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2020年4月29日 (水)

熊野・那智の覇権を巡って…堀内氏善と廊之坊重盛~勝山城の戦い

 

天正九年(1581年)4月29日、那智制覇を目指す堀内氏善が、廊之坊重盛の守る勝山城を陥落させました。

・・・・・・・

戦国時代初め頃に、熊野水軍という一大勢力を持つ那智山別当家(べっとう=熊野三山を統轄)実方院(じっぽういん)を取り込んで紀伊水道の制海権を握る一大水軍として隆盛を極めていた安宅(あたぎ)に起こった後継者争いを機に、安宅を凌ぐ新興勢力としてのし上がって来た堀内(ほりうち)(11月4日【安宅一乱】参照>>)

やがて、その熊野水軍を、さらに熊野地方周辺の豪族をも次々と取り込み勢力を誇るようになった天文年間(1532年~1555年)に、堀内氏は、その本拠を新宮郊外の佐野(さの)から新宮中心部の金龍寺の境内=新宮城(しんぐうじょう=和歌山県新宮市)に移します。

ちなみに、ここに堀を張り巡らして居所とした事から、「堀ノ内殿」と呼ばれるようになったので、苗字も「堀内」にしたという説もあります。

とにもかくにも、この頃には、従来からのこの地に力を持っていた熊野七上綱(くまのしちじょうこう)と呼ばれる土豪(どごう=地侍)たちをも支配下に取り込んでいた堀内氏でしたが、それは新宮と並ぶ熊野三山の一つ=那智(なち)に対しても同じで、すでに四半世紀前から、そこを支配下に治めるべく、何度か侵攻していました。

それが本格的になって来たのが天正七年(1579年)頃・・・

その頃の那智山には、多くの御師(おし=社寺へ参詣者を案内、参拝・宿泊などの世話をする者)の坊が点在していましたが、それを二分するがの如くの勢力を持っていたのが、塩崎(しおざき=汐崎)廊之坊(くるわのぼう)と、米良(めら=目良)実方院・・・

そんな中で、実方院とは婚姻関係を結んで取り込んだ堀内氏は、やはり廊之坊に対しても婚姻関係をを結んで取り込もうとしますが、堀内氏から送られてきた娘がブサイクだったので突き返し、その代わとして堀内氏の姪にあたる美人の娘を、廊之坊が略奪して連れ去ったために、両者の関係がこじれた・・・なんて話もあるようですが、さすがにこの話は創作でしょうね。

そもそも、両家の関係を結ぶための政略結婚なんですから、ブサイクだろうと美人だろうと、縁を結ぶ事が優先事項なわけで・・・結局は、「廊之坊が堀内の支配を許さなかった」ってとこなのでしょうけど。。。

とにもかくにも、当然ですが、堀内に協力する実方院には、勝利のあかつきには廊之坊の跡職(あとしき=跡目・相続)が与えられる約束が成され、いよいよ攻撃が本格的になって来ます。

Natikatuyamazyou 勝山城周辺の位置関係図
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

廊之坊の本拠である勝山城(かつやまじょう=和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)は、廊之坊屋敷とも呼ばれ、現在の紀勢本線・那智駅近くの小山の上に設けられた、文字通り「屋敷」だったのが、徐々に土塁や曲輪(くるわ=丸)などが整備されていき、この頃には、本格的な城郭となっていました。

この不穏な空気を察した勝山城主=廊之坊重盛(くるわのぼうしげもり=汐崎重盛)は、以前からの堀内の対抗勢力であった古座(こざ)虎城山城(こじょうやまじょう=同東牟婁郡串本町)高河原貞盛(たかがはらさだもり)などと連携して、城の防備を固めます。

もちろん、那智山内にも、廊之坊の味方となる勢はまだまだいたわけですし・・・

これを受けた堀内氏善(ほりうちうじよし)は力攻めする事を避け、勝山城近くに付城(つけじろ=攻撃するために要所に新設する城)を設けて兵糧の補給路を断つ作戦に出ます。

これにより、約3ヶ月に渡る籠城戦が開始されますが、その間、高河原勢が勝山城の包囲を打ち破ろうと警固船=約30隻を擁して那智海岸の浜ノ宮(同東牟婁郡那智勝浦町)の南に上陸したのを、堀内に味方する雑賀(さいが・さいか)佐武伊賀守(さたけいがのかみ=佐竹允昌?)らが、かの付城から突出して矢を射かけて高河原勢を退散させたり、逆に佐武らが、勝山城の出城を攻撃して陥落させたり、等のいくつかの小競り合いが展開されます。

その両方に多くの死者が出た事が記録されていますので、なかなかの激戦が繰り広げられていたようですが、結局は勝山籠城側が堀内の包囲網を突破する事はなかなか難しかったようで・・・やがて勝山城内の兵糧は枯渇していく事になるのです。

かくして天正九年(1581年)4月29日に至って、勝山城は落城するのです。

『熊野年代記』には、
「四月廿九日那智山炎上 廊之坊城落ル 色川衆焼ク(すなわ)チ廊之坊腹切ル」
とあります。

色川衆とは鎌ヶ峯城(かまがみねじょう=同東牟婁郡那智勝浦町)を本拠とする色川盛直(いろかわもりなお)の配下の者と思われますが、この頃の色川盛直は廊之坊重盛と姻戚関係を結んで堀内に対抗していた側であるはずなので、ひょっとしたら、城に火をかけた色川衆とは、その中に潜んでいた一部の内通者だったのかも知れません。

また、一説には色川衆は最後まで廊之坊の味方であったものの、最終段階で応援すべく勝山城に入ったところを、その混乱に乗じた堀内側の者が火をかけたとも言われます。

敗戦の将となった廊之坊重盛に関しても、落城のさ中に城中で切腹したという話と、嫁さんとともに脱出したものの、隠れている所を近隣の百姓に密告されて、翌・30日に討たれたという話とがあります。

いずれにしても、この日に勝山城が落城した事は事実のようで、この後は、那智山の実権を堀内氏善が握る事になり、熊野一帯での、堀内氏の地位はますます万全の物となるわけですが、

一方で、この堀内氏善は中央との関係もぬかりなく・・・

以前の堀内は、あの織田信長(おだのぶなが)が次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ)北畠(きたばたけ)の養子に入れて(11月25日参照>>)、まんまと奪い取った伊勢・志摩(いせ・しま=三重県)地方を巡って争う関係だったのが、

いつの間にか近づき、この勝山城籠城戦の真っただ中の2月29日には、信長から、ちゃっかりと熊野神社(くまのじんじゃ=熊野本宮大社〈本宮〉・熊野速玉大社〈新宮〉・熊野那智大社〈那智〉の熊野三山)神領を与える旨の朱印状を貰って、織田の傘下となっています。

しかも、信長の死後は、またもやちゃっかりと、あの山崎の戦いに参戦(6月13日参照>>)し、今度は豊臣秀吉(とよとみひでよし)の配下として生き延びます。

関ヶ原では西軍についたために、一時は衰退した堀内氏でしたが、氏善の死後まもなく起こった大坂の陣にて、大坂方として参戦していた氏善の息子=堀内氏久(うじひさ)が、豊臣秀頼(ひでより=秀吉の息子)の正室だった千姫(せんひめ=家康の孫)を守りながら燃える大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)から脱出して徳川家康(とくがわいえやす)の本陣まで届けた(2月6日参照>>)事で、今度は、徳川の家臣=旗本として見事復活しています。

定番の言い回しではありますが、
自らを貫いて、花と散るも戦国・・・
家のため、大樹の陰に寄ってつなぐも戦国・・・
どちらも戦国の生き方であります。
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2020年4月27日 (月)

大河ドラマ『麒麟がくる』第15回「道三、わが父に非(あら)ず」の感想

 

「木下さんが、やっと出た!」と思った大河ドラマ『麒麟がくる』第15回「道三、わが父に非(あら)ず」の感想です。

これまでも出てたのに見逃してるのかも知れないのですが・・・
木下ほうかさんが演じる織田信光がやっと出た~~

しかも、みたらし団子片手に川口帰蝶姫との意味深(←死語か?)なやり取り・・・いやぁ、良かったです。

それにしても、なんで?これまで出さなかったんだろ?
(もし出てたとしても気づかないくらい目立たなかったという事も含めて)

信長父ちゃん=信秀の弟ですから、これまでドラマ内でも描かれていた小豆坂の戦い>>でも活躍してるし、父ちゃん亡き後に後を継いだ信長の数少ない(かどうかは微妙なれど)理解者で、先週描かれていた村木砦の戦い>>でも頑張ってはったはずですが、どこかで映ってましたっけ?

まぁ、今回はかなり目立っていて木下さんの不穏な演技も冴えまくりだったので良いんですが、この木下信光さんが、この1度の見せ場=清州城乗っ取り>>だけで退場されてしまうのは(ネタバレすみませんm(_ _)m)非常にもったいない・・・

ここに来るまでにチョイチョイ首突っ込んで来る感じでもイイんで、もうチョイ木下信光さんを見てみたかった気がしてます【織田信光の死】参照>>)

で・・・今回、もう一つのなんで?これまで出さなかったんだろ?は、
海猿高政(斎藤義龍)の二人の弟・・・【義龍が弟殺害】参照>>)
いきなり出てきて、
いきなり味方しろ!と言って、
いきなり道三父ちゃんとベタベタして、
いきなり殺される・・・

なんか、先週の深芳野さんの自殺から「いきなり」が多いなぁ~と・・・

まぁ、アノ方の降板だけでも大変なのに、新型でオリンピックの放送が無くなるわ撮影もできんわ・・・で、足さねばならぬ部分やカットせねばならぬ部分が入り乱れているのかもしれませんねぇ。

大好きな時代の大好きな人たちの大好きなエピ満載の大河・・・万全の態勢で見てみたかったと思いますが、これだけは仕方ないですね。

にしても、今回、際立ったのは、村田雄浩さんの演技・・・

そう、伊藤高政さんにアレやコレや吹き込んでその気にさせるあの稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)ですよ!

「村田さん、こんな悪意に満ちた表情しはるんや~」と、その演技にびっくりです。
(これまでは憎めない役をやってはる場面を多く見て来たので)
しかも、これがのちのち、稲葉山城陥落の際には織田方に寝返り【美濃三人衆内応】参照>>)、その後は信長配下として頑固一徹の大活躍するわけですから(またもやネタバレすませんm(_ _)m)その時は、どんな表情を見せてくださるのか、今から楽しみです。

余談ですが、道三に追放された鷹大好き土岐頼芸さんを甲州征伐(2月9日参照>>)の時に保護して、その最期を看取るのは、この稲葉一鉄さんなんですよね~(頼芸&一鉄、長生きやなぁ)
個人的には、そのシーンもドラマのラストで見てみたいですが、それだと稲葉さんが主役になっちゃうのでダメですねww

ところで「主役」と言えば、やっぱり今回も、道三×高政の間に立たされ右往左往の連絡係的パシリだった主人公光秀さん、
来週はいよいよ弘治二年(1556年)4月20日の長良川の戦い>>がおっぱじめられて本木道三が退場に向かわれるようですので、

その4か月後の信長が弟=信勝(信行)と戦う稲生の戦い>>が終われば、ようやく、光秀さん前半戦の最大の見せ場である明智城の落城>>が待ってまるはず・・・

今日のどっちつかずな連絡係は、そのための伏線ですよね?

どんな風に描かれるのか?楽しみです(^o^)
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2020年4月23日 (木)

武田方・小山田信有VS北条氏綱~八坪坂の戦い

 

享禄三年(1530年)4月23日、江戸城に迫る上杉朝興の援軍として武田信虎が派遣した小山田信有が、北条氏綱八坪坂にて戦いました。

・・・・・・・・

ご存知、室町幕府を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ)・・・しかし、南北朝の動乱もあって本拠である関東から遠く離れた京都にて幕府を開く事になったため、尊氏は、京都にて政務を行う将軍を三男の足利義詮(よしあきら)に継がせ、四男の足利基氏(もとうじ)鎌倉公方(かまくらくぼう=関東公方)として派遣し、本拠の関東を治めさせる事にしたのです(9月19日参照>>)

一方、尊氏の母方の叔父にあたる上杉重顕(うえすぎしげあき)を祖とする上杉家は、この鎌倉公方に仕えて、関東管領(かんとうかんれい=鎌倉府の長官で鎌倉公方を補佐する・関東執事)を継承する家柄でしたが、最初のうちは事実上の宗家である山内上杉家(やまうちうえすぎけ)が関東管領をほとんど独占していて平穏だったものの、

第4代鎌倉公方の足利持氏(もちうじ)が京都の将軍家に歯向かった永享の乱(えいきょうのらん)(2月10日参照>>)やら、その持氏の遺児=足利成氏(しげうじ)古河公方(こがくぼう)を自称して関東で大暴れし始めた(9月30日参照>>)混乱等から、はじめは京都にて幕府に仕えていた扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)が、山内上杉家と関東の覇権を巡って内紛をおっぱじめます。

しかし、そんな中でグングンと、関東の覇権を争うもう一つの勢力が・・・伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき=北条早雲)を初代とする北条氏です(10月11日参照>>)

亡き父=盛時の政策を受け継ぐ2代目当主=北条氏綱(ほうじょううじつな)は、大永3年(1523年)の夏頃に、その苗字を伊勢から北条に変えたとされますが、おそらくこれは、鎌倉時代に君臨した政子(まさこ)さんの北条氏(7月11日参照>>)にあやかっての事・・・なんせ、父=早雲の時代は、一応幕府からの承認は受けていたものの、山内&扇谷の両上杉氏をはじめとする旧来からの関東勢からは「他国の逆徒」と呼ばれて反発を受けていましたから、そこを、この先の関東支配を正当化するがの如くの改名・・・と思えるわけです(自称ではなく朝廷に認められた苗字との見方もあり)

もちろん、その改名とともに、関東南部において支配拡大も着々と進めていたわけですが・・・

これに危機感を抱いた扇谷上杉朝興(ともおき)山内上杉家と和睦をして北条に対抗しようとしますが、大永四年(1524年)正月に江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を氏綱に奪われたため(1月13日参照>>)、その後は川越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)を主城として武蔵(むさし=東京都と埼玉&神奈川の一部)相模(さがみ=神奈川県)等の失地を回復せんと北条との戦いに日々まい進しておりました。

そんなこんなの享禄三年(1530年)、明けたばかりの正月3日、川越を出陣した上杉朝興が、氏綱の重臣である遠山直景(とおやまなおかげ)が守る吾那蜆城(あがなしじみじょう=埼玉県入間郡)を囲みます。

この時の遠山直景は江戸城代を務めていたとされ、多くの江戸城衆を引き連れており、「おそらく、ここを攻めて来るであろう」朝興の動きを予想した氏綱が、前年の暮れに直景をここ吾那蜆城に配置し、準備を整えさせていたのでした。

しかし、これに気づいた朝興は、予想を超える速さで正月明けにやって来てしまったわけで、吾那蜆城側は未だ配置された人数も、そう多くなく、やや準備不足気味だったため、直景は、やむなく奇襲作戦に切り替え、城を囲む上杉勢を、少数精鋭で以って背後から攻撃します。

しかし、やはり準備不足は否めない・・・ほどなく劣勢となり直景率いる北条軍は敗走し始めます。

勝ちに乗じた上杉軍は、その勢いのまま小沢城(おざわじょう=神奈川県川崎市多摩区)、さらに世田谷城(せたがやじょう=東京都世田谷区)攻略して、江戸城間近まで迫ります。

Oyamadanobuari700a この状況に、当時、上杉朝興と同盟を結んでいた甲斐(かい=山梨県)武田信虎(たけだのぶとら)は、配下の小山田信有(おやまだのぶあり)上杉の援軍として、相模方面に派遣したのです。

この小山田信有の小山田氏は、甲斐における有力国人衆(地侍)の一つで、もともとは甲斐守護である武田家とも抗争を繰り返していたのですが、小山田信有の父の時代に武田と和睦して婚姻関係を結び、この小山田信有の母は武田の人(信虎の妹?)と言われます。

そして、この小山田信有さんは、後に武田二十四将の一人に数えられる重臣=小山田信茂(のぶしげ=最後に勝頼に離反しちゃいますが…)のお父さんでもあり、この頃には、もうドップリの武田派・・・すでに家臣団の中でも一門衆として重用されていた人だったのです。

かくして、この小山田信有の動きを知った北条氏綱が、信有率いる武田軍を迎え撃つべく出陣・・・享禄三年(1530年)4月23日、両者は甲斐と相模の境界線に近い八坪坂(やつぼざか=山梨県上野原市)にてぶつかったのです。

残念ながら合戦の詳細については、よくわかっていないのですが『勝山記』には、
「…卯月廿三日 八坪坂ニテ越中殿ト氏綱合戦アリ 打負テ吉田衆致打死候」
と、信有の被官(ひかん=家臣・奉公人)である吉田衆の多数が討死し、信有率いる武田軍が負けてしまった事が記録されています。

一方、江戸城に迫っていた上杉朝興も、それ以上、軍を進める事ができず、根小屋(ねごや=神奈川県相模原市緑区)周辺に放火をして、一旦、川越城へと戻っています。

その後も、何度か氏綱&その息子の北条氏康(うじやす)らと戦う上杉朝興でしたが、北条の勢いを止める事は、なかなかできず・・・そのため、上杉朝興は、ますます武田信虎との結びつきを強めるべく、山内上杉家の上杉憲房(のりふさ)元正室(この頃には憲房は亡くなっていた)を側室として信虎のもとに嫁がせたり、信虎の嫡子=武田晴信(はるのぶ=後の信玄)に自らの(上杉の方)を正室とさせたり、

と、とにかく武田家と連携して北条との緒戦に挑みますが、ついに江戸城を奪回する事ができないまま死去し、その後は、彼の遺志を息子の上杉朝定(ともさだ)が継ぐ事になります。

この一連の戦い=上杉VS北条に終止符が打たれるのは、やはり北条も世代が変った氏康の頃・・・戦国屈指の夜戦と称される、ご存知、河越夜戦(かわごえやせん)(4月20日参照>>)での事でした。

ちなみに、この機会に武田晴信に嫁いだ上杉朝興の娘さんは、晴信との仲は良かったものの、お産が難産であったため母子ともども死去・・・その、後添えとして晴信のもとに嫁いで来たのが、あの三条の方(さんじょうのかた)(7月28日参照>>)という事になります。
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2020年4月20日 (月)

大河ドラマ『麒麟がくる』第14回「聖徳寺の会見」の感想~先週の答えは「信長の前にひれ伏す」でしたの巻

 

今週の大河ドラマ『麒麟がくる』第14回「聖徳寺の会見」の感想です。

期待通り、信長と道三の会見シーンは良かったですね~

先週=第13回「帰蝶のはかりごと」の感想>>で、
果たして道三は、その信長の印象を、
『信長公記』「息子らは(信長の)門前に馬をつなぐ」か、
『老人雑話』「我が国は婿殿の引出物なるであろう」か、
どちらを口にするのか?(詳しくは【正徳寺の会見】>>)
それとも…

てな事を言っておりましたが、上記のどちらでもない
(お前らは)信長の前にひれ伏すであろう」
でしたね~

染谷信長本木道三、ともにけん制しあいの探り合い・・・息を呑むすばらしさで、信長の、これまでとは違う新しい世を造っていきそうな雰囲気出てました。

ただ、会見場で信長が紹介した二人は、なんで、前田利家佐々成政やったんやろ?

確かに利家は信長の小姓やってましたが、このあと事件を起こして、しばらく(数年だと思いますが)織田家を離れますよね?(12月25日参照>>)
佐々成政は、この頃はまだ、守護代家の織田信安(11月1日参照>>)の配下で、信長とは敵対してたんじゃなかったかしら?

気持ち的には、丹羽長秀さんか、利家さんちなら弟の佐脇良之さんあたりを連れ来た方が納得できる気がしないでも無いですが、そこはドラマですから、後々、有名になるメンツを連れて来ないと、見てる側が「誰?」ってなるので、致し方ないって事なんでしょう。

にしても、道三嫁=深芳野さんの、突然の自殺には驚きました。
そんな気配、ありましたっけ?
(確かにお酒は好きそうやったけど…)

海猿義龍がお前呼ばわりで「ずっと放置プレイしてやろ!」と父ちゃんに怒り爆発してましたが、見た目には、けっこうイチャイチャしてラブラブ感出してはった気がするんですが・・・ま、私が見逃してしまってるかも知れないし、アッサリ守護代を息子に渡して出家するための理由付けかも知れないので、ここは納得しときましょう。

一方、納得し難いのは、やはり佐々木蔵之介さんの秀吉・・・

いや、佐々木さんは悪くない!
むしろ、頑張って未熟感&若い感を出してはりますが、いかんせん、年齢が・・・どう頑張っても染谷さんより年下には見えない。

もともと背が高くてカッコ良い俳優さんなので、秀吉のイメージでは無かったですが、それこそ、今回の信長と同様に、これまでに無いシュッとして目から鼻に抜ける聡明さを持った新しい秀吉像を描くために佐々木さんをキャスティングしはったんやと思てましたが、ここまで見た限りでは、これまでの秀吉像のままのような気が・・・いやいや、これからどんどん変化するのかも知れませんから、この先に期待しましょう。

それにしても、相変わらず影が薄い主人公夫婦。。。

主役の特権で、
信長が会見場に来る様子も道三の真横で見、
会見でもえぇ席に座らしてもらい、
大事な「兵を出す出さない」のモメ事の場所でも、あっちこっちから意見を求められるほどの信頼を得ているにも関わらず、結局、普通の事しか言わない・・・

ま、今のところは、歴史上の光秀が「何をした」という記録の無い時代ですので、仕方ないのかも知れないんですが、これが、あと10年くらい続くかと思うと、ちょっとしんどい気もします。

もうしばらく、「主人公が目立った事をしない」という、描き方が難しい時期ではありますが、大河スタッフ様の力量で、これからもオモシロイ展開を期待しております。

ま、今週は村木城(砦)の戦い>>も描いていただけたので満足々々・・・来週は清州城の乗っ取り>>からの織田信光の死>>ですかね?

それとも一気に道三の「美濃を譲る」の遺言状>>からの長良川の戦い>>までいっちゃうのかな?
いずれにしても、楽しみですね~
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2020年4月16日 (木)

秀吉の紀州征伐~高野攻め回避と木食応其

 

天正十三年(1585年)4月16日、秀吉紀州征伐で使者・木食応其が高野山の意向を伝え、高野攻めが回避されました。

・・・・・・・・

主君の織田信長(おだのぶなが)本能寺に倒れた(6月2日参照>>)後、変の首謀者である明智光秀(あけちみつひで)山崎(やまざき=京都府向日市付近)に倒した(6月13日参照>>)事で織田家内での力をつけた羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、

その後、家臣団の筆頭であった柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずがたけ)(4月21日参照>>)に破り、信長の三男・神戸信孝(かんべのぶたか)自刃(5月2日参照>>)に追い込み、

さらに天正十二年(1584年)、徳川家康(とくがわいえやす)の支援を受けてた信長次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ)との小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市周辺)の戦いを何とか納めました(11月16日参照>>)

Toyotomihideyoshi600 ここで、この先おそらくは(最終的には)中央集権を目指すつもり?の秀吉は、未だ独立を保って抵抗していた雑賀(さいが・さいか)根来(ねごろ)といった紀州(きしゅう=和歌山県)一揆勢力の撲滅に着手するのです。

雑賀衆というのは、紀州の紀の川流域一帯に勢力を持つ独立独行を目指す土着の民で、亡き信長を何度も手こずらせた相手です。
【孝子峠の戦いと中野落城】参照>>
【丹和沖の海戦】参照>>

一方の根来衆は、現在も和歌山県岩出市にある新義真言宗総本山の寺院=根来寺(ねごろじ=根來寺)の宗徒たちが集った宗教勢力で、同じく武力をを保有する宗教勢力の粉河寺(こかわでら=和歌山県紀の川市粉河)

そして、もう一つ・・・紀州には高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町・壇上伽藍を中心とする宗教都市)という一大宗教勢力がありますが、コチラも信長時代から抵抗勢力でありました(10月2日参照>>)

かくして天正十三年(1585年)3月、秀吉は紀州征伐(きしゅうせいばつ)を決行します。

これを受けた根来ら紀州の諸勢力は、複数の砦で構成された前線基地(現在の貝塚市付近)で迎え撃ちますが、10万越えという予想以上の大軍に、あっけなく崩壊・・・

前線を突破した秀吉軍は3月23日に根来寺を、翌・3月24日に粉河寺を占領(3月24日参照>>)、さらに3月28日には雑賀衆の太田城(おおたじょう=和歌山県和歌山市)を囲みます(3月28日参照>>)

一方、この太田城攻防と同時進行で行われていたのが、高野山攻めの計画・・・とは言え、こういう場合、まずは交渉です。

ドラマ等では、よくスッ飛ばされてるので忘れがちですが、信長さんのあの比叡山焼き討ちも、信長の出した和睦の条件を比叡山が呑まなかったので焼き討ちを決行してます。。。
もちろん、今回の根来寺や粉河寺や雑賀にも先に交渉してますが、結果、決裂して蜂起となったので→武力征伐という事なわけで、、、

そんなこんなで4月7日、秀吉は細井新助(ほそいしんすけ)なる者を使者として高野山へと向かわせ「提示する三つの条件をのまねば攻撃する」旨を伝えます。

残念ながら、その手紙の現物は残っていませんが、伝えられるところによると、その三つの条件とは
1:もともとの寺領以外の領地の返還
2:武装蜂起(謀反人を匿う事も禁止)
3:弘法大師の教えの通りに仏道に専念する事
の三つだったと言います。

これを受け取った高野山側では、山内挙げての協議となりますが、その中には「武力に屈する事無く、徹底抗戦!」を訴える僧も少なくありませんでしたた。

しかし、現実問題として反発した根来&粉河は焼き討ちからの占領となり、現在抗戦中の太田城も、もはや風前の灯である事も伝えられており、大軍である秀吉軍なら、紀州各地に兵を配置しながらでも、ここ高野山へもある程度の兵の数を確保できる事は明白・・・「ここは一つ、神聖なる高野山の伝統を守る事を1番に考えるべきだ」との声が挙がり、そのためには、「これらの条件を無条件受諾するしかない」との意見にまとまります。

かくして天正十三年(1585年)4月16日、高野山にて「すべての条件を受諾する」旨の請状(うけじょう)が作成され、それに神文(しんもん=起請の内容に偽が無い事を神に誓う文・今回の場合は空海の手印を添付)を添えて、学侶(がくりょ=仏教を学び研究する僧=学僧)の代表者と行人(ぎょうにん=施設等の管理をする僧)の代表者とともに、客僧として高野山に入っていた木食応其(もくじきおうご)を使者として、太田城水攻め中の秀吉のもとに派遣しました。

この時、彼らに面会した秀吉は、木食応其の事を大いに気に入ったと見え、
「高野の木食と存ずべからず、木食が高野と存ずべし」
(木食応其は単に高野山の木食僧なのではなく、木食応其が高野山を代表すると思え)
と評して、即座に高野山攻めを取り止めるとともに、今後の高野山の運営を、この木食応其に委ねるよう命じたのです。

ちなみに木食応其の「木食(もくじき)とは穀物を絶って木の実や山菜・野草のみを食し仏道に励んでいる状況=つまり、そういう修行をしているという事で、今回の木食応其の場合は、学侶でも行人でもなく、この時にたまたま客僧として高野山にて木食をしていた・・・という感じだったようです。

そもそも木食応其は、近江源氏佐々木(ささき)の家臣だった父を持ち、織田信長が観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市)を攻めた時には六角承禎(ろっかくじょうてい・義賢)とともに抵抗し(9月12日参照>>)、その後、高取城(たかとりじょう=奈良県高市郡高取町)越智(おち)(9月15日参照>>)を頼って奈良に落ちたものの、その越智氏も没落したため、戦いの空しさを痛感して中年になって出家したと言われる異色の経歴の持ち主・・・この経歴に関しては異説があるものの「基々は武将だった」というのは本当のようで、

そういう意味で、武士の立場も理解し、また客僧という立場ゆえにしがらみも無く・・・秀吉から見れば、そこが大いに使い勝手が良く、この後、木食応其を重用し、木食応其もまた、秀吉を後ろ盾として高野山の再興に力を注ぐ事になるのです。

故に、この木食応其を「高野山の中興の祖」と見る場合もあるようです。
ま、存続の危機から一転、現在につながる繁栄を遂げる事になるわけですから。。。

後に秀吉は、山上に興山寺(こうざんじ)を建立し、木食応其を開山第一世 とし、さらに興山寺の隣 に亡き母を弔うための青厳寺(せいがんじ)を建立・・・これが、明治になって興山寺と青厳寺が合併して真言宗総本山金剛峯寺と称するようになり、現在に至るという事になるのです。

また、木食応其は橋本(和歌山県橋本市)の発展にも力をつくしました。

大和街道と高野街道が交わり、そこに紀ノ川の水運が重なる交通の要所でもあるこの場所に、自らの草庵(現在の応其寺)を結んで商工業の町として整備するとともに、高野山往還のために紀ノ川に234mの橋を架けたりして・・・これが「橋本」の地名の由来とも伝えられています。

とまぁ、秀吉を大いに利用しつつも、政権下に組み込まれる事もなく・・・と、ウマイ事立ちまわってる感がある所は、さすがにタダの僧では無い感が漂いますが、それでいて、同じ近江出身として意気投合した石田三成(いしだみつなり)が関ヶ原で負けた時には、すかさず光成三男を保護して出家させ、その命を守るところなど、なかなか義理堅い人でもあったようです。

とにもかくにも、これで高野山攻めが回避され、今に残った事は、誰もがヨシとするところではないでしょうか?
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2020年4月13日 (月)

大河ドラマ『麒麟がくる』第13回「帰蝶のはかりごと」の感想~はかりごとは会見準備の巻

 

「なるほど…そう来たか」と思った大河ドラマ『麒麟がくる』第13回「帰蝶のはかりごと」の感想です。

これまでの進むスピードの遅さとは打って変わって一気に2年近くすっ飛ばしちゃったギアチェンジに驚きつつも、一方で相変わらず、主人公とその奥さんの影が薄い中、
あんなけ出てた信長父ちゃんの葬式(3月3日参照>>)がスルーされ、
あんなけ物々しかった土岐さんとその一派(12月4日参照>>)も鷹の羽の中で終わってしまい、
信長が当主として初めて戦った三の山・赤塚の戦い(4月17日参照>>)もすっ飛ばされ、
平手さんもほぼナレーションで理由もよくわからんまま自刃退場(1月13日参照>>)となったのは、
この次の正徳寺(聖徳寺)の会見(4月20日参照>>)への準備が主軸だったからなのですね。

なるほど・・・
ドラマの放送前の段階で、「今までに無い新しい信長像を描く」的なフレコミがありましたが、確かに、これまでには無い信長・・・
てか、これやと「新しい濃姫(帰蝶)像やがな!」っていうくらい、父・道三との会見に気乗りしない信長を説得したり、何から何まで準備したりの大活躍で、

アノ方が演じるはずだった姉さん女房的な帰蝶ちゃんが、信長を操縦しまくりでしたね。

これまで見ていた感じでは、駄々っ子のような染谷信長さんが、いつか覚醒するんじゃないか?と思ってましたが、まさか、このまま、天下布武のハンコまで帰蝶ちゃんが作って信長君に与える・・・なんて事はないでしょうね。。。

ま、それはそれでオモシロイかも知れませんが、、、

とまぁ、ご存知の通り、
帰蝶ちゃんが会見の準備に走るのは創作ですが、一方で会見に向かう信長さんの様子は、800人ほどのお供衆とその前列の足軽衆・・・と、見事に史実通りに再現されてましたね~(注:着物の柄は史実通りやと放送では流せませんww)

兵の数に驚く道三とともに、主人公の特権で真横で兵を数える光秀・・・ここは見どころでしたね~

確か、1番驚いたのは槍の長さだったような記憶があるのですが、ドラマでは鉄砲に焦点を当てていたよう・・・でも、今回のドラマの中では初回から、何かと鉄砲に焦点が当てられていたので、そこは、このドラマの特徴という事で納得ですね。

ただ、ちょっと今回は帰蝶ちゃんが前へ出過ぎの、主人公の奥さんが後ろに下がり過ぎな感がしないでもないですね。

なんか、ドラマの中では、信長君はすぐ帰蝶ちゃんに相談するし、二人ラブラブな感じで物事に取り組む一方で、光秀は、いっこも奥さんに相談しないし二人の会話も少ないわぁ。。。

ドラマ上の設定では、信長夫婦は政略結婚で、光秀夫婦は恋愛結婚のはずなのに・・・個人的には、あまりのベタベタは勘弁ですが、もうチョイ仲良くしてほしい気がしました。

とは言え、いよいよ来週は道三×信長の会見の後半戦・・・

果たして道三は、その感想として、
『信長公記』「息子らは(信長の)門前に馬をつなぐ」か、
『老人雑話』「我が国は婿殿の引出物なるであろう」か、
どちらを口にするのか?

それとも、これまた、今までに無い新しい展開となるのか?
来週も楽しみです。

お~っと、「その頃、今川は…」って話も出てたので、来週は村木砦の戦い(1月24日参照>>)も描かれるのかな?

いや、渋滞避けて高速に乗り、時の流れのギアチェンジしはったみたいなので、一気に清洲城奪取(4月20日参照>>)まで、行っちゃうかも・・・o(^o^o)(o^o^)o ワクワク
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2020年4月 8日 (水)

武田滅亡とともに散った軍略家~朝比奈信置

 

天正十年(1582年)4月8日、織田信長の甲州征伐のさ中に落ちた持船城の朝比奈信置が自刃しました。

・・・・・・・・・

駿河(するが=静岡県東部)今川義元(いまがわよしもと)に仕えたとされる朝比奈信置(あさひなのぶおき)は、同じく義元に仕えた名参謀=朝比奈泰能(やすよし)(9月19日参照>>)とは別系統の朝比奈親徳(ちかのり)の息子です。

早くから義元の近くにて功績を挙げていたらしく、信置が称した「駿河守(するがのかみ)に因んで、同じく駿河守を名乗っていた武田(たけだ)板垣信方(いたがきのぶかた)毛利(もうり)吉川元春(きっかわもとはる)と並んで「三駿河」の一人に数えられ、義元が尾張(おわり=愛知県西部)織田信秀(おだのぶひで)と戦った天文十七年(1548年)の小豆坂(あずきざか=愛知県岡崎市)の戦い(3月19日参照>>)でも先陣として走り、大きな功績を挙げたのだとか・・・

また『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)によれば、天文五年(1536年)頃に、未だ無名の浪人者だった山本勘助(やまもとかんすけ)の才能を見出し、主君=義元に推挙したのが、この朝比奈信置さんだったらしい・・・

ま、この頃の勘助が今川に仕官したがってたという事もあるのでしょうが、その才能を見抜く眼力は大したもの。

しかし、義元自身が勘助の風貌が気に入らなかった事や、家臣の反対等もあって、結局、この時に勘助を召し抱える事なく・・・ご存知のように、勘助は、この後、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)のもとで大活躍します(9月10日参照>>)

このような出来事があったからなのか?
それとも、戦国の流れが変わったからなのか?

永禄三年(1560年)に今川義元が桶狭間(おけはざま=愛知県名古屋市もしくは豊明市)に倒れ(5月19日参照>>)、その後を継いだ息子の今川氏真(うじざね)がヤバくなって来ると(12月13日参照>>)朝比奈信置はチャッカリ、駿河に侵攻して来た武田信玄のもとに走るのです。

しかも、この朝比奈信置という名前の「信」の文字は、武田信玄(本名は晴信)から一字を拝領しての信置なのだとか・・・つまり、それほど重用されての移籍だったわけです。

軍略家で軍師的な役割も果たし、用兵術(ようへいじゅつ=軍の動かし方や戦術など)にも長けていた信置は、新参者でありながら武田譜代の家臣たちにも信頼され、先方衆の筆頭を任され、信玄亡き後も、その後を継いだ武田勝頼(かつより=信玄四男)に従い、あの長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市)の戦いにも従軍し、その後の対・徳川家康(とくがわいえやす)戦線の重要拠点である持船城(もちぶねじょう=静岡県静岡市駿河区)を任されました。

その間の元亀四年(1573年=7月に天正に改元) 、武田信玄死去のニュースを聞いた直後から、家康が、長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市長篠)の奪取(9月8日参照>>)を皮切りに、天正三年(1575年)8月には諏訪原城(すわはらじょう=静岡県島田市)(8月24日参照>>)、12月には二俣城(ふたまたじょう=静岡県浜松市天竜区二)「遠江⇔駿河間にある武田方の城を一つ一つ自分の物にしていく作戦」を開始するのです。

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(長篠から武田滅亡までの間の)遠江争奪戦関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この時、信置が守る持船城も天正五年(1577年)の10月と天正七年(1579年)9月の2度に渡って、家康からの攻撃を受けていますが、一旦奪われても、すぐに奪回・・・徳川勢の本格的な侵攻を許す事はありませんでした。

しかし、やがて「その時」がやって来ます。

天正十年(1582年)・・・この年の正月に、勝頼妹=真理姫(まりひめ)の嫁ぎ先である木曽義昌(きそよしまさ)が、織田方に寝返ったのを皮切りに始まった織田信長(のぶなが=信秀の息子)『甲州征伐(こうしゅうせいばつ)(2月9日参照>>)の中で、2月20日に田中城(たなかじょう=静岡県藤枝市)を開城させ(2月20日参照>>)、 翌・21日には、当目坂で勝利した勢いのまま駿府(すんぷ=静岡県静岡市)を占領すると同時に、そのまま持船城を囲んだ家康は、23日から攻撃を開始・・・

もはや天下目前の信長を背後にした徳川軍相手に、さすがの朝比奈信置も耐えきれず・・・は27日にやむなく降伏し、29日には持船城を家康に開け渡したのでした。

ご存知のように、その12日後の3月11日には勝頼が天目山に散って(3月11日参照>>)武田は滅亡・・・

そして、武田の残党が逃げ込んでいた恵林寺(えりんじ=山梨県甲州市)が信長息子の織田信忠(のぶただ)に焼き討ちされた(4月3日参照>>)5日後の天正十年(1582年)4月8日、信長の命により朝比奈信置は自刃・・・享年55の生涯でした。

用兵に長けた軍略家であるなら、おそらく信長も重宝したでしょうから、もし、この時、いち早く武田に見切りをつけていたなら、生き残れたかも知れなかった信置さんですが、一方で「信長の命で自刃」しているわけですので、そこンところは、当事者同志しか解りえない部分・・・

生き残って咲く人もいれば、壮絶に散る人もいる・・・それが戦国という物なのでしょうね。
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2020年4月 6日 (月)

大河ドラマ『麒麟がくる』第12回「十兵衛の嫁」の感想~嫁の印象薄っ!セリフ短っ!の巻

 

「十兵衛の嫁」というサブタイトルなのに嫁がほとんど出て来なかった大河ドラマ『麒麟がくる』第12回の感想です。

先週は、主人公=光秀城巡りバスツアーの如くアチコチへ移動して、まるで連絡係のようだった(第11回「将軍の涙」の感想>>)と書かせていただきましたが、そのページでもお話させていただいたように、この頃の光秀は未だ歴史の史料にはほぼ登場しておらず、むしろ、主人公だからと言って様々な重要事項に絡んでしまうよりは、蚊帳の外で見ている感じの方が良いので、これでOKだとの私見を持っておりましたが、

さすがに、今回は主人公本人の結婚・・・なのですから、もう少し、視聴者が応援したくなるようなエピソードやドキドキする恋愛描写があった方が良かったような気がしてます。
(嫁さんの家族も出て来んかった)

なんせ、信長さんのように、帰蝶ちゃん(濃姫)という正室がいながら、子供を産むのは別の側室女性ってわけではなく、光秀は側室を持たずに生涯一人の女性を愛し、奥さんの方も、浪人となった夫を支える糟糠の妻(そうこうのつま)と伝えられているわけですから。。。

それこそ、側室当たり前の時代を描きながら、現在の「不倫=アカン」の観点を維持するべく、ここ最近の大河では、ほとんど正室一人しか登場せず(例外=秀吉ww)、実際には側室が産んだであろう後継ぎを正室の子供のように描いている事もあるご時世なのですから、今年こそは、正々堂々と、その夫婦関係を描けるはず・・・

なので、もう少し盛り上がって、テンション最高潮での結婚みたいな雰囲気があっても良かったかな??
とは言え、そういう場面は、この先おいおい出て来るかもしれないし、大河ドラマが、あまりに恋愛中心になっても困りますので、ここはあまり突っ込まないでおきましょう。

にしても、「毒(茶)には毒(鷹)で!」の仕返しはオモシロイ。
これで一気に土岐頼芸(ときよりなり)さん(12月4日参照>>)追放へと進みそうですね。

一方尾張(おわり=愛知県西部)では信長父ちゃんが虫の息(3月3日参照>>)・・・相変わらず信長は「パパに喜んでもらいたかったのに怒るばっかりで末盛城もくれへん」と、まるで子供用にスネまくり悲しみまくりな中、ササッと義父のもとに歩み寄って最期の言葉を確認する嫁=帰蝶ちゃん。

アレ、録画を戻して字幕出してもっかい確認してみましたが、やっぱり、父ちゃんがハッキリ言ったのは「信長を夜露死苦」だけ・・・他にもゴニョゴニョ言うてはったものの、そこはわからない仕掛けとなっておりましたが、そのセリフの長さからみて、おそらく、帰蝶ちゃんが信長に伝えたのは、かなり盛った話だったと思われ、その盛った話に、やはり子供のように笑顔になる信長は、やはり、まだまだ青い設定なのか?それとも、あれもこれもが周囲を惑わす芝居なのか?
この先が見ものですね~

ところで、今回の雰囲気を見て、今年の帰蝶ちゃんは、なんとなく姉さん女房的な立ち位置やったのね~とあらためて思いました。

一応、一般的には、信長は天文三年(1534年)生まれで、帰蝶ちゃんは天文四年(1535年)生まれの1歳違いとされるので、個人的には「染谷さんのお相手としては川口さんの方が似合ってる」と思ってましたが、この帰蝶ちゃんの生年は、あくまで「伝えられている」という程度で確たる裏付けはないわけで・・・

そこで、今回の大河では、「再婚説(一人目は毒茶盛られた土岐頼純)」の方を取った事も加味すると、おそらく帰蝶ちゃんは信長より年上に設定されてたんでしょうね~なるほど、、、ほんで、最初のキャストがアノ人やったんですね。。。とミョーに納得しましたです。

ところで、今回も、都が戦乱でゴチャゴチャになってましたが、おそらくこれは天文二十年(1551年)2月の志賀の戦いですね(2月26日参照>>)・・・前年に将軍に就任した足利義輝(あしかがよしてる)が、またまた朽木谷(くつきだに・滋賀県高島市)へと避難するくらい激しい戦いだったようですから。。。

にしても、そんな都で、あれだけケガ人続出の悲惨な状態の中、患者をほっぽり出して張&駿河(するが静岡県東部)(しかも、それがお金のため)行っちゃう東庵先生って・・・しかも、ついでに未練タラタラで嬉しそうに美濃(みの=岐阜県南部)に立ち寄るちゃん。

そんな非常識な人が名医って・・・いや、これも何かの伏線と思いたい!

とにもかくにも、今年の染谷信長は、父ちゃんの葬式で焼香を投げるのか?否か?
平手さんどうなるのか?(1月13日参照>>)
信長と道三の会見は?(4月20日参照>>)
今回、明智光安(あけちみつやす)の息子として初登場?した明智秀満(ひでみつ)は、最終回に湖水渡り(6月15日参照>>)をするのか?否か?
今後も楽しみです。
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2020年4月 1日 (水)

酒乱の藤原兼房…宴会で大失敗の巻

 

寛仁二年(1018年)4月1日、藤原兼房が酒の席で藤原定頼相手に大暴れしました。

・・・・・・・・

藤原兼房(かねふさ)は、先日書かせていただいた、あの「下女襲撃事件」を起こした藤原兼隆(ふじわらのかねたか)(1月28日参照>>)の息子です。

そのページにもチョコッと書かせていただきましたが、この息子=兼房も父に負けず劣らずの・・・いや、なんなら、この息子の方が、かなりの暴れん坊だったのです。

それは寛仁二年(1018年)4月1日の夜の事・・・

当時、近衛少将(このえしょうしょう=御所の警備担当)だった兼房は、10代後半~20歳前半の若者たちが集まる宴会に参加します。

兼房自身も当時は18歳・・・と言っても、現代の若者たちとは違って、10代半ばで結婚して子供をもうけるような時代ですから、こんくらいの年齢なら、おそらくは酸いも甘いもかみ分けた立派な大人だったのでしょうけど。。。

もちろん、平安時代には貴族が集うような居酒屋的な物もありませんから、場所も宮中・・・その宮中の一室に集まって酒を酌み交わしていたわけです。

おそらくが、若い物ばかりで和気あいあいと楽しく飲んでいたのでしょうが、そんな中で突如として事件は起こります。

酔いが回り始めた藤原兼房が、同席している藤原定頼(さだより)悪口を言い始めたのです。

それは、この出来事を日記に書いた藤原実資(さねすけ)が、
「敢(あ)えて云(い)うべからず…」
と、口にするのも避けるほどの悪口・・・いや、目の前にいる人に対して口汚く罵倒する感じですから、もう悪口を通り越してケンカ売ってる感じの言い方・・・

しかも、自分で言ってるうちにどんどんテンションが高くなり、定頼に近づいて来て、彼の前に置かれていた酒の肴を足で蹴散らしたのです。

もう、完全にちゃぶ台ひっくり返し状態です。

とは言え、相手の定頼は冷静でした。

「こんなヤツ、相手してられへん」
とばかりに、何も言わず、さっさと、その場を立ち去ろうとします。

しかし、テンション最高潮の兼房は、まだまだ止めず・・・止めようとする同僚を振りほどいて、定頼の被ってる物=つまり冠をはぎ取ろうとしたのです。

この時代、貴族が大勢の目の前で(もとどり=頭上で髪を束ねてる部分)を晒す事は、非常に恥ずかしい事・・・まして、それが「冠を他人に奪われて、そうなった」てな事になると、とんでもなく不名誉な事なわけで・・・

それでも定頼は、ヘタに抵抗せず、ただただ兼房から逃げまくって、スキを見て自分の控室へと逃走して部屋に籠り、とにかく大ごとにならないようやり過ごす事に・・・

それこそ、大ごとになれば、怒られるのは兼房の方なのですから、むしろ、定頼は大人な対応をしてくれていたわけですが、残念ながら兼房の方は、それを察して大人しくしてくれるような人では無かった。。。

なんと、定頼が逃げ込んだ控室に向かって石を投げ始めるのです。

それも一つや二つではなく、雨あられの如く・・・

それでも、定頼は、控室から出る事無く、ただただ、その場をやり過ごしておりました。

いくら石を投げても、いっこうに定頼が出て来ない事で、さすがの兼房も諦めたのか?、しばらくして控室の前を立ち去りますが、今度は、天皇の寝所に近い殿上の間(でんじょうのま)へと向かい、そこで、またまた定頼の悪口を大声で喚き散らしたのです。

この様子は、まるで「狂者の如し」だったようで・・・ま、結局は、酒乱ってヤツですね。

Dscn4810ak1000
寝殿(再現)

…にしても、実資さんも、せっかく日記に書くなら
「敢えて云うべからず…」とか言わないで、ちゃんと、どんな内容だったのか、書いといてほしいわぁ。。

その悪口の内容がわからないんじゃ、せっかくのオモシロさが半減ですよ~

とは言え、ここまで大暴れしちゃったら、せっかくの定頼さんの大人な対応も台無し・・・

案の定、翌日、当時の最高権力者=藤原道長(ふじわらのみちなが)に父の藤原兼隆が呼び出され、即刻、息子=兼房への謹慎処分が言い渡されたのです。
(親呼ぶんや~高校生か!)

さらに、この5年後の治安三年(1023年)にも、宮中にて暴力事件を起こした兼房は、とうとう御所から追放され、丹後守(たんごのかみ=京都府北部)備中守(びっちゅうのかみ=岡山県西部)などといった地方官ばかりを歴任する事に・・・

途中、その血筋の良さ?で(父ちゃんは正二位の中納言なので)、なんとか正四位下に叙せられていますが、結局、それ以上の出世は叶わず・・・公卿(くぎょう=御所に仕える上&中級の臣下)になる事すらできないまま、延久元年(1069年)6月4日に69年の生涯を終えています。

ただ、歌は上手かったようで、いくつかの歌集にその名が見えます。

今だと、スナックでカラオケに興じながら、度々、飲み過ぎて失敗するオッチャンみたいな感じなんでしょうか?

♪古里は まだ遠けれど 紅葉ばの
 色に心の とまりぬるかな ♪
「故郷はまだまだ遠いのに、道中の紅葉の美しさに目が奪われて、いっこうに足が進めへんわ」
~って、飲んでさえいなかったら、こんな風流な人やのに・・・残念!!

遠目で見てると笑えるけど、近くで関わりたくはないですね~やっぱりww
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