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2020年7月22日 (水)

武田家内紛~武田信縄と油川信恵の市川の戦い~甲斐の戦国

 

明応元年(1492年)7月22日、武田信縄油川信恵による後継者争いの最初の戦いである市川の合戦がありました。

・・・・・・・

今回の市川(いちかわ=山梨県西八代郡)の戦いで戦ったのは、甲斐(かい=山梨県)守護(しゅご=県知事みたいな?)である武田(たけだ)氏の第14代当主である武田信縄(たけだのぶつな)と、その弟の油川信恵(あぶらかわのぶよし・のぶさと=武田信恵)

このお兄さんの信縄さんの息子が武田信虎(のぶとら)で、その信虎の息子が武田晴信(はるのぶ)信玄(しんげん)ですので、つまりは、あの武田信玄のお爺ちゃんという事で、ドラマや小説等でよく描かれる、いわゆる戦国時代のチョイと前という感じです(実際にはこのあたりも、すでに荒れ放題の戦国時代ですが…)

そもそも、室町幕府がちゃんと機能していた頃には、各地に政府公認の守護を配置して、彼らにその地を治めさせていたわけですが、やがて、そんな守護たちに、それぞれ後継者を巡る争いが勃発し始め、それらをキッカケに起こったあの応仁の乱(おうにんのらん)(5月20日参照>>)で、守護たちが京都にてドンパチ始めると、守護が留守となってた地元では、守護代(しゅごだい=副知事)やら地元の有力武士が力をつけはじめ、やがて、彼らが力づくで守護に取って代わる=下剋上(げこくじょう)の戦国へ突入・・・
(実際にはもっと多くの複雑な要因がありますが、あくまでごくごく簡単に言うとこんな↑感じです)

皆さまご存知のように、
美濃(みの=岐阜県南部)の守護だった土岐(とき)に代って実権を握ったのが斎藤道三(さいとうどうさん=利政)(1月13日参照>>)
守護代の長尾(ながお)が守護の上杉(うえすぎ)を倒し、その後に後継ぎとなった上杉謙信(うえすぎけんしん=長尾景虎)(6月26日参照>>)
さらに、守護の安芸(あき=広島県)武田氏を破り(10月22日参照>>)周防(すおう=山口県)大内(おおうち)を破り(10月1日参照>>)出雲(いずも=島根県東部)尼子(あまご)(11月28日参照>>)但馬(たじま=兵庫県北部)山名(やまな)(4月7日参照>>)を押さえつつ、西国の雄となった毛利元就(もうりもとなり)
などなど、、、(他にもいっぱい)

そんな中で、数少ない(と言えるかどうかは個人の認識の差がありますが幕府公認の守護で戦国を生き抜いていたのが、信玄さんの甲斐武田です。

河内源氏(かわちげんじ)棟梁(とうりょう)源義光(みなもとのよしみつ=新羅三郎・源義家の弟)を祖に持ち、平安時代から武家だった武田は、あの源平合戦にも源頼朝(みなもとのよりとも)配下として参加して(【富士川の戦い】参照>>)鎌倉時代を駆け抜け、建武の新政にも関わり、南北朝では足利尊氏(あしかがたかうじ)に従って第7代当主武田信武(のぶたけ)室町幕府政権下での公認の甲斐守護となったわけです。

とは言え、当然の事ながら、その間もその後も、ず~っと順風満帆だったわけではありません。。。てか、むしろ波乱に次ぐ波乱。

それこそ、中央の室町幕府がしっかりしていた頃は何とかなったものの、第6代室町幕府将軍=足利義教(よしのり)の頃に、中央政権に反発して関東で大暴れしていた第4代鎌倉公方足利持氏(もちうじ)に対抗した第10代当主武田信満(のぶみつ)が応永二十四年(1417年)の合戦で討死した事から、一時は甲斐国も守護不在の状態となってしまったのです。

その後、持氏が永享の乱(えいきょうのらん)(2月10日参照>>)にて鎮圧された後の結城合戦(ゆうきがっせん)(4月16日参照>>)で、信満の息子で第11代当主武田信重(のぶしげ)が功績を挙げた事で何とか再興のキッカケをつかみますが、

上記のような混乱の中では、国内の実権は、有力国人(地元の武士)や守護代の跡部(あとべ)に牛耳られていて、信重息子の第12代当主武田信守(のぶもり)は守護として何もできぬまま早世・・・後を継いだ息子の第13代当主武田信昌(のぶまさ)の代になって、ようやく跡部を排除したものの、一方で、穴山(あなやま)栗原(くりはら)大井(おおい)など有力国人勢力の台頭を許してしまい、領内は乱国状態が続いていました。

そんなこんなの明応元年(1492年)に信昌は、長男の信縄(やっと出て来たw)に家督を譲って隠居しますが、

しかし、その直後・・・
『勝山記』には、
「延徳四壬子 此年六月十一日 甲州乱国ニ成始ル也」
とあり、

『塩山向嶽禅庵小年代記』にも、
「同月十三日国中大乱」
とあり、

どうやら明応元年(1492年=7月に延徳から改元)6月10日を過ぎた頃から、甲斐において乱が発生したらしい・・・

それは、武田の内訌(ないこう=内部の戦い)・・・そう、信昌から家督を譲られた信縄と、その弟の信恵との兄弟争いが勃発したのです。

長男の信縄に家督を譲った後は、万力(まんりき=山梨県山梨市万力)落合館に隠居していた信縄・信恵兄弟の父である信昌が、この兄弟抗争の時には次男の信恵を支援している事から、一説には、先の家督相続は信縄のクーデターであったのでは?との見方もあります。

とにもかくにも、領内が乱れている状態で起こった兄弟争いは、それが激しくなるにつれ、国内の勢力を二分して対立させ、さらに国外の勢力の乱入も許してしまう事になり、これが、甲斐における戦国の幕開けとの見方もあります。

その、兄弟の最初の戦いが、明応元年(1492年)7月22日市川での戦いでした。

詳細な記録は残っていないのですが、信縄方の討死した者の数の記録や、そこに有力氏族の名が多く記載されている事から、かなり激しい戦いの末、今回は信縄方の敗北に終わった事が予想できます。

また、『王代記』には、
「壬子(明応元年)甲州ヘ九月駿河衆乱入
 又兄弟相論
 此年七月廿二日一河(市川)合戦」
と、この市川の戦いと並べて、その2ヶ月後には駿河(するが=静岡県東部)今川(いまがわ)勢が甲斐に侵攻して来た事が書かれており、内乱に乗じた外部からの圧力もあった事でしょう。

さらに翌明応二年(1493年)には4月8日には塩後(しおご=山梨県甲州市塩山上塩後)にて、11月1日には小松(こまつ=同甲府市小松町)にて合戦が行われ、この頃には勝山城(かつやまじょう=山梨県甲府市)を本拠に父の信昌や国衆の一人である小山田信長(おやまだのぶなが)を味方につけた信恵が信縄勢を抑え込み、有利に展開していたようです。

しかし、翌明応三年(1494年)3月26日の合戦では『勝山記』
「三月十(廿)六日合戦ニハ
 武田彦八郎殿(信恵の事)傷負玉フ
 大蔵大輔(おおくらたいふ=今井信又の事)打死…」
とあり、信縄方が形成逆転し、ここから後は、ほぼ優位に立っていたと思われます。

翌明応四年(1495年)には、伊豆支配を目論む相模(さがみ=神奈川県)北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時)甲斐へ侵攻して来ますが、それでも兄弟の抗争は治まらず・・・明応七年(1498年)には明応の大地震が起こり、一旦終息するものの、ほとぼりがさめたら、また再開。

しかも、永正二年(1505年)に、父の信昌が亡くなった事を受けて、両者の敵対はむしろ激しくなる一方・・・永正四年(1507年)に信縄は病死しますが、それでも、信縄の息子である武田信虎(当時は信直)に引き継がれ、この兄弟対決は、まだ続く事に・・・

Takedanobutora500a ところが、この信虎が段違いの強さだった!
(↑さすが、信玄の父ちゃん)

信虎は明応三年(1494年)生まれとされますので、信縄の死で家督を継いだのは、わずか14歳・・・しかも、その前年には母ちゃんも病死してるという不幸続き。

そこで、信縄が死んで若年の信虎が後を継いだ事をチャンスと見た信恵が、翌永正五年(1508年)に挙兵するのですが、信虎はこれを見事返り討ち・・・信恵は討死し、武田宗家は信虎の系統に統一される事になったのです。

その後は、乱れっぱなしだった甲斐の国衆たちとも戦う信虎は、大永二年(1522年)頃には甲斐一国統一を達成・・・さらに、やがては駿河や信濃(しなの=長野県)を見据える大物となっていくわけです(5月14日参照>>)

個々の戦いについては、またいずれ「その日」のページで書かせていただきたい思いますが、戦国屈指の武将として名高い武田信玄の家系は・・・風前の灯だった武田家内の抗争から一転、領国統一を成し遂げたそのお父ちゃんもスゴかったという事をお忘れなく(∩.∩)v
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