弘前藩・津軽家を支えた家老=兼平綱則
寛永二年(1625年)6月11日、戦国から江戸初期にかけて津軽家を支えた兼平綱則が死去しました。
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兼平綱則(かねひらつなのり)は、陸奥(むつ)北部の津軽(つがる=青森県西部)地方を支配した津軽大浦(つがつおおうら)家の大浦為則(おおうらためのり)、その養子の津軽為信(つがるためのぶ=大浦為信)、さらにその息子の津軽信枚(のぶひら)の3代に仕えた重臣で、 小笠原信浄(おがさわらのぶきよ)や森岡信元(もりおかのぶもと)とともに「大浦三老」と呼ばれて、その軍事や政事に貢献しました。
その中でも大きな功績は、大浦為則から津軽為信へのお代替わりの時・・・
南部(なんぶ)氏一族の久慈治義(くじはるよし)の次男だったとも、大浦為則の弟の子(つまり甥っ子)とも言われる津軽為信(当時は大浦為信)ですが、
一説には、 津軽為信は、上記のいずれかの後妻の子で、先妻の子供からヒドイ虐待を受けたため、母子ともども大浦為則を頼って保護してもらっていたところ、為則の娘である阿保良(おうら=戌姫)と恋仲になったのだとか・・・
とは言え、そんな美しいロマンスがあったかどうかは微妙なところです。
なんせ、この大浦為則さん・・・陸奥大浦城(おおうらじょう=青森県弘前市)の城主でありましたが、生来、体が弱く病気がちで、政務はほとんど家臣に任せていたらしい中で、為則が後継者に恵まれなかったとして、降ってわいた阿保良姫の恋の話から婿養子として為信が入って家督を継いだという事になってるのですが・・・
実は為則さんには、男子が6人もいたらしい・・・もちろん、この時代ですから、6人の男子がいたとしても全員無事成人するとは限らないし、成人しても後継者に相応しく無い場合もありますが、後々、この6人のうちの二人(つまり阿保良姫の弟2人)が川遊び中に溺死してしまう所なんか、何らかのお家騒動があった感が拭えません。
どうやら、為信の武将としての器量を見抜いていた兼平綱則らが、為信婿入りの一件を強く推し、各方面に十分な根回しをして擁立に成功し・・という感じのようですが、この後、この為信が、江戸時代を通じての弘前藩の祖となった事を見る限り、兼平綱則ら重臣の思いは正しかったような気がします。(津軽為信については12月5日参照>>)
とにもかくにも、こうして大浦家を継いだ為信は大浦姓から津軽姓に変え、その領地を拡大しつつ、奥州南部氏の家臣という立場からの脱却=独立に向けて動き出すのですが、もちろん、その戦いに兼平綱則は従軍して大いに活躍します。
なんせ兼平綱則は重臣ですから、その役割も津軽軍団全体の統率や直轄部隊の采配など多岐にわたります。
主家である南部氏の後継者争いのゴタゴタのスキを突いて、天正十七年(1589年)には、津軽地方にあった南部氏の諸城を津軽為信がほぼ制圧してしまいますが、そこには常に軍師として従う兼平綱則がいたのです。
また兼平綱則は外交交渉にも長けていたと言われ、翌年の天正十八年(1590年)、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)の小田原征伐(12月10日参照>>)の際にも、兼平綱則は水面下で奔走し、その生き残りを図ったのだとか・・・
そうです。。。先の津軽為信さんのページ>>にも書かせていただきましたが、この時、秀吉は東北の武将にも、この小田原征伐に参戦するよう大号令をかけますが、この時、東北の多くの武将が迷う中、津軽為信は、取る者もとりあえず、わずか18名の手勢を連れて真っ先に駆け付けて、未だ小田原に向かっている途中の秀吉に謁見・・・
人数こそ少ないものの、最も遠い津軽から、いち早くやって来た彼らに感動した秀吉は、為信に「津軽三郡、会わせ浦一円の所領安堵」=合計3万石の領地を認めた朱印状を与えるのです。
天下人から認めてもらった津軽の地・・・ここで完全に南部氏からの独立を果たしたわけです。
ま、おかげで、宗家の南部氏からは「勝手に独立した裏切者」とみなされ、両者の間に生まれた確執が消える事は無かったみたいですが・・・
やがて、秀吉亡き後に起きた関ヶ原の戦いでは、為信嫡男の津軽信建(のぶたけ)が豊臣秀頼(ひでより=秀吉の息子)の小姓として大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)に詰める一方で、父=為信は三男の津軽信枚(のぶひら)とともに東軍として参戦=どっちか生き残り作戦(【前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」という事】のページ参照>>)で、見事やり過ごしました。
慶長十二年(1607年)には、為信と信建がたった2ヶ月の間に病死してしまった事から、信建の息子と信枚の間で後継者争いが生じますが、何とか信枚を後継者とする事で収まりました。
その後、慶長十九年(1614年)に兼平綱則は現役を引退しますが、元和五年(1619年)に幕府から津軽信枚の信濃国川中島藩(かわなかじまはん=長野県長野市松代町→後の松代藩)への転封(てんぽう=国替え・引越)通告が出た際には、いち早く登城して主君=信枚の基にはせ参じて皆を集め、転封反対の大演説を行ったのだとか・・・
彼の見事な演説によって一門&家臣の心が一つになり、一致団結した反対運動を起こします。
おそらくは、やみくもに反対するばかりではなく、お得意の根回しや水面下での色々もやってのけたんでしょうね~
いつしか、その転封の話は無かった事に・・・
それから数年後の寛永二年(1625年)6月11日、兼平綱則は、その生涯を閉じました。
お家騒動やら何やらありながらも、江戸時代を通じて存続し、無事、明治維新を迎える弘前藩(ひろさきはん=青森県弘前市)・・・その初代藩主の津軽為信は、独立して一代で大名となった事から
『天運時至り 武将其の器に中(あた)らせ給う』(津軽一統志より)
「(独立の)チャンス到来!その力を持つ武将が登場した」
と称され、今でも地元の英雄として親しまれているそうですが、
そこには、先手必勝で主君の前を駆け抜け、その舞台を整えた兼平綱則の姿もあったのです。
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