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2020年8月31日 (月)

祝!再開…大河ドラマ『麒麟がくる』第22回「京よりの使者」の感想

 

待ちに待った大河ドラマ『麒麟がくる』第22回「京よりの使者」の感想です。

まずは、予期せぬ事で休止となる中、復活に向けて頑張られた演者&スタッフの皆さま、再開ありがとうございます。

脚本の変更やスケジュールの調整、感染防止の徹底に、ご苦労なさってる事とは存じますが、近年屈指のオモシロイ大河ドラマ…また、毎週見られる事は、一ファンとしてうれしい限りです。

とは言え、一応、ここは歴史ブログ。
今回、いきなりの桶狭間から4年・・・という事なので、まずは、この間に起こった、麒麟関係で避けては通れない出来事は整理しておきましょう。

で、この最後の永禄七年(1564年)が桶狭間から4年後の年になるわけですが、今回描かれたのが、この永禄七年のいつ頃かが微妙なのでアレですが、上記の通り、実際には、かなり状況が変化してます。

おそらくは、放送に間が空いたので、その間に4年過ぎた感じにして、途中にあった出来事はおいおい回想みたいな感じで語られるのだと思いますが、ご覧の通り、三好長慶は立て続けに弟を失っていて、晩年は鬱状態になってしまってたので、ドラマで描かれたほどの三好全盛期ではすでになく、もう三好家は衰退の影が見えている状況だったと思われます。

かと言って、将軍の権威が復活する事もなく・・・
なので、あの荒れた感じの何とも悲しい向井将軍の描き方はお見事やと思います。

…にしても、やはり今回も主役の特権で将軍に重用されてましたね~長谷川光秀。。。

フットワークの軽い眞島藤孝さんが、供もつけずに越前までやって来て、
子供に読み書きを教えてるだけのワリには立派になってた光秀宅で気楽に談笑・・・

なるほど~貧乏所帯の中で、奥さんがどこからか調達した酒や食材を友人に振舞うエピソード(10月18日の後半部分参照>>)はここに入れてきはりましたか~\(^▽^@)ノ

けど、尾頭付きがお客さんにだけ・・・てのは、どうなんでしょう?
私なら、、、なんか、自分だけやと気つかうわ~

そこは、軍記物のエピソードのように、あの美しい髪の毛を売って、もう一匹ダンナのぶんもあった方が良かったかも。。。

とは言え、この先を匂わせるお玉ちゃん(光秀の次女)と藤孝さんの赤ちゃん抱っこシーンは、フッと苦笑いしながら見てしまいました。

ただし、お玉ちゃんが藤孝を好きなんじゃなくて、藤孝の息子がお玉ちゃんを好き過ぎて束縛モラハラ夫になるんですけどねww(7月17日参照>>)

ま、それでも光秀さんは主役なので、特権乱用はOKですが、なぜにお駒ちゃんまで・・・ホント、主役並みの特権をお持ちで

今回もまたまた、駒の特権で、関白に会い、次期将軍に会い・・・まさかまさか、あれだけお駒ちゃんのケツを追っかけてた秀吉が、この4年の間にシレッと寿退場した代わりに、関白や次期将軍がお駒ちゃんに惚れ惚れしちゃうってな事は無いでしょうね~←コレは無い事を祈ります。

ところで、その初登場の次期将軍(覚慶・足利義昭)・・・あの慈悲深い姿はポーズなんでしょうかね?

なんせ、演じておられるのが滝籐さんなので、何かウラがありそうでタマラン(><)

に、しても、ユースケアサクラと光秀の関係が、も一つ微妙・・・

浪人て言ってるので、ただの大家と店子なのか?
でも、京都に行くのに許可取らんとアカンの?
「逐一報告せよ」って言ってるワリには間者として雇ってくれたわけでもなし、
「妻子は面倒みる」って言っても、やさしさというよりは人質っぽい感じしたし・・・

なのに、独断で向井将軍に染谷信長を紹介しちゃって大丈夫?
しかも、その向井将軍は長慶の暗殺命令なんか出しちゃって大丈夫?

ま、大丈夫じゃないから来週は「義輝、夏の終わりに」って事になるのでしょうね~

えぇ?(@@;)「夏の終わりに」って何?
義輝さんのアレは5月=夏の初めですよね?
「夏の終わり」は、どちらかと言うと次期将軍=弟の興福寺脱出ですよね?

ま、とにもかくにも、ここまで剣豪っぷりのカケラも無かった向井将軍の壮絶な立ち回りが見られるかも知れない来週に期待大!です。

あぁ、楽しみだわ

たぶん来週、もしくは、これから起きる出来事は…
●【足利義輝の壮絶最期】>>
●【足利義昭の興福寺を脱出】>>
●【信長の美濃侵攻~堂洞合戦】>>
●【信長の美濃侵攻~関城の戦い】>>
●【義昭が謙信に上洛要請】>>
でどうぞ
(ネタバレになるかもですが…m(_ _)m)
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2020年8月28日 (金)

陰に日向に徳川家康を支えた生母~於大の方(伝通院)

 

慶長七年(1602年)8月28日、徳川家康の生母である於大の方が75歳で死去しました。

・・・・・・・

晩年に出家して伝通院(でんづういん)と号した徳川家康(とくがわいえやす)のお母ちゃんは、江戸時代の記録に「御大方」とあり、朝廷から官位を賜った時の(いみな)「大子」なので、実名は「大」であったというのが一般的ですが、思うに、コレ、家康さんが将軍になったから「大」って名前になった?気がしないでもない・・・

とは言え、この呼び方が一般的なので、本日は於大の方(おだいのかた)と呼ぶことにさせていただきます。

・‥…━━━☆

で、この於大の方は、享禄元年(1528年)に、尾張(おわり=愛知県西部)知多(ちた)郡に勢力を持つ水野(みずの)緒川城(おがわじょう=愛知県知多郡東浦町)にて水野忠政(みずのただまさ)と、その妻の於富の方(おとみのかた=華陽院・於満の方とも)との間に生まれます(養女説あり)

この頃の水野氏は尾張南部や西三河に勢力を持つ豪族でしたが、世は戦国群雄割拠の真っただ中・・・水野としても安心してはいられない状況でした。

そんなこんなの享禄二年(1529年)11月に、念願の三河(みかわ=愛知県東部)統一を果たしたのが岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)に拠点を持つ松平清康(まつだいらきよやす=家康の祖父)でした。

一説には、この頃、一触即発状態だった水野と松平の中で、メッチャ美人だった忠政嫁の於富の方に惚れ込んだヤモメの清康が「嫁に欲しい」と言って、忠政と離縁して松平に嫁ぐことになった・・・らしいですが、

さすがに、政略結婚全盛のご時世に「そんな事あるんかいな?」って気がしないでもない・・・

どちらかと言うと、勢力を増して来た隣国の松平に対して、敵意が無い事を示すための和睦の証としての人質みたいな?感じだったような気がしますが、とにもかくにも、ここで水野忠政と離縁した於富の方は、幼い娘=於大の方を連れて、松平清康の継室(けいしつ=後妻)として嫁ぎます(異説あり)

ところが、それから10年も経たない天文四年(1535年)12月5日、当時は清洲三奉行(きよすさんぶぎょう=尾張国守護代の清洲織田に仕える奉行)の一人だった織田信秀(おだのぶひで=信長の父)の弟=織田信光(のぶみつ)の守る守山城(もりやまじょう=愛知県名古屋市守山区)を攻めていた陣中で、清康は家臣に斬殺されてしまうのです(12月5日参照>>)

25歳の若さの上り調子だった当主=清康を失ったうえ、後継ぎの息子=松平広忠(ひろただ=家康の父)が未だ10歳の若年とあって、松平は瞬く間に衰退し、広忠も一時は流浪の身となり、領国へ戻る事すらできませんでしたが、やがて天文六年(1537年)に旧臣の大久保忠俊(おおくぼただとし)が、内紛で占領されていた岡崎城を奪回した事や、駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領する今川義元(いまがわよしもと=氏輝の弟)(6月10日参照>>)の支援を受けた事で、何とか広忠は三河に戻る事ができたのでした。

以来、松平は今川に従属する形で生きていく事になります。

Odainokata700a 一方、清康の死で以って、松平との縁が切れたと感じた水野忠政は、再び縁を結ぶべく、新当主の広忠と於富の方の連れ子=於大の方との縁組を進め、天文十年(1541年)広忠16歳&於大14歳の若き夫婦が結ばれました。

翌・天文十一年(1542年)、二人の間に長男の竹千代(たけちよ)=後の徳川家康が誕生します。
(名前が変わるとややこしいので、以下、竹千代君は家康さんの名で呼ばせていただきます)

完全なる政略結婚とは言え、いや、むしろ、松平&水野両家の架け橋となるべく役目を担っての結婚だからこそ、仲睦まじい日々を送りつつ、後継ぎとなるべく男子を無事出産できた事は、於大の方にとっても、最高の幸せだった事でしょう。

しかし、その幸せは長くは続きませんでした。

天文十二年(1543年)、実家の父の水野忠政が亡くなり、その後を継いだ於大の方の兄=水野信元(のぶもと)が、現在、今川と絶賛敵対中の織田信秀に協力する姿勢を見せたのです。

しかも、この同時期に松平家で起こった内紛で広忠の後見人だった叔父=松平信孝(のぶたか=清康の弟)織田方につく事になり(8月27日参照>>)松平と織田の関係はますます険悪な物になって行きますが、未だ弱小の松平・・・そうなれば、今川の庇護無しでは生き抜いていけません。

おそらく悩んだであろう広忠は「於大の方を切る」という決断をします。
(ア…「斬る」やなくて「縁を切る」の「切る」です)

於大の方を離縁して、実家の水野に送り返したのです。

もちろん、跡取り息子の家康は松平のまま・・・つまり、わずか3歳の家康と母=於大の方は、ここで生き別れとなってしまったのです。

水野の実家に戻された於大の方は、水野氏の刈谷城(かりやじょう=愛知県刈谷市)内の椎の木屋敷(しいのきやしき)に住んでいたとされますが、やがて天文十六年(1547年)、兄=信元の意向により、阿古居城(あこいじょう=愛知県知多郡阿久比町・後の坂部城)の城主である久松俊勝(ひさまつとしかつ)再婚します。

しかし、この於大の方の再婚と同じ年・・・更なる関係強化を図る広忠が、未だ6歳の家康を今川へ人質に差し出すのですが、それが、あろうことか、駿府(すんぷ=静岡県静岡市・今川の本拠)に行く途中で敵対する織田信秀に奪われ尾張の古渡城(ふるわたりじょう=愛知県名古屋市中区)に送られてしまうのです(8月2日参照>>)
(現在では奪われたのではなく、はなから織田への人質として送られた説も浮上しています)

とにもかくにも、この先2年間、家康は織田の下で人質生活を送る事になるのですが、その間の天文十八年(1549年)3月、父の松平広忠が、未だ24の若さで祖父と同じような亡くなり方=家臣によって殺されてしまうのです(3月6日参照>>)(死因については異説あり)

これによって松平の後継は唯一の正室腹の男子である家康・・・という事になるわけですが、現時点では織田の人質状態なわけで・・・

そこで、松平を今川傘下につなぎとめておきたい今川義元は、配下の太原雪斎(たいげんせっさい・崇孚)を総大将に、織田信秀の息子=織田信広(のぶひろ・信長の異母兄)が城主を務めていた安祥城(あんしょうじょう=愛知県安城市)を攻めて信広を生け捕りにし、信広と家康の人質交換を持ちかけます(11月6日参照>>)

こうして、家康は、この人質交換で以って、本来の形である今川傘下の人となるわけですが、そこは、やはり人質という事で、松平の本拠である岡崎城には入らせてもらえず(岡崎城には今川の家臣が城番として入ってました)、今川義元のお膝元である駿府にて過ごす事になりますが、唯一の救いは、この駿府に祖母である於富の方がいた事・・・

於富の方は清康亡き後、3回結婚してますが、いずれも夫に先立たれ、今川義元を頼って駿府に来て、ここで尼となっていたのですが、可愛い孫の駿府入りを聞き、義元に頼みまくって家康のそば近くにて、元服するまでの間だけ、その養育する事を許されたのです。

おそらく巷の噂にてこの事を知ったであろう母=於大の方も、ホッと胸をなでおろした事でしょう。

というのも、再婚相手の久松俊勝とはなかなかに仲睦まじく、最終的には、二人の間に三男四女をもうける於大の方ですが、やはり遠く離れた長男の家康の事が1番に心配で、常に気を配り、この間にも、バレたら処分の危険を覚悟してコッソリと衣類やお菓子などを家康のもとに送り続けていたと言います。

私事で恐縮ですが、今も、私の中にある於大の方のイメージは、懐かしアニメ「少年徳川家康」での、一休さんの母上様ソックリ(笑)の、あのイメージのまんまです。

まるで大河ドラマのOPを思わせる甲冑(実写)がスモークから現れる中、アニメらしからぬ軍歌のようなテーマソングをバックに、「竹千代を影ながら支えたのは、母・於大の方の深い愛であった」というナレーション。。。

やはり、あのアニメのように、離れていても母子の心はつながっていてほしいなぁ~と・・・いや、おそらく、本当につながっていたのでしょう。

なんせ、この後・・・
今川義元の下で成長し、元服&初陣(【寺部城の戦い】参照>>)を済ませた家康は、あの永禄三年(1560年)の桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市・名古屋市)の戦い(2015年5月19日参照>>)の先鋒として尾張に侵攻してきた際、こっそりと阿古居城を訪れ16年ぶりの母子の再会を果たしているのです。

しかも、ご存知のように、家康は、この桶狭間キッカケに今川からの独立を果たす(2008年5月19日参照>>)わけですが、その時、即座に於大の方を迎え入れたばかりか、於大の方と現夫の久松俊勝、さらにその子供たちをも松平に迎え入れています。

ただし、久松俊勝が於大の方と結婚する前にもうけていた先妻の子=家康と血縁関係の無い長男の久松信俊(のぶとし)は、清須同盟(1月15日参照>>)が成った後に久松家を継ぎ、松平ではなく、同盟関係となった織田信長(のぶなが=信秀の息子)の家臣となっています。

ここで、ようやく家康と於大の方は同じ屋根の下で暮らす事になり、しばし平穏な母子の時を過ごせたのかも知れませんが、世は未だ戦国・・・悲しい出来事は、また起こります。

天正三年(1560年)、信長から謀反の疑いをかけられた於大の方の兄=水野信元を、同盟を重視する家康が殺害・・・それも、疑いを晴らそうと家康を頼った信元に三河への道案内したのが久松俊勝だったのです。

何も知らず道案内をした後に信元への処分を知った俊勝は、ショックを受け隠居してしまいます。

さらに天正五年(1577年)には、俊勝の連れ子=久松信俊も信長から謀反の疑いをかけられて自害してしまいます。

とは言え、そんな信長も天正十年(1582年)、ご存知の本能寺に倒れてしまう(6月2日参照>>)わけですが、その信長亡き後の主導権争いとも言える天正十二年(1584年)の小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市付近)の戦い(11月16日参照>>)で、その和睦の条件として、家康側から、相手の羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)に人質を差し出す事になった時、

はじめ家康は、あの時、於大の方とともに迎え入れた異父弟(久松俊勝と於大の方の3番目の男子)松平定勝(まつだいらさだかつ)を差し出そうと考えるのですが、於大の方の猛反対により、結局、家康自身の息子=松平秀康(ひでやす=結城秀康・母は於万の方)に決定した(11月21日参照>>)と言います。

一説には、家康の正室である瀬名姫(せなひめ=築山殿・今川義元の姪とされる)が、家康独立後に岡崎に迎え入れられたにも関わらず、岡崎城には入れてもらえなくて、近くの築山(つきやま)に住んでいた(8月29日参照>>)という一件も、今川を嫌う於大の方の猛反対によるものとも言われ、

どうやら、家康は母ちゃんに頭が上がらなかった可能性大・・・って、事は、意外に、あのアニメの美しくか弱いイメージからかけ離れた、強い肝っ玉母ちゃんだったのかも知れませんね。

天正十五年(1587年)には、夫の久松俊勝を亡くし、尼となって伝通院と号した後も、強くしたたかに生きた於大の方は、秀吉亡き後のあの関ヶ原(せきがはら=岐阜県不破郡)の戦い(9月15日参照>>)に家康が勝利した後も、

未だ豊臣に忠誠を誓うポーズを取る息子の援護射撃をするように、高台院(こうだいいん=秀吉の正室・おね)に面会したり、秀吉を神と祀る豊国神社(ほうこくじんじゃ)(7月9日参照>>)にお参りしたり・・・と、いかに德川家が豊臣家に対して敵意を持っていないかを演出する役目を果たしています。

もちろん、この後の出来事を知る後世の者からすれば、これは機が熟すまでのかりそめの服従ポーズですが・・・
(一般的には、この関ヶ原の戦いに勝利した事で徳川家康が天下を取ったようなイメージで描かれますが、私個人としては、大坂の陣の直前まで豊臣家が政権を握っていたと考えております。
それについては…
【豊臣秀頼と徳川家康の二条城の会見】>>
●【秀吉が次世代に託す武家の家格システム】>>
●【関ヶ原~大坂の陣の豊臣と徳川の関係】>>
などをご覧ください)

ただ、残念ながら於大の方は、息子=家康が征夷大将軍に任命される姿を見る事無く、慶長七年(1602年)8月28日、滞在していた伏見城(ふしみじょう=京都府京都市伏見区)にて75歳の生涯を閉じます。

とは言え、すでに家康は、この年の5月から二条城(にじょうじょう=京都市中京区二条通堀川)の建設に着手しています(5月1日参照>>)から、於大の方には、遥か先の徳川の繁栄が見えていたかも知れませんね。。。

なんせ、於大の方が亡くなった、この伏見城にて、この半年後、家康は征夷大将軍の宣旨を受ける事になるのですから・・・
【徳川家康・征夷大将軍への道】>>
【幻の伏見城~幕府は何を恐れたか?】>>
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2020年8月19日 (水)

武田信虎VS今川氏輝&北条氏綱~万沢口の戦いと山中の戦い

 

天文四年(1535年)8月19日、駿河に侵攻してきた武田信虎今川氏輝が迎え撃った万沢口の戦いが、また、3日後の8月22日には、今川を支援する北条氏綱と武田の別動隊が山中湖畔でぶつかった山中の戦いがありました。

・・・・・・・・

地域の国衆(くにしゅう=地元に根付く武士)たちが群雄割拠する状況から、何とか守護(しゅご=室町幕府政権下での県知事みたいな?)としての復権を果たしつつあった甲斐(かい=山梨県)武田信虎(のぶとら)は、自身が味方する関東管領(かんとうかんれい=鎌倉府の長官で鎌倉公方を補佐する・関東執事)を継承する上杉家(うえすぎけ=山内&扇谷)と、それに敵対する新興勢力の北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)(10月11日参照>>)との関係性から、

Takedanobutora500a その早雲の支援を受けて駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部) を領する今川(いまがわ)の当主となった今川氏親(いまがわうじちか=早雲の甥)とも、度々衝突しては和睦をし・・・という微妙な関係(1月12日参照>>)でありましたが、大永元年(1521年)に今川方の重臣であった福島正成(くしままさしげ・ふくしままさなり)甲斐に侵攻して来たのを蹴散らして(10月16日参照>>)以来、ここのところ、直接的な軍事衝突はありませんでした。

しかし大永五年(1525年)に、一旦、北条氏綱(うじつな=早雲の息子・2代目)と結んだ和睦を、山内上杉家に配慮して、事実上の破棄としてしまった事から氏綱との関係が悪化したため、氏綱を援助する形をとっていた今川氏親との関係も、あまりよろしくなくなってしまっていたのです。

『勝山記』の大永五年の条には
「駿河ト甲州ハ未和睦無シ」
とあり、この頃から、両者の間に小競り合いが生じていた事を伺わせます。

ところが、その翌年=大永六年(1526年)の6月に今川氏親が死去・・・氏親奥さんの寿桂尼(じゅけいに)が後見を務めるとは言え、後を継いだ息子の今川氏輝(うじてる)が、未だ14歳だった事で駿河に動揺が走ったのか?
この翌年に、今川と武田の間に和睦が結ばれています。

しかし、かりそめの和睦は、すぐに破られる事に・・・

天文四年(1535年)に入って、武田信虎が駿河への侵攻を開始したのです。

Houzyouuzituna300a6月5日に信虎が駿河に向けて出陣した事を知った今川方では、同盟者である北条氏綱にも出陣の要請をします。

7月17日には駿河富士郡(ふじぐん=静岡県芝川町付近)を放火して回る武田軍に対し、7月27日に武田軍を迎え撃つべく出陣する今川軍・・・

一方、要請に応じた氏綱が、息子=氏康(うじやす)とともに2万の大軍を率いて、8月16日には郡内(ぐんない=山梨県都留郡周辺)へと侵攻して来た事を受けて、信虎は、郡内を任せている妹婿(もしくは娘婿)小山田信有(おやまだのぶあり)に、その抑えを命じ、サポート役として異母弟の勝沼信友(かつぬまのぶとも)ともに別動隊として出陣させます。

しかし、その別動隊の数は、わずかに2000ほど・・・

そんなこんなの、天文四年(1535年)8月19日、武田信虎と今川氏輝が万沢口(まんざわぐち=山梨県南都留郡南部町)にて交戦します。

とは言え、はげしくぶつかり合うものの、両者ともに一進一退・・・結局、この万沢口での戦いは決着がつかず、引き分けとなります。

ところが、その3日後の天文四年(1535年)8月22日、今度は、山中湖畔(やまなかこ=山梨県南都留郡山中湖村)において、先の武田の別動隊と侵攻して来た北条軍とがぶつかるです。

山中湖畔での戦いは、ほぼ一日中に渡って合戦が繰り広げられ、午後2時頃に決着・・・
『勝山記』によれば、
「小山田殿劣被食候而
 弾正殿(小山田有誠の父の事)
 大輔殿(勝沼信友の事)
 従者周防殿…随分方々打死被食候
 殊ニ勝沼ノ人数以上二百四十人打死申候」
と、コチラの山中の戦いでは武田勢が大敗した事が記されています。

このあと北条勢は、その日のうちに上吉田(かみよしだ=山梨県富士吉田市)、翌日には下吉田(しもよしだ=同富士吉田市)を焼き払って意気の高いところを見せますが、24日には、足早に本拠の小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)へと帰還していきました。

というのは、今川と北条の連携プレーによって、河内(かわち=山梨県笛吹市周辺)と郡内の二面作戦を強いられてしまった信虎が、このピンチを脱すべく、同盟者である扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)上杉朝興(うえすぎともおき)に、氏綱らが留守となった相模(さがみ=神奈川県)を突いてくれるよう働きかけていた事で、その危険を察知した氏綱が、慌てて撤兵して戻って行った・・・という事らしい。

この時、信虎の要請に応じて出陣してくれた上杉朝興は、9月には大磯(おおいそ=神奈川県中郡大磯町)辺りまで侵出して、その一帯を焼き払った後、10月6日に本拠の川越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)に戻ったのだとか・・・

この上杉朝興の行動によって危機を脱した信虎でしたが、上記の通り、弟を失ってしまうなど、万沢口&山中湖での戦いは、信虎にとってかなりの痛手となってしまいました。

とは言え、この翌年の天文五年(1536年)に今川氏輝が死去・・・氏輝の弟同志による後継者争いとして勃発した花倉の乱(はなくらのらん)(6月10日参照>>)に介入した信虎は、乱に勝利して後継者となった今川義元(よしもと)との結びつきを強め、このあと武田と今川の同盟を成立させます。

この同盟の成立によって、逆に今川と北条の同盟が破棄となり、この後は、武田&今川両氏と北条氏が、駿東方面にて抗争を繰り返すようになり、やがては、北条と今川の間には世に河東一乱(かとういちらん)と呼ばれる激しい戦いが展開される事になりますが、そのお話は、また、それぞれの日付にて書かせていただきたいと思います。
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2020年8月12日 (水)

石清水八幡宮の怒り爆発~山科八幡新宮を襲撃

 

天慶元年(938年)8月12日、石清水八幡宮の神官や僧侶が山科八幡新宮を襲撃しました。

・・・・・・・・

「やわたのはちまんさん」の呼び名で知られる石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう=京都府八幡市)は、平安時代の清和天皇(せいわてんのう=第56代・在位: 858年~ 876年)の頃に創建され、宇佐神宮(うさじんぐう=大分県宇佐市)鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう=神奈川県鎌倉市)とともに日本三大八幡宮の1つに数えられたり、平安京の鬼門=北東を守る比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市)に対する裏鬼門=南西を守る場所として重要視される神社です。

源氏の棟梁=八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ=源義家)(10月23日参照>>)が元服した場所という事もあって源氏の流れを汲む武家からは武神として崇められて信仰を集めましたし、有名な『徒然草』に登場したり、南北朝での歴史の舞台としても度々登場しています。

…で、そんな石清水八幡宮にて、現在でも毎年9月15日に行われている石清水祭(いわしみずさい)・・・これは現在でも、京都の葵祭(あおいまつり)や奈良の春日祭(かすがのまつり)と並んで日本三大勅祭(ちょくさい=天皇の使者が派遣されて執行される祭)の一つとされる重要な例祭ですが、もともとは旧暦の8月15日に行われていた放生会(ほうじょうえ)というお祭りでした。

放生会とは、捕獲した魚や鳥獣を野に放して殺生を戒める古代インドに起源を持つ宗教儀式で、「お釈迦様の前世と言われるエライお方が、池の水が無くなって死にそうになっている魚たちを助けて説法をしたところ、その魚たちが神様に転生して、そのエライ方に感謝した」という逸話から始まった儀式で、日本でも、奈良時代の天武天皇(てんむてんのう=第40代・在位:673年~ 686年)の頃には、すでに全国的に行われていた仏教儀式でしたが、日本独特の神仏習合(しんぶつしゅうごう=仏が神の姿になって現れるという考え)によって、神道にも取り入れられるようになったお祭りです。

早いうちから神仏習合を取り入れた宇佐や石清水などの八幡宮では、祭神である八幡神(はちまんしん)本地(ほんぢ=根本真実身)として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称して、この頃は神社の境内に神宮寺が創建される事もしばしばありました。

これは、明治維新の神仏分離されるまで続いていて・・・なので、明治以降は、祭の名前も変わり、八幡菩薩の称号も抹消され、今に至るわけですが・・・

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石清水八幡宮(本殿)

とにもかくにも、平安時代の石清水八幡宮では、そんな放生会は、年間行事においても一二を争う人気行事だったわけで・・・なんせ、上記の通り、朝廷から使者が派遣されて来る重要な行事でしたから。。。

ところが、承平年間(931年~938年)のある時、その放生会に人が、年々集まらなくなって来ていたのです。

この頃は、未だ神仏習合時代ですから、このお祭りでも、日中には都から有名な音楽家を招いて神楽の奉納を行う一方で、夜には各お寺から有名な僧侶を呼んで仏事を大々的に行っており、当然、それらを目当てに多くの人々が参拝するのが例年の習わし・・・

しかし、承平年間のここんところ、そんな有名な楽師がだんだん来なくなり、著名な僧侶も徐々に参加を渋るようになるのです。

そうなると、当然、それを目当てに訪れる見物人も、どんどん減っていくわけで・・・

「これは、どうした事か?」
と石清水八幡宮の皆々が思っている中で、ある情報が舞い込んできます。

何やら、
「最近、山科(やましな=京都市山科区)に、石清水八幡宮と同じ八幡菩薩を祀る八幡新宮(はちまんしんぐう)なる物が登場し、そこも放生会なるお祭りを石清水八幡宮と同じ8月15日にやっている」
との事・・・

しかも、山科八幡新宮の方が、石清水八幡宮よりも、はるかに高い報酬を出すので、有名な楽師や著名な僧侶の多くが、そっちに参加するようになり、8月15日の放生会の日に八幡宮に参詣して煌びやかな祭行事を見たい一般の参拝客は、皆、山科八幡新宮の放生会に引き寄せられていたのです。

そうと知った石清水八幡宮側・・・このままにしておくわけにはいきません。

ご存知のように、この頃は、大寺院で僧兵という武装集団を抱えていたように、神社にだって自衛のための武装集団がいるわけで・・・

かくして、その年の放生会を2日後に控えた天慶元年(938年)8月12日石清水八幡宮関連の神官&僧侶たちが山科八幡新宮を襲撃したのです。

数千人にも膨れ上がった彼らは、殿舎を破壊したうえに、八幡菩薩像をも奪い取ってしまいます。 

『本朝世紀(ほんちょうせいき)によれば、この事件以降、山科八幡新宮で放生会が行われる事は2度となく、石清水八幡宮の放生会には、再び参詣者が戻って来たとの事・・・

あな恐ろしや 人々の怒り・・・

とは言え、ご存知のように、この天慶という年代は、この翌年に、あの平将門(たいらのまさかど)の乱と藤原純友(ふじわらのすみとも)の乱が立て続けに勃発する年代でもあり、
【平将門が国府を占領】>>
【藤原純友・天慶の乱】>>
これまで、唯一無二であった平安王朝文化に、一筋の陰りが見えはじめ、朝廷から幕府へ、公卿から武士へと、その主導権が移行していく、最初の段階の時代で、そういう時代背景的な混乱もあったのやも知れませんから、一概に武力行使の是非を問うわけにもいきません。

歴史上の出来事は、その時代背景や、その時代の価値観&一般常識も踏まえて考えないと・・・安易に現代の物差しで測ってしまっては間違った解釈をしてしまう事も多々ありですから・・・

★石清水八幡宮へのくわしい行き方は、本家ホームページ「京阪奈ぶらり散歩」男山周辺散策>>でどうぞm(_ _)m
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2020年8月 4日 (火)

奈良の覇権を巡って…松永久秀VS筒井順慶~辰市城の戦い

 

元亀二年(1571年)8月4日、奈良の覇権を巡って戦った松永久秀と筒井順慶による辰市城の戦いがありました。

・・・・・・・

筒井順興(つついじゅんこう)筒井順昭(じゅんしょう)の父子2代に渡って、群雄割拠する大和(やまと=奈良県)の国衆たちを抑え込み、
 ●【井戸城・古市城の戦い】参照>>)
 ●【貝吹山城攻防戦】参照>>)
Tutuizyunkei600a ほぼ、大和統一を果たした感のあった筒井氏でしたが、その順昭が天文十九年(1550年)に病死した事により、息子の筒井順慶(じゅんけい)が、わずか3歳で後を継ぐ事に・・・

そんな中、永禄元年(1558年)の白川口(北白川付近)の戦い(6月9日参照>>)にて第13代室町幕府将軍=足利義輝(あしかがよしてる)と和睦し(11月27日参照>>) 、戦国初の天下人となった三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の家臣である松永久秀(まつながひさひで)が、その翌年から大和平定に動き出します(11月24日参照>>)

Matunagahisahide600a その永禄二年(1559年)には信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を大幅改修して拠点とし、永禄七年(1564年)には多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城して、奈良盆地に点在した諸城を次々と攻略していく(7月24日参照>>)久秀でしたが、一方で主家の三好は、長慶の兄弟たちや長慶本人が次々と亡くなった事で徐々に衰退(5月9日参照>>)・・・

さらに、三好長慶の後を継いだ甥っ子=三好義継(よしつぐ)をサポートする一族の三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)が永禄八年(1565年)、将軍(義輝)暗殺(5月19日参照>>)という暴挙にでました。

この時、かの三好三人衆と同盟を結んでした筒井順慶は、この年の11月に久秀が入っていた飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)を攻撃しますが、これを受けた久秀に居城の筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を急襲され(11月18日参照>>)順慶らはやむなく城を退去します。

本拠の筒井城を追われた順慶は、筒井方の布施(ふせ)の居城=布施城(ふせじょう=奈良県葛城市寺口字布施)に入って再起をうかがいますが、そのチャンスは意外に早く・・・翌永禄九年(1566年)、かの三好義継が(さかい=大阪府堺市)にて武装蜂起した事を受けて、久秀が奈良を留守にしたスキを狙って筒井城を奪回したのです。

一方、堺にて三好義継と和睦した久秀は、和睦承諾によって三好三人衆と決裂して久秀側の人となった三好義継を連れて信貴山城へと帰還・・・これを受けた順慶&三好三人衆に摂津池田城(大阪府池田市)の城主=池田勝正(いけだかつまさ=摂津池田城主)らを加えた連合軍が奈良近辺の大安寺(だいあんじ=奈良県奈良市)白毫寺(びゃくごうじ=同奈良市)等に布陣、一方の久秀も東大寺(とうだいじ=奈良市)戒壇院(かいだんいん)転害門(てがいもん)に軍勢を配置します。

これが永禄十年(1567年)10月10日に大仏を炎上させてしまう、あの東大寺大仏殿の戦い(10月10日参照>>)という事になります。
(ちなみに火を放ったのが誰か?は特定されていません)

この合戦の最中に三好三人衆の配下であった飯盛山城主の松山安芸守(まつやまあきのかみ)が久秀側に寝返ってくれた事や、大仏炎上で大仏殿近くに布陣していた三好勢が総崩れとなった事で、とりあえず、この合戦には勝利した久秀でしたが、未だ筒井&三好三人衆の勢いは強く、何かと押され気味だった久秀・・・

そんなところに登場して来るのが、あの織田信長(おだのぶなが)でした。

ご存知、永禄十一年(1568年)9月・・・三好三人衆に暗殺された将軍=義輝の弟である足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じての上洛です(9月7日参照>>)

この時、信長に抵抗した三好三人衆は畿内を追われ、三人衆の一人である三好長逸(みよしながやす)の物だった芥川山城(あくたがわやまじょう・芥川城とも=大阪府高槻市)に入った信長のもとへ、三好義継とともに名物の誉れ高い九十九髪茄子(つくもなす)の茶入れを手土産に謁見した久秀は、息子二人を人質として信長に差し出し、「手柄次第切取ヘシ」=つまり「勝って得た大和の地は久秀の物」との言葉とともに2万援軍を約束され、織田の傘下となりました。

一方、対信長に関しては先を越されてしまった筒井順慶・・・同盟を結んでいた三好三人衆は崩壊し、これまで配下に収めていた大和の国衆も我先に離反して、中には公然と松永方に寝返る者も現れる始末。

もはや風前の灯となる中・・・てか、信長が芥川山城に入ったのが10月2日ですから、その、わずか4日後の10月6日、大きな後ろ盾を得た久秀が筒井城へと攻め寄せた事で、その2日後の10月8日、順慶主従は、やむなく福住(ふくすみ=奈良県天理市福住町)を目指して落ちて行ったのです。

とは言え、順慶もまだまだ屈せず・・・大和高原あたりに潜んで、しきりにゲリラ戦を展開しつつ、自身の存在をアピールしておりましたが、そんな順慶に一筋の光が射すのが永禄十二年(1569年)12月・・・

かつて松永久秀が大和に侵攻した時、いち早く味方につき、娘を久秀の重臣の息子に嫁がせて、その親密ぶりを増していた十市城(とおちじょう=奈良県橿原市)十市遠勝(とおちとおかつ)が、この年の10月に亡くなった事を受けて、十市家の重臣たちが、更なる松永との親密を願って、その十市城を久秀に明け渡す約束をしたのですが、当然、それに反対する重臣もあり、十市の家中が乱れていたのです(12月9日参照>>)

そこをチャンスと見た順慶が、12月9日、500の筒井衆を派遣して、あれよあれよと言う間に十市城を占拠・・・身の危険を感じて今井(いまい=橿原市今井町)に退去した重臣たちであはりましたが、当然、そこは松永の家臣たちとともに、速やかな変換を要求しますが、筒井方が、そんな物に応じるわけなく、翌元亀元年(1570年)の7月には順慶自らが十市城に入り、ここを有力拠点の一つとする事にしたのです。

しかも、この間の筒井勢は、以前、久秀に奪われていた窪之庄城(くぼのしょうじょう=奈良県奈良市)を奪回したり、郡山城(こおりやまじょう=奈良県大和郡山市)に迫る松永勢を撃退したりしています。

風前の灯だった順慶が、かなり挽回して来た感ありますね~
と言うのも、実は、この時期の久秀は、コチラ=奈良での戦いに、多くの兵を投入する事ができなかったようなのです。

そう・・・信長上洛のアノ時に、
『「勝って得た大和の地は久秀の物」との言葉とともに2万援軍を約束され、織田の傘下となった』
と書きましたが、…という事は、その逆もアリ・・・

ご存知のように、この元亀元年(1570年)という年・・・信長は、あの金ヶ崎(かながさき=福井県敦賀市)の退き口(4月)から態勢立て直しの姉川(あねがわ=滋賀県長浜市)の戦い(6月)という、その人生の中でも屈指の忙しい時期(【金ヶ崎から姉川までの2ヶ月】参照>>)だったわけで、当然、久秀も信長の戦いに、自軍の兵を大量に派遣せねばならならず、そのぶん、奈良への兵の投入は難しくなる。

で、そんなこんなを不満に思ったのかどうか?は定かではりませんが、ちょうど、この年の5月頃に、久秀は織田傘下から離反して、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)の第11代法主=顕如(けんにょ)と結び、かつて東大寺で相対したあの三好三人衆とも仲直り・・・

なんせ信玄は、あの今川義元(いまがわよしもと)亡き後の駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を、信長の口利きで三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)半分っこする約束で連携して攻め進んだものの、途中から、その約束がウヤムヤになったために永禄十二年(1569年)7月の大宮城の戦いのあたりから、信長&家康に激おこ中・・・【信玄の駿河侵攻~大宮城の戦い】参照>>)

三好三人衆は、上記の通り、あの永禄十一年(1568年)の義昭上洛時に、一旦、信長に蹴散らされたものの、翌永禄十二年(1569年)1月には義昭の仮御所である本圀寺(ほんこくじ=当時は京都市下京区付近)を襲撃したりなんぞしてゴチャゴチャやり始め(【本圀寺の変】参照>>)、この元亀二年(1571年)6月には、姉川の戦いのために信長の主力部隊が畿内を留守にした事をチャンスと見て、池田勝政の重臣だった荒木村重(あらきむらしげ)(5月4日参照>>)をけしかけて池田城を乗っ取らせ、そのドサクサで挙兵して野田・福島(大阪市福島区)に砦を築いて信長に対抗しようとしていたのです。

ご存知のように、この野田福島の砦を信長が攻撃するのが、この後に起こる元亀元年(1570年)8月26日の野田福島の戦い(8月26日参照>>)で、この開戦から半月後に本願寺顕如が、この野田福島の戦いに参戦して来て(9月14日参照>>)、ここから10年の長きに渡る石山合戦がはじまる・・・

というわけですので、
そんな信玄&三好三人衆&本願寺と結んだ=という事は、この先、いわゆる「信長包囲網」と称されるあの団体に、久秀も乗っかっちゃった事になるわけで・・・

一方、こんな周辺情勢を見ながらも、目下の敵を松永久秀一本に絞ってる筒井順慶は、松永手薄の間に、久秀の多門山城により近い場所の新たな攻撃拠点を設けようと、筒井城より、さらに北にあたる位置に新しく辰市城(たついちじょう=奈良県奈良市東九条町)を構築するのです。

おそらく、この元亀二年(1571年)の7月3日とも8月2日とも言われる日付にて完成したおぼしき辰市城・・・

さすがに、これには松永久秀も、すぐに反応します。

実は、ここんところの久秀は、すでに大和は、ほぼほぼ平定したつもりで、合戦に勤しむというよりは、乱世ですさんだ領民たちの心のケアの方に重きを置いて、父子で春日大社に五穀豊穣祈願なんぞにいそいそと出かけていたりしたのですが、筒井順慶がその気なら迎え撃つしかありません。

かくして元亀二年(1571年)8月4日、主力部隊を率いて信貴山城を出陣した久秀は、河内若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市若江南町)の三好義継と合流し、大安寺に着陣すると、即座に辰市城への攻撃にかかります。

戦いは、はじめ松永方が優勢に事を進め、その鉄砲の音は天地も振動するかの如く鳴り響き、塀や堀を越え、城内へと松永勢が乱入するまでに至りましたが、やがて城側に郡山城からの援軍が加わり、さらに福住中定城(ふくすみなかさだじょう=奈良県天理市)福住順弘(ふくずみ じゅんこう=順慶の叔父)らが加勢にかけつけた事により、形勢は逆転。

長い戦いが終わってみれば、松永方は500もの首級を取られ、負傷者も数知れず・・・残った者は、その場に槍や刀を撃ち捨てて、多門山城に戻るしかありませんでした。

その日の『多門院日記』では
「大和で、これほど討ち取られたのは、はじめてだ」
と、その驚きを隠せません。

勝利した順慶は、自軍にも相当の死傷者を出したものの、この時に勝ち取った首級のうち240を信長のもとに献上しています。

勢いに乗った順慶は、この後、筒井城を奪回し、松永傘下だった高田城(たかだじょう=奈良県大和高田市)をも奪い取っています(11月26日参照>>)

ただし、筒井順慶が正式な信長の傘下となるのはもう少し先・・・

このあと・・・
あの三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)(12月22日参照>>)で徳川を破り、さらに西へと進んでいたはずの武田信玄が、天正元年(1573年)1月の野田城(のだじょう=愛知県新城市)の攻防戦(1月11日参照>>)を最後に動きを止め(4月12日に病死)、7月には信長に反旗をひるがえした将軍=義昭が鎮圧され(7月18日参照>>)、8月20日には越前(えちぜん=福井県北東部)朝倉(あさくら)(8月20日参照>>)、28日には北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井(あざい)立て続けに滅亡し(8月28日参照>>)、11月には、若江城の三好義継が切腹に追い込まれ(11月16日参照>>)・・・

さらに、この間にも、信長の命により筒井順慶による多門山城への攻撃が続けられていた事もあって、この天正元年(1573年)12月26日、ついに久秀は多門山城を開城し(12月26日参照>>)、信貴山城へと退去します。

とは言え、年が明けた天正二年(1574年)1月早々、岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)を訪れ、名刀=不動国行(ふどうくにゆき)を献上した久秀を、信長は許し、その後は、この多聞山城に明智光秀(あけちみつひで)など、織田の家臣が城番として入る事によって、大和と河内一帯は、一時的に織田による直轄地的な治められ方になります。

この年の3月に、信長は東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)正倉院蘭奢待(らんじゃたい)を削り取りに来てます(3月28日参照>>)ので、やはり、蘭奢待の削り取りは、信長が「自分が奈良を治めている」という事を内外に示す意味であったのではないか?と、個人的には思っています。

しかし、さすがクセ者・久秀さん・・・おとなしく、このまま信長傘下でいるわきゃありません。

このあと天正四年(1576年)に越後(えちご=新潟県)の雄=上杉謙信(うえすぎけんしん)が石山本願寺と和睦して(5月18日参照>>)、いわゆる「信長包囲網」に参加して来た事で、またもやウズウズするのですが・・・
そのお話は、天正五年(1577年)10月3日の【信貴山城の戦い】でどうぞ>>m(_ _)m
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