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2020年6月24日 (水)

小牧長久手の余波&越中征伐の前哨戦~前田利家と佐々成政の阿尾城の戦い

 

天正十三年(1585年)6月24日、小牧長久手の戦いの後、前田利家に寝返った菊池武勝が守る阿尾城を、佐々成政配下の神保氏張が攻撃しました。

・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)(本能寺の変>>)亡き後、信長次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ=北畠信雄)を取り込んで、三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)と信孝を推す柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)に破った(賤ヶ岳>>)(信孝自刃>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)でしたが、

やがて、その秀吉の勢いを警戒するようになった信雄(3月6日参照>>)徳川家康(とくがわいえやす)を頼り、両者が「秀吉VS(信雄+家康)」の構図で、天正十二年(1584年)3月の亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)の攻防(3月12日参照>>)を皮切りに始まったのが、一連の小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市付近)の戦いです。

そして、それに連動するように北陸でも「秀吉派VS(信雄+家康)派」による闘いが展開されたのです。

織田政権下で加賀(かが=石川県南部)金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市丸の内)にあった秀吉派=前田利家(まえだとしいえ)と、越中(えっちゅう=富山県)富山城(とやまじょう=富山県富山市)にあった信雄&家康派=佐々成政(さっさなりまさ)の戦いです。
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>

しかし、その年の11月に戦いの看板であるべき信雄が、単独で秀吉との講和を成立させてしまったために、ハシゴをはずされた形となった家康も兵を退くしかなく、勝敗もウヤムヤなまま戦いは小牧長久手は終結してしまいます(11月16日参照>>)

納得いかない佐々成政は、真冬の立山・北アルプスさらさら越え浜松城(はままつじょう=静岡県浜松市)の家康に会いに行き、徹底抗戦を訴えますが(11月11日参照>>)、家康がその願いを聞き入れる事はなく、信雄にも迷惑がられて、空しく富山城へと戻ったのでした。

ちなみに・・・
俗説では、成政が、このさらさら越えで富山城を留守にしている間に、例の「黒百合伝説」(浮気したとして成政が愛人を成敗した事件:くわしくは5月14日の後半で>>)が起こった事になってますが、これは、あくまで伝承です。

Maedatosiie とにもかくにも、小牧長久手も終ったし、冬の北陸は雪深い・・・って事で、一旦、前田VS佐々の戦いも休戦となったわけですが、年が明けた天正十三年(1585年)の春、先に仕掛けたのは前田利家の方でした。

その年の2月に、利家配下の村井長頼(むらいながより)が1千余りの兵を率いて、成政側の重要拠点である蓮沼城(はすぬまじょう=富山県小矢部市)を急襲し、これを焼き討ちにしたのです。

Sassanarimasa300 もちろん、成政も黙ってはおらず、翌3月、この報復として鷹巣城(たかのすじょう=石川県金沢市湯桶町)を攻撃しますが、この同時期に展開されていた秀吉の紀州征伐(3月28日参照>>)での連勝の勢いを背負う利家は、さらに加賀と越中の国境に近い鳥越城(とりごえじょう=津藩町鳥越)を攻撃します。

強気の利家は、さらに成政配下の阿尾城(あおじょう=富山県氷見市)を落とすべく、4月20日、6000の兵を率いて阿尾城に迫ります。

ところが、これを見た阿尾城主の菊池武勝(きくちたけかつ)は、あっさりと城門を開け、前田軍を受け入れたのです。

つまり、この時の武勝は、はなから利家側につく気であったと・・・実は、これには、その理由とおぼしき、こんな話が伝えられています。

前年の春に富山城下に新しい馬場を整備した成政が、その周囲の桜を植え、完成祝いと同時に花見の宴を催した際、配下の一人として招かれた武勝が、その場を盛り上げようと、

「これは、かの謙信公より賜った紀新大夫の名刀なんですが…」
と1本の短刀を取り出し、
「これにて、北陸七ヶ国平定されるとの願いを込めて、殿に献上させていただきます」
と差し出したのです。

それを受けた成政は、
「俺、謙信なんか尊敬してないし…」
と急に機嫌が悪くなり、
「もともと北陸七ヶ国なんか眼中に無いっちゅーねん、俺が狙てるんわ天下じゃ!」
と言って武勝をにらみつけたのだとか・・・

賑やかな宴会から一転、シラケた空気が流れたものの、そばにいた他の武将のとりなしによって何とかその場は収まりますが、収まらなかったのは武勝の気持ち・・・

「大勢の前で部下に恥をかかせるなんざ、天下取りの器やない!アイツは愚将や」
と憤慨し、以後、成政に反感を持つようになっていたのだとか・・・

もちろん、これは噂の域を出ない話ですが、一方で、前年の11月頃=北陸の戦闘が一旦休止となった頃から、武勝側へ、利家からの好条件での懐柔のお誘いが頻繁に行われていたとの記録(『前田金沢家譜』)もありますので、おそらくは、上記のような事件があろうがなかろうが、すでに武勝の気持ちは前田側に傾いていた物と思われます。

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阿尾城攻防戦・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

とにもかくにも、この菊池武勝の寝返りは、佐々側に大きな衝撃を与え、形勢悪しと判断した成政は、戦備の立て直しに着手・・・その結果、鳥越城と倶利伽羅城(くりからじょう=石川県河北郡津幡町)の2城を諦め、北から守山城(もりやまじょう=富山県高岡市)木舟城(きふねじょう=同高岡市)井波城(いなみじょう=富山県南砺市)南北に結ぶ線を最前線とし、

守山城には神保氏張(じんぼううじはる)以下4500余、木舟城には佐々政元(さっさまさもと=成政の叔父の養子?)以下2500余、井波城には前野小兵衛 ( まえのこへえ )以下3000余りを、それぞれ配置して防備を固め、背後の脅威となる上杉(うえすぎ)に備えて越後(えちご=新潟県)の国境付近にも兵を置きました。

これに対し、利家は、自軍の最前線を越中領内にまで進ませ今石動城(いまいするぎじょう=富山県小矢部市)に弟の前田秀継(ひでつぐ)を、倶利伽羅城に近藤長広(こんどうながひろ)岡島一吉(おかじまかずよし)らを置いて、コチラも防御万全です。

そんなこんなの天正十三年(1585年)6月24日、守山城の神保氏張が約5000の兵を率いて阿尾城を攻撃したのです。

守る阿尾城は、菊池武勝以下わずか2000余・・・必死に防戦に努めますが、成政が、武勝を謀反人として、その首に賞金を懸けていた事もあって、神保勢の攻撃は、かなり激しい物となり、あわや!落城寸前!となりますが、

そこに、たまたま村井長頼ら300余りの偵察隊が近くを通りがかって、この状況を前に、すぐに参戦・・・この村井らの小隊が側面から攻撃を仕掛けた事で、突き進んでいた神保勢はリズムを崩されてしまいます。

これに勢いづいた菊池勢が盛り返し、次第に形勢は逆転・・・500余が討たれたところで、やむなく神保勢は守山城へと退去していきました。

ちなみに、『加賀藩史稾』
「二十四日 越中の将神保氏張兵を出し 阿尾城襲ふ
 守将慶次利太 片山延高等出でてこれを禦(ふせ)ぐ」
とある事から、この戦いに、あの前田慶次郎(まえだけいじろう)(6月4日参照>>)も参戦していて、この後しばらくの間は、阿尾城に滞在していたとされています。

とにもかくにも、小牧長久手の後からは、すっ飛ばされる事の多い北陸での前田利家と佐々成政の戦いですが、どうぞ、お見知りおきを・・・

そして、この3月~4月の間に例の紀州征伐を終え、7月には四国を平定した秀吉が、ここ北陸にやって来る(越中征伐・富山の役)のは、この2ヶ月後の8月の事。

ご存知のように、ヤル気満々だった成政も、あえなく秀吉の軍門に下る事になります。
【金森長近が飛騨攻略】>>
●【富山城の戦い】>>
【佐々成政が秀吉に降伏】>>
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2020年6月18日 (木)

細川晴国の京都奪回作戦~仁和寺付近の戦い

 

天文二年(1533年)6月18日、京都を奪回すべく押し寄せた細川晴国細川晴元勢に迫った仁和寺付近の戦いがありました。

・・・・・・・

応仁の乱後に現室町幕府将軍を廃して自らの意のままになる将軍を擁立する明応の政変(4月22日参照>>)で以って、事実上政権を握った室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐)細川政元(ほそかわまさもと)の死後、

その後継は3人の養子=細川澄元(すみもと)細川澄之(すみゆき)細川高国(たかくに)によって争われますが、その後継者争いに打ち勝った高国を、今度は澄元の遺児である細川晴元(はるもと)が破ります(【大物崩れ】参照>>)

これによって、高国が擁立していた第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)近江(おうみ=滋賀県)へと退き、晴元は自らの推す次期将軍候補=足利義維(よしつな=義晴の弟)&家臣の三好元長(みよしもとなが)とともに、将軍不在の京都に代って、(さかい=大阪府堺市)にて事実上の政権を握ったのです堺幕府については「晴元さんご命日」のページで>>)

己が政権を握ってしまえば、トップはどうでも良かったのか?
晴元は、自分が引っ張って来た義維を遠ざけ、高国派だった将軍=義晴との和睦を模索し始めた事により、これに怒った三好元長と対立する事になります。

しかし元長の持つ武力は膨大・・・分が悪い晴元が、ここで山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)第10世法主=証如(しょうにょ=蓮如の曾孫)に援軍を求めた事で、それが本願寺衆徒による一向一揆(いっこういっき)となって大暴れする事になるのです【飯盛山城の戦いと大和一向一揆】参照>>)

制御が効かなくなった一向一揆に困った晴元は、今度は京都市内にて勢力を誇る法華宗(ほっけしゅう=日蓮宗)に働きかけて法華一揆(ほっけいっき)を誘発させ、山科本願寺を焼き討ちに【山科本願寺の戦い】参照>>)・・・

本拠を焼かれた本願寺証如以下衆徒たちは、かつて蓮如(れんにょ)(3月25日参照>>)が隠居所として建てた摂津(せっつ=大阪府北中部)大坂石山御坊(いしやまごぼう=大阪府大阪市・石山本願寺)へと移り、以後、ここを本願寺門徒の本拠に活動を続け、その後も度々、法華宗との小競り合いを続けていました。

この頃の京都&大阪周辺の情勢は「天下乱れて麻の如し」と称される程で、何度となく繰り返される争いに田畑を荒らされる周辺農民たちによる半済(はんぜい=年貢半納)求める徳政一揆(とくせいいっき)が頻発するあり様でした。

これに対しても、晴元は配下の者や法華宗徒の力を借りて、太秦(うずまさ)北山(きたやま)の集落を焼き払うなど、力づくの対処をしていましたが、それは当然、益々の混迷と乱れを生むことになります。

このゴタゴタをチャンスとばかりに立ち上がったのが、先の戦いで敗れた細川高国の弟(息子とも)と言われる細川晴国(はるくに)だったのです。

高国の死後、若狭(わかさ=福井県西南部)に潜伏していた晴国は、丹波(たんば=京都府中部&兵庫県東北部)波多野晴通(はたのはるみち)らの支援を受けて次期細川京兆家当主として擁立され、天文二年(1533年)5月頃から、丹波勢を率いて京都に侵攻して来たのです。

さらに、ここに来て石山本願寺を味方に引き入れた晴国は、天文二年(1533年)6月18日、京都の仁和寺(にんなじ=京都府京都市右京区御室)付近にて、晴元軍の京勢とぶつかります

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御室桜と五重塔(仁和寺)(参照>>)

この時、摂津河内(かわち=大阪府東部)和泉(いずみ=大阪府南部)方面にて戦闘を展開する一向一揆に対抗するために主力部隊を大坂方面に出陣させていたため、手薄となってしまった晴元軍の京勢は、たちまち劣勢となり、晴元の宿将=薬師寺国長(やくしじくになが)が討死・・・総崩れとなった晴元&法華門徒勢は痛い敗戦となりました。

京都を牛耳っていた法華衆徒の敗戦に市中は騒然となりますが、その雰囲気を払拭すべく、京都市街では、翌19日から連日に渡って法華宗の打ち回り(巡回警備)が続けられますが、24日には晴国率いる丹波勢が二条西洞院(にじょうにしのとういん)妙顕寺(みょうけんじ=現在は京都府京都市上京区)まで押し寄せて伽藍や塔頭(たっちゅう=大寺院に付属する寺)に放火して回り、防戦した法華門徒にも多くの死者が出ました。

この京都の異変を滞在中の大阪で知った晴元が、慌てて6月20日に本願寺証如と和睦して軍勢を収めたため、京都市中での戦いは次第に鎮静化して行き、法華門徒たちは晴国ら丹波勢から京都市内を自衛すべく動くようになり、益々京都市内は法華宗の牛耳る所となるのですが、

そこに「待った!」をかけるのが京都市中に多くの末寺をかかえる比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市坂本)・・・

やがてそれは、京都市街を焦土と化す天文法華の乱(てんぶんほっけのらん)(7月27日参照>>)へとつながっていく事になります。
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2020年6月11日 (木)

弘前藩・津軽家を支えた家老=兼平綱則

 

寛永二年(1625年)6月11日、戦国から江戸初期にかけて津軽家を支えた兼平綱則が死去しました。

・・・・・・・

兼平綱則(かねひらつなのり)は、陸奥(むつ)北部の津軽(つがる=青森県西部)地方を支配した津軽大浦(つがつおおうら)大浦為則(おおうらためのり)、その養子の津軽為信(つがるためのぶ=大浦為信)、さらにその息子の津軽信枚(のぶひら)3代に仕えた重臣で、 小笠原信浄(おがさわらのぶきよ)森岡信元(もりおかのぶもと)とともに「大浦三老」と呼ばれて、その軍事や政事に貢献しました。

その中でも大きな功績は、大浦為則から津軽為信へのお代替わりの時・・・

Tugarutamenobu500 南部(なんぶ)一族の久慈治義(くじはるよし)の次男だったとも、大浦為則の弟の子(つまり甥っ子)とも言われる津軽為信(当時は大浦為信)ですが、

一説には、 津軽為信は、上記のいずれかの後妻の子で、先妻の子供からヒドイ虐待を受けたため、母子ともども大浦為則を頼って保護してもらっていたところ、為則の娘である阿保良(おうら=戌姫)と恋仲になったのだとか・・・

とは言え、そんな美しいロマンスがあったかどうかは微妙なところです。

なんせ、この大浦為則さん・・・陸奥大浦城(おおうらじょう=青森県弘前市)の城主でありましたが、生来、体が弱く病気がちで、政務はほとんど家臣に任せていたらしい中で、為則が後継者に恵まれなかったとして、降ってわいた阿保良姫の恋の話から婿養子として為信が入って家督を継いだという事になってるのですが・・・

実は為則さんには、男子が6人もいたらしい・・・もちろん、この時代ですから、6人の男子がいたとしても全員無事成人するとは限らないし、成人しても後継者に相応しく無い場合もありますが、後々、この6人のうちの二人(つまり阿保良姫の弟2人)が川遊び中に溺死してしまう所なんか、何らかのお家騒動があった感が拭えません。

どうやら、為信の武将としての器量を見抜いていた兼平綱則らが、為信婿入りの一件を強く推し、各方面に十分な根回しをして擁立に成功し・・という感じのようですが、この後、この為信が、江戸時代を通じての弘前藩の祖となった事を見る限り、兼平綱則ら重臣の思いは正しかったような気がします。(津軽為信については12月5日参照>>)

とにもかくにも、こうして大浦家を継いだ為信は大浦姓から津軽姓に変え、その領地を拡大しつつ、奥州南部氏の家臣という立場からの脱却=独立に向けて動き出すのですが、もちろん、その戦いに兼平綱則は従軍して大いに活躍します。

なんせ兼平綱則は重臣ですから、その役割も津軽軍団全体の統率や直轄部隊の采配など多岐にわたります。

主家である南部氏の後継者争いのゴタゴタのスキを突いて、天正十七年(1589年)には、津軽地方にあった南部氏の諸城を津軽為信がほぼ制圧してしまいますが、そこには常に軍師として従う兼平綱則がいたのです。

また兼平綱則は外交交渉にも長けていたと言われ、翌年の天正十八年(1590年)、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)小田原征伐(12月10日参照>>)の際にも、兼平綱則は水面下で奔走し、その生き残りを図ったのだとか・・・

そうです。。。先の津軽為信さんのページ>>にも書かせていただきましたが、この時、秀吉は東北の武将にも、この小田原征伐に参戦するよう大号令をかけますが、この時、東北の多くの武将が迷う中、津軽為信は、取る者もとりあえず、わずか18名の手勢を連れて真っ先に駆け付けて、未だ小田原に向かっている途中の秀吉に謁見・・・

人数こそ少ないものの、最も遠い津軽から、いち早くやって来た彼らに感動した秀吉は、為信に「津軽三郡、会わせ浦一円の所領安堵」=合計3万石の領地を認めた朱印状を与えるのです。

天下人から認めてもらった津軽の地・・・ここで完全に南部氏からの独立を果たしたわけです。

ま、おかげで、宗家の南部氏からは「勝手に独立した裏切者」とみなされ、両者の間に生まれた確執が消える事は無かったみたいですが・・・

やがて、秀吉亡き後に起きた関ヶ原の戦いでは、為信嫡男の津軽信建(のぶたけ)豊臣秀頼(ひでより=秀吉の息子)の小姓として大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)に詰める一方で、父=為信は三男の津軽信枚(のぶひら)とともに東軍として参戦=どっちか生き残り作戦(【前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」という事】のページ参照>>)で、見事やり過ごしました。

慶長十二年(1607年)には、為信と信建がたった2ヶ月の間に病死してしまった事から、信建の息子と信枚の間で後継者争いが生じますが、何とか信枚を後継者とする事で収まりました。

その後、慶長十九年(1614年)に兼平綱則は現役を引退しますが、元和五年(1619年)に幕府から津軽信枚の信濃国川中島藩(かわなかじまはん=長野県長野市松代町→後の松代藩)への転封(てんぽう=国替え・引越)通告が出た際には、いち早く登城して主君=信枚の基にはせ参じて皆を集め、転封反対の大演説を行ったのだとか・・・

彼の見事な演説によって一門&家臣の心が一つになり、一致団結した反対運動を起こします。

おそらくは、やみくもに反対するばかりではなく、お得意の根回しや水面下での色々もやってのけたんでしょうね~
いつしか、その転封の話は無かった事に・・・

それから数年後の寛永二年(1625年)6月11日兼平綱則は、その生涯を閉じました。

お家騒動やら何やらありながらも、江戸時代を通じて存続し、無事、明治維新を迎える弘前藩(ひろさきはん=青森県弘前市)・・・その初代藩主の津軽為信は、独立して一代で大名となった事から
『天運時至り 武将其の器に中(あた)らせ給う』(津軽一統志より)
(独立の)チャンス到来!その力を持つ武将が登場した」
と称され、今でも地元の英雄として親しまれているそうですが、

そこには、先手必勝で主君の前を駆け抜け、その舞台を整えた兼平綱則の姿もあったのです。
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2020年6月 8日 (月)

これからしばらく麒麟が来ない大河ドラマ『麒麟がくる』第21回「決戦! 桶狭間」の感想

 

仕方ないけど、主役の光秀が単なる野次馬だった大河ドラマ『麒麟がくる』第21回「決戦! 桶狭間」の感想です。

解ってます!
解ってますよ~

未だ史料に登場していない時代に、変に長谷川光秀に何かをさせるわけにはいかない。。。
だけど、主人公だから登場させなきゃいけない。。。

脚本家さんの苦悩のご養子は痛いほど解っておりますが、今回の光秀は、完全にただの野次馬でしたね。

貧乏所帯なのに、どこからか馬を調達して清洲城に向かって行ったものの、染谷信長の隠し子抱いた川口帰蝶姫
「もう出陣しました」
って・・・完全に出遅れてるわ、途中で間宮左馬助が消えるわ、何をしたかった…いや、させたかったんだろ?

アッ!そうか~
桶狭間の戦いを終えた染谷信長に、どうやって調達したのか謎なキレイな水を差し出したかったんだぁ~←ってなワケではないですよねw

あ、でも、少し落ち着いて(見終わってからしばらくして)思い返してみると、この水を差しだして信長褒めのシーンがあったからこそ、見事に「エピソード1が完結」したっぽい感じで、しばしの休止に入る事ができるってことですよね。

そこはスタッフ様お見事でした。

以前の感想で、
本木道三が無くなって、明智城が落ちて、越前に逃亡するところで休止に入った方が良かったんじゃ?」
と、浅はかな事を申しましたが、今回、前半戦最大の盛り上がりの桶狭間と、その後の、この水やりシーンがあったおかげで、おもいっきり続きが気になるまま休止に入る事にならなくなったわけで・・・さすが、プロのスタッフ様のお仕事だと思いました。

で、桶狭間と言えば、
今回の「麒麟がくる」の桶狭間は、よくドラマで描かれる桶狭間とは、ちょっと違う雰囲気がしましたね。

よくドラマで描かれるのは、
陣幕の中、おもいっきし休憩しまくってる白塗り義元に、ジャジャぶりの雨の中、いきなり織田軍が奇襲をかけ、逃げまくる義元が・・・てな感じ?

今回は、それとは違う雰囲気で、やや小ぶりで迫力に欠ける感ありましたが、逆に、それが『信長公記』の記述に沿っていて、実際の桶狭間に近い気がしました。
●【桶狭間で義元を討った毛利新介と服部小平太】参照>>
片岡義元さんも、シッカリ戦うしねw

個人的には、今川家臣の岡部元信が義元の首を奪い返すシーン(2007年5月19日参照>>)もやってほしかったですが、それこそ、主役の光秀には関係ない事なので、今回はスルーで当然ですわな。

…にしても、今回の「麒麟がくる」の桶狭間のシーンは、大掛かりではなくこじんまりした雰囲気だったものの、そのぶん、映像技術のスゴさを感じたシーンでした。

毛利新介役の今井翼君がカッコよく飛ぶシーン・・・後ほど、じっくりコマ送りかスローで、もう1度見てみたいと思ってますが、あそこはワイヤーアクションやらCGやらを駆使して、これまでにないカット割りのお見事なシーンとなってましたね。
★追記:
愛之助さんの瞳に映るジャンピング翼を確認(@^-゜@)v

いやはや、最近はチャンバラも、こんな感じになりましたか~と、つくづく時の流れを感じる昭和世代です。

ところで、今回、染谷信長の隠し子紹介のシーンは、なかなかオモシロかったと思いますよ。

「こんな時に、自分以外に女性がいる事を知る帰蝶姫の気持ちは複雑なんじゃ?」
てな見方もあるようですが、それはちょいと現代人の価値観が強すぎるような・・・

そんな現代人の価値観を、うまく払拭できるように、「命懸けの出陣の時に子供を紹介する」という感じに、脚本家さんは持っていかれたんですよね?

そうです。
この戦国時代、殿様に後継ぎがいない状況だと、とっても不安なのです。

ま、実際には、信長さんはメッチャ弟いるので(異母弟含めるとあと8人くらいいる)何とかなりそうですが、ドラマには出てきてないし、出てた弟は殺しちゃったしですから、「死を覚悟してる」事を伝え、それとともに、もしもの時には・・・ってのを伝え、そして後継ぎ~ていう流れは思わず唸りました。
(側室の生駒の方については【信長、最愛の女性~生駒吉乃】>>でどうぞ)

一方、もう一人の隠し子(←ドラマ上出て来てないという意味です)
風間家康君の息子は、やっぱり、今川から奪回するタイミングで出て来るんですかね?

…というのも、今回、ドラマ内で、小者感満載の憎たらしいパワハラ上司だった鵜殿長照(うどのながてる)さん・・・実は、この後、家康が、とある戦いで、この方の息子(本人説もあり)を生け捕りにし、その昔、自分と信長兄が今川と織田の間で交換されたように、人質交換で以って息子(信康)(亀姫)(築山殿)を取り戻すんですよね~(2月4日参照>>)

今回のパワハラぶりは、その時の伏線と見たw

伏線と言えば、ちゃんが教えてもらった秘伝の薬は、何かの伏線なのか?
「何にでも効く薬」なのだから、今後、ものすご~く重要なシーンで、とてつもなく重要な事をしちゃうとか?

本能寺で火だるまの信長を助けたり…
天王山でズタボロの光秀を助けたり…
したら、最終回を迎えられないので、それは無いでしょうが、けっこう気になります。

…にしても、予告編を見る限りでは、いよいよ後半戦は、向井将軍様に代って滝藤将軍様や、クセ者の本郷前久様らがご登場のようで、メチャ楽しみなんですが、その予告編の最後が「本当に麒麟は来るのか?」ってなってますが、まさか、麒麟が来ないまま、来年の渋沢栄一さんが来ちゃうって事ではないですよね。

あくまで小休止ですよね?
と不安になりながらも、今回の桶狭間がかなり盛り上がったおかげで、その小休止の間も、今回の盛り上がりに浸りながら待つ事ができそうですが、

なんなら、次に麒麟がくるまでの間の大河名場面の再放送は、歴代大河の桶狭間シーンを集めて下さったりなんかしたら、いっそう期待して待つ事ができるのではないか?と…

とにもかくにも、再開を楽しみに待っておりますm(_ _)m
 

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2020年6月 4日 (木)

本能寺の変の余波~鈴木孫一VS土橋重治の雑賀の内紛その2

 

天正十年(1582年)6月4日、本能寺の変=織田信長死亡の一報を受け、雑賀衆同士の内紛が勃発し、土橋重治が鈴木重秀(雑賀孫一)の平井城を攻撃しました。

・・・・・・・・・

紀州(きしゅう=和歌山県)は、あの応仁の乱以降の守護(しゅご=県知事みたいな?)畠山(はたけやま)の権力争い(7月12日参照>>)の舞台となった場所で、それ故、時と場合により、その戦いに介入したり静観したり・・・守護や守護代の影響を受けながらも、高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町・壇上伽藍を中心とする宗教都市)根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市・根來寺)粉河寺(こかわでら=和歌山県紀の川市粉河)などの宗教勢力も含め、独自の武装勢力を以って生き残って来た民が多くいました。

その中で紀の川流域一帯に勢力を持ち、水運に強く鉄砲を駆使する独自の武装をした土着の民であった雑賀(さいが・さいか)・・・

天下を狙う織田信長(おだのぶなが)が、抵抗する石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市:本願寺の総本山)と戦った石山合戦で、本願寺に味方して活躍する(【丹和沖の海戦】参照>>)事から、何となく信長の敵のイメージが強いですが、これまで何度か書かせていただいているように、もともといくつかの郷の集合体であって、雑賀と言っても一括りにはできない=一枚岩とは言い難い集団であったわけです。

とは言え、長きに渡って雑賀衆の中でもトップの勢力を誇っていた土橋(どばし・つちばし)が、一貫した本願寺派であった事から、上記のように、雑賀衆もおおむね反信長として戦っていた事から天正五年(1577年)には信長の紀州征伐が決行されてしまい、この時は、折れる形で信長と和睦するも、
●【信長の雑賀攻め、開始】>>
●【雑賀攻め、終結】>>
その2年後には、紀州征伐で織田に味方した一部の者も、結局、抑え込まれて本願寺に恭順させられるほど(【雑賀同志の戦い】参照>>)雑賀では反信長派の勢力が強かったのです。

Saigamagoiti400a しかし、それが徐々に崩れてくる・・・それは、一連の石山合戦で名を挙げた鈴木重秀(すずきしげひで=雑賀孫一)です。

長年に渡りトップに君臨して来た土橋から見れば新参者の鈴木ですが、一説には鈴木重秀は土橋トップの土橋守重(つちばしもりしげ=平次・若太夫)の娘婿だったという話もあり、両者の関係は決して悪い物では無かったものの、ここらあたりで徐々に両者のバランスが微妙になって来る中、天正八年(1580年)8月、本家本元の石山本願寺が信長と和睦してしまいます(8月2日参照>>)

もともと信長に恭順的であった鈴木重秀とその一派は、これを雑賀の頂点を狙うチャンスとばかりに、その機会を模索しはじめ、いよいよ天正十年(1582年)1月23日土橋守重を殺害・・・雑賀の内紛が始まりました。

もちろん、この守重殺害には、鈴木派だけではなく、それに同調した土橋一門の一部も加わっている事から、単に鈴木VS土橋の権力争いではなく、時代の流れ&周辺の状況を見て「織田についた方が得」と考える者が雑賀衆内に増えて来ていた事や、土地関係のモメ事が治まらなかった事など、あちこちに不満の種はあったわけですが、それを鈴木派が利用してクーデターを起こしたという雰囲気が見えます。

また、一説には、この暗殺計画はすでに信長に承認されていた=信長の了解があって決行されたとの話もあります。

とにもかくにも、父の暗殺を知った息子(弟とも)土橋重治(しげはる=平之丞・平尉)は、本拠の粟村(あわむら=和歌山県和歌山市粟)の城に立て籠もって抵抗しますが、さすがに背後に織田軍がいてはいかんともしがたく、たまたまこの時、石山本願寺を出て雑賀荘の鷺ノ森(さぎのもり=和歌山県和歌山市鷺ノ森)に滞在していた本願寺第11代法主=顕如(けんにょ)の勧めにより重治らは城を退去し、四国の土佐(とさ=高知県)に落ちて行き、2月の8日には、鈴木派の手によって城は焼かれました(2月8日参照>>)

こうして雑賀一帯の主導権は鈴木重秀らが握る事になるのですが、その4か月後の6月2日未明・・・

そう、ご存知、あの本能寺の変(6月2日参照>>)が起こり、信長が横死してしまったのです。

その一報は、早くも翌3日の朝に雑賀にもたらされます。

たちまち騒然となる雰囲気に、反信長派からの攻撃を恐れた鈴木重秀は、6月3日の夜に信長配下の織田信張(のぶはる=尾張三奉行の藤左衛門家の人)を頼って岸和田城(きしわだじょう=大阪府岸和田市)へと逃げ込みます。

案の定、翌・天正十年(1582年)6月4日早朝、結集した反信長派が、鈴木重秀の居城である平井城(ひらいじょう=和歌山県和歌山市)を襲撃して城に火を放ち、その勢いのまま、続いて重秀に同調して、かの土橋守重殺害に関与した土橋平太夫(へいだゆう)の城を包囲して平太夫を討ち取ります。

ちなみに、事の前夜に鈴木重秀が岸和田城に逃げた行為は、敵側からは「夜逃げ」と称して笑い者になったらしいですが、上記の通り、もしその日に逃げていなければ土橋平太夫と同様に討たれていた可能性が高いので、鈴木重秀としては笑われようが何しようが「逃げるが勝ち」で命拾いした事になります。

一方、『石山軍記』『大谷本願寺通記』他、本願寺側の複数の記録には、この6月3日夜から4日早朝にかけてのこの騒動を、信長の三男=織田信孝(のぶたか=神戸信孝)配下の者による鷺ノ森の本願寺別院(上記の顕如が滞在してた場所です)への攻撃・・・つまり、信長の紀州征伐の一環であるかのように書かれています。

それら本願寺側に記録では、
6月3日に信孝の命を受けた丹羽長秀(にわながひで)が3千の兵を率いて鷺ノ森を襲撃して来たのを、急を聞いてはせ参じて来た鈴木孫一(孫一を名乗る人は複数いるので鈴木重秀本人の事かどうかは不明)をはじめとする在地の宗徒たちが賢明に防戦するも、やがて織田勢に新手の援軍が加わり、もはやこれまで!・・・となったところに「本能寺の変(信長死す)の一報」が入り、織田方は散り々々に去って行った。。。と、

「あらめでたや法敵亡(ほろ)び 宗門は末広がりに御繁昌」
と、あの高野山攻め(【織田信長の高野山攻め】参照>>)と同じような展開になってるところは、いかにも本願寺側の記録・・・って感じです。

なので、現在では、今回の雑賀での騒動は「信長VS本願寺の戦い」ではなく、おそらくは、信長の死によって再燃した雑賀の内紛であろうととの見方がされています。

とは言え、全部違うかと言うと、そうではなく、実際に本能寺の変の混乱によって雑賀衆の一部の誰かに鷺ノ森が襲撃された事も複数の史料に見られるので、本願寺別院がこのドサクサで襲われた事は事実のようで・・・

さらに、 当時、信孝の配下であった九鬼広隆(くきひろたか=九鬼嘉隆の甥)の覚書には、信孝は、この日、実際に紀州方面に出向いていた事が記されています。

それは、この2~3日後に決行されるはずだった四国攻め(【本能寺の変:四国説】参照>>)の準備のため・・・渡海用の船の用意を雑賀衆に頼んでいたので、その最終の打合せに向かっていたようなのですが、
堺にて本能寺の異変を知った九鬼広隆が慌てて紀州方面に向かったところ「ちょうど貝塚(かいづか=大阪府貝塚市)のあたりで、紀州から戻って来た信孝と落ち合う事が出来た」との事・・・

当然ですが、四国攻めの総大将である織田信孝がたった一人で紀州に出向くはずはなく、ある程度の人員を連れて紀州に入っていたはずですから、おそらくは、上記の鷺ノ森別院が襲われた話と、この信孝が紀州にいた話とがいっしょくたになって「本願寺側の記録」として残されたものと思われます。

とにもかくにも、今回の信長の死によって、雑賀を去った鈴木重秀は没落・・・一方、ここまで何処かに身を潜めていた土橋重治は、重秀と入れ替わるように雑賀に戻って来て、報復作戦に取り掛かります。

ただ、鈴木重秀が去ったとは言え、まだまだ鈴木重秀一派の者は多く残っており、その抵抗も激しく、すぐさま雑賀一帯を掌握するというわけにはいかず、なかなか不安定な状態が続いていたようですが、

そんな中でも、土橋重治らは、信長を討った明智光秀(あけちみつひで)と連絡を取り、6月12日付けの光秀の返書には高野山根来衆(ねごろしゅう=根来寺の宗徒)らとともに和泉(いずみ=大阪府南西部)河内(かわち=大阪府南東部)方面に出兵してほしい」との記述があり、援軍の要請を受けていたようで・・・(2017年の新発見「9月」の項参照>>)

おそらく土橋重治らは、この先、光秀の力を後ろ盾に雑賀一帯の統治を画策していたものと思われますが・・・

ご存知のように、この返書の日付の翌日=6月13日に光秀は羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)との山崎の合戦に敗れて(6月13日参照>>)命を落としてしまい、実際に土橋と明智が連携する事はありませんでした。

後の、秀吉による紀州征伐(3月28日参照>>)の際には、
鈴木重秀は秀吉の使者として雑賀へ出向いて交渉係をし、土橋重治は秀吉軍と抗戦し、敗れて四国へ逃れ・・・と、ともに命はつなぐものの、雑賀にいた頃の隆盛を味わうような事は、2度と無かったのです。

鈴木重秀にしろ土橋重治にしろ、おそらく彼らの理想としては、雑賀の独立を保ったままの状態がベストだったのかも知れませんが、天下=中央集権を目指す武将の登場によって、「大きな傘の下でしか生き残る事ができない」と悟った以上、誰につくのか?どうするのか?の選択をし、それぞれの生き方を模索するしかなかったのでしょうね。
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2020年6月 1日 (月)

いよいよ桶狭間前夜祭~大河ドラマ『麒麟がくる』第20回「家康への文」の感想

 

今から、再来週はどうしよう?と思案しつつの大河ドラマ『麒麟がくる』第20回「家康への文」の感想です。

相変わらず、主人公より架空三人衆(駒&東庵&菊丸)の方が目立ってましたが、今回描かれた時期も、未だ光秀が歴史上には登場しない時代なので、そこは納得の範囲内です。

ただ、風間家康片岡義元も、東庵先生イロイロしゃべり過ぎなところは、ちょいと気になりましたが・・・
(セキュリティ甘いゾ)

そんな中、駒ちゃんがヘアスタイルを変えて、着物も何だか大人っぽくなってて、独り立ちっぽくお灸をして回ったりのイメチェン・・・そこに、いずれ薬マニアになるであろう風間家康を絡ませるあたりはニヤリとさせられる演出ですね。

それにしても、長谷川光秀は・・・
それこそ、今は亡き(先週ナレ死)伊藤義龍じゃないですが、
「お前はいったい何がしたいんだ?」
と聞きたくなるような不思議なアレコレ・・・

だって、越前に来た当時は、ユースケ・アサクラとはちょっと距離を置いて、住まいを借りるだけにしていたっぽいのに、今回は鉄砲の腕を見せつけて仕官を頼み、後半は、喰う米にも困るような貧乏生活なのに、どこからか馬を調達して来て、おそらく桶狭間へ直行・・・

しかも、予告を見る限りでは、参戦しに行ったのではなく、甲冑も着けない普段着のまま「見届け」に行くみたいやし・・・って、もはや、嫁と子供を養っていかなきゃならない身としては、ちょっと軽率ではないかえ?と・・・

とは言え、これも、どないかして主人公を名場面に絡ませないとドラマの盛り上がりに欠ける思った脚本家さんの苦肉の策という事で致し方ないのかも・・・です。

ただ、個人的に、どうしても、突っ込んでおきたいのが、あのユースケ・アサクラの蹴鞠(けまり)の場面を見た長谷川光秀の態度です。

朝倉家臣が「遊びです」とは言ったものの、
一方で、その蹴鞠の相手が「京都の公家」である事も言ってたはず・・・

この頃の蹴鞠や、歌会、
あと、もうすぐ出て来そうなお茶会も、
これらは、今で言うところの接待ゴルフです。

一昔前なら、
嫁=「あなた、日曜なのに、またゴルフなの?」
夫=「仕方ないだろ!ゴルフも仕事だ」
嫁=「゛(`ヘ´#) ムッキー」
なんて場面が、昭和のドラマにあったような気もしますが、

働く女性がバリバリ活躍する令和のこの時代、社会人はもちろん、女子供だって、もう気づいてますよ。

正式な会談ではない、ざっくばらんなオフレコで話す内容が、いかに重要で、そこから発展する事項が多々ある事・・・

なんせ、国家の首脳がゴルフして、両者の関係をアピールする時代なんですから・・・誰も、アレを見て「遊んでる」とは思わないですよね。

なのに光秀は気づかない・・・気づかないどころか、その言葉通りに「遊んでる」と思って憤慨し、どうやら「朝倉になんか仕官するもんか!」と思ったご様子。

残念ながら光秀さん、それでは出世できません。
その「来ている公家」が誰であるかくらい確かめないと・・・
(本来なら、話してる内容も聞きたいところですが…)

これまでの長谷川光秀が、出演者の皆々様から「優秀だ」と称され、アッチからもコッチからも引っ張りだこのモテモテ設定なのですから、それなら、このシーンはいらなかったような気がします。

せっかく、裏で川口濃姫にアドバイスして、水野のおいちゃんを呼びださせて染谷信長と会わせ、風間家康を今川から離反させようと画策した優秀さがブレブレになってしまいました。

とは言え、この離反作戦自体は、お見事でしたね~

今回のタイトルが「家康への文」だったので、いつぞやのファンタジー大河を思い出し、まさか
「光秀君よ、主役の特権使って家康に手紙出すんか!?」
と思ってドキドキしてましたが、なるほど、家康母ちゃんからの手紙だったわけですね~これはウマイ!

しかも、於大母ちゃんを演じた松本若菜さんの演技が、これまたウマイ!

わずか6歳で人質に出され(8月2日参照>>)、しかも、兄貴の水野のおいちゃんが織田に寝返ったせいで自分は離縁されて、1度も会えてない・・・

彼女の中では、未だ子供の姿のままの息子が、元服して出陣して、おそらく最も危険な先鋒を受け持つ・・・涙しながら、息子の無事を願う母。

まるでBGMに♪母さんの歌♪が流れて、立て籠もり犯を説得せんが勢いの名場面を、松本於大さんが見事な演技で魅せてくれはりました。

なのに、予告を見る限りでは離反工作は失敗する模様・・・
なんで?
「そう来たか!」
「コレ(母の願い)やったらイケる!」

と思った私の気持ちを返してくれ!

とまでは、言わないですが、おそらくは史実通り、義元の死を知ってから家康さんは決意する展開になるのかな?
【桶狭間の戦いの時の徳川家康】参照>>
水野のおいちゃんも、手を貸してくれそうやし・・・

とにもかくにも、いよいよ来週は「決戦!桶狭間」

次に「麒麟がくる」その日まで、桶狭間の余韻に浸りながら待っております!

★このあたりの予習復習ページ↓
 ●【家康初陣~三河寺部城の戦い】>>
 ●桶狭間の戦い
  【今川義元の行軍ルート】>>
  【一か八かの桶狭間の戦い】>>
  【二つの桶狭間古戦場】>>
  【義元を討った毛利新介と服部小平太】>>
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