命令だけを発し、自身は近江(おうみ=滋賀県)へと退去します。

年が明けた天文十一年(1542年)正月には、細川晴元も木沢との決戦を意識して芥川城(あくたがわじょう=大阪府高槻市)に入城し、戦備を整えます。

そんな中、河内守護代遊佐長教(ゆさながのり)が、木沢に与する畠山政国(まさくに=紀伊・河内・越中の守護)を追い、畠山稙長(たねなが=政国の兄)紀伊(きい=和歌山県)から迎えて長慶に支援を求めて来ます。

驚いた木沢長政は、天文十一年(1542年)3月17日、自らの居城=信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を出馬し、畠山稙長の拠る高屋城(たかやじょう=大阪府羽曳野市)に向けて進撃を開始しますが、その途中の太平寺(たいへいじ大阪府柏原市)付近にて三好長慶軍の偵察隊と遭遇します。

落合川を挟んで、しばし対峙した両者は、午後3時頃、白兵戦となって戦闘を開始・・・一進一退の激戦のまま、1時間ほど経過しましたが、そこに三好の援軍が到着した事で、木沢方の形勢は一気に不利となります。

やむなく長政は、飯盛山城への撤退を全軍に命令しますが、その退却の途中、追撃してきた遊佐長教の被官の小島(こじま)によって木沢長政は討ち取られたのです。

大将を失った木沢軍は総崩れとなり、この戦いで三好勢が挙げた首級は、長政含め96にものぼったのだとか・・・

この時、三好長慶21歳・・・この先、戦国初の天下人となる道の先が、そう遠くない事は、未だ誰も予想していなかったかも。。。

にしても・・・
今年の大河ドラマ「麒麟がくる」は、この戦いから数年後のあたりから始まってるので、三好長慶は、まだ20代のはずなんですが、どうも長慶を演じておられる役者さんの年齢が合わないが気になって仕方がない・・・何か制作側の意図があるんでしょうかね?
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2020年3月16日 (月)

大河ドラマ『麒麟がくる』第9回「信長の失敗」の感想~家康父ちゃんを信長が?…の巻

 

そうですかぁ~
家康の父ちゃんを信長さんがヤッっちゃいましたか~大河ドラマ『麒麟がくる』第9回「信長の失敗」の感想です。

以前に書かせていただいておりますように、一応の通説では、家康の父ちゃん=松平広忠(まつだいらひろただ)は、家臣の岩松八弥(いわまつはちや)に殺害された事になってますが、それも諸説あるのが現状で(3月6日参照>>)

最近では、「この頃すでに岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)は織田に奪われていて広忠を殺害したのも織田」という感じの新説もあるようですね。

新説として論じられるくらいですから「無い話ではない」わけですが、かと言って「新説が必ずしも旧説より正しい」わけでも無い・・・ま、歴史はそこがオモシロイわけですが。。。

私としては、織田が、広忠を殺害してしまうなら、人質として確保している家康(竹千代)を生かしておく意味は??と個人的には思ってしまいます。

もちろん、そこはドラマでも描かれていて、それをやったのが信長の単独で、それこそが「信長の失敗」という事になっていたようで・・・なかなかオモシロく描かれていましたね~

ただ、信長さんのイメージが・・・
「パパに喜んでもらいたかったのに…」
でも
「アホか!と怒られてクヤシイ~」
的な感じで、思ってた以上に幼い雰囲気ですが、これが、おそらくは、これから回を重ねるごとに変貌していく信長の、より高くジャンプするためのより深き踏み込みだとすると、むしろ楽しみです。

信長を演じる染谷さんも、怒りを抑えた笑顔とか、重い気持ちを秘めた軽いセリフとか・・・なかなか良い演技をされる方ですね~

とまぁ、今回は、信長さんが主役のような回でした。

もちろん、奥さんとの馴れ初めエピで光秀さんも出てましたが・・・あれはちょっと??が残るエピでしたね。

だって、これまで、あれだけ駒ちゃんにラブラブ光線出されながらも、のほほんと他人事のように接し、一方で、道三娘の帰蝶ちゃんとは、幼い頃から心通わせてた感を出しつつ純情男を貫いていた光秀に、いきなりの「大きくなっらた嫁に来い」の思い出話・・・しかも、言われるまで、その思い出を忘れてるって、どんだけ女ゴコロを弄んどんじゃぁ~と、怒られまっせアンタwww

これって、今の今まで、駒ちゃんや帰蝶とのラブ感を描いていたワリに、急に、それが無かったかのように煕子(ひろこ)さんと結婚しちゃう(しかも妻一筋のオシドリ夫婦)事をヨシとできないため、「実は幼い頃からずっと…」てな純愛エピソードを無理やりねじ込んで来たような感じに受け止めてしまいました(←あくまで個人の感想です)
ちょっと残念・・・

残念と言えば、冒頭の広忠さんの徒歩移動も・・・

1度は流浪の身になったとは言え、今は今川の力を借りているとは言え、三河を統一した先代の息子である殿様が、味方の領地から自分の領地への移動に数人の供をを連れただけの山中の徒歩移動・・・しかも、あっさり殺られる。。。なんか残念。

さらに、ちゃんと望月東庵のネズミの穴シーン・・・アレいります?
あ、そうか、これは例のアノ方の撮影分をカットしたための時間調整部分なのかな?
それなら仕方ないですね。

とにもかくにも今週は、帰蝶ちゃんが、信長さんに光秀の事を思いっきり話してたし、来週の予告を見る限りでは、またまた信長と光秀が会っちゃいそうなので、益々、足利義昭(あしかがよしあき)上洛の際のいきなりの光秀登場感がなくなっちゃって、個人的には少々残念ではありますが、そこはあくまで個人的な好み・・・物語が面白くなるのであれば、少々のツッコミどころはヨシとしましょうぞ。。。

信長弟の信行(ドラマでは信勝)を溺愛する母や、年上の彼との勝負に「負けてやってる」とのたまう幼き家康の大物ぶりに、個人的には「やっぱ麒麟を連れて来るのは家康かぁ~」と思いつつ、なんやかんやで来週も楽しみにしてま~す。
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2020年3月11日 (水)

武田滅亡とともに勃発した富山城の戦い~小島職鎮の抵抗

 

天正十年(1582年)3月11日、武田勝頼からの知らせを受けた小島職鎮が、主君の神保長住を幽閉して富山城を占拠しました。

・・・・・・・・・

戦国期の越中(えっちゅう)富山は、主に神通川(じんつうがわ)を挟んで、西部(射水・婦負)に勢力を持つ増山城(ますやまじょう=富山県砺波市)神保長職(じんぼうながもと)と、神通川東部(新川)に勢力を持つ松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)椎名康胤(しいなやすたね)による争奪戦が繰り広げられていましたが、西部の神保を甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)が、東部の椎名を越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は輝虎)が支援する代理戦争でもありました。

ところが、そんなこんなの永禄十一年(1568年)3月、水面下で行われていた信玄の裏工作により椎名康胤が武田方に転じます

しかし、その1ヶ月後、今度は神保長職が上杉方に転じ、越中争奪戦はそれぞれの支援者を交換しただけで、そのまま続行・・・とは言え、ここ越中は、謙信にとって祖父や父の時代から、度々出兵しては傘下に治めたかった場所(9月19日参照>>)なわけで、ここに来て、武田との川中島もこう着状態となった謙信は、信玄が今川攻略へと舵を切る(12月12日参照>>)ように、自らも越中侵攻を開始するのです(4月13日参照>>)

そう・・・この永禄十一年(1568年)という年は、謙信と信玄それぞれが、その矛先を変えた年であり、そして、美濃(みの=岐阜県南部)稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)を攻略(8月15日参照>>)した織田信長(おだのぶなが)が、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛する(9月7日参照>>)年でもあったのです。

ちなみに、この時、上杉方に転じた父に反対し袂を分かち、能登(のと=石川県北部)畠山(はたけやま)を頼った神保長職の息子=神保長住(ながずみ=長職の息子)は、後に信長配下となっています。

その後、謙信は、元亀三年(1572年)に日宮城(火宮城・ひのみやじょう=富山県射水市下条)(6月15日参照>>)を、天正四年(1576年)には富山城(とやまじょう=富山県富山市)を奪い、その勢いのまま飛騨(ひだ=岐阜県北部)へも侵攻し(8月4日参照>>) 、翌・天正五年(1577年)の9月13日にはかの畠山の能登七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)を陥落させる(9月13日参照>>)のです。

しかし、そんな謙信の前に立ちはだかったのが、先の上洛の後に越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)を倒し(8月20日参照>>)、残る越前一向一揆をも駆逐して(8月12日参照>>)、事実上、越前を平定した形になっていた織田信長でした。

それは、七尾城を奪われた長連龍(ちょうつらたつ)の救援要請(8月14日の前半部分参照>>)でもありましたが、越前まで領した信長にとっては、越前の向こうは加賀(かが=石川県西部)そして能登があり、信長の本拠である岐阜の隣は飛騨なのですから、この謙信の侵攻を黙って見ているわけにはいかない場所であった事も確かでしょう。

かくして天正五年(1577年)9月18日(23日とも)に、謙信と、織田軍北陸担当の柴田勝家(しばたかついえ)がぶつかったのが手取川の戦い(9月18日参照>>)です。

その時、手取川の勢いのまま、さらに松波城(まつなみじょう=石川県鳳珠郡能登町)も奪って(9月24日参照>>)能登を平定した謙信は、雪の多い冬を避け、翌年の春に再び出兵するつもりで、一旦、越後に戻るのですが、ご存知のように翌年の3月、春を待たずに亡くなってしまいます(3月13日参照>>)

謙信の死を受けた上杉家では、ともに養子の上杉景勝(かげかつ)上杉景虎(かげとら)の間で後継者争い=御館(おたて)の乱が勃発(3月17日参照>>)して信長どころではなくなり、この間、織田軍に、せっかく謙信がもぎ取った越中深くまで入られてしまいます(9月24日参照>>)

その後、後継者争いに打ち勝った上杉景勝は、ようやく越中へと目を向けられるようになり、そのお家騒動のさ中に黄金で以って味方につけた信玄の後継者=武田勝頼(かつより=信玄の四男)を後ろ盾に、加賀・能登・越中の一向一揆の残党を取り込んで越中奪回を画策し始めますが、一方の信長も、天正八年(1580年)に金沢御坊(かなざわごぼう=石川県金沢市・加賀一向一揆の拠点)を陥落(3月9日参照>>)させ、一向一揆の本拠である石山本願寺との戦いも終わらせて(8月2日参照>>)、まさに天下目前状態。

そんなこんなの天正九年(1581年)2月28日に行われたのが、あの御馬揃え(おうまぞろえ)(2月28日参照>>)・・・この時に、守備強化のため富山城に入っていた佐々成政(さっさなりまさ)や、小出城(こいでじょう=富山県富山市水橋)の神保長住が、この御馬揃えに出場するために京都に向かったスキを突いて、上杉の最前線である魚津城うおづじょう=富山県魚津市)を任されている河田長親(かわだながちか)が小出城を攻めたのです。

この時、小出城だけではなく、富山城も奪うつもりだったと言われる上杉勢でしたが、城兵の踏ん張りと、窮地を知って戻って来た佐々成政&神保長住、そして河田長親の死亡?もあり、上杉勢の思惑は失敗・・・何とか小出城は守られました(3月24日参照>>)

とは言え、その後も、くすぶり続ける越中一向一揆勢とのゴタゴタ(9月8日参照>>)が続いていたわけですが、そんな中の天正十年(1582年)3月、長住父の時代から神保に仕えていた老臣=小島職鎮(こじまもとしげ)いきなり裏切るのです。

それは・・・
ご存知のように、この年の2月から、信長は甲州征伐(こうしゅうせいばつ=武田攻め)を開始しています【2月9日参照>>)

2月20日には、織田方の徳川家康(とくがわいえやす)の説得に応じた依田信蕃(よだのぶしげ)田中城(たなかじょう=静岡県藤枝市)を開城し、3月1日には武田同族内の有力者である穴山梅雪(あなやまばいせつ)までもが織田に降った(2013年3月1日参照>>)事で、その間に武田方の諸将が次々と勝頼を見限り、3月2日には最後まで勝頼の味方だった弟=仁科盛信(にしなもりのぶ=勝頼の異母弟)が、守る高遠城(たかとおじょう=長野県伊那市)とともに倒れ・・・と、つまり実際には、怒涛の勢いで織田方が進撃していたわけですが・・・

ところが、そんな状況下でありながら、富山城には、武田勝頼から?の知らせが届くのです。

『…然るに今度 信長公御父子 信州表に至りて御動座侯のところ
武田四郎節所を抱へ一戦を遂げ 悉く討ち果し侯の聞
此の競ひに越中国も一揆蜂起せしめ 其の国存分に申しつけ侯へ』

つまり
「信長父子が信州に出撃していたところを武田勝頼が一戦を交えて、織田勢をことごとく討ち果たしたので、この勢いに乗じて越中国にて一揆を蜂起させ、君らが越中一国を思い通りに支配すれば良いよ」
と・・・

これは勝頼自身が流したフェイクニュースなのか?
それとも、単なるウワサとして、彼らの耳に入って来たのか?

Toyamazyousicc とにもかくにも、この知らせを信じた小島職鎮は、天正十年(1582年)3月11日唐人親広(かろうどちかひろ=加老戸親広)らとともに富山城を急襲し、神保長住を幽閉・・・城を占拠して、あたりに狼煙(のろし)を挙げ、周辺の反信長派に蜂起を呼びかけたのです。

しかし、柴田勝家以下、北陸方面を守る織田軍は、この勝頼の知らせを、はなから信じていなかったのです。

なんせ、この3月11日は、「もはやこれまで!」と覚悟を決めた勝頼が夫人らとともに自害した日ですから・・・
●【武田勝頼、天目山に散る】参照>>
●【勝頼夫人=北条夫人桂林院】参照>>

もちろん、SNSなどありはしないこの時代ですから、勝頼自害の一報が当日に織田北陸勢のもとに届く事は無いのでしょうが、甲州征伐における味方の動向は逐一報告を受けていたはずですからね。

勝家は、すかさず、信長に向けて
「富山の一揆勢が占拠した城は、その日のうちに我々一同が包囲しましたので、落城まで幾日もかかる事はないでしょう…ご安心を」
という内容の手紙を、佐々成政・前田利家(まえだとしいえ)不破直光(ふわなおみつ)の4人の連名でしたため、彼ら連合軍による攻撃を開始し、またたく間に奇策による富山城奪還を果たしたのです。

2日後の3月13日、勝家のもとに届いた信長の返書には
「武田勝頼以下、重臣や宿老までをことごとく討ち果たして、駿河・甲斐・信濃を滞りなく平定したのでご心配なく…と甲斐から報告が来たので君らにも知らせとくね~君らも越中一揆の鎮圧、頑張ってね~」
と・・・(この手紙のやり取りとみても、「当日」とまではいかないものの、情報の行き来がかなり速いことがわかりますね)

そして、柴田勝家以下北陸織田勢は、この富山城奪還の勢いのまま、次に魚津城の包囲へと向かいますが、残念ながら、その後の魚津城陥落の知らせが信長に届く事はありませんでした。

そう、この魚津城が開城されるのは、この年の6月3日(【魚津城の攻防戦】参照>>)・・・それは、あの本能寺の変(6月2日参照>>)の翌日でした。

本能寺の影響を受けた今後の北陸勢の動きについては、あの清須会議の前日に展開された【前田利家に迫る石動荒山の戦い】>>でどうぞm(_ _)m
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2020年3月 9日 (月)

大河ドラマ『麒麟がくる』第8回「同盟のゆくえ」の感想~川口帰蝶の魅力炸裂な回

 

とにかく川口春奈さん演じる帰蝶が良かった大河ドラマ『麒麟がくる』第8回「同盟のゆくえ」の感想です・

多くを言わず、好き好き光線も出し過ぎず、それでいて決意は固く・・・風変わりな信長に結婚式をドタキャンされても不敵な笑みを浮かべる・・・

この笑みの本心は、それこそ人それぞれに感じると思いますが、私としては
「オンドレ、なかなか笑わしてくれるやないケ」
みたいに、(良い意味で)信長を「ただのウツケではない」と帰蝶が感じたような気がしました。

今回は、この帰蝶の輿入れ以外は、物語的にはあまり進展が無い回でしたが、主人公=光秀にとって最も重要な登場人物である信長の雰囲気や、例の菊丸がタダ者では無い事を匂わせたり、がキッパリ諦めて京都へ帰っていったり、母=お牧さんが「何よりも、この国を守る事」を1番重用な事と語るなど、言葉やセリフ、物語の進行とは別の色々な事を感じる(カッコよく言えば行間を読む)ような回だったと思います。

ただ・・・道三の息子=義龍が・・・
「なんで帰蝶を明智に留めておかない!」だの、
輿入れに賛成すれば「裏切者」だの・・・
同盟進めてるのが父親で、嫁に行くのが妹なんだから、止めたいなら光秀に頼まずお前がやれよ!
しかも、最後には「俺、恥かいたわ」と母ちゃんの部屋でグチこぼす・・・まるで、反抗期の少年のよう。。。

ま、そんな描き方も、この先の物語への伏線なのかも知れませんが、

とにかく、今週も楽しく拝見させていただきましたが、ただ、一つ、欲を言わせていただければ・・・
美濃の事、尾張の事、などなどの、基本的な背景というか、武将たちの関係とかを、もう少し、分かりやすく紹介していただければ、歴史好きでは無い視聴者の方も見やすいような気がします。

たとえば、大河ドラマ好きだけど歴史好きでは無いウチの家族は、「美濃は斎藤道三の物」という認識があるので、土岐頼芸(ときよりのり)のところに集まってる人たちが道三に物申す←の関係がよくわからなくて度々質問されます。

そんな時、「わからへんなら調べろよ!」とは歴史好きに言う言葉・・・歴史好きでない人に、そんな事言うのは酷です。

誰だって、好きな事なら知りたいと思うし、どんどん吸収するし、不思議に思ったら調べますが、そんなに好きでもない事なら、ただただ面倒くさいだけです。

でも、ドラマは、そんな歴史好きで無い人も見るわけで・・・「わからない事があると楽しめない」って部分もあると思います。

そんなに歴史好きでは無い人にとっては、
美濃斎藤道三(さいとうどうさん=利政)
尾張織田信長(ドラマの段階ではまだ父の信秀ですが…)
駿河今川義元(いまがわよしもと)
甲斐武田信玄(たけだしんげん)で、
越後上杉謙信(うえすぎけんしん)・・・
てな認識で、それらは揺るぎないように思っている場合も多々ありなんですよね~

でも、この中で、もとから室町幕府政権下でれっきとした守護(時期的に多少ズレがありますが)なのは、駿河の今川と甲斐の武田だけです。

上杉謙信は、もともと守護代の長尾(ながお)の人で、父の時代に上杉家と戦った(【永正の乱】参照>>)後、その力を認めた上杉家から関東管領職とともに譲り受けた物(6月26日参照>>)

美濃の守護は土岐氏で斎藤家は守護代・・・道三の場合は、それも、主君の長井家を乗っ取って、さらにその上司の斎藤家を乗っ取ってその地位を得た物(1月13日参照>>)

織田信秀の尾張に至っては、今の所、守護が斯波(しば)氏で守護代が織田達勝(たつかつ)、信秀はその奉行という位置(3月3日参照>>)で、この後、本家の織田家を倒して尾張を統一するのは、信長の時代になってから(11月1日参照>>)・・・あの桶狭間より後です。

戦国時代のドラマでは、信長や秀吉や家康が頭角を現し始める頃から描かれる事が多いため、それ以前の、幕府公認の守護と、武力や経済力で主家を凌いでのし上がって来た武将との違いや力関係が分かり難いままになってるのだと思います。

今年の「麒麟がくる」でも、京都には足利義輝(あしかがよしてる)という将軍が君臨していて、その補佐をする管領(かんれい)細川晴元(ほそかわはるもと)がいて・・・みたいな感じにドラマ上は見えますが、先日の「細川晴元さんのご命日」のページ>>でも書かせていただいたように、この頃の将軍様や管領は、何かゴタゴタがあると度々京都を退去して姿をくらましたりしてました。

そこが戦国なわけですが、この戦国ゴタゴタの一時代後の天下統一が見えそうな頃からの時代劇を見慣れてる人にとっては、いわゆる「守護大名」と「戦国大名」の力関係が、どうも分かり難い・・・

ドラマの公式ホームページにいくと「〇回のトリセツ」なんてコーナーで色々紹介してくださり、分かりやすくなっているのですが、そこンとこを、ホームページだけではなく、ドラマの中でも描いて下されば、もっと楽しめる人が増えるのではないか?(おいおい分かるような造りになってるんだとは思いますが…)
なんて、個人的には思います。

とは言え、今回登場した信長さん・・・これまでのステレオタイプではなく、新しいイメージの信長さんになりそうな雰囲気バリバリなので、今回の大河は、今後も楽しみです。
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2020年3月 2日 (月)

大河ドラマ『麒麟がくる』第7回「帰蝶の願い」の感想~戦国の水運とお牧さんの立て膝

 

今回・・・最後の最後にようやく信長が、出た~~!と思いきや、
もう信長に出会っちゃうの?ここで出会っちゃうんですね。。。
な、大河ドラマ『麒麟がくる』第7回「帰蝶の願い」の感想です。

それにしても・・・
こんなに早く光秀と信長が出会っちゃって大丈夫?
・・・て事は、今度、足利義昭上洛の件で出会う時は、
「ヨッ!久しぶり」
ってな感じになるのか?
それとも、今回の大河では、
この先の光秀が、信長はじめ、歴史上の重要人物に会いまくり&絡みまくりの重要人物として人生を歩むものの、後世の1級史料には、まったく登場しない←なんなら、そこが「謎」の人物として描かれるのかしらん?

ま、前回の感想でも書かせていただいたように、個人的には、未だ史料に登場しない人物が、逆に史実に登場する人物や、歴史上の出来事に絡んだり首を突っ込んだりする事は、あまり好みではないのですが、それこそ、歴史は1級史料だけがすべてでは無いわけで・・・

なんなら、後世の誰か(秀吉とか?)が、「故意的に光秀の存在を抹消した」くて「1級史料に残ってない」てな可能性が無きにしも非ずなわけですから、物語が面白くなるのなら、ヨシとしましょう。

にしても、(主人公だから仕方ないのだけど…)誰も彼もが、光秀に相談しまくりの頼りまくり・・・

道三曰く
「美濃には海がない」
からの
「海は交易にて富をもたらす」
からの
「国を豊かにするには海を手に入れる事」
からの
「国が豊かになれば国が一つになる」
からの
「そのための和議」
と、心に響く言葉を光秀に伝えていたけど・・・

それ、美濃の宿老らと「和議反対!」の宴会で盛り上がってる息子=義龍にも言いなはれ!
息子にも、その熱い思いを言っているにも関わらず、息子はあんな態度なんかいんな?

ただ、帰蝶ちゃんが、光秀に
「信長がどんな男か確かめて来てほしい」
っていうのは、好き!

光秀に好意を寄せている事を匂わせながらも、よくある「好きでもない人と結婚なんてできない」的な現代感覚の言い分を押し付けるのではなく、「自らの気持ちを押さえて(我慢して)でも嫁ぐに値する人物なのか?を知りたい」そして「それを光秀に託す」という方向へ持っていくのは、ウマイな~っと、つくづく・・・秀逸な脚本だったと思います。
(なら、この時点で光秀が信長に会っても、仕方ないのか~~~)

 

そんなこんなで、今回のドラマの中で、(良い意味で)気になった事が二つ・・・

一つは、今回重用されていた水運&海運のお話・・・

以前、信長父ちゃんのご命日のページ(3月3日参照>>)で書かせていただいたように、信長の織田家(尾張には一族が複数いるので)は、信長爺ちゃんの時代から周辺の港(湊)を掌握していて、その交易により経済が潤い、社寺や朝廷への寄付をものともしないお金持ちだったわけで、だからこそブイブイ言わす事ができていたわけです。

この船での輸送&交易は、それこそ、ごくごく最近まで最も有効な手段だったわけで・・・なんせ、陸上で物品を輸送できる数は知れてますが、船なら、一気に多くの品を運ぶことが可能ですからね。

明治維新の後、明治五年(1872年)に新橋⇔横浜間を初めて蒸気機関車が走った(9月12日参照>>)のは有名な話ですが、その次に開通したのが神戸⇔大阪⇔京都間、そして、その次=3番目は、何と、長浜(滋賀県⇔敦賀(福井県)なんですよ。

これこそ、水運がいかに重要であったかの証・・・太平洋側どうし&日本海側どうしはすでに江戸(1月19日参照>>)・・・いや、もっと前から船での流通経路が確保されていて、短時間で多くの物が行き交う事が可能でしたが、太平洋側と日本海側を結ぶのに、最も有効だったのが、途中の琵琶湖を大津から長浜まで利用して半水運で流通させる事・・・これは、平清盛も、そして織田信長もが夢見て(7月3日参照>>)、明治の世で完成形(9月5日参照>>)となる夢の流通の手段だったわけですね。

ちょっと話がそれましたが、これまで、ここまでハッキリと「水運儲かる」→「織田家金持ち」→「海欲しい」の流れを明確にドラマで表現してくださったのを、あまり見た事が無かったので、かなりテンションあがりました。

 

そして、もう一つ気になったのがお牧さんの立て膝・・・

皆さまもご存知の事ではあると思いますが、現在で言うところの「正座」が一般的になるのは江戸時代に入ってから・・・

一説には、「江戸幕府が、自身の権力を誇示するために、下の者たちに下座で正座をさせて、上下関係を痛感させるようにした」とも言われていて、現在のような正座をするようになったのは江戸幕府の初期ではあるものの、幕府の権力が絶対的になってからの事で、それまでは胡坐(あぐら)の事を正座としていたとされています。

それは女性も同じで、江戸時代になるまでは、女性も胡坐か立て膝で座るのが通常でした。

ただ、ドラマ等では、戦国男性の場合は胡坐で座る場面も多々ありますが、女性はあまり無かった・・・

それは、頭ではわかっていても、実際に見ると行儀が悪いように見えちゃうって事で、「わかってるけど」あえて「女性は正座」をしていたわけですが、今回の石川お牧さん・・・立て膝をしても下品に感じない事がスバラシイ

膝の立て方、座り方、そして石川さんの演技が見事にマッチしてるんでしょうねぇ~~~
いやぁ、良いです。。。どんどん膝を立てまくってください!
何なら、磔の寸前まで・・・

 

てな事で、今回も、番組の感想とともに、思いついた事を書かせていただきました。

来週も楽しみにしています。
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2020年3月 1日 (日)

細川晴元の波乱万丈の生涯~幻の堺幕府

 

永禄六年(1563年)3月1日、細川京兆家を継いでいた細川晴元が摂津富田の普門寺にて病没しました。

・・・・・・・・

細川晴元(ほそかわはるもと)は、あの応仁の乱(5月20日参照>>)の東軍大将だった細川勝元(かつもと)曾孫です。

と言っても、勝元の息子の細川政元(まさもと)が男色オンリーで子供がいなかったために養子とした3人↓
関白・九条政基(まさもと)の子・澄之(すみゆき)
備中(びっちゅう=岡山県)細川家の高国(たかくに)
阿波(あわ=徳島県)の細川家の澄元(すみもと)
のうちの澄元の息子なので、親戚・一族ではあるものの、直系として血のつながった曾孫ではありません。

お爺ちゃんにあたる政元は、管領(かんれい=室町幕府将軍の補佐)の意向によって幕府将軍が交代させる(第10代足利義稙(よしたね=義材)→第11代足利義澄(よしずみ=清晃) へ…)という明応の政変というクーデターをやってのけたほどの実力者でしたが、それが完璧な計画通りとはいかなかったために、自身の後継者候補の養子を3人も取る事になってしまい(くわしい事情は4月22日参照>>)、結局その死後に、この3人の間で後継者争いが勃発してしまうのです

●永正四年(1507年)8月【百々橋の戦い】>>
●永正八年(1511年)8月【船岡山の戦い】>>
●永正十七年(1520年)5月【等持院表の戦い】>>
などを経て、3人の中から後継を勝ち取った細川高国は、足利義晴(あしかがよしはる)第12代室町幕府将軍として擁立し、確固たる高国政権樹立に成功したのです。

後継者争いに負けた澄元は故郷の阿波へと逃亡しますが、その1ヶ月後の6月10日に無念の病死・・・この時、家督とともに父の遺志をも継いだのが本日の主役=息子の細川晴元で、そのサポートをするのが阿波細川家臣の三好元長(みよしもとなが)でしたが、この時の晴元は、未だ10歳に満たない(おそらく6~7歳)幼子でしたから、今は事を起こす事なく、その時を待ちます。

そんな中、チャンスはほどなく訪れます。

大永六年(1526年)、高国が、自身の勘違いで重臣の香西元盛(こうざいもともり)を成敗した事から、元盛の身内である波多野元清(はたのもときよ=稙通)柳本賢治(やなぎもとかたはる)高国に反旗をひるがえしたのです(【神尾山城の戦い】参照>>)

すでに、反高国派と連絡を取っていた三好元長は、細川晴元はもちろん、亡き澄元が阿波で庇護し、晴元と兄弟のようにして育った次期将軍候補=足利義維(よしつな=義晴の弟)と、ともに10代の若き後継者を引き連れて上洛し、波多野&柳本と連携して桂川原(かつらかわら)の戦い に勝利(2月13日参照>>)・・・高国と将軍=義晴を近江(おうみ=滋賀県)坂本(さかもと=滋賀県大津市)に退かせました。

Asikagakuboukeizu3 ●足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

現役の将軍と管領が坂本に去った事で、その二人の後を追う幕府官僚も多く、京都は、ほぼもぬけの殻の無政府状態となりますが、その京都には柳本賢治が山崎城(やまざきじょう=京都府乙訓郡大山崎町字大山崎)にて睨みを効かし、元長&晴元&義維らは上洛を急ぐ事無く(さかい=大阪府堺市)に本拠を構えます。

これについては、上記の通り、この時の晴元が10代前半、義維が10代後半、最年長者である元長でさえ20代半ばであった事から、イザという時に故郷の阿波との連絡を密にできる堺に留まった物と考えられます。

とは言え、ほどなく義維は、将来将軍になる人がつく官職=左馬守(さまのかみ)を朝廷から与えられ、公家の日記などでも「堺之公方(くぼう)」「堺大樹(たいじゅ)」「堺武家」などと義維を現役の将軍の呼称で記されている事から、将軍不在の京都に代って、一時はこの堺が幕府の機能を果たしていた思われ、『堺幕府』と呼ばれたりします。

しかし、皆さまご存知のように、本来、幕府とは、朝廷から征夷大将軍の宣下を受けた将軍が開く物・・・なので『堺幕府』とは、あくまで「幻の堺幕府」なのです。

Sakaibakufu
堺幕府関連位置関係図↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

とは言え、将軍不在の京都に代って、一時期とは言え、ここ堺が幕府としての機能を果たしていた事は確か・・・義維の御座所引接寺(いんしょうじ)に、元長の陣所が顕本寺(けんぽんじ=大阪府堺市堺区)であったとされ、現在は引接寺は廃寺となり、顕本寺は移転してしまっていますが、堺幕府当時は、引接寺は現在の宿院頓宮(しゅくいんとんぐう)あたりにあり、顕本寺は現在の開口神社(あぐちじんじゃ)のあたりにあったとされますので、現在の阪堺線の宿院(しゅくいん)駅を挟んで歩いて数分の距離に幕府の中枢があった事になります。

晴元の陣所については、未だ記録がなく不明ですが、幕府運営の主要人物が離れて住む事は考え難いので、おそらく彼も、この宿院周辺に住んでいた物と思われます。

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宿院頓宮

しかし結局、この堺幕府は、わずか5年ほどで、その機能を無くしてしまいます。

その始まりは内部崩壊から・・・元長の力の強大さを脅威に思い始めた晴元が、元長を遠ざけ、同族の三好政長(みよしまさなが=元長の従兄弟)らを重用し始め、それを察した元長は、静かに阿波へと引き上げてしまします。

そこに、坂本に退いていた高国が仕掛け始めます。

水面下でつてを頼って各地を転々としながら支援者を集め、享禄三年(1530年)6月29日には播磨依藤城(よりふじじょう=兵庫県小野市・豊地城)を攻撃中の柳本賢治に刺客を派遣して暗殺した(6月29日参照>>)事で機が熟したと見た高国は、翌7月に摂津(せっつ=大阪府北部)に出陣して摂津の諸城を攻略しつつ、京都の奪回を目指します。

この高国勢の勢いに、もはや風前の灯となった晴元に呼び戻された元長は、早速、天王寺(てんのうじ=大阪府大阪市)周辺にて高国勢と交戦し、大物城(だいもつじょう=兵庫県尼崎市大物町・尼崎城と同一説あり)へと追い込んで捕縛・・・享禄四年(1531年)6月8日、敗北した高国は切腹し、細川管領家の後継者争いに終止符が打たれます【大物崩れの戦い】参照>>)

こうして、我が世の春を迎えた晴元でしたが、内部崩壊の火種は、まだ消えていなかったのです。

しかも、ここに来て晴元は、その火種に油を注ぐような行動をとってしまいます。

堺幕府として現政権を倒すはずだった方針を一気に転換して、将軍=足利義晴と和睦し、不必要になった義維を遠ざけるのです。

この義理を欠いた行動に元長が激怒する中、晴元は、今度は元長と不仲であった山城南部の守護代(しゅごだい=守護の補佐役)木沢長政(きざわながまさ)「高国征伐の功績があった」して重用し、守護(しゅご=今でいう県知事みたいな感じ)畠山義堯(はたけやまよしたか=義宣)から独立したがっている長政を支援・・・義堯の要請に応じた三好一秀(みよしかずひで=勝宗・元長の一族)が攻撃している長政の居城の飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)に援軍を派遣したのです。

その援軍とは、山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)第10世法主=証如(しょうにょ=蓮如の曾孫)に帰依する衆徒たち・・・晴元は、彼らに一向一揆(いっこういっき)を起こさせたのです。

3万を超える軍勢となった一向一揆は、飯盛山城へと向かい、三好一秀と畠山義堯を討ち取り、その勢いのまま三好元長の陣所である顕本寺を囲んで元長を自刃に追い込み、足利義維を阿波へと退去させました。

ここまでは晴元の思惑通り・・・しかし、勢い止まらぬ一向一揆は、そのまま大和(やまと=奈良県)へと侵攻し、大和に根付く宗教勢力=興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)春日神社(かすがじんじゃ=現在の春日大社)を標的に暴れまわり、これが、奈良市中を焦土と化す大和一向一揆となってしまいます【飯盛山城の戦いと大和一向一揆】参照>>)

勢いがつき過ぎた一向一揆に脅威を感じた晴元は、今度は法華宗(ほっけしゅう=日蓮宗)に働きかけて法華一揆(ほっけいっき)を誘発させ、近江から駆けつけた六角定頼(ろっかくさだより)らとともに、山科本願寺を攻撃して坊舎をことごとく焼き払います(【山科本願寺の戦い】参照>>)

何とか逃れた本願寺証如以下衆徒たちは、かつて蓮如(れんにょ)(3月25日参照>>)が隠居所として建てた摂津・大坂石山御坊(いしやまごぼう=大阪府大阪市)へと移り、以後、ここが本願寺門徒の本拠に・・・これが、後にあの織田信長(おだのぶなが)と戦う事になる石山本願寺(いしやまほんがんじ)(11月24日参照>>)となります。

こうして勢いづいた法華宗が京都の洛中を掌握する事になりますが、これに黙っていなかったのが洛中に多くの所領や末寺を抱える比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市)です。

法華宗の一人勝ちを許さぬ彼らは天文五年(1536年)7月、京都市中にて暴れまわり、市中を焦土と化す事になる天文法華(てんぶんほっけ・てんもんほっけ)の乱(7月27日参照>>)が勃発するのです。

この間、あまりの不安定さに、一時は阿波へと退去していた晴元でしたが、三好元長の嫡男=三好長慶(ながよし)とも和睦して家臣に組み込み、やがて畿内が安定した頃に京都へと戻り、管領として幕政を仕切ります。

しかし、こんだけゴタゴタやっていたせいで、この頃には幕府内での細川家の発言力はガタ落ち・・・まして、以前の高国とともに政治をこなしていた優秀な官僚は、ほとんど近江に行った高国とともに行動していた者たちで、晴元の配下には、うまく政治をこなせる者が少なく、その不安定さはハンパない・・・

そんな中で、以前の火種がまたもやくすぶりはじめます。

ここに来てもなお、三好政長や木沢長政を重用する晴元・・・そもそもは彼らのせいで父=元長を亡くしたにも関わらず、ここまで家臣として大人しく従っていた三好長慶が「時が来た!」とばかりに事を起こします。

天文十二年(1543年)頃から槇尾山城(まきおやまじょう=大阪府和泉市)に拠って旧臣たちをかき集めて、反晴元派として決起していた亡き高国の養子細川氏綱(うじつな)を支援するべく、ここに来て転身(9月14日参照>>)・・・天文十八年(1549年)6月には江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦い(6月24日参照>>)で政長を討ち取って大勝利を収め、京都を追われた晴元は近江へと敗走する事になります。

ここに、将軍不在のまま、細川氏綱を冠にした三好政権が誕生する事になります。

そんな中、ともに近江へと逃れていた将軍=義晴が天文十九年(1550年)に亡くなった事を受けて、その後を息子の足利義輝(よしてる)が継いで第13代将軍となり、京都奪回を目指して、何度か長慶ら三好勢とぶつかりつつも(2月26日参照>>)、永禄元年(1558年)11月、義輝と長慶の間に正式な和睦が成立し、義輝は将軍として京都に戻り、ようやく、しばしの平和が訪れました。
【白川口の戦い】参照>>
【将軍=義輝、京都奪回の日々】参照>>

この間には、一時的に義輝が長慶と和睦した時も、和睦に反対して京都には戻らず、出家して若狭(わかさ=福井県西部)へと退き、またもや義輝と長慶が敵対した先の白川口の戦いにも義輝側として参戦したりなんぞしていた晴元でしたが、さすがに、周辺の諸将たちも皆賛同した今回の永禄元年の和睦には成す術なく、やむなく長慶と和睦・・・摂津の普門寺(ふもんじ=大阪府高槻市富田町)に幽閉され、その2年後の永禄六年(1563年)3月1日その普門寺にて50年の生涯を閉じました。

晴元の死後の細川家は、嫡男の細川昭元(あきもと)は継ぎますが、当然、かつての勢いはなく、この後は細川家が管領に就く事はありませんでした。

ただ、さすがは名門細川家・・・合戦での勝ちには恵まれなくても、その家柄が重視され、三好政権の後に続く織田&豊臣政権内でも、織田信長の妹=お犬の方(おいぬのかた)を娶ったり、豊臣秀吉(とよとみひでよし)御伽衆(おとぎしゅう=話相手となる側近)に抜擢されたりして(貴人の家柄を利用されてる感ありますが…)、命が危険にさらされるような事は無かったようです。

果たして、
堺幕府はあったのか?なかったのか?
晴元は管領だったのか?管領ではなかったのか?
今以って議論が続く、謎多き、その人生は、いかに細川晴元という人の浮き沈みが激しかったかを物語っているようです。

★追記
本日は、ご命日という事で晴元さんの生涯について、ザックリ書かせていただきましたが、当然の如く、波乱万丈の人生は1ページで収まるはずもなく、チョイチョイすっ飛ばしてる部分もあるかと思いますが、ご理解のほど…よろしくお願いします。
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