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2020年7月29日 (水)

奈良統一を目指す~筒井順昭の柳生城攻防戦

 

天文十三年(1544年)7月29日、奈良統一を目指す筒井順昭に攻撃された柳生城が落城しました。

・・・・・・・

もともと、興福寺(こうふくじ)春日大社(かすがたいしゃ)の勢力が強かった大和(やまと=奈良県)の地でしたが、南北朝の動乱を経て寺社勢力そのものよりも、寺社の荘園の管理などを任されていた在地の者たちが、興福寺に属する『衆徒』、春日大社に属する『国民』などとして力を持ちはじめ、やがて、大和の国衆(くにしゅう=地元に根付く武士)となって戦乱の世を生き抜く武士として群雄割拠するようになるのです(12月18日参照>>)が、そんな中の、『国民』の代表格が越智(おち)十市(とおち)で、『衆徒』からのし上がった代表格が筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を本拠とする筒井(つつい)でした。

戦国時代の室町政権下で大和の守護(しゅご=県知事?)だったのが、三管領家(斯波氏・細川氏・畠山氏)の一つの畠山(はたけやま)で、この畠山氏の畠山政長(はたけやままさなが=東軍)畠山義就よしなり=西軍)が、あの応仁の乱での発端である後継者争い=御霊合戦(1月17日参照>>)から、ず~っとモメていたため、この大和は度々戦場となり、両者の動向の影響を受けたり、中央勢力の介入を受けたりしていたのです。

そんな中で、ここに来て、時には中央と連携を組み、時には周辺領主と関係を結んだりしつつ、一時は衰退した筒井氏を再興して、勢力を拡大しつつあったのが筒井順興(つついじゅんこう)でした。
  ●筒井順賢VS古市澄胤~井戸城・古市城の戦い
  ●天文法華の乱~飯盛城の戦いと大和一向一揆

Tutuijyunsyou600a その後を継いだ息子の筒井順昭(じゅんしょう)は、未だ大和における最大勢力である越智氏に対抗すべく山城南部の守護代(しゅごだい=守護の補佐役)木沢長政(きざわながまさ)と結んだり、これまで敵対していた十市氏や古市(ふるいち)(9月21日参照>>)も傘下に収めて、さらに勢力を拡大しますが、そこに、かたくなまでに対抗していたのが柳生(やぎゅう)でした。

柳生一族は、ご存知、柳生新陰流(やぎゅうしんかげりゅう)の祖で剣豪として知られる柳生石舟斎宗巌(やぎゅうせきしゅうさいむねよし)(4月19日参照>>)の柳生一族ですが、今回のお話は、彼が世に出る半世紀前ほどの出来事です。

柳生氏は本姓が菅原(すがわら)で平安時代頃に柳生の地に移転して柳生姓を名乗るようになったとされますが、その経緯は、あくまで伝承の域を出ないもの・・・とにかく、南北朝以前から、この地に栄えて来た古株の豪族で、当時は、北に山城(やましろ=京都市南部)、東に伊賀(いが=三重県西部)を控えた柳生谷の山峡に築かれていた柳生城(やぎゅうじょう=奈良県奈良市柳生町)を代々の居城とし、戦国の乱世を生き抜いていたのです。

柳生氏の菩提寺で現在もその地に建つ芳徳寺(ほうとくじ=同柳生下町)を含む周辺が柳生城の城郭で、境内の東南にあたる標高320mの山上に主郭があったとされています。

とにもかくにも、そんな中、大和の統一を目指す筒井順昭は、天文十三年(1544年)7月、配下に収めた十市勢300余と河内勢300余を含めた約1万の大軍で以って、柳生の里に押し寄せたのです。

しかし、その大軍ゆえに、筒井勢は柳生城を小城と侮り、数に物を言わせて強引に攻め立てるものの、いたずらに死傷者を出すばかりで、一向に城を落とせません。

一方、柳生城内では、その様子をあざ笑うかのように、城兵たちが鬨(とき)の声を挙げて、お互いの士気を高め合います。

「これでは、らちがあかん!」
と、筒井順昭は作戦変更・・・

柳生谷あたりの集落に火をつけて焼き払って柳生勢の士気を落として、ようやく城郭の外廻りを占領した後、城の水の手を断って、兵糧攻め作戦に切り替えます。

そして、柳生城に攻め手を現場に残したまま、自身は精鋭を連れて、柳生の西に位置する須川城(すがわじょう=奈良市須川町)の攻略に向かいます。

この須川城は、興福寺の塔頭(たっちゅう=大寺院に付属する小寺)一乗院(いちじょういん=奈良県奈良市)の国民出身の簀川(すがわ=須川)の居城で、実は、この前年=天文十二年(1542年)の4月に、筒井順昭が6000の兵で以って攻略し、その後、破却していたのですが、

その時、散り散りに落ちて行った簀川の者たちは、すぐに舞い戻り、再び城を回復していたのでした。

ここは、現在、柳生城を絶賛攻撃中の自軍の背後にあたる場所・・・そのままにしておいて、後ろから攻め込んで来られててはヤバイ!

とは言え、須川城攻撃中にも、柳生城攻撃の進捗状況が気になる順昭は、結局、業を煮やして、自らが出向いて柳生城攻めの采配を振る事に・・・

そんなこんなしているうちの天文十三年(1544年)7月29日、とうとう柳生城は門を開き、降伏の意を表明し、ここに柳生城は落城しました。

こうして柳生氏を傘下に加えた順昭は、この2年後の天文十五年(1546年)に、目の上のタンコブだった最大のライバル=越智氏の貝吹山城(かいぶきやまじょう=奈良県高市郡高取町)を攻略して(9月25日参照>>)、コチラも傘下に加えますが、その6年後の天文十九年(1550年)に順昭は病死・・・わずか2歳の息子=筒井順慶(じゅんけい)が叔父=筒井順政(じゅんせい)の後見のもと、その後を継ぎます。

一方、ここで負けた柳生一族は、一旦、筒井の配下となるのですが、その殿様交代から9年後の永禄二年(1559年)、筒井氏から離反します。

そうです!
永禄元年(1558年)の白川口(北白川付近)の戦い(6月9日参照>>)の後に、第13代室町幕府将軍=足利義輝(あしかがよしてる)と和睦して、事実上の天下人となっていた三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)配下の松永久秀(まつながひさひで)が、永禄二年頃から、大和平定に乗り出したのです(11月24日参照>>)

この松永久秀の動向にすばやく反応して、即座に、その配下に鞍替えして、久秀の下で活躍することになる柳生一族・・・

ここから、松永久秀VS筒井順慶による奈良争奪戦が始まる事になりますが、
  ●松永久秀VS筒井順慶~筒井城攻防戦
  ●大仏炎上~東大寺大仏殿の戦いby松永×三好・筒井
  ●松永久秀、信長に2度目の降伏~多聞山城の戦い
  ●松永久秀~男の意地の信貴山城の戦い
  ●乱世の梟雄・松永久秀~運命の10月10日爆死!

ご存知のように、その戦いは、三好長慶から織田信長(おだのぶなが)へと政権交代してもなお続く事になります。
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2020年7月22日 (水)

武田家内紛~武田信縄と油川信恵の市川の戦い~甲斐の戦国

 

明応元年(1492年)7月22日、武田信縄油川信恵による後継者争いの最初の戦いである市川の合戦がありました。

・・・・・・・

今回の市川(いちかわ=山梨県西八代郡)の戦いで戦ったのは、甲斐(かい=山梨県)守護(しゅご=県知事みたいな?)である武田(たけだ)氏の第14代当主である武田信縄(たけだのぶつな)と、その弟の油川信恵(あぶらかわのぶよし・のぶさと=武田信恵)

このお兄さんの信縄さんの息子が武田信虎(のぶとら)で、その信虎の息子が武田晴信(はるのぶ)信玄(しんげん)ですので、つまりは、あの武田信玄のお爺ちゃんという事で、ドラマや小説等でよく描かれる、いわゆる戦国時代のチョイと前という感じです(実際にはこのあたりも、すでに荒れ放題の戦国時代ですが…)

そもそも、室町幕府がちゃんと機能していた頃には、各地に政府公認の守護を配置して、彼らにその地を治めさせていたわけですが、やがて、そんな守護たちに、それぞれ後継者を巡る争いが勃発し始め、それらをキッカケに起こったあの応仁の乱(おうにんのらん)(5月20日参照>>)で、守護たちが京都にてドンパチ始めると、守護が留守となってた地元では、守護代(しゅごだい=副知事)やら地元の有力武士が力をつけはじめ、やがて、彼らが力づくで守護に取って代わる=下剋上(げこくじょう)の戦国へ突入・・・
(実際にはもっと多くの複雑な要因がありますが、あくまでごくごく簡単に言うとこんな↑感じです)

皆さまご存知のように、
美濃(みの=岐阜県南部)の守護だった土岐(とき)に代って実権を握ったのが斎藤道三(さいとうどうさん=利政)(1月13日参照>>)
守護代の長尾(ながお)が守護の上杉(うえすぎ)を倒し、その後に後継ぎとなった上杉謙信(うえすぎけんしん=長尾景虎)(6月26日参照>>)
さらに、守護の安芸(あき=広島県)武田氏を破り(10月22日参照>>)周防(すおう=山口県)大内(おおうち)を破り(10月1日参照>>)出雲(いずも=島根県東部)尼子(あまご)(11月28日参照>>)但馬(たじま=兵庫県北部)山名(やまな)(4月7日参照>>)を押さえつつ、西国の雄となった毛利元就(もうりもとなり)
などなど、、、(他にもいっぱい)

そんな中で、数少ない(と言えるかどうかは個人の認識の差がありますが幕府公認の守護で戦国を生き抜いていたのが、信玄さんの甲斐武田です。

河内源氏(かわちげんじ)棟梁(とうりょう)源義光(みなもとのよしみつ=新羅三郎・源義家の弟)を祖に持ち、平安時代から武家だった武田は、あの源平合戦にも源頼朝(みなもとのよりとも)配下として参加して(【富士川の戦い】参照>>)鎌倉時代を駆け抜け、建武の新政にも関わり、南北朝では足利尊氏(あしかがたかうじ)に従って第7代当主武田信武(のぶたけ)室町幕府政権下での公認の甲斐守護となったわけです。

とは言え、当然の事ながら、その間もその後も、ず~っと順風満帆だったわけではありません。。。てか、むしろ波乱に次ぐ波乱。

それこそ、中央の室町幕府がしっかりしていた頃は何とかなったものの、第6代室町幕府将軍=足利義教(よしのり)の頃に、中央政権に反発して関東で大暴れしていた第4代鎌倉公方足利持氏(もちうじ)に対抗した第10代当主武田信満(のぶみつ)が応永二十四年(1417年)の合戦で討死した事から、一時は甲斐国も守護不在の状態となってしまったのです。

その後、持氏が永享の乱(えいきょうのらん)(2月10日参照>>)にて鎮圧された後の結城合戦(ゆうきがっせん)(4月16日参照>>)で、信満の息子で第11代当主武田信重(のぶしげ)が功績を挙げた事で何とか再興のキッカケをつかみますが、

上記のような混乱の中では、国内の実権は、有力国人(地元の武士)や守護代の跡部(あとべ)に牛耳られていて、信重息子の第12代当主武田信守(のぶもり)は守護として何もできぬまま早世・・・後を継いだ息子の第13代当主武田信昌(のぶまさ)の代になって、ようやく跡部を排除したものの、一方で、穴山(あなやま)栗原(くりはら)大井(おおい)など有力国人勢力の台頭を許してしまい、領内は乱国状態が続いていました。

そんなこんなの明応元年(1492年)に信昌は、長男の信縄(やっと出て来たw)に家督を譲って隠居しますが、

しかし、その直後・・・
『勝山記』には、
「延徳四壬子 此年六月十一日 甲州乱国ニ成始ル也」
とあり、

『塩山向嶽禅庵小年代記』にも、
「同月十三日国中大乱」
とあり、

どうやら明応元年(1492年=7月に延徳から改元)6月10日を過ぎた頃から、甲斐において乱が発生したらしい・・・

それは、武田の内訌(ないこう=内部の戦い)・・・そう、信昌から家督を譲られた信縄と、その弟の信恵との兄弟争いが勃発したのです。

長男の信縄に家督を譲った後は、万力(まんりき=山梨県山梨市万力)落合館に隠居していた信縄・信恵兄弟の父である信昌が、この兄弟抗争の時には次男の信恵を支援している事から、一説には、先の家督相続は信縄のクーデターであったのでは?との見方もあります。

とにもかくにも、領内が乱れている状態で起こった兄弟争いは、それが激しくなるにつれ、国内の勢力を二分して対立させ、さらに国外の勢力の乱入も許してしまう事になり、これが、甲斐における戦国の幕開けとの見方もあります。

その、兄弟の最初の戦いが、明応元年(1492年)7月22日市川での戦いでした。

詳細な記録は残っていないのですが、信縄方の討死した者の数の記録や、そこに有力氏族の名が多く記載されている事から、かなり激しい戦いの末、今回は信縄方の敗北に終わった事が予想できます。

また、『王代記』には、
「壬子(明応元年)甲州ヘ九月駿河衆乱入
 又兄弟相論
 此年七月廿二日一河(市川)合戦」
と、この市川の戦いと並べて、その2ヶ月後には駿河(するが=静岡県東部)今川(いまがわ)勢が甲斐に侵攻して来た事が書かれており、内乱に乗じた外部からの圧力もあった事でしょう。

さらに翌明応二年(1493年)には4月8日には塩後(しおご=山梨県甲州市塩山上塩後)にて、11月1日には小松(こまつ=同甲府市小松町)にて合戦が行われ、この頃には勝山城(かつやまじょう=山梨県甲府市)を本拠に父の信昌や国衆の一人である小山田信長(おやまだのぶなが)を味方につけた信恵が信縄勢を抑え込み、有利に展開していたようです。

しかし、翌明応三年(1494年)3月26日の合戦では『勝山記』
「三月十(廿)六日合戦ニハ
 武田彦八郎殿(信恵の事)傷負玉フ
 大蔵大輔(おおくらたいふ=今井信又の事)打死…」
とあり、信縄方が形成逆転し、ここから後は、ほぼ優位に立っていたと思われます。

翌明応四年(1495年)には、伊豆支配を目論む相模(さがみ=神奈川県)北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時)甲斐へ侵攻して来ますが、それでも兄弟の抗争は治まらず・・・明応七年(1498年)には明応の大地震が起こり、一旦終息するものの、ほとぼりがさめたら、また再開。

しかも、永正二年(1505年)に、父の信昌が亡くなった事を受けて、両者の敵対はむしろ激しくなる一方・・・永正四年(1507年)に信縄は病死しますが、それでも、信縄の息子である武田信虎(当時は信直)に引き継がれ、この兄弟対決は、まだ続く事に・・・

Takedanobutora500a ところが、この信虎が段違いの強さだった!
(↑さすが、信玄の父ちゃん)

信虎は明応三年(1494年)生まれとされますので、信縄の死で家督を継いだのは、わずか14歳・・・しかも、その前年には母ちゃんも病死してるという不幸続き。

そこで、信縄が死んで若年の信虎が後を継いだ事をチャンスと見た信恵が、翌永正五年(1508年)に挙兵するのですが、信虎はこれを見事返り討ち・・・信恵は討死し、武田宗家は信虎の系統に統一される事になったのです。

その後は、乱れっぱなしだった甲斐の国衆たちとも戦う信虎は、大永二年(1522年)頃には甲斐一国統一を達成・・・さらに、やがては駿河や信濃(しなの=長野県)を見据える大物となっていくわけです(5月14日参照>>)

個々の戦いについては、またいずれ「その日」のページで書かせていただきたい思いますが、戦国屈指の武将として名高い武田信玄の家系は・・・風前の灯だった武田家内の抗争から一転、領国統一を成し遂げたそのお父ちゃんもスゴかったという事をお忘れなく(∩.∩)v
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2020年7月14日 (火)

5千対2万…宇喜多直家一世一代の明善寺合戦~万灯会

 

永禄十年(1567年)7月14日、宇喜多直家により、明善寺合戦の死者を弔う万灯会を行う旨の命が下されました。

・・・・・・・・

猿掛城(さるかけじょう=岡山県小田郡矢掛町)庄為資(しょうためすけ=荘為資) を倒して(2月15日参照>>)、史実上、備中(びっちゅう=岡山県西部)覇者となった三村家親(みむらいえちか)が、当時は備前(びぜん=岡山県東南部)天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)城主の浦上宗景(うらがみむねかげ)被官(ひかん=配下の官僚)であった宇喜多直家(うきたなおいえ)の放った刺客の鉄砲にて暗殺されたのは永禄九年(1566年)2月の事。

その直後から、三村氏の本拠である成羽鶴首城(かくしゅじょう=岡山県高梁市成羽町)にて重臣たちによる弔い合戦の話が持ち上がりますが、当然、
「これを見過ごしては当家の恥辱!」
と息巻く者もおれば、
「時を見て事を起こすべき」
という慎重派もいて、なかなか議論が前に進みません。

そんな中、父の死を受けて後継ぎとなった次男の三村元親(もとちか)や、その兄弟たちも、即座の弔い合戦に積極的ではなかった事から、一族の中でもイケイケ派だった三村五郎兵衛(ごろうびょうえ)が、2ヶ月後の4月に、自らの一族だけで弔い合戦を決行しようと、50騎ばかりをしたがえて出陣・・・途中で加勢が増えたものの、わずか100騎に満たない兵を2手にわけて、宇喜多直家の拠る沼城(ぬまじょう=岡山市東区沼・亀山城とも)に向けて進軍します。

これを知った直家は、3000の自軍を3手に分けて迎え撃ちました。

決死の覚悟の三村勢は、少数ながら奮戦し、一時は優勢であったものの、やはり、多勢に無勢・・・やがて、宇喜多全軍が合流するに至って47人が討死し、100人以上が負傷する大敗となってしまいました。

Ukitanaoie300a この五郎兵衛との合戦は、他の三村勢が同調しなかった事で勝てはしましたが、この一件で危険を感じた直家は、かつて明善寺(みょうぜんじ=明禅寺)というお寺が建っていた上道郡(しょうとうぐん)沢田村(岡山市中区沢田)明善寺山の廃寺跡に砦を築き、再びの来襲に備える事にします。

ここは、おそらく、本拠の備中松山城(まつやまじょう=岡山県高梁市)から西国街道を東に向かい、南北に流れる旭川(あさひがわ)を渡って沼城に攻め寄せるであろう三村勢を俯瞰(ふかん)して見下ろせる事のできる高台・・・来る様子を見ながら迎え撃つ事もできれば、沼城を囲む敵勢を背後から挟む事もできます。

一方、直家が明善寺山に砦を築いた事を知った三村元親・・・先の五郎兵衛の時には出陣を渋った元親ですが、それはチャンスをうかがっていただけで、決して父の仇討を諦めていたわけではないですから、この砦構築のニュースを聞いて、元親の動きは俄然あわただしくなります。

まずは、岡山城(おかやまじょう=岡山県岡山市北区)金光宗高(かなみつむねたか)や、舟山城(ふやなまじょう=同岡山市北区・船山城)須々木豊前守(すすきぶぜんのかみ)中島城(なかしまじょう=岡山市北区)中島元行(なかしまもとゆき)などを味方に引き込んで備中から備前南部にかけて宇喜多包囲網を構築して守りを固めたのち、

永禄十年(1567年)7月、三村方は、直家が構築したばかりの砦=明善寺城(明禅寺城)に襲いかかり、城下に火を放ったのです。

しかも、おりからの豪雨と烈風を利用した夜襲で、完全なる不意打ち・・・城中の兵は、まったくなす術なく、南側の山を越えて沼城に逃げるのみ・・・逃げ遅れた数十騎が討ち取られ、アッという間に明善寺城は占拠され、そこに、三村配下の禰屋与七郎(ねやよしちろう=根矢与七郎)薬師寺弥七郎(やくしじやしちろう)が入り、150人ほどの精鋭で以って立て籠もりました。

こうして明善寺城を奪われた宇喜多直家は、早速、策を講じます。

まずは、
「宇喜田は、近々、大軍を以って明善寺城を奪回するつもりだ」
との情報を、あえて流し、その情報とともに
「その時、金光&須々木&中島らの諸将は宇喜多に加担するらしい」
とのフェイクニュースを流します。

早速、これに反応した明善寺城の禰屋と薬師寺が、本拠・松山城の三村元親に援軍を要請します。

それを見て取った直家は、今度は、自らの使者を金光宗高に派遣し、
「今度、自ら兵を率いて明善寺城を攻撃するので、おそらく加勢に来るであろう三村の後詰(ごづめ=予備軍)を貴殿が先導して誘い出してもらいたい…そこで、一気に後詰の三村勢をも討つつもりである」
との要請をしたのです。

と言っても、実はコレも、ある意味フェイク・・・おそらく金光宗高が三村側に、この情報を流すであろう事を踏まえての要請で、直家自身が明善寺城奪回に乗り出せば、おそらく松山城にいる元親本人も動くであろうと・・・そして、そこで一気に三村氏自体をせん滅してやる!と。。。

案の定、この情報は金光から、元親の姉婿である幸山城(こうざんじょう=岡山県総社市)城主の石川久智(いしかわひさとも)のもとに伝えられ、そこから松山城の元親へ・・・今回の情報は先の禰屋&薬師寺からの援軍要請と符合する内容でもあり、早速、元親は、2万の大軍を率いて松山城を出陣し、宇喜多攻略へと向かうのです。

元親は全軍を3手に分け、兄の荘元祐(しょうもとすけ=穂井田元祐とも)の7000騎を右翼に、石川久智の5000を中軍に、自らが率いる8000の本隊を左翼に陣して全軍の抑えとし、進んで行きます。

Ukitamyouzenzikuzure
明善寺合戦要図
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

迎える宇喜多直家・・・元親を引っ張り出す事には成功したものの、自軍はわずかに5000

まともにぶつかっては勝ち目に無い直家は、沼城を出ると自軍を5手に分け、自身は古都宿(こずしゅく=岡山県岡山市東区)に本陣を置いて、そこから南へ、目黒村 (めぐろむら=現在の岡山市東区目黒町付近)あたりまで一直線に5段構えに陣列を配置します

これは、まっすぐ沼城の方へ行かれては困るための抑えなわけですが、一方で敵の目を明善寺城に向けさせるため、最前線に配置した1隊に明善寺城を攻撃させ、わずかに一戦させてから、深く入り込まず小休止・・・そうしている間に、物見係から、三村勢が3手に別れて旭川を越えるべく向かっているとの報告が入ります。

先鋒右翼は金光宗高を案内人に富山城(とみやまじょう=同岡山市北区)の南から七日市(なのかいち=同岡山市北区七日市)
中軍は富山城の北を通り上伊福(かみいふく=岡山市北区上伊福町付近)へ、
元親の本隊は中島を道案内に津島(つしま=同岡山市北区津島周辺)から釣の渡し(つるのわたしー同岡山市北区三野付近)へ向かっているとの事。

敵勢が、それぞれ、旭川を渡るタイミングを見計らっていた直家は、
「それ!今だ!」
とばかりに、即座に古都宿の本陣を撤去し、一気に田畑を突っ切って明善寺城へ向かい、全軍で以って総攻撃を仕掛けます。

殿様自らが山を駆け上がる姿を見た宇喜多軍は奮い立ち、もとよりわずかな兵しかいない明善寺城を一気に焼き払い、瞬く間に占拠・・・城に上がる火煙によって方向を見失った禰屋与七郎&薬師寺弥七郎ら城兵は、ただただ逃げるしかありませんでした。

そんなさ中に、最初に旭川を渡って明善寺城近くに到着した右翼先鋒でしたが、最もややこしいタイミングで逃げて来た城兵と鉢合わせになったために、
「どないなっとんねん?」
と、戸惑っている間に、明善寺城を攻めるどころか、逆に宇喜多勢に蹴散らされてしまいます。

一説には、この時の退却戦で先鋒の大将だった荘元祐が討死したとも・・・(荘元祐の死については異説あり)

次に続いていた三村方中軍の石川久智は、原尾島(はらおしま=同岡山市中区原尾島付近)あたりまでやって来たところで、明善寺城から上がる炎を確認し、しかも物見係から
「味方は、すでに敗走している」
との知らせを受けて、
「今から明善寺城へ駆けつけても、おそらく奪回は不可能…
ここから、元親の本隊と合流して、ともに沼城を襲撃するのが得策だと思う」
と提案しますが、従う重臣たちの意見が合わず、なかなか方針が決まらない・・・

そんな決まらない中で、不意を突いて宇喜多軍が石川隊に向かって来たため、浮足立った将兵たちが一気に討たれ、やむなく中軍は旭川沿いの竹田村(たけだむら=岡山市中区竹田)付近まで退却を余儀なくされます。

一方、この日の午前10時頃に釣の渡しから旭川を渡河した本隊の元親は、このまま東へ進んで沼城を攻撃するつもりでしたが、四御神村(しのごぜむら=同岡山市中区四御神)あたりまで来たところで、右手の明善寺城が燃えているのを確認し、しかも先鋒どころか第2軍までが敗退して退却しつつある事を知ります。

動揺を隠せない将兵たち・・・もとより、足場の悪い湿地帯での行軍していた中で、後ろの方では引き返す部隊も出始め、行くと戻るの混乱の中、足を取られたり川に落ちる者まで登場し、全軍がどんどん騒がしくなってしまったため、元親は作戦を変更して南に向かう事に・・・

上記の通り、本来なら沼城防備のためには絶対に外せない古都宿の守りを、直家は撤去しているわけですので、実際には、このまままっすぐ行って殿様が留守となった沼城を攻撃すれば、たやすく落とせたのかも知れませんが、それを知らぬ元親は、残念ながら古都宿を目の前にして本隊を明善寺城方面=南へと方向転換してしまったわけです。

この本隊の動きを知った直家は、本陣を高屋村(たかやむら=岡山市中区高屋)に移動させ白兵戦の構えを見せます。

まずは岡家利(おかいえとし・岡剛介だったとも)ら率いる強豪勢を最前線に配置し、後陣に先ほど荘元祐らを破った精鋭部隊と弟=宇喜多忠家(ただいえ)の部隊を控えさせます。

そこにやって来た三村元親ら本隊・・・
「宇喜多はにっくき父の仇!」
と息巻く元親は、宇喜多勢の旗印を見るなり、田んぼも畑も畔も溝も関係なく、一直線に宇喜多の陣目掛けて突進して来たため、その勢いに最前線が押されて崩れかかりますが、

そこに、いつの間にやら迂回して、三村本隊の両側に回っていた宇喜多の後陣が、側面から三村本隊に斬りかかった事で、押されていた最前線も持ち直したところに、すかさず直家本隊が前に進んで、結果的に三村本隊は三方から攻撃を受ける事になり、いつしか元親の自身までもが危うい状況になり、たちまち三村勢は後退をし始めます。

この状況に起こった元親は、討死覚悟で先頭を切り、単騎で敵陣に駆け込もうとしますが、さすがに家人に止められ、ムリヤリ家人が馬の轡(くつわ)を取って馬を西へと向けたため、元親もやむなく撤退・・・総崩れとなった三村勢は、何とか竹田村まで敗走しました。

宇喜多勢は、これを追撃し、多くの首を挙げましたが、直家は旭川の手前で、これ以上追撃を止め、素早く軍をまとめて撤退・・・一方の三村勢は、釣の渡しから川を渡り、本拠の松山城へと戻りました。

今回の明善寺合戦は複数の文献に「永禄十年(1567年)7月」の事と記録され、細かな描写の違いはあれど、おおむね、このような流れとなっていて、いずれも少数の宇喜多軍が、大軍の三村軍を総崩れにさせた事から「明善寺崩れ」と称されます。

中でも『明善寺合戦記』では、
「…直家承り 即ち大勢の僧を供養し
討死仕ける諸勢の亡魂を弔ひける
これに依って浮田より湯迫村辺の民に申付られ
毎年七月十四日十五日の夜
右湯迫村北後の山に万灯として数多くの火を灯し
生霊を弔給ふ
是より今にいたり 惰(おこた)らず…」
と、

この合戦によって多くの死者が出た事に気を病んだ直家の命により、地元の村では毎年7月14日と15日の夜に「万灯会」が行われるようになったと記されています。

おそらくは、この永禄十年(1567年)7月14日に合戦があったか?
あるいは、それに近い日にちに合戦があり、お盆に合わせたのか?

いずれにしても、この戦いによって名を挙げた宇喜多直家は、この7年後の天正二年(1574年)に西国の雄毛利輝元(もうりてるもと=元就の孫)備中侵攻に乗り出した事で勃発する備中兵乱(びっちゅうひょうらん)(6月2日参照>>)の混乱の中で、主家の浦上を破って独立を果たし(4月12日参照>>)、さらに織田信長(おだのぶなが)豊臣秀吉(とよとみひでよし)と絡む、戦国の大大名になっていく事になります。

それにしても、謀略や騙し討ちや暗殺など・・・いわゆる「きたない手」がお得意の宇喜多直家が、珍しく(笑)正攻法で、しかも、何倍もの大軍を破った一世一代の合戦でしたね。

★このあとの宇喜多直家関連
 ●宇喜多直家の備中金川城攻略戦~松田氏滅亡
 ●美作三浦氏~尼子&毛利との高田城攻防戦の日々
 ●備中兵乱~第3次・備中松山合戦、三村元親自刃
 ●主君からの独立に動く宇喜多直家~天神山城の戦い
 ●信長に降った宇喜多直家VS毛利輝元~作州合戦
 ●織田へ降った宇喜多直家VS毛利軍の祝山合戦
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2020年7月 7日 (火)

宇喜多直家の備中金川城攻略戦~松田氏滅亡

 

永禄十一年(1568年)7月7日、宇喜多直家が松田元輝の備前金川城を攻め落としました。

・・・・・・・

周防(すおう=山口県の東南部)の名門=大内(おおうち)とを倒し、西国の雄となりつつあった安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)の援助を受けた三村家親(みむらいえちか)が、猿掛城(さるかけじょう=岡山県小田郡矢掛町)庄為資(しょうためすけ=荘為資)を打ち破り、松山城(まつやまじょう=岡山県高梁市)にて、事実上の備中(びっちゅう=岡山県西部) の覇者となったのは永禄二年(1559年)の事でした(2月15日参照>>)

しかし、その家親が永禄九年(1566年)に、当時は備前(びぜん=岡山県東南部)天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)浦上宗景(うらがみむねかげ)の配下であった宇喜多直家(うきたなおいえ)の放った刺客によって暗殺されてしまったため、後を継いだ家親の次男=三村元親(もとちか)は、兄=元資(もとすけ)とともに父の弔い合戦をすべく、翌永禄十年(1567年)に直家の明禅寺城(みょうぜんじじょう=岡山県岡山市・明善寺城)に夜襲をかけますが、これが、後に「明禅寺崩れ」と呼ばれるほどの三村側の敗退となって(7月14日参照>>)、その追撃戦で兄も討死にしてしまったのでした(元資の死に関しては諸説あり)

Ukitanaoie300a 一方、この勝利に勢いづいた宇喜多直家は、翌永禄十一年(1568年)、念願だった美作(みまさか=岡山県北東部)の攻略に乗り出そうとしますが、そこで、本拠である備前から旭川(あさひがわ)をさかのぼって美作に至る、その道筋にあったのが金川城(かながわじょう=岡山県岡山市:玉松城とも)に狙いをつけます。

かつて、このあたりは播磨(はりま=兵庫県西南部)を含む備前美作守護(しゅご=現在の県知事みたいな?)を務める室町幕府の大物=赤松満祐(あかまつみつすけ)の治める地でしたが、ご存知のように、この赤松満祐は、あの将軍暗殺劇=嘉吉の乱(かきつのらん)(6月24日参照>>)を起こした人・・・

その主人殺しの討伐隊として名を高め、赤松失脚後に、その所領の多くを獲得したのが山名宗全(やまなそうぜん=持豊)で、その後にはあの応仁の乱(5月20日参照>>)西軍総大将となるほどの盛隆を極めるわけですが、その応仁の乱のゴタゴタの中で満祐の弟の孫=赤松政則(あかまつまさのり)が功を挙げて(5月28日参照>>)復権を果たした事から、乱の後、このあたりは赤松VS山名の領地争奪戦となっていた場所だったのです。

その当時に、赤松&山名の間に立って揺れ動いていた金川城主の松田元成(まつだもとなり)(12月25日参照>>)が、城を堅固な物に作り替えた事で、やがて両者の戦いも終焉を迎えた(2018年4月7日参照>>)元成から数えて5代目となる戦国真っただ中の松田元輝(もとてる=元堅)の頃には、浦上の天神山城と並ぶ大きな城となり「西備前一の堅城」と称されるようになっていたのでした。

もちろん、今回の宇喜多直家も、日頃から金川城の松田の事は警戒していて、元輝の息子の松田元賢(もとかた)に、自らの娘を嫁がせて平穏を装っていたわけですが、ここに来て松田元輝が日蓮宗(にちれんしゅう)に帰依するあまり、寺に引き籠って政務を疎かにしたり、他宗の寺院に改宗を迫り、逆らえば容赦なく焼き討ちにしたのだとか・・・そのため、家臣や領民からの不満を買い、領内も荒れていたのです。

そこに目をつけた直家は、永禄十一年(1568年)7月、このチャンスに金川城ごと松田氏を倒して、美作侵攻への前線基地にしようと、まずは松田配下の虎倉城(こくらじょう=岡山県岡山市)の城主=伊賀久隆(いがひさたか)に対し、寝返り工作を仕掛けます。

意外にも(…というか、すでに主君と家臣の間に亀裂が生じていたと思われ)、すんなりと直家の招きに応じた伊賀久隆は、息子の伊賀家久(いえひさ)とともに先手を引き受け、直家は100騎ばかりの手勢を率いて矢原村(やばらむら=同岡山市北区御津矢原周辺)に陣を敷きます。

まずは7月5日の夜・・・かねてより内通工作をかけていた一部の城兵の招きによって、密かに少数の精鋭を城内の一角に入れ、タイミングを見計らって一斉に鬨(とき)の声を挙げさせました。

この時、城主=元輝は城を留守にしていたため、代わって、家老の横井又七郎(よこいまたしちろう)が城内の指揮をとって、とにかく防備を固めますが、攻める伊賀父子は鉄砲を撃ちかけながら、どんどんと本丸の方へ・・・

他所にて、金川城の急を聞いた元輝が、慌てて帰城し、包囲が手薄だった搦手(からめて=裏門)から入城すると、当主の帰還に城兵の士気も挙がり、城内からも鉄砲での応戦を開始します。

完全なる不意打ちを喰らったものの、城内にて、すばやく籠城戦の采配を振る元輝でしたが、今以って、伊賀父子がなぜに?城攻めをしてくるのかわからない・・・てか、納得がいかない。

そこで元輝は櫓(やぐら)に上り、伊賀父子に、その真意を問います。

しかし、もはや合戦のさ中・・・やがて、それは、お互いに罵声を浴びせ合う言葉合戦となって行きますが、そんな中、寄せ手の兵士が放った銃弾が元輝を貫き、無残にも元輝は櫓から転げ落ちて命を失ってしまいました。

父の死を受けて、息子の元賢が指揮を取り、籠城戦を続けますが、この頃になると宇喜多直家の本隊も加わり、本丸の四面を包囲して全軍で以って攻撃を仕掛けて来ます。

とは言え、先に書かせていただいた通り、金川城は屈指の堅城・・・丸一日多勢の猛攻に耐えて、なかなか城は落ちずに、城兵&寄せ手ともに多くの死者を出しました。

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↑金川城攻防の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

なれど、所詮は多勢に無勢・・・
永禄十一年(1568年)7月7日未明、城が長く耐えられない事を悟った元賢は、弟の 元脩(もとなが)とともに城を脱出します。

大将がいなくなった金川城からは、多くの兵が逃亡したと言いますが、譜代の家臣たちは城に残り、城を枕に討死覚悟で応戦を続けましたが、やがて城戸を破って寄せ手が本丸に突入すると、残っていた者たちも全員討死し、ここに金川城は落城しました。

城落ちした松田兄弟のうち、兄=元賢は、西の山伝いに下田村(しもだむら=同岡山市北区)まで逃走したところを伊賀方の伏兵に見つかり、「もはやこれまで!」と敵軍の真っただ中に突入し、壮絶な討死を遂げました。

ちなみに、元賢の奥さんとなっていた宇喜多直家の娘は、落城のさ中に自害して果てたのだそう・・・

一方、弟の元脩は、再起を図ろうと自らの居城であった富山城(とみやまじょう=同岡山市北区)に向かいますが、すでに、ここも落ちて宇喜多&伊賀勢に占拠されてしまっていたため、やむなく備中方面へと逃走し、後に鳥取城(とっとりじょう=鳥取県鳥取市)主の山名豊国(とよくに=宗全から5代目)に仕えて、その家臣として血脈を繋いだと言いますが、残念ながら戦国大名としての松田氏は、ここに滅亡しました。

なので、この地域では、長らく七夕祭は行われなかったのだとか・・・(落城が7月7日なのでね…)

んん??って事は、松田さん、けっこう領民に慕われてますやん!
元輝さんがムチャクチャやって「領内が荒れていた」って話は??

ま、今回のお話は、ほぼほぼ『備前軍記』に沿った内容ですので、最終的に備前の覇者となる宇喜多寄りになっているのかも知れませんね。

そう、この戦いの後は、しばらくは毛利やら尼子(あまご)やら、なんやかんやがくんずほぐれつの備中兵乱(びっちゅうひょうらん)>>があり、その後、その兵乱のゴタゴタで主家の浦上を倒した宇喜多直家が(【天神山城の戦い】参照>>)、東から進んで来た織田信長(おだのぶなが)の傘下となって、西国の雄=毛利と戦う事になるのですが、そのお話はコチラ↓で。。。
  ●宇喜多VS毛利~作州合戦>>
  ●宇喜多VS毛利~祝山合戦>>
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2020年7月 1日 (水)

悲しき同士討ち~浅井長政配下・今井定清と磯野員昌の太尾城の戦い

 

永禄四年(1561年)7月1日、六角義賢の留守を狙う浅井長政が、配下の今井定清と磯野員昌に太尾城を攻撃させました。

・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)の妹(もしくは姪)お市(いち)の方と結婚して、茶々(ちゃちゃ=後の淀殿)(はつ)(こう)の、いわゆる浅井三姉妹をもうける事で、戦国武将の中でも超名の知れた浅井長政(あざいながまさ)ですが、実は、永禄三年(1560年)に15歳で元服した時の最初の名前は賢政(かたまさ)でした。

これは、観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)にて南近江(みなみおうみ=滋賀県南部)を支配する六角義賢(ろっかくよしかた=承禎)「賢」の一字をとった物であり、最初に結婚したのも六角義賢の家臣の平井定武(ひらいさだたけ)の娘さん・・・つまり、この頃の浅井は、しっかりドップリ六角氏の配下だったわけです。

というのも・・・
もともとは、六角氏と同じく宇多源氏(うだげんじ)佐々木氏(ささきし)の流れを汲む北近江(きたおうみ=滋賀県北部)京極氏(きょうごくし)根本被官(こんぽんひかん=応仁の乱以前からの譜代の家臣)だった長政の先々代(つまりお爺ちゃん)浅井亮政(すけまさ)が、京極家が家内で起こった後継者争い(8月7日参照>>)によって主家の京極家が弱体化して行く中で力をつけ、いつしか主家を凌ぐ勢いを持つようになるのです。

Rokkakuyosikata500 しかし、当然、もともとの同族である六角定頼(さだより=義賢の父)は、浅井が京極に取って代わる事をヨシとせず、度々、浅井と六角は衝突をくり返していた(【箕浦の戦い】参照>>)のです。

それは天文十一年(1542年)に亮政が亡くなった事を受けて息子の浅井久政(ひさまさ=長政の父)が家督を継いた後も治まる事なく続けられていましたが、
●天文十八年(1549年)4月=大溝打下城の戦い>>
●天文二十一年(1552年)1月=菖蒲嶽城の戦い>>

上記の菖蒲嶽城(菖蒲岳城・しょうぶだけじょう=滋賀県彦根市)の戦い後、六角配下の佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)を落とした浅井久政が、その勢いのまま、翌天文二十二年(1553年)7月、やはり六角配下の太尾城(ふとおじょう=滋賀県米原市米原・太尾山城とも)を奪わんと4ヶ月に渡って攻め続けるも落とす事ができず、

多大なる損害を被ったあげくに、降伏に近い形で和睦を結ぶ結果となってしまった事で、浅井の力は削がれ、亮政時代に得た領地等も、ほぼほぼ失って六角の配下のような扱いを受ける事になってしまっていたのです。

Azainagamasa600 なので、長政の名も賢政で奥さんも六角の家臣から娶る・・・という事になっていたわけですが、当然、浅井の家臣の中には、この状況を不満に思う者が大勢いたわけです。

やがて、そんな家臣の不満が爆発・・・というより、その経緯を見る限りでは、「いつかヤッってやる!」の決意のもとに周到に準備され、その時を待っていた~という感じですが、

とにもかくにも永禄二年(1559年)、家臣たちがクーデターを決行・・・久政を幽閉して息子=長政を担ぎ上げます。

もちろん、長政自身もヤル気満々で、「賢」の字を捨てて長政を名乗り、奥さんを平井家に送り返して反六角の狼煙を挙げます。

しかも、その翌年=永禄三年(1560年)8月に起こった野良田(のらだ=滋賀県彦根市)の戦いで、見事に六角義賢を打ち破りました(8月18日参照>>)

そこで、この勢いに乗じる長政は、浅井が六角からの屈辱的な講和に耐えねばならなくなったキッカケとも言える太尾城を奪おうと機会をうかがいますが、

ちょうど、この永禄四年(1561年)、宿敵=六角義賢が畿内を牛耳る三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)との戦いのために京都に出陣した(【将軍地蔵山の戦い】参照>>)事を確認した6月中旬、箕浦城 (みのうらじょう=滋賀県米原市)今井定清(いまいさだきよ)太尾城攻略に向けて出陣させたのです。

Isonogazumasa600a 定清は、長政から援軍として送られて来た磯山城(いそやまじょう=同米原市)磯野員昌(いそのかずまさ)と連携して夜襲をかける事にし、

永禄四年(1561年)7月1日、夜陰に紛れて、自軍480と磯野の援軍200=合計680ほどを率いて、太尾城の麓に潜んでおいて、伊賀(いが=三重県北西部)忍びを城内へと潜入させました。

この、先に城中に入った伊賀衆が火を放ち、その合図の炎で以って今井軍と磯野軍が本丸と二の丸を同時に攻撃する手はずとなっていたのです。

しかし・・・待てど暮らせど、いっこうに伊賀衆の火の手が上がらない・・・

そこで、おそらく伊賀衆が城中への潜入に失敗したと判断した磯野員昌が、
「約束の時刻になっても合図が無いところを見ると、おそらく伊賀衆が失敗したに違いない。
 お宅の城は、ここから近いのだから、一旦戻られた方が良いのでは?
 我らは、もう少しだけ、ここに留まって後、兵を退きあげる事にしよう」
と今井定清に提案・・・

「よし、わかった!」
と承諾した定清が、箕浦に帰るべく兵とともに退却していたところ、その途中で太尾山方面に火の手が上がりました。

「すわ!作戦が始まった!」
とばかりに、慌てて引き返し、その勢いのまま城中に攻め入ろうと、怒涛の攻撃態勢に・・・

しかし、その場所に展開していたのは、あの200余りの磯野の兵だったのです。

暗闇の中、突然の攻撃を受けた磯野の兵たちは、それが今井定清の兵とはわからず・・・いや、むしろ太尾城側に加勢する兵が現れたものと思い込み、これまた必死のパッチで反撃に出ます。

そんな中で、先頭を切って突入した定清を、磯野員昌の与力(よりき=足軽大将クラスの武将)であった岸沢与七(きしざわよしち)が背後から槍で一突き・・・馬上から落ちた定清は、その場で落命しました。

未だ、34歳の若さだったと言います。

それでも、まだ、味方同志とはわからず、闇夜の中の戦闘は続けられ、夜が白々と明ける頃になって後、周辺に横たわる味方の遺体を目にし、ここで、ようやく同士討ちをしていた事に気が付いたのです。

このような状態でしたから、当然、太尾城を落とすどころではなく、今井勢も磯野勢も、兵を退いて、むなしく本拠へと戻るのみでした。

もちろん、定清を討った磯野側に他意はなく、完全なる勘違い・・・4日後の7月5日、磯野員昌は今井家に向けて起請文(きしょうもん=神仏に誓う文書)を送って謝罪し、納得してもらったのだとか・・・

とまぁ、この時、太尾城を落とせずにいた浅井長政でしたが、この2年後の永禄六年(1563年)、六角氏は家内での内ゲバ事件=観音寺騒動(かんのんじそうどう)(10月7日参照>>)を起こして自ら衰退への引き金を引いてしまい

そこに乗じた長政が、浅井の力を維持したまま、あの織田信長との同盟を結び、やがて、その信長が第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛し(9月7日参照>>)それを阻む六角が・・・

と、続いていくのですが、そのお話は、信長の上洛を阻む六角承禎の【観音寺城の戦い】でどうぞ>>m(_ _)m
 .

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