悲しき同士討ち~浅井長政配下・今井定清と磯野員昌の太尾城の戦い
永禄四年(1561年)7月1日、六角義賢の留守を狙う浅井長政が、配下の今井定清と磯野員昌に太尾城を攻撃させました。
・・・・・・
織田信長(おだのぶなが)の妹(もしくは姪)のお市(いち)の方と結婚して、茶々(ちゃちゃ=後の淀殿)・初(はつ)・江(こう)の、いわゆる浅井三姉妹をもうける事で、戦国武将の中でも超名の知れた浅井長政(あざいながまさ)ですが、実は、永禄三年(1560年)に15歳で元服した時の最初の名前は賢政(かたまさ)でした。
これは、観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)にて南近江(みなみおうみ=滋賀県南部)を支配する六角義賢(ろっかくよしかた=承禎)の「賢」の一字をとった物であり、最初に結婚したのも六角義賢の家臣の平井定武(ひらいさだたけ)の娘さん・・・つまり、この頃の浅井は、しっかりドップリ六角氏の配下だったわけです。
というのも・・・
もともとは、六角氏と同じく宇多源氏(うだげんじ)・佐々木氏(ささきし)の流れを汲む北近江(きたおうみ=滋賀県北部)の京極氏(きょうごくし)の根本被官(こんぽんひかん=応仁の乱以前からの譜代の家臣)だった長政の先々代(つまりお爺ちゃん)の浅井亮政(すけまさ)が、京極家が家内で起こった後継者争い(8月7日参照>>)によって主家の京極家が弱体化して行く中で力をつけ、いつしか主家を凌ぐ勢いを持つようになるのです。
しかし、当然、もともとの同族である六角定頼(さだより=義賢の父)は、浅井が京極に取って代わる事をヨシとせず、度々、浅井と六角は衝突をくり返していた(【箕浦の戦い】参照>>)のです。
それは天文十一年(1542年)に亮政が亡くなった事を受けて息子の浅井久政(ひさまさ=長政の父)が家督を継いた後も治まる事なく続けられていましたが、
●天文十八年(1549年)4月=大溝打下城の戦い>>
●天文二十一年(1552年)1月=菖蒲嶽城の戦い>>
上記の菖蒲嶽城(菖蒲岳城・しょうぶだけじょう=滋賀県彦根市)の戦い後、六角配下の佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)を落とした浅井久政が、その勢いのまま、翌天文二十二年(1553年)7月、やはり六角配下の太尾城(ふとおじょう=滋賀県米原市米原・太尾山城とも)を奪わんと4ヶ月に渡って攻め続けるも落とす事ができず、
多大なる損害を被ったあげくに、降伏に近い形で和睦を結ぶ結果となってしまった事で、浅井の力は削がれ、亮政時代に得た領地等も、ほぼほぼ失って六角の配下のような扱いを受ける事になってしまっていたのです。
なので、長政の名も賢政で奥さんも六角の家臣から娶る・・・という事になっていたわけですが、当然、浅井の家臣の中には、この状況を不満に思う者が大勢いたわけです。
やがて、そんな家臣の不満が爆発・・・というより、その経緯を見る限りでは、「いつかヤッってやる!」の決意のもとに周到に準備され、その時を待っていた~という感じですが、
とにもかくにも永禄二年(1559年)、家臣たちがクーデターを決行・・・久政を幽閉して息子=長政を担ぎ上げます。
もちろん、長政自身もヤル気満々で、「賢」の字を捨てて長政を名乗り、奥さんを平井家に送り返して反六角の狼煙を挙げます。
しかも、その翌年=永禄三年(1560年)8月に起こった野良田(のらだ=滋賀県彦根市)の戦いで、見事に六角義賢を打ち破りました(8月18日参照>>)。
そこで、この勢いに乗じる長政は、浅井が六角からの屈辱的な講和に耐えねばならなくなったキッカケとも言える太尾城を奪おうと機会をうかがいますが、
ちょうど、この永禄四年(1561年)、宿敵=六角義賢が畿内を牛耳る三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)との戦いのために京都に出陣した(【将軍地蔵山の戦い】参照>>)事を確認した6月中旬、箕浦城 (みのうらじょう=滋賀県米原市)の今井定清(いまいさだきよ)を太尾城攻略に向けて出陣させたのです。
定清は、長政から援軍として送られて来た磯山城(いそやまじょう=同米原市)の磯野員昌(いそのかずまさ)と連携して夜襲をかける事にし、
永禄四年(1561年)7月1日、夜陰に紛れて、自軍480と磯野の援軍200=合計680ほどを率いて、太尾城の麓に潜んでおいて、伊賀(いが=三重県北西部)の忍びを城内へと潜入させました。
この、先に城中に入った伊賀衆が火を放ち、その合図の炎で以って今井軍と磯野軍が本丸と二の丸を同時に攻撃する手はずとなっていたのです。
しかし・・・待てど暮らせど、いっこうに伊賀衆の火の手が上がらない・・・
そこで、おそらく伊賀衆が城中への潜入に失敗したと判断した磯野員昌が、
「約束の時刻になっても合図が無いところを見ると、おそらく伊賀衆が失敗したに違いない。
お宅の城は、ここから近いのだから、一旦戻られた方が良いのでは?
我らは、もう少しだけ、ここに留まって後、兵を退きあげる事にしよう」
と今井定清に提案・・・
「よし、わかった!」
と承諾した定清が、箕浦に帰るべく兵とともに退却していたところ、その途中で太尾山方面に火の手が上がりました。
「すわ!作戦が始まった!」
とばかりに、慌てて引き返し、その勢いのまま城中に攻め入ろうと、怒涛の攻撃態勢に・・・
しかし、その場所に展開していたのは、あの200余りの磯野の兵だったのです。
暗闇の中、突然の攻撃を受けた磯野の兵たちは、それが今井定清の兵とはわからず・・・いや、むしろ太尾城側に加勢する兵が現れたものと思い込み、これまた必死のパッチで反撃に出ます。
そんな中で、先頭を切って突入した定清を、磯野員昌の与力(よりき=足軽大将クラスの武将)であった岸沢与七(きしざわよしち)が背後から槍で一突き・・・馬上から落ちた定清は、その場で落命しました。
未だ、34歳の若さだったと言います。
それでも、まだ、味方同志とはわからず、闇夜の中の戦闘は続けられ、夜が白々と明ける頃になって後、周辺に横たわる味方の遺体を目にし、ここで、ようやく同士討ちをしていた事に気が付いたのです。
このような状態でしたから、当然、太尾城を落とすどころではなく、今井勢も磯野勢も、兵を退いて、むなしく本拠へと戻るのみでした。
もちろん、定清を討った磯野側に他意はなく、完全なる勘違い・・・4日後の7月5日、磯野員昌は今井家に向けて起請文(きしょうもん=神仏に誓う文書)を送って謝罪し、納得してもらったのだとか・・・
とまぁ、この時、太尾城を落とせずにいた浅井長政でしたが、この2年後の永禄六年(1563年)、六角氏は家内での内ゲバ事件=観音寺騒動(かんのんじそうどう)(10月7日参照>>)を起こして自ら衰退への引き金を引いてしまい、
そこに乗じた長政が、浅井の力を維持したまま、あの織田信長との同盟を結び、やがて、その信長が第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛し(9月7日参照>>)、それを阻む六角が・・・
と、続いていくのですが、そのお話は、信長の上洛を阻む六角承禎の【観音寺城の戦い】でどうぞ>>m(_ _)m
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コメント
>もちろん、長政自身もヤル気満々で、「賢」の字を捨てて長政を名乗り、
>
「長」はどこから来たのでしょうか?
担ぎあげられたのが1559年との事ですので桶狭間前。
そのころから信長と親交があったのでしょうか?
足利将軍は義輝ですし。
気になりましたのでご存じでしたら教えていただけれると嬉しいです。
投稿: ton | 2020年7月 1日 (水) 06時18分
tonさん、こんにちは~
そうですね。
浅井の通字は「政」なので、今回の場合は「賢」を捨てる事に意味があって、「長」には、あまり意味が無いような気がしてます。
お爺ちゃんの亮政の「亮」や、お父さんの久政の「久」にも、意味があるか?と言えばあまりないような気が…
ただ、現在、長政とお市の方の婚約時期として最も早い年代に『川角太閤記』の永禄2年(輿入れは2年後)というのがあるので、それだと信長の「長」の可能性もありますね。
一般的には、長政とお市の方との婚約は永禄6年か7年という考えが多いようですが、婚約時期自体がハッキリしないので、信長の「長」説も捨てきれないように思います。
もっと早い段階から長政が信長を意識してたか?どうか?となると、もう、ご本人のみの知る所のような感じでしょうね。
曖昧な返答で申し訳ないです。
投稿: 茶々 | 2020年7月 1日 (水) 16時01分
詳しいご解説ありがとうございました。
朝倉壮敵の例もありますし、
桶狭間前から浅井長政が信長の才能を見極めていたとしたら、、、なんて考えてしまいます。
投稿: ton | 2020年7月 2日 (木) 00時45分
tonさん、こんばんは~
すでに信長の才能を見抜いていて、同盟の2文字が頭にあり、そのために名前を変えて、前妻とも離縁したのだとしたら…
まるでドラマのようですね。
投稿: 茶々 | 2020年7月 2日 (木) 01時57分