宇喜多直家の備中金川城攻略戦~松田氏滅亡
永禄十一年(1568年)7月7日、宇喜多直家が松田元輝の備前金川城を攻め落としました。
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周防(すおう=山口県の東南部)の名門=大内(おおうち)氏とを倒し、西国の雄となりつつあった安芸(あき=広島県)の毛利元就(もうりもとなり)の援助を受けた三村家親(みむらいえちか)が、猿掛城(さるかけじょう=岡山県小田郡矢掛町)の庄為資(しょうためすけ=荘為資)を打ち破り、松山城(まつやまじょう=岡山県高梁市)にて、事実上の備中(びっちゅう=岡山県西部) の覇者となったのは永禄二年(1559年)の事でした(2月15日参照>>)。
しかし、その家親が永禄九年(1566年)に、当時は備前(びぜん=岡山県東南部)天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)の浦上宗景(うらがみむねかげ)の配下であった宇喜多直家(うきたなおいえ)の放った刺客によって暗殺されてしまったため、後を継いだ家親の次男=三村元親(もとちか)は、兄=元資(もとすけ)とともに父の弔い合戦をすべく、翌永禄十年(1567年)に直家の明禅寺城(みょうぜんじじょう=岡山県岡山市・明善寺城)に夜襲をかけますが、これが、後に「明禅寺崩れ」と呼ばれるほどの三村側の敗退となって(7月14日参照>>)、その追撃戦で兄も討死にしてしまったのでした(元資の死に関しては諸説あり)。
一方、この勝利に勢いづいた宇喜多直家は、翌永禄十一年(1568年)、念願だった美作(みまさか=岡山県北東部)の攻略に乗り出そうとしますが、そこで、本拠である備前から旭川(あさひがわ)をさかのぼって美作に至る、その道筋にあったのが金川城(かながわじょう=岡山県岡山市:玉松城とも)に狙いをつけます。
かつて、このあたりは播磨(はりま=兵庫県西南部)を含む備前&美作の守護(しゅご=現在の県知事みたいな?)を務める室町幕府の大物=赤松満祐(あかまつみつすけ)の治める地でしたが、ご存知のように、この赤松満祐は、あの将軍暗殺劇=嘉吉の乱(かきつのらん)(6月24日参照>>)を起こした人・・・
その主人殺しの討伐隊として名を高め、赤松失脚後に、その所領の多くを獲得したのが山名宗全(やまなそうぜん=持豊)で、その後にはあの応仁の乱(5月20日参照>>)で西軍総大将となるほどの盛隆を極めるわけですが、その応仁の乱のゴタゴタの中で満祐の弟の孫=赤松政則(あかまつまさのり)が功を挙げて(5月28日参照>>)復権を果たした事から、乱の後、このあたりは赤松VS山名の領地争奪戦となっていた場所だったのです。
その当時に、赤松&山名の間に立って揺れ動いていた金川城主の松田元成(まつだもとなり)(12月25日参照>>)が、城を堅固な物に作り替えた事で、やがて両者の戦いも終焉を迎えた(2018年4月7日参照>>)元成から数えて5代目となる戦国真っただ中の松田元輝(もとてる=元堅)の頃には、浦上の天神山城と並ぶ大きな城となり「西備前一の堅城」と称されるようになっていたのでした。
もちろん、今回の宇喜多直家も、日頃から金川城の松田の事は警戒していて、元輝の息子の松田元賢(もとかた)に、自らの娘を嫁がせて平穏を装っていたわけですが、ここに来て松田元輝が日蓮宗(にちれんしゅう)に帰依するあまり、寺に引き籠って政務を疎かにしたり、他宗の寺院に改宗を迫り、逆らえば容赦なく焼き討ちにしたのだとか・・・そのため、家臣や領民からの不満を買い、領内も荒れていたのです。
そこに目をつけた直家は、永禄十一年(1568年)7月、このチャンスに金川城ごと松田氏を倒して、美作侵攻への前線基地にしようと、まずは松田配下の虎倉城(こくらじょう=岡山県岡山市)の城主=伊賀久隆(いがひさたか)に対し、寝返り工作を仕掛けます。
意外にも(…というか、すでに主君と家臣の間に亀裂が生じていたと思われ)、すんなりと直家の招きに応じた伊賀久隆は、息子の伊賀家久(いえひさ)とともに先手を引き受け、直家は100騎ばかりの手勢を率いて矢原村(やばらむら=同岡山市北区御津矢原周辺)に陣を敷きます。
まずは7月5日の夜・・・かねてより内通工作をかけていた一部の城兵の招きによって、密かに少数の精鋭を城内の一角に入れ、タイミングを見計らって一斉に鬨(とき)の声を挙げさせました。
この時、城主=元輝は城を留守にしていたため、代わって、家老の横井又七郎(よこいまたしちろう)が城内の指揮をとって、とにかく防備を固めますが、攻める伊賀父子は鉄砲を撃ちかけながら、どんどんと本丸の方へ・・・
他所にて、金川城の急を聞いた元輝が、慌てて帰城し、包囲が手薄だった搦手(からめて=裏門)から入城すると、当主の帰還に城兵の士気も挙がり、城内からも鉄砲での応戦を開始します。
完全なる不意打ちを喰らったものの、城内にて、すばやく籠城戦の采配を振る元輝でしたが、今以って、伊賀父子がなぜに?城攻めをしてくるのかわからない・・・てか、納得がいかない。
そこで元輝は櫓(やぐら)に上り、伊賀父子に、その真意を問います。
しかし、もはや合戦のさ中・・・やがて、それは、お互いに罵声を浴びせ合う言葉合戦となって行きますが、そんな中、寄せ手の兵士が放った銃弾が元輝を貫き、無残にも元輝は櫓から転げ落ちて命を失ってしまいました。
父の死を受けて、息子の元賢が指揮を取り、籠城戦を続けますが、この頃になると宇喜多直家の本隊も加わり、本丸の四面を包囲して全軍で以って攻撃を仕掛けて来ます。
とは言え、先に書かせていただいた通り、金川城は屈指の堅城・・・丸一日多勢の猛攻に耐えて、なかなか城は落ちずに、城兵&寄せ手ともに多くの死者を出しました。
↑金川城攻防の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
なれど、所詮は多勢に無勢・・・
永禄十一年(1568年)7月7日未明、城が長く耐えられない事を悟った元賢は、弟の 元脩(もとなが)とともに城を脱出します。
大将がいなくなった金川城からは、多くの兵が逃亡したと言いますが、譜代の家臣たちは城に残り、城を枕に討死覚悟で応戦を続けましたが、やがて城戸を破って寄せ手が本丸に突入すると、残っていた者たちも全員討死し、ここに金川城は落城しました。
城落ちした松田兄弟のうち、兄=元賢は、西の山伝いに下田村(しもだむら=同岡山市北区)まで逃走したところを伊賀方の伏兵に見つかり、「もはやこれまで!」と敵軍の真っただ中に突入し、壮絶な討死を遂げました。
ちなみに、元賢の奥さんとなっていた宇喜多直家の娘は、落城のさ中に自害して果てたのだそう・・・
一方、弟の元脩は、再起を図ろうと自らの居城であった富山城(とみやまじょう=同岡山市北区)に向かいますが、すでに、ここも落ちて宇喜多&伊賀勢に占拠されてしまっていたため、やむなく備中方面へと逃走し、後に鳥取城(とっとりじょう=鳥取県鳥取市)主の山名豊国(とよくに=宗全から5代目)に仕えて、その家臣として血脈を繋いだと言いますが、残念ながら戦国大名としての松田氏は、ここに滅亡しました。
なので、この地域では、長らく七夕祭は行われなかったのだとか・・・(落城が7月7日なのでね…)
んん??って事は、松田さん、けっこう領民に慕われてますやん!
元輝さんがムチャクチャやって「領内が荒れていた」って話は??
ま、今回のお話は、ほぼほぼ『備前軍記』に沿った内容ですので、最終的に備前の覇者となる宇喜多寄りになっているのかも知れませんね。
そう、この戦いの後は、しばらくは毛利やら尼子(あまご)やら、なんやかんやがくんずほぐれつの備中兵乱(びっちゅうひょうらん)>>があり、その後、その兵乱のゴタゴタで主家の浦上を倒した宇喜多直家が(【天神山城の戦い】参照>>)、東から進んで来た織田信長(おだのぶなが)の傘下となって、西国の雄=毛利と戦う事になるのですが、そのお話はコチラ↓で。。。
●宇喜多VS毛利~作州合戦>>
●宇喜多VS毛利~祝山合戦>>
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