奈良統一を目指す~筒井順昭の柳生城攻防戦
天文十三年(1544年)7月29日、奈良統一を目指す筒井順昭に攻撃された柳生城が落城しました。
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もともと、興福寺(こうふくじ)や春日大社(かすがたいしゃ)の勢力が強かった大和(やまと=奈良県)の地でしたが、南北朝の動乱を経て寺社勢力そのものよりも、寺社の荘園の管理などを任されていた在地の者たちが、興福寺に属する『衆徒』、春日大社に属する『国民』などとして力を持ちはじめ、やがて、大和の国衆(くにしゅう=地元に根付く武士)となって戦乱の世を生き抜く武士として群雄割拠するようになるのです(12月18日参照>>)が、そんな中の、『国民』の代表格が越智(おち)氏と十市(とおち)氏で、『衆徒』からのし上がった代表格が筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を本拠とする筒井(つつい)氏でした。
戦国時代の室町政権下で大和の守護(しゅご=県知事?)だったのが、三管領家(斯波氏・細川氏・畠山氏)の一つの畠山(はたけやま)氏で、この畠山氏の畠山政長(はたけやままさなが=東軍)と畠山義就(よしなり=西軍)が、あの応仁の乱での発端である後継者争い=御霊合戦(1月17日参照>>)から、ず~っとモメていたため、この大和は度々戦場となり、両者の動向の影響を受けたり、中央勢力の介入を受けたりしていたのです。
そんな中で、ここに来て、時には中央と連携を組み、時には周辺領主と関係を結んだりしつつ、一時は衰退した筒井氏を再興して、勢力を拡大しつつあったのが筒井順興(つついじゅんこう)でした。
●筒井順賢VS古市澄胤~井戸城・古市城の戦い
●天文法華の乱~飯盛城の戦いと大和一向一揆
その後を継いだ息子の筒井順昭(じゅんしょう)は、未だ大和における最大勢力である越智氏に対抗すべく山城南部の守護代(しゅごだい=守護の補佐役)=木沢長政(きざわながまさ)と結んだり、これまで敵対していた十市氏や古市(ふるいち)氏(9月21日参照>>)も傘下に収めて、さらに勢力を拡大しますが、そこに、かたくなまでに対抗していたのが柳生(やぎゅう)氏でした。
柳生一族は、ご存知、柳生新陰流(やぎゅうしんかげりゅう)の祖で剣豪として知られる柳生石舟斎宗巌(やぎゅうせきしゅうさいむねよし)(4月19日参照>>)の柳生一族ですが、今回のお話は、彼が世に出る半世紀前ほどの出来事です。
柳生氏は本姓が菅原(すがわら)で平安時代頃に柳生の地に移転して柳生姓を名乗るようになったとされますが、その経緯は、あくまで伝承の域を出ないもの・・・とにかく、南北朝以前から、この地に栄えて来た古株の豪族で、当時は、北に山城(やましろ=京都市南部)、東に伊賀(いが=三重県西部)を控えた柳生谷の山峡に築かれていた柳生城(やぎゅうじょう=奈良県奈良市柳生町)を代々の居城とし、戦国の乱世を生き抜いていたのです。
柳生氏の菩提寺で現在もその地に建つ芳徳寺(ほうとくじ=同柳生下町)を含む周辺が柳生城の城郭で、境内の東南にあたる標高320mの山上に主郭があったとされています。
とにもかくにも、そんな中、大和の統一を目指す筒井順昭は、天文十三年(1544年)7月、配下に収めた十市勢300余と河内勢300余を含めた約1万の大軍で以って、柳生の里に押し寄せたのです。
しかし、その大軍ゆえに、筒井勢は柳生城を小城と侮り、数に物を言わせて強引に攻め立てるものの、いたずらに死傷者を出すばかりで、一向に城を落とせません。
一方、柳生城内では、その様子をあざ笑うかのように、城兵たちが鬨(とき)の声を挙げて、お互いの士気を高め合います。
「これでは、らちがあかん!」
と、筒井順昭は作戦変更・・・
柳生谷あたりの集落に火をつけて焼き払って柳生勢の士気を落として、ようやく城郭の外廻りを占領した後、城の水の手を断って、兵糧攻め作戦に切り替えます。
そして、柳生城に攻め手を現場に残したまま、自身は精鋭を連れて、柳生の西に位置する須川城(すがわじょう=奈良市須川町)の攻略に向かいます。
この須川城は、興福寺の塔頭(たっちゅう=大寺院に付属する小寺)の一乗院(いちじょういん=奈良県奈良市)の国民出身の簀川(すがわ=須川)氏の居城で、実は、この前年=天文十二年(1542年)の4月に、筒井順昭が6000の兵で以って攻略し、その後、破却していたのですが、
その時、散り散りに落ちて行った簀川の者たちは、すぐに舞い戻り、再び城を回復していたのでした。
ここは、現在、柳生城を絶賛攻撃中の自軍の背後にあたる場所・・・そのままにしておいて、後ろから攻め込んで来られててはヤバイ!
とは言え、須川城攻撃中にも、柳生城攻撃の進捗状況が気になる順昭は、結局、業を煮やして、自らが出向いて柳生城攻めの采配を振る事に・・・
そんなこんなしているうちの天文十三年(1544年)7月29日、とうとう柳生城は門を開き、降伏の意を表明し、ここに柳生城は落城しました。
こうして柳生氏を傘下に加えた順昭は、この2年後の天文十五年(1546年)に、目の上のタンコブだった最大のライバル=越智氏の貝吹山城(かいぶきやまじょう=奈良県高市郡高取町)を攻略して(9月25日参照>>)、コチラも傘下に加えますが、その6年後の天文十九年(1550年)に順昭は病死・・・わずか2歳の息子=筒井順慶(じゅんけい)が叔父=筒井順政(じゅんせい)の後見のもと、その後を継ぎます。
一方、ここで負けた柳生一族は、一旦、筒井の配下となるのですが、その殿様交代から9年後の永禄二年(1559年)、筒井氏から離反します。
そうです!
永禄元年(1558年)の白川口(北白川付近)の戦い(6月9日参照>>)の後に、第13代室町幕府将軍=足利義輝(あしかがよしてる)と和睦して、事実上の天下人となっていた三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)配下の松永久秀(まつながひさひで)が、永禄二年頃から、大和平定に乗り出したのです(11月24日参照>>)。
この松永久秀の動向にすばやく反応して、即座に、その配下に鞍替えして、久秀の下で活躍することになる柳生一族・・・
ここから、松永久秀VS筒井順慶による奈良争奪戦が始まる事になりますが、
●松永久秀VS筒井順慶~筒井城攻防戦
●大仏炎上~東大寺大仏殿の戦いby松永×三好・筒井
●松永久秀、信長に2度目の降伏~多聞山城の戦い
●松永久秀~男の意地の信貴山城の戦い
●乱世の梟雄・松永久秀~運命の10月10日爆死!
ご存知のように、その戦いは、三好長慶から織田信長(おだのぶなが)へと政権交代してもなお続く事になります。
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