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2020年6月 4日 (木)

本能寺の変の余波~鈴木孫一VS土橋重治の雑賀の内紛その2

 

天正十年(1582年)6月4日、本能寺の変=織田信長死亡の一報を受け、雑賀衆同士の内紛が勃発し、土橋重治が鈴木重秀(雑賀孫一)の平井城を攻撃しました。

・・・・・・・・・

紀州(きしゅう=和歌山県)は、あの応仁の乱以降の守護(しゅご=県知事みたいな?)畠山(はたけやま)の権力争い(7月12日参照>>)の舞台となった場所で、それ故、時と場合により、その戦いに介入したり静観したり・・・守護や守護代の影響を受けながらも、高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町・壇上伽藍を中心とする宗教都市)根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市・根來寺)粉河寺(こかわでら=和歌山県紀の川市粉河)などの宗教勢力も含め、独自の武装勢力を以って生き残って来た民が多くいました。

その中で紀の川流域一帯に勢力を持ち、水運に強く鉄砲を駆使する独自の武装をした土着の民であった雑賀(さいが・さいか)・・・

天下を狙う織田信長(おだのぶなが)が、抵抗する石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市:本願寺の総本山)と戦った石山合戦で、本願寺に味方して活躍する(【丹和沖の海戦】参照>>)事から、何となく信長の敵のイメージが強いですが、これまで何度か書かせていただいているように、もともといくつかの郷の集合体であって、雑賀と言っても一括りにはできない=一枚岩とは言い難い集団であったわけです。

とは言え、長きに渡って雑賀衆の中でもトップの勢力を誇っていた土橋(どばし・つちばし)が、一貫した本願寺派であった事から、上記のように、雑賀衆もおおむね反信長として戦っていた事から天正五年(1577年)には信長の紀州征伐が決行されてしまい、この時は、折れる形で信長と和睦するも、
●【信長の雑賀攻め、開始】>>
●【雑賀攻め、終結】>>
その2年後には、紀州征伐で織田に味方した一部の者も、結局、抑え込まれて本願寺に恭順させられるほど(【雑賀同志の戦い】参照>>)雑賀では反信長派の勢力が強かったのです。

Saigamagoiti400a しかし、それが徐々に崩れてくる・・・それは、一連の石山合戦で名を挙げた鈴木重秀(すずきしげひで=雑賀孫一)です。

長年に渡りトップに君臨して来た土橋から見れば新参者の鈴木ですが、一説には鈴木重秀は土橋トップの土橋守重(つちばしもりしげ=平次・若太夫)の娘婿だったという話もあり、両者の関係は決して悪い物では無かったものの、ここらあたりで徐々に両者のバランスが微妙になって来る中、天正八年(1580年)8月、本家本元の石山本願寺が信長と和睦してしまいます(8月2日参照>>)

もともと信長に恭順的であった鈴木重秀とその一派は、これを雑賀の頂点を狙うチャンスとばかりに、その機会を模索しはじめ、いよいよ天正十年(1582年)1月23日土橋守重を殺害・・・雑賀の内紛が始まりました。

もちろん、この守重殺害には、鈴木派だけではなく、それに同調した土橋一門の一部も加わっている事から、単に鈴木VS土橋の権力争いではなく、時代の流れ&周辺の状況を見て「織田についた方が得」と考える者が雑賀衆内に増えて来ていた事や、土地関係のモメ事が治まらなかった事など、あちこちに不満の種はあったわけですが、それを鈴木派が利用してクーデターを起こしたという雰囲気が見えます。

また、一説には、この暗殺計画はすでに信長に承認されていた=信長の了解があって決行されたとの話もあります。

とにもかくにも、父の暗殺を知った息子(弟とも)土橋重治(しげはる=平之丞・平尉)は、本拠の粟村(あわむら=和歌山県和歌山市粟)の城に立て籠もって抵抗しますが、さすがに背後に織田軍がいてはいかんともしがたく、たまたまこの時、石山本願寺を出て雑賀荘の鷺ノ森(さぎのもり=和歌山県和歌山市鷺ノ森)に滞在していた本願寺第11代法主=顕如(けんにょ)の勧めにより重治らは城を退去し、四国の土佐(とさ=高知県)に落ちて行き、2月の8日には、鈴木派の手によって城は焼かれました(2月8日参照>>)

こうして雑賀一帯の主導権は鈴木重秀らが握る事になるのですが、その4か月後の6月2日未明・・・

そう、ご存知、あの本能寺の変(6月2日参照>>)が起こり、信長が横死してしまったのです。

その一報は、早くも翌3日の朝に雑賀にもたらされます。

たちまち騒然となる雰囲気に、反信長派からの攻撃を恐れた鈴木重秀は、6月3日の夜に信長配下の織田信張(のぶはる=尾張三奉行の藤左衛門家の人)を頼って岸和田城(きしわだじょう=大阪府岸和田市)へと逃げ込みます。

案の定、翌・天正十年(1582年)6月4日早朝、結集した反信長派が、鈴木重秀の居城である平井城(ひらいじょう=和歌山県和歌山市)を襲撃して城に火を放ち、その勢いのまま、続いて重秀に同調して、かの土橋守重殺害に関与した土橋平太夫(へいだゆう)の城を包囲して平太夫を討ち取ります。

ちなみに、事の前夜に鈴木重秀が岸和田城に逃げた行為は、敵側からは「夜逃げ」と称して笑い者になったらしいですが、上記の通り、もしその日に逃げていなければ土橋平太夫と同様に討たれていた可能性が高いので、鈴木重秀としては笑われようが何しようが「逃げるが勝ち」で命拾いした事になります。

一方、『石山軍記』『大谷本願寺通記』他、本願寺側の複数の記録には、この6月3日夜から4日早朝にかけてのこの騒動を、信長の三男=織田信孝(のぶたか=神戸信孝)配下の者による鷺ノ森の本願寺別院(上記の顕如が滞在してた場所です)への攻撃・・・つまり、信長の紀州征伐の一環であるかのように書かれています。

それら本願寺側に記録では、
6月3日に信孝の命を受けた丹羽長秀(にわながひで)が3千の兵を率いて鷺ノ森を襲撃して来たのを、急を聞いてはせ参じて来た鈴木孫一(孫一を名乗る人は複数いるので鈴木重秀本人の事かどうかは不明)をはじめとする在地の宗徒たちが賢明に防戦するも、やがて織田勢に新手の援軍が加わり、もはやこれまで!・・・となったところに「本能寺の変(信長死す)の一報」が入り、織田方は散り々々に去って行った。。。と、

「あらめでたや法敵亡(ほろ)び 宗門は末広がりに御繁昌」
と、あの高野山攻め(【織田信長の高野山攻め】参照>>)と同じような展開になってるところは、いかにも本願寺側の記録・・・って感じです。

なので、現在では、今回の雑賀での騒動は「信長VS本願寺の戦い」ではなく、おそらくは、信長の死によって再燃した雑賀の内紛であろうととの見方がされています。

とは言え、全部違うかと言うと、そうではなく、実際に本能寺の変の混乱によって雑賀衆の一部の誰かに鷺ノ森が襲撃された事も複数の史料に見られるので、本願寺別院がこのドサクサで襲われた事は事実のようで・・・

さらに、 当時、信孝の配下であった九鬼広隆(くきひろたか=九鬼嘉隆の甥)の覚書には、信孝は、この日、実際に紀州方面に出向いていた事が記されています。

それは、この2~3日後に決行されるはずだった四国攻め(【本能寺の変:四国説】参照>>)の準備のため・・・渡海用の船の用意を雑賀衆に頼んでいたので、その最終の打合せに向かっていたようなのですが、
堺にて本能寺の異変を知った九鬼広隆が慌てて紀州方面に向かったところ「ちょうど貝塚(かいづか=大阪府貝塚市)のあたりで、紀州から戻って来た信孝と落ち合う事が出来た」との事・・・

当然ですが、四国攻めの総大将である織田信孝がたった一人で紀州に出向くはずはなく、ある程度の人員を連れて紀州に入っていたはずですから、おそらくは、上記の鷺ノ森別院が襲われた話と、この信孝が紀州にいた話とがいっしょくたになって「本願寺側の記録」として残されたものと思われます。

とにもかくにも、今回の信長の死によって、雑賀を去った鈴木重秀は没落・・・一方、ここまで何処かに身を潜めていた土橋重治は、重秀と入れ替わるように雑賀に戻って来て、報復作戦に取り掛かります。

ただ、鈴木重秀が去ったとは言え、まだまだ鈴木重秀一派の者は多く残っており、その抵抗も激しく、すぐさま雑賀一帯を掌握するというわけにはいかず、なかなか不安定な状態が続いていたようですが、

そんな中でも、土橋重治らは、信長を討った明智光秀(あけちみつひで)と連絡を取り、6月12日付けの光秀の返書には高野山根来衆(ねごろしゅう=根来寺の宗徒)らとともに和泉(いずみ=大阪府南西部)河内(かわち=大阪府南東部)方面に出兵してほしい」との記述があり、援軍の要請を受けていたようで・・・(2017年の新発見「9月」の項参照>>)

おそらく土橋重治らは、この先、光秀の力を後ろ盾に雑賀一帯の統治を画策していたものと思われますが・・・

ご存知のように、この返書の日付の翌日=6月13日に光秀は羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)との山崎の合戦に敗れて(6月13日参照>>)命を落としてしまい、実際に土橋と明智が連携する事はありませんでした。

後の、秀吉による紀州征伐(3月28日参照>>)の際には、
鈴木重秀は秀吉の使者として雑賀へ出向いて交渉係をし、土橋重治は秀吉軍と抗戦し、敗れて四国へ逃れ・・・と、ともに命はつなぐものの、雑賀にいた頃の隆盛を味わうような事は、2度と無かったのです。

鈴木重秀にしろ土橋重治にしろ、おそらく彼らの理想としては、雑賀の独立を保ったままの状態がベストだったのかも知れませんが、天下=中央集権を目指す武将の登場によって、「大きな傘の下でしか生き残る事ができない」と悟った以上、誰につくのか?どうするのか?の選択をし、それぞれの生き方を模索するしかなかったのでしょうね。
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