奈良の覇権を巡って…松永久秀VS筒井順慶~辰市城の戦い
元亀二年(1571年)8月4日、奈良の覇権を巡って戦った松永久秀と筒井順慶による辰市城の戦いがありました。
・・・・・・・
筒井順興(つついじゅんこう)と筒井順昭(じゅんしょう)の父子2代に渡って、群雄割拠する大和(やまと=奈良県)の国衆たちを抑え込み、
●(【井戸城・古市城の戦い】参照>>)
●(【貝吹山城攻防戦】参照>>)
ほぼ、大和統一を果たした感のあった筒井氏でしたが、その順昭が天文十九年(1550年)に病死した事により、息子の筒井順慶(じゅんけい)が、わずか3歳で後を継ぐ事に・・・
そんな中、永禄元年(1558年)の白川口(北白川付近)の戦い(6月9日参照>>)にて第13代室町幕府将軍=足利義輝(あしかがよしてる)と和睦し(11月27日参照>>) 、戦国初の天下人となった三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の家臣である松永久秀(まつながひさひで)が、その翌年から大和平定に動き出します(11月24日参照>>)。
その永禄二年(1559年)には信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を大幅改修して拠点とし、永禄七年(1564年)には多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城して、奈良盆地に点在した諸城を次々と攻略していく(7月24日参照>>)久秀でしたが、一方で主家の三好は、長慶の兄弟たちや長慶本人が次々と亡くなった事で徐々に衰退(5月9日参照>>)・・・
さらに、三好長慶の後を継いだ甥っ子=三好義継(よしつぐ)をサポートする一族の三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)が永禄八年(1565年)、将軍(義輝)暗殺(5月19日参照>>)という暴挙にでました。
この時、かの三好三人衆と同盟を結んでした筒井順慶は、この年の11月に久秀が入っていた飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)を攻撃しますが、これを受けた久秀に居城の筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を急襲され(11月18日参照>>)、順慶らはやむなく城を退去します。
本拠の筒井城を追われた順慶は、筒井方の布施(ふせ)氏の居城=布施城(ふせじょう=奈良県葛城市寺口字布施)に入って再起をうかがいますが、そのチャンスは意外に早く・・・翌永禄九年(1566年)、かの三好義継が堺(さかい=大阪府堺市)にて武装蜂起した事を受けて、久秀が奈良を留守にしたスキを狙って筒井城を奪回したのです。
一方、堺にて三好義継と和睦した久秀は、和睦承諾によって三好三人衆と決裂して久秀側の人となった三好義継を連れて信貴山城へと帰還・・・これを受けた順慶&三好三人衆に摂津池田城(大阪府池田市)の城主=池田勝正(いけだかつまさ=摂津池田城主)らを加えた連合軍が奈良近辺の大安寺(だいあんじ=奈良県奈良市)や白毫寺(びゃくごうじ=同奈良市)等に布陣、一方の久秀も東大寺(とうだいじ=奈良市)の戒壇院(かいだんいん)や転害門(てがいもん)に軍勢を配置します。
これが永禄十年(1567年)10月10日に大仏を炎上させてしまう、あの東大寺大仏殿の戦い(10月10日参照>>)という事になります。
(ちなみに火を放ったのが誰か?は特定されていません)
この合戦の最中に三好三人衆の配下であった飯盛山城主の松山安芸守(まつやまあきのかみ)が久秀側に寝返ってくれた事や、大仏炎上で大仏殿近くに布陣していた三好勢が総崩れとなった事で、とりあえず、この合戦には勝利した久秀でしたが、未だ筒井&三好三人衆の勢いは強く、何かと押され気味だった久秀・・・
そんなところに登場して来るのが、あの織田信長(おだのぶなが)でした。
ご存知、永禄十一年(1568年)9月・・・三好三人衆に暗殺された将軍=義輝の弟である足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じての上洛です(9月7日参照>>)。
この時、信長に抵抗した三好三人衆は畿内を追われ、三人衆の一人である三好長逸(みよしながやす)の物だった芥川山城(あくたがわやまじょう・芥川城とも=大阪府高槻市)に入った信長のもとへ、三好義継とともに名物の誉れ高い九十九髪茄子(つくもなす)の茶入れを手土産に謁見した久秀は、息子二人を人質として信長に差し出し、「手柄次第切取ヘシ」=つまり「勝って得た大和の地は久秀の物」との言葉とともに2万援軍を約束され、織田の傘下となりました。
一方、対信長に関しては先を越されてしまった筒井順慶・・・同盟を結んでいた三好三人衆は崩壊し、これまで配下に収めていた大和の国衆も我先に離反して、中には公然と松永方に寝返る者も現れる始末。
もはや風前の灯となる中・・・てか、信長が芥川山城に入ったのが10月2日ですから、その、わずか4日後の10月6日、大きな後ろ盾を得た久秀が筒井城へと攻め寄せた事で、その2日後の10月8日、順慶主従は、やむなく福住(ふくすみ=奈良県天理市福住町)を目指して落ちて行ったのです。
とは言え、順慶もまだまだ屈せず・・・大和高原あたりに潜んで、しきりにゲリラ戦を展開しつつ、自身の存在をアピールしておりましたが、そんな順慶に一筋の光が射すのが永禄十二年(1569年)12月・・・
かつて松永久秀が大和に侵攻した時、いち早く味方につき、娘を久秀の重臣の息子に嫁がせて、その親密ぶりを増していた十市城(とおちじょう=奈良県橿原市)の十市遠勝(とおちとおかつ)が、この年の10月に亡くなった事を受けて、十市家の重臣たちが、更なる松永との親密を願って、その十市城を久秀に明け渡す約束をしたのですが、当然、それに反対する重臣もあり、十市の家中が乱れていたのです(12月9日参照>>)。
そこをチャンスと見た順慶が、12月9日、500の筒井衆を派遣して、あれよあれよと言う間に十市城を占拠・・・身の危険を感じて今井(いまい=橿原市今井町)に退去した重臣たちであはりましたが、当然、そこは松永の家臣たちとともに、速やかな変換を要求しますが、筒井方が、そんな物に応じるわけなく、翌元亀元年(1570年)の7月には順慶自らが十市城に入り、ここを有力拠点の一つとする事にしたのです。
しかも、この間の筒井勢は、以前、久秀に奪われていた窪之庄城(くぼのしょうじょう=奈良県奈良市)を奪回したり、郡山城(こおりやまじょう=奈良県大和郡山市)に迫る松永勢を撃退したりしています。
風前の灯だった順慶が、かなり挽回して来た感ありますね~
と言うのも、実は、この時期の久秀は、コチラ=奈良での戦いに、多くの兵を投入する事ができなかったようなのです。
そう・・・信長上洛のアノ時に、
『「勝って得た大和の地は久秀の物」との言葉とともに2万援軍を約束され、織田の傘下となった』
と書きましたが、…という事は、その逆もアリ・・・
ご存知のように、この元亀元年(1570年)という年・・・信長は、あの金ヶ崎(かながさき=福井県敦賀市)の退き口(4月)から態勢立て直しの姉川(あねがわ=滋賀県長浜市)の戦い(6月)という、その人生の中でも屈指の忙しい時期(【金ヶ崎から姉川までの2ヶ月】参照>>)だったわけで、当然、久秀も信長の戦いに、自軍の兵を大量に派遣せねばならならず、そのぶん、奈良への兵の投入は難しくなる。
で、そんなこんなを不満に思ったのかどうか?は定かではりませんが、ちょうど、この年の5月頃に、久秀は織田傘下から離反して、甲斐(かい=山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)や石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)の第11代法主=顕如(けんにょ)と結び、かつて東大寺で相対したあの三好三人衆とも仲直り・・・
なんせ信玄は、あの今川義元(いまがわよしもと)亡き後の駿河(するが=静岡県東部)と遠江(とおとうみ=静岡県西部)を、信長の口利きで三河(みかわ=愛知県東部)の徳川家康(とくがわいえやす)と半分っこする約束で連携して攻め進んだものの、途中から、その約束がウヤムヤになったために永禄十二年(1569年)7月の大宮城の戦いのあたりから、信長&家康に激おこ中・・・(【信玄の駿河侵攻~大宮城の戦い】参照>>)
三好三人衆は、上記の通り、あの永禄十一年(1568年)の義昭上洛時に、一旦、信長に蹴散らされたものの、翌永禄十二年(1569年)1月には義昭の仮御所である本圀寺(ほんこくじ=当時は京都市下京区付近)を襲撃したりなんぞしてゴチャゴチャやり始め(【本圀寺の変】参照>>)、この元亀二年(1571年)6月には、姉川の戦いのために信長の主力部隊が畿内を留守にした事をチャンスと見て、池田勝政の重臣だった荒木村重(あらきむらしげ)(5月4日参照>>)をけしかけて池田城を乗っ取らせ、そのドサクサで挙兵して野田・福島(大阪市福島区)に砦を築いて信長に対抗しようとしていたのです。
ご存知のように、この野田福島の砦を信長が攻撃するのが、この後に起こる元亀元年(1570年)8月26日の野田福島の戦い(8月26日参照>>)で、この開戦から半月後に本願寺顕如が、この野田福島の戦いに参戦して来て(9月14日参照>>)、ここから10年の長きに渡る石山合戦がはじまる・・・
というわけですので、
そんな信玄&三好三人衆&本願寺と結んだ=という事は、この先、いわゆる「信長包囲網」と称されるあの団体に、久秀も乗っかっちゃった事になるわけで・・・
一方、こんな周辺情勢を見ながらも、目下の敵を松永久秀一本に絞ってる筒井順慶は、松永手薄の間に、久秀の多門山城により近い場所の新たな攻撃拠点を設けようと、筒井城より、さらに北にあたる位置に新しく辰市城(たついちじょう=奈良県奈良市東九条町)を構築するのです。
おそらく、この元亀二年(1571年)の7月3日とも8月2日とも言われる日付にて完成したおぼしき辰市城・・・
さすがに、これには松永久秀も、すぐに反応します。
実は、ここんところの久秀は、すでに大和は、ほぼほぼ平定したつもりで、合戦に勤しむというよりは、乱世ですさんだ領民たちの心のケアの方に重きを置いて、父子で春日大社に五穀豊穣祈願なんぞにいそいそと出かけていたりしたのですが、筒井順慶がその気なら迎え撃つしかありません。
かくして元亀二年(1571年)8月4日、主力部隊を率いて信貴山城を出陣した久秀は、河内若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市若江南町)の三好義継と合流し、大安寺に着陣すると、即座に辰市城への攻撃にかかります。
戦いは、はじめ松永方が優勢に事を進め、その鉄砲の音は天地も振動するかの如く鳴り響き、塀や堀を越え、城内へと松永勢が乱入するまでに至りましたが、やがて城側に郡山城からの援軍が加わり、さらに福住中定城(ふくすみなかさだじょう=奈良県天理市)の福住順弘(ふくずみ じゅんこう=順慶の叔父)らが加勢にかけつけた事により、形勢は逆転。
長い戦いが終わってみれば、松永方は500もの首級を取られ、負傷者も数知れず・・・残った者は、その場に槍や刀を撃ち捨てて、多門山城に戻るしかありませんでした。
その日の『多門院日記』では
「大和で、これほど討ち取られたのは、はじめてだ」
と、その驚きを隠せません。
勝利した順慶は、自軍にも相当の死傷者を出したものの、この時に勝ち取った首級のうち240を信長のもとに献上しています。
勢いに乗った順慶は、この後、筒井城を奪回し、松永傘下だった高田城(たかだじょう=奈良県大和高田市)をも奪い取っています(11月26日参照>>)。
ただし、筒井順慶が正式な信長の傘下となるのはもう少し先・・・
このあと・・・
あの三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)(12月22日参照>>)で徳川を破り、さらに西へと進んでいたはずの武田信玄が、天正元年(1573年)1月の野田城(のだじょう=愛知県新城市)の攻防戦(1月11日参照>>)を最後に動きを止め(4月12日に病死)、7月には信長に反旗をひるがえした将軍=義昭が鎮圧され(7月18日参照>>)、8月20日には越前(えちぜん=福井県北東部)の朝倉(あさくら)が(8月20日参照>>)、28日には北近江(きたおうみ=滋賀県北部)の浅井(あざい)が立て続けに滅亡し(8月28日参照>>)、11月には、若江城の三好義継が切腹に追い込まれ(11月16日参照>>)・・・
さらに、この間にも、信長の命により筒井順慶による多門山城への攻撃が続けられていた事もあって、この天正元年(1573年)12月26日、ついに久秀は多門山城を開城し(12月26日参照>>)、信貴山城へと退去します。
とは言え、年が明けた天正二年(1574年)1月早々、岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)を訪れ、名刀=不動国行(ふどうくにゆき)を献上した久秀を、信長は許し、その後は、この多聞山城に明智光秀(あけちみつひで)など、織田の家臣が城番として入る事によって、大和と河内一帯は、一時的に織田による直轄地的な治められ方になります。
この年の3月に、信長は東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)正倉院の蘭奢待(らんじゃたい)を削り取りに来てます(3月28日参照>>)ので、やはり、蘭奢待の削り取りは、信長が「自分が奈良を治めている」という事を内外に示す意味であったのではないか?と、個人的には思っています。
しかし、さすがクセ者・久秀さん・・・おとなしく、このまま信長傘下でいるわきゃありません。
このあと天正四年(1576年)に越後(えちご=新潟県)の雄=上杉謙信(うえすぎけんしん)が石山本願寺と和睦して(5月18日参照>>)、いわゆる「信長包囲網」に参加して来た事で、またもやウズウズするのですが・・・
そのお話は、天正五年(1577年)10月3日の【信貴山城の戦い】でどうぞ>>m(_ _)m
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コメント
分かりやすくて面白いですね
辰市城の戦いについて調べていたので情報ありがとうございます
投稿: | 2020年8月 9日 (日) 10時28分
コメントありがとうございます。
ドラマや小説ではほとんど描かれないので、あまり有名では無い辰市城の戦いですが、信長配下の奈良支配担当メンバーが、松永久秀から筒井順慶へと代る転機の戦いだったように思います。
投稿: 茶々 | 2020年8月10日 (月) 01時48分