守護代・織田信賢と信長~浮野の戦い
永禄元年(1558年)5月28日、美濃の斎藤義龍と通じた岩倉城の織田信賢を織田信長を攻撃する浮野の戦いがありました。
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天文二十年(1551年)3月の父=織田信秀(おだのぶひで)の死(3月3日参照>>)を受けて、織田家の家督を継いだ織田信長(のぶなが)は、当主交代のドサクサで、以前から信秀と敵対していた駿河(するが=静岡県東部)&遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領する今川義元(いまがわよしもと)に寝返った鳴海城(なるみじょう=愛知県名古屋市緑区:別名=根古屋城)城主の山口教継(やまぐちのりつぐ)との戦い(【三の山・赤塚の戦い】参照>>)や、その今川が織田領内に築いた村木城(むらきじょう=愛知県知多郡東浦町=村木砦とも)にも相対しつつ (【村木城(砦)の戦い】参照>>)、
一方で、清州城(きよすじょう=愛知県清須市:清須城)にて尾張(おわり=愛知県西部)守護(しゅご=今の県知事みたいな?)の斯波義統(しばよしむね)を保護していた尾張下四郡守護代(しゅごだい=副知事)の織田信友(のぶとも)が守護の斯波に反旗をひるがえした(7月12日参照>>)事をキッカケに、その清洲城を攻撃して乗っ取って(4月20日参照>>)尾張内での支配を拡大していき、
弘治三年(1557年)11月には、父=信秀の死後から、その後継者を巡って敵対(【稲生の戦い】参照>>)していた弟=信行(のぶゆき=信勝)を抹殺し(11月2日参照>>) 、斯波義統の後継者だった息子=斯波義銀(よしかね)も追放しますが、未だ、本家で尾張上四郡守護代の織田信安(のぶやす=岩倉織田氏・織田伊勢守家)は居城の岩倉城(いわくらじょう=愛知県岩倉市)にて、その勢力を維持していました。
しかし、ここに来て、信安が嫡男の信賢(のぶかた)を廃して次男の信家(のぶいえ)に後を継がせようと画策していた事を知った信賢がクーデターを起こし、岩倉城を奪って父=信安を追放したのです。
←浮野の戦いの位置関係図
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しかも、その信賢は、先の弘治二年(1556年)に同じくクーデターを起こして父の斎藤道三(さいとうどうさん)を排除して(4月20日参照>>)実権を握っていた隣国=美濃(みの=岐阜県南部)の斎藤義龍(よしたつ)に近づいて、信長と敵対する構えを見せます。
そこで信長・・・永禄元年(1558年)5月28日に約2000の軍勢を率いて出陣し、岩倉城の背後へと廻り、足場の良い浮野(うきの=愛知県一宮市千秋町)という場所に布陣し、まずはあちこちに放火しながら足軽たちが攻撃を仕掛けます。
対する信賢は「城を奪われてなならぬ」と家老の山内盛豊(やまうちもりとよ=山内一豊の父)を大手門(おおてもん)に配置して守りを強化した後、約3000ほどの兵を出撃させて応戦・・・正午を過ぎた頃から、信長勢は少し南東方向へ移動しつつ、徐々に信賢勢を追い込んで行きます。
この時、信賢方にいた林弥七郎(はやしやしちろう)という武士・・・彼は弓の名手として知られた人でしたが、少々形勢が悪くなり、弓を持って一歩退こうとしておりました。
そこを見つけて追いかけたのが、信長方でも鉄砲の名手として有名だった橋本一巴(はしもといっぱ)でした。
もともと、この戦いはともに尾張に根を張る織田家=同族同志の争い・・・ともに旧知の間柄であった弥七郎が、サッと振り向いて「助けてはやれんゾ!」と言うと、一巴も「重々承知」と答えます。
そこで、四寸(約12cm)ほどもの矢尻をつけたあいかという矢を弓につがえた弥七郎が、すかさず矢を放つと、それは一巴の脇の下深くに食い込み、その命を奪いました(7月12日死亡とも)。
しかし、一方の一巴も、同時に二つ玉(2発の弾丸を紙で包んで一つにした物)を込めた鉄砲を肩に当てて正確に放っていて、それが命中した弥七郎もその場に倒れます。
そこを、信長小姓の佐脇良之(さわきよしゆき=前田利家の弟)が、すかさず弥七郎の首を取ろうと走り寄って来たところを、弥七郎は倒れたまま太刀を抜き、良之の左ひじに斬りつけます。
それでも良之はひるまず・・・負傷しながらも弥七郎の首を討ち取りました。
この日、1200を超える死者を出した信賢は、やむなく岩倉城へと敗走・・・信長も清洲へと軍勢を戻しました。
とは言え、信賢の籠城はこの後も続き、最終的に信長が岩倉城を落として信賢を追放したのは永禄五年(1562年)11月1日の事とされ、この信賢の追放を以って、信長の尾張一国の統一が成されたとされています(11月1日参照>>)。
また、一豊父の山内盛豊は浮野の戦いもしくは岩倉城落城の際に討死もしくは自刃したとされますが、今回の浮野の戦いが弘治三年(1557年)で岩倉落城が永禄元年(1558年)とする説もありますので、そのあたりは、未だ不明です。
とにもかくにも、信賢の失脚で信長は尾張統一・・・しかも、この間には永禄三年(1560年)5月19日の桶狭間(おけはざま=愛知県名古屋市もしくは豊明市)の戦い
●【一か八かの桶狭間の戦い】>>
●【二つの桶狭間古戦場】>>
●【名を挙げた毛利新介と服部小平太】>>
がありますから、まさにこのあたりから、信長が、地方の深夜枠から全国ネットのプライムタイムへと躍り出る事になるわけです。
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