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2020年3月17日 (火)

三好長慶VS木沢長政~太平寺の戦い

 

天文十一年(1542年)3月17日、三好長慶が木沢長政を倒した太平寺の戦いがありました。

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木沢長政きざわながまさ)は、もともと、河内(かわち=大阪府東部)山城やましろ=京都府南部)守護(しゅご=今でいう県知事みたいな感じ)であった畠山義堯(はたけやまよしたか=義宣)被官(ひかん=官僚)で山城南部の守護代(しゅごだい=守護の補佐役)だったのですが、応仁の乱(5月20日参照>>)の後に管領(かんれい=将軍の補佐)として権力を誇った細川政元(まさもと)(4月22日「明応の政変」参照>>)の死後に起きた3人の養子による後継者争いに勝利し、我が世の春を迎えた細川高国(ほそかわたかくに)に近づき、畠山からの独立(下剋上)を画策していました。

しかし、その高国が、後継者争いのライバルだった細川澄元(すみもと)の息子=細川晴元(はるもと)に大永七年(1527年)の桂川原(かつらかわら)の戦い(2月13日参照>>)に敗れて、時の将軍=と足利義晴(あしかがよしはる=第12代)とともに京都を追われると、居場所を無くして、一時雲隠れ・・・

しかも、4年後の享禄四年(1531年)の大物崩れ(だいもつくずれ)(6月8日参照>>)高国が死亡してしまいます。

こうして、推しメンを失った長政は、今度は、勝利した晴元に近づきます。

この頃の晴元は、京都にいない将軍の代わりに足利義維(よしつな=義晴の弟)堺公方(さかいくぼう)に擁立して、堺を拠点に京都を掌握していた事実上の天下人だった(3月1日参照>>)わけですが、ともに堺幕府を盛り上げていたのが、晴元が阿波(あわ=徳島県)に引きこもっていた時代から支えていた家臣で高国討伐の最大功労者でもある三好元長(みよし もとなが=長慶の父)でした。

ところが、高国という強敵を排除した事で、冠となる将軍はどうでも良くなったのか?
晴元は、いつしか京都を追われていた将軍=義晴と和睦を結ぼうとします。

せっかくの堺幕府を否定するがの如きこの行為に苦言を呈したのが、三好元長と畠山義堯・・・

この晴元と元長のギクシャク感は、やがて三好元長一族の三好一秀(みよしかずひで=勝宗)と畠山義堯が、晴元派の木沢長政の居城の飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)へを攻撃する飯盛山城の戦いへと発展しますが、負けそうになった木沢長政の援軍として、晴元が山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)第10世法主=証如(しょうにょ=蓮如の曾孫)宗徒の出陣を要請した事で形勢は逆転。

天文元年(1532年)6月15日、三好一秀が討ち取られて畠山義堯も自刃に追い込まれたあげく、その後に居所である顕本寺(けんぽんじ=大阪府堺市堺区)を囲まれた元長も自害させられ、堺公方の足利義維をも阿波に退去させられたのでした。

おそらく、細川晴元の予定はここまでだったと思われますが・・・
勢い止まらぬ本願寺衆徒は、そのまま河内を暴れまわり、その勢いのまま奈良へ・・・興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)春日神社(かすがじんじゃ=現在の春日大社)を焼き尽くす大和一向一揆(やまといっこういっき)となって奈良市中は焦土と化しました(7月17日【飯盛山城の戦いと大和一向一揆】参照>>)

これに怒ったのが、亡き三好元長が帰依していた法華宗(ほっけしゅう)門徒・・・予想外の一向一揆の暴れっぷりに困惑する細川晴元の支援を受けて、今度は法華宗門徒が山科本願寺を襲撃して京都を掌握します(8月23日参照>>)

すると、今度は、京都市中に多くの末寺を抱える比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市)が法華宗の一人勝ちを許さず、法華宗の寺院を襲撃・・・これが天文五年(1536年)7月に京都の町を焦土と化す天文法華(てんぶんほっけ・てんもんほっけ)の乱(7月27日参照>>)です。

お察しの通り、今度はチャッカリ比叡山の味方をする晴元・・・もう、ぐちゃぐちゃでんがな。。。

Miyosinagayosi500a そんな中で頭角を現して来るのが、父が自害したアノ時は、未だ10歳の少年だった三好元長の息子=三好長慶(みよしながよし・ちょうけい=当時は利長→範長)です。

父の死後、一揆衆から奪い返していた越水城(こしみずじょう=兵庫県西宮市)に本拠を構える三好長慶は、天文八年(1539年)、将軍=足利義晴の仲介によって細川晴元と和睦して幕府に出仕するようになる一方で、父の時代の勢力を回復すべく、摂津(せっつ=大阪府北中部)や河内一帯での軍事行動を強化していました。

そんなこんなの天文十年(1541年)、長慶は、晴元の命により、三好政長(まさなが=元長の従兄弟)池田信正(いけだのぶまさ=久宗)らとともに、かつての晴元との後継者争いに敗れた細川高国の妹婿にあたる塩川政年(しおかわまさとし)の居城=一庫城(ひとくらじょう=兵庫県川西市・山下城)を攻撃します。

晴元にとっては、未だにくすぶる高国派の残党を一掃する目的であったものと思われますが、この攻撃に物言いを突き付けたのが、塩川政年と姻戚関係にある伊丹城(いたみじょう=兵庫県伊丹市)主の伊丹親興(いたみちかおき)三宅城(みやけじょう=大阪府茨木市)主の三宅国村(みやけくにむら)でした。

彼らは、木沢長政に近づき、木沢を通じて将軍義晴に一庫城攻撃の不法性を訴えるとともに、木沢に援軍を要請しつつ、一庫城を攻撃中の長慶らを、その後方から取り囲み、さらに伊丹の別動隊が長慶の本拠である越水城に攻め寄せたのです。

この状況に、やむなく長慶は一庫城から兵を退き、越水城を囲む伊丹勢を蹴散らして戻り、木沢との決戦に向けての準備を始めます。

この間、木沢長政は将軍=義晴に対し「京都の警固命令を賜りたい」と願い出=つまり、自分が正当(官軍)になろうと画策しますが、義晴はこれに応じず、「本願寺は長政に加担するな」の命令だけを発し、自身は近江(おうみ=滋賀県)へと退去します。

年が明けた天文十一年(1542年)正月には、細川晴元も木沢との決戦を意識して芥川城(あくたがわじょう=大阪府高槻市)に入城し、戦備を整えます。

そんな中、河内守護代遊佐長教(ゆさながのり)が、木沢に与する畠山政国(まさくに=紀伊・河内・越中の守護)を追い、畠山稙長(たねなが=政国の兄)紀伊(きい=和歌山県)から迎えて長慶に支援を求めて来ます。

驚いた木沢長政は、天文十一年(1542年)3月17日、自らの居城=信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を出馬し、畠山稙長の拠る高屋城(たかやじょう=大阪府羽曳野市)に向けて進撃を開始しますが、その途中の太平寺(たいへいじ大阪府柏原市)付近にて三好長慶軍の偵察隊と遭遇します。

落合川を挟んで、しばし対峙した両者は、午後3時頃、白兵戦となって戦闘を開始・・・一進一退の激戦のまま、1時間ほど経過しましたが、そこに三好の援軍が到着した事で、木沢方の形勢は一気に不利となります。

やむなく長政は、飯盛山城への撤退を全軍に命令しますが、その退却の途中、追撃してきた遊佐長教の被官の小島(こじま)によって木沢長政は討ち取られたのです。

大将を失った木沢軍は総崩れとなり、この戦いで三好勢が挙げた首級は、長政含め96にものぼったのだとか・・・

この時、三好長慶21歳・・・この先、戦国初の天下人となる道の先が、そう遠くない事は、未だ誰も予想していなかったかも。。。

にしても・・・
今年の大河ドラマ「麒麟がくる」は、この戦いから数年後のあたりから始まってるので、三好長慶は、まだ20代のはずなんですが、どうも長慶を演じておられる役者さんの年齢が合わないが気になって仕方がない・・・何か制作側の意図があるんでしょうかね?
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