秀吉の紀州征伐~根来寺&粉河寺の焼き討ちは無かった?
天正十三年(1585年)3月23日に根来寺が、24日に粉河寺が、秀吉の紀州征伐によって焼失しました。
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主君の織田信長(おだのぶなが)亡き後、仇となった明智光秀(あけちみつひで)を山崎(やまざき=京都府向日市付近)に倒して(6月13日参照>>)織田家内での力をつけた羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)が、家臣団の筆頭であった柴田勝家(しばたかついえ)を賤ヶ岳(しずがたけ)(4月21日参照>>)で破って信長の三男・神戸信孝(かんべのぶたか)を自刃(5月2日参照>>)に追いやった後、信長次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ)が徳川家康(とくがわいえやす)の支援を受けて起こした小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市周辺)の戦いを何とか納めた(11月16日参照>>)のが、天正十二年(1584年)の11月の事でした。
ここで、ようやくの一息をついた秀吉は、先の小牧長久手の岸和田城(きしわだじょう=大阪府岸和田市)攻防の際に、信雄&家康側に立って抵抗した雑賀(さいが・さいか)衆や根来(ねごろ)衆といった紀州(きしゅう=和歌山県)の一揆勢力の撲滅に着手します。
ここは、かねてより秀吉が「何とかしたい」と思っていた場所・・・いや、何なら信長の時代から「何とかせねば」ならなかった場所です。
雑賀衆というのは、紀州の紀の川流域一帯に勢力を持つ土着の民・・・農業に従事する者もいれば水産&海運に従事する者もあり、彼らは自らを守るために武装し、鉄砲を自在に操り、水軍も持っていて、信長をも何度も手こずらせた相手です。
●【孝子峠の戦いと中野落城】参照>>
●【丹和沖の海戦】参照>>
一方の根来衆は、現在も和歌山県岩出市にある新義真言宗総本山の寺院=根来寺(ねごろじ=根來寺)の宗徒たちが集った宗教勢力で、この戦国時代には50万石とも70万石とも言われる膨大な寺領を所有しており、それらを守るために、一部が僧兵として武装していた集団です。
そして、もう一つ・・・根来寺より少し東=紀の川の上流に位置する粉河観音宗総本山の粉河寺(こかわでら=和歌山県紀の川市粉河)←コチラも寺務を司るだけでなく、武力も保有する集団でした。
雑賀衆が独立独行を目指す(3月7日参照>>)のに対し、根来衆は、これまで度々起こっていた紀州守護(しゅご=県知事みたいな?)の畠山(はたけやま)氏の権力争い等に積極的に参加する中央介入派(7月12日参照>>)、粉河寺は根来ほどの規模や積極性を持たないものの、各地へ遠征してチョイチョイ戦乱に参戦していたわけで・・・
信長同様、この先、各地を平定し最終的には中央集権体制を目指す事になる秀吉にとっては、こういった独立的な勢力は、規模の大小&抵抗のあるなしに関わらず、そのままにしておくわけにはいかない集団であったわけです。
かくして天正十三年(1585年)3月、秀吉は、これまで何度も計画しながらも、上記の勝家や信雄や家康やらのゴタゴタで延び延びになっていた紀州征伐(きしゅうせいばつ)を決行する事にしたのです。
これを受けた根来ら紀州の諸勢力は、和泉(いずみ=大阪府南西部)の近木川(こぎがわ)流域(大阪府貝塚市付近)に、千石堀(せんごくぼり=貝塚市橋本)・高井(たかい=貝塚市名越)・積善寺(しゃくぜんじ=貝塚市橋本)・畠中(はたけなか=貝塚市畠中)などに複数の砦を構え、得意の鉄砲集団を配置し、秀吉の大軍を迎え撃ちます。
しかし、10万越えという予想以上の大軍に、まずは3月21日、千石堀があっけなく陥落した事をキッカケに、堰を切ったように次々と陥落あるいは開城となり、23日に文字通りの最後の砦となった沢城(さわじょう=貝塚市畠中)が開城されてしまった事で、紀州勢力の前線基地は、わずか3日で崩壊してしまうのです。
秀吉の紀州征伐の位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
しかも、これら紀州前線隊と戦っていたのは、秀吉軍の一部・・・未だ無傷の予備隊=約6万は、同時進行で根来寺へ向かい、秀吉自身も根来寺の寺域に布陣します。
これほど早くに寺内までやって来るとは予想していなかった根来側・・・ここで、剛力の僧兵が鉄棒を振るって敵をなぎ倒したとか、荒法師が敵陣に斬り込んで壮絶な最期を遂げたとか、鉄砲隊による奮戦とか、激しい戦闘が来る広げらる中で火が放たれ、23日の夜から24日の朝にかけて、根来寺の堂塔は、ことごとく焼き尽くされ、さらに粉河寺に向かった秀吉軍の将兵により、粉河寺の堂塔&坊舎までもが焼き尽くされてしまったのです。
これは、天正十三年(1585年)3月23日の根来寺の焼き討ち、翌・3月24日の粉河寺の焼き討ちと伝えられています。
とは言え、実は、これ、信長の比叡山焼き討ちと同様に(【信長の比叡山焼き討ちは無かった?】参照>>)、「焼き討ち」では無かった可能性があるのです。
もちろん、多くの堂坊が燃えた事は確かなようなのですが・・・
竹中重門(たけなかしげかど=半兵衛重治の息子)の手記によれば、
「寺々はみな明けうせ 僧俄(にわか)に落行(おちゆき)たりと覚えて…」
と、先ほどのような荒法師や鉄砲隊の活躍もなく、根来衆はただただ逃げるばかりであった・・・と、
しかも出火は
「申の刻ばかり…」
つまり、午後3時~5時の、ほぼ昼間に火が出たと・・・
他のいくつかの記録にも、
「秀吉軍の宿所となっている場所から火が上がって、秀吉も山へ逃げた」
とか、
「休憩中の兵士たちが慌てて避難し、具足が燃えた者もいた」
てな事が書かれているのです。
もし、これが、秀吉軍による焼き討ちであるなら、ほぼ無抵抗の明け渡しで占領した場所を、その後に秀吉側が、しかも自分たちの近くに火をつけて燃やした・・・って事になりますよね?
さらに・・・
この時、一部、燃え残った部分があるのですが、それが本堂と大塔(多宝塔)という、寺内で最も重要な建物だったのだとか・・・ご存知のように、根来寺に現存する国宝の多宝塔には、今も、秀吉の焼き討ちの時につけられたとされる火縄銃の弾痕が残っています→つまり、ここ=最も重要な部分はこの時に燃えてないわけですね。
粉河寺の焼き討ちに関しても、一連の出来事を伝え聞いた本願寺の記録で「自滅」と記されています。
「自滅」とは、寺の人間が自ら火をつけた・・・という意味です。
そうです。。。ひょっとして、寺側の彼らは、自分たちで火をつけたのかも?
負けて他人の手に渡るなら、自らの手で・・・という考え方もあったのかも知れません。
もちろん、だからと言って「焼き討ちは無かった」と断言する事もできません。
根来周辺の寺々には、この時に焼かれたという記録が複数残っていますし、実際に、この後、秀吉軍は雑賀衆の太田城(おおたじょう=和歌山県和歌山市太田)への攻撃に向かっているわけですしね(【紀州征伐~太田城攻防戦】参照>>)。
ただ、当時の記録を見る限りでは「無血占領の後、なんらかの原因で焼けちゃった」感が強く、最近では「焼き討ち」と呼べるほどの物では無かった可能性が高いと考えられているようです。
ちなみに、秀吉の後に天下を取った徳川家康は、生前の秀吉が、幼くして亡くなった愛児=鶴松(つるまつ)を弔うために建立した祥雲禅寺(しょううんぜんじ)を、そっくりそのまま根来寺の復興のために寄進・・・これが、その名を根来寺智積院と改められ、現在も、京都は七条通りの一等地に建つ智積院(ちしゃくいん=京都市東山区)です。
信長の比叡山焼き討ちにしろ、今回の秀吉の根来寺&粉河寺焼き討ちにしろ、政権確保のために寺を攻撃するという行為・・・現代の感覚では、無抵抗の信者たちを襲う仏も恐れぬ非情な行為に受け止められるかも知れませんが、その後の家康の行為でもお察しの通り、政権が変れば、前政権の影を払拭するように、次の新政権がかつて攻撃された寺を復興する・・・
この時代は今と違って、政権と寺勢力が、そのように絡み合っていた時代だったという事を忘れてはなりませんね。
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