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2020年6月24日 (水)

小牧長久手の余波&越中征伐の前哨戦~前田利家と佐々成政の阿尾城の戦い

 

天正十三年(1585年)6月24日、小牧長久手の戦いの後、前田利家に寝返った菊池武勝が守る阿尾城を、佐々成政配下の神保氏張が攻撃しました。

・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)(本能寺の変>>)亡き後、信長次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ=北畠信雄)を取り込んで、三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)と信孝を推す柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)に破った(賤ヶ岳>>)(信孝自刃>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)でしたが、

やがて、その秀吉の勢いを警戒するようになった信雄(3月6日参照>>)徳川家康(とくがわいえやす)を頼り、両者が「秀吉VS(信雄+家康)」の構図で、天正十二年(1584年)3月の亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)の攻防(3月12日参照>>)を皮切りに始まったのが、一連の小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市付近)の戦いです。

そして、それに連動するように北陸でも「秀吉派VS(信雄+家康)派」による闘いが展開されたのです。

織田政権下で加賀(かが=石川県南部)金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市丸の内)にあった秀吉派=前田利家(まえだとしいえ)と、越中(えっちゅう=富山県)富山城(とやまじょう=富山県富山市)にあった信雄&家康派=佐々成政(さっさなりまさ)の戦いです。
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>

しかし、その年の11月に戦いの看板であるべき信雄が、単独で秀吉との講和を成立させてしまったために、ハシゴをはずされた形となった家康も兵を退くしかなく、勝敗もウヤムヤなまま戦いは小牧長久手は終結してしまいます(11月16日参照>>)

納得いかない佐々成政は、真冬の立山・北アルプスさらさら越え浜松城(はままつじょう=静岡県浜松市)の家康に会いに行き、徹底抗戦を訴えますが(11月11日参照>>)、家康がその願いを聞き入れる事はなく、信雄にも迷惑がられて、空しく富山城へと戻ったのでした。

ちなみに・・・
俗説では、成政が、このさらさら越えで富山城を留守にしている間に、例の「黒百合伝説」(浮気したとして成政が愛人を成敗した事件:くわしくは5月14日の後半で>>)が起こった事になってますが、これは、あくまで伝承です。

Maedatosiie とにもかくにも、小牧長久手も終ったし、冬の北陸は雪深い・・・って事で、一旦、前田VS佐々の戦いも休戦となったわけですが、年が明けた天正十三年(1585年)の春、先に仕掛けたのは前田利家の方でした。

その年の2月に、利家配下の村井長頼(むらいながより)が1千余りの兵を率いて、成政側の重要拠点である蓮沼城(はすぬまじょう=富山県小矢部市)を急襲し、これを焼き討ちにしたのです。

Sassanarimasa300 もちろん、成政も黙ってはおらず、翌3月、この報復として鷹巣城(たかのすじょう=石川県金沢市湯桶町)を攻撃しますが、この同時期に展開されていた秀吉の紀州征伐(3月28日参照>>)での連勝の勢いを背負う利家は、さらに加賀と越中の国境に近い鳥越城(とりごえじょう=津藩町鳥越)を攻撃します。

強気の利家は、さらに成政配下の阿尾城(あおじょう=富山県氷見市)を落とすべく、4月20日、6000の兵を率いて阿尾城に迫ります。

ところが、これを見た阿尾城主の菊池武勝(きくちたけかつ)は、あっさりと城門を開け、前田軍を受け入れたのです。

つまり、この時の武勝は、はなから利家側につく気であったと・・・実は、これには、その理由とおぼしき、こんな話が伝えられています。

前年の春に富山城下に新しい馬場を整備した成政が、その周囲の桜を植え、完成祝いと同時に花見の宴を催した際、配下の一人として招かれた武勝が、その場を盛り上げようと、

「これは、かの謙信公より賜った紀新大夫の名刀なんですが…」
と1本の短刀を取り出し、
「これにて、北陸七ヶ国平定されるとの願いを込めて、殿に献上させていただきます」
と差し出したのです。

それを受けた成政は、
「俺、謙信なんか尊敬してないし…」
と急に機嫌が悪くなり、
「もともと北陸七ヶ国なんか眼中に無いっちゅーねん、俺が狙てるんわ天下じゃ!」
と言って武勝をにらみつけたのだとか・・・

賑やかな宴会から一転、シラケた空気が流れたものの、そばにいた他の武将のとりなしによって何とかその場は収まりますが、収まらなかったのは武勝の気持ち・・・

「大勢の前で部下に恥をかかせるなんざ、天下取りの器やない!アイツは愚将や」
と憤慨し、以後、成政に反感を持つようになっていたのだとか・・・

もちろん、これは噂の域を出ない話ですが、一方で、前年の11月頃=北陸の戦闘が一旦休止となった頃から、武勝側へ、利家からの好条件での懐柔のお誘いが頻繁に行われていたとの記録(『前田金沢家譜』)もありますので、おそらくは、上記のような事件があろうがなかろうが、すでに武勝の気持ちは前田側に傾いていた物と思われます。

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阿尾城攻防戦・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

とにもかくにも、この菊池武勝の寝返りは、佐々側に大きな衝撃を与え、形勢悪しと判断した成政は、戦備の立て直しに着手・・・その結果、鳥越城と倶利伽羅城(くりからじょう=石川県河北郡津幡町)の2城を諦め、北から守山城(もりやまじょう=富山県高岡市)木舟城(きふねじょう=同高岡市)井波城(いなみじょう=富山県南砺市)南北に結ぶ線を最前線とし、

守山城には神保氏張(じんぼううじはる)以下4500余、木舟城には佐々政元(さっさまさもと=成政の叔父の養子?)以下2500余、井波城には前野小兵衛 ( まえのこへえ )以下3000余りを、それぞれ配置して防備を固め、背後の脅威となる上杉(うえすぎ)に備えて越後(えちご=新潟県)の国境付近にも兵を置きました。

これに対し、利家は、自軍の最前線を越中領内にまで進ませ今石動城(いまいするぎじょう=富山県小矢部市)に弟の前田秀継(ひでつぐ)を、倶利伽羅城に近藤長広(こんどうながひろ)岡島一吉(おかじまかずよし)らを置いて、コチラも防御万全です。

そんなこんなの天正十三年(1585年)6月24日、守山城の神保氏張が約5000の兵を率いて阿尾城を攻撃したのです。

守る阿尾城は、菊池武勝以下わずか2000余・・・必死に防戦に努めますが、成政が、武勝を謀反人として、その首に賞金を懸けていた事もあって、神保勢の攻撃は、かなり激しい物となり、あわや!落城寸前!となりますが、

そこに、たまたま村井長頼ら300余りの偵察隊が近くを通りがかって、この状況を前に、すぐに参戦・・・この村井らの小隊が側面から攻撃を仕掛けた事で、突き進んでいた神保勢はリズムを崩されてしまいます。

これに勢いづいた菊池勢が盛り返し、次第に形勢は逆転・・・500余が討たれたところで、やむなく神保勢は守山城へと退去していきました。

ちなみに、『加賀藩史稾』
「二十四日 越中の将神保氏張兵を出し 阿尾城襲ふ
 守将慶次利太 片山延高等出でてこれを禦(ふせ)ぐ」
とある事から、この戦いに、あの前田慶次郎(まえだけいじろう)(6月4日参照>>)も参戦していて、この後しばらくの間は、阿尾城に滞在していたとされています。

とにもかくにも、小牧長久手の後からは、すっ飛ばされる事の多い北陸での前田利家と佐々成政の戦いですが、どうぞ、お見知りおきを・・・

そして、この3月~4月の間に例の紀州征伐を終え、7月には四国を平定した秀吉が、ここ北陸にやって来る(越中征伐・富山の役)のは、この2ヶ月後の8月の事。

ご存知のように、ヤル気満々だった成政も、あえなく秀吉の軍門に下る事になります。
【金森長近が飛騨攻略】>>
●【富山城の戦い】>>
【佐々成政が秀吉に降伏】>>
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