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2020年8月19日 (水)

武田信虎VS今川氏輝&北条氏綱~万沢口の戦いと山中の戦い

 

天文四年(1535年)8月19日、駿河に侵攻してきた武田信虎今川氏輝が迎え撃った万沢口の戦いが、また、3日後の8月22日には、今川を支援する北条氏綱と武田の別動隊が山中湖畔でぶつかった山中の戦いがありました。

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地域の国衆(くにしゅう=地元に根付く武士)たちが群雄割拠する状況から、何とか守護(しゅご=室町幕府政権下での県知事みたいな?)としての復権を果たしつつあった甲斐(かい=山梨県)武田信虎(のぶとら)は、自身が味方する関東管領(かんとうかんれい=鎌倉府の長官で鎌倉公方を補佐する・関東執事)を継承する上杉家(うえすぎけ=山内&扇谷)と、それに敵対する新興勢力の北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)(10月11日参照>>)との関係性から、

Takedanobutora500a その早雲の支援を受けて駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部) を領する今川(いまがわ)の当主となった今川氏親(いまがわうじちか=早雲の甥)とも、度々衝突しては和睦をし・・・という微妙な関係(1月12日参照>>)でありましたが、大永元年(1521年)に今川方の重臣であった福島正成(くしままさしげ・ふくしままさなり)甲斐に侵攻して来たのを蹴散らして(10月16日参照>>)以来、ここのところ、直接的な軍事衝突はありませんでした。

しかし大永五年(1525年)に、一旦、北条氏綱(うじつな=早雲の息子・2代目)と結んだ和睦を、山内上杉家に配慮して、事実上の破棄としてしまった事から氏綱との関係が悪化したため、氏綱を援助する形をとっていた今川氏親との関係も、あまりよろしくなくなってしまっていたのです。

『勝山記』の大永五年の条には
「駿河ト甲州ハ未和睦無シ」
とあり、この頃から、両者の間に小競り合いが生じていた事を伺わせます。

ところが、その翌年=大永六年(1526年)の6月に今川氏親が死去・・・氏親奥さんの寿桂尼(じゅけいに)が後見を務めるとは言え、後を継いだ息子の今川氏輝(うじてる)が、未だ14歳だった事で駿河に動揺が走ったのか?
この翌年に、今川と武田の間に和睦が結ばれています。

しかし、かりそめの和睦は、すぐに破られる事に・・・

天文四年(1535年)に入って、武田信虎が駿河への侵攻を開始したのです。

Houzyouuzituna300a6月5日に信虎が駿河に向けて出陣した事を知った今川方では、同盟者である北条氏綱にも出陣の要請をします。

7月17日には駿河富士郡(ふじぐん=静岡県芝川町付近)を放火して回る武田軍に対し、7月27日に武田軍を迎え撃つべく出陣する今川軍・・・

一方、要請に応じた氏綱が、息子=氏康(うじやす)とともに2万の大軍を率いて、8月16日には郡内(ぐんない=山梨県都留郡周辺)へと侵攻して来た事を受けて、信虎は、郡内を任せている妹婿(もしくは娘婿)小山田信有(おやまだのぶあり)に、その抑えを命じ、サポート役として異母弟の勝沼信友(かつぬまのぶとも)ともに別動隊として出陣させます。

しかし、その別動隊の数は、わずかに2000ほど・・・

そんなこんなの、天文四年(1535年)8月19日、武田信虎と今川氏輝が万沢口(まんざわぐち=山梨県南都留郡南部町)にて交戦します。

とは言え、はげしくぶつかり合うものの、両者ともに一進一退・・・結局、この万沢口での戦いは決着がつかず、引き分けとなります。

ところが、その3日後の天文四年(1535年)8月22日、今度は、山中湖畔(やまなかこ=山梨県南都留郡山中湖村)において、先の武田の別動隊と侵攻して来た北条軍とがぶつかるです。

山中湖畔での戦いは、ほぼ一日中に渡って合戦が繰り広げられ、午後2時頃に決着・・・
『勝山記』によれば、
「小山田殿劣被食候而
 弾正殿(小山田有誠の父の事)
 大輔殿(勝沼信友の事)
 従者周防殿…随分方々打死被食候
 殊ニ勝沼ノ人数以上二百四十人打死申候」
と、コチラの山中の戦いでは武田勢が大敗した事が記されています。

このあと北条勢は、その日のうちに上吉田(かみよしだ=山梨県富士吉田市)、翌日には下吉田(しもよしだ=同富士吉田市)を焼き払って意気の高いところを見せますが、24日には、足早に本拠の小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)へと帰還していきました。

というのは、今川と北条の連携プレーによって、河内(かわち=山梨県笛吹市周辺)と郡内の二面作戦を強いられてしまった信虎が、このピンチを脱すべく、同盟者である扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)上杉朝興(うえすぎともおき)に、氏綱らが留守となった相模(さがみ=神奈川県)を突いてくれるよう働きかけていた事で、その危険を察知した氏綱が、慌てて撤兵して戻って行った・・・という事らしい。

この時、信虎の要請に応じて出陣してくれた上杉朝興は、9月には大磯(おおいそ=神奈川県中郡大磯町)辺りまで侵出して、その一帯を焼き払った後、10月6日に本拠の川越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)に戻ったのだとか・・・

この上杉朝興の行動によって危機を脱した信虎でしたが、上記の通り、弟を失ってしまうなど、万沢口&山中湖での戦いは、信虎にとってかなりの痛手となってしまいました。

とは言え、この翌年の天文五年(1536年)に今川氏輝が死去・・・氏輝の弟同志による後継者争いとして勃発した花倉の乱(はなくらのらん)(6月10日参照>>)に介入した信虎は、乱に勝利して後継者となった今川義元(よしもと)との結びつきを強め、このあと武田と今川の同盟を成立させます。

この同盟の成立によって、逆に今川と北条の同盟が破棄となり、この後は、武田&今川両氏と北条氏が、駿東方面にて抗争を繰り返すようになり、やがては、北条と今川の間には世に河東一乱(かとういちらん)と呼ばれる激しい戦いが展開される事になりますが、そのお話は、また、それぞれの日付にて書かせていただきたいと思います。
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戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

こんにちわ、茶々様(^o^)Y

信虎、強いですね~!

先日の武田信縄と油川信恵との『市川の合戦』の記事の最後に信虎にフォーカスしていましたね。

狂気・武勇が有り、知略に長けているイメージです。

群雄割拠の時代に生まれ、周囲は北条・今川・上杉(山内&扇谷)、内部は甲斐国衆との闘い、後継者争い(信恵)と常に戦っていたので武勇・知略に長けていないと生き残れない時代だったんでしょうね...

その結果、甲斐から追放されてしまうことになるわけですが...(tot)

個人的にNHK大河ドラマ『風林火山』の信虎を演じた『仲代達矢』さんはハマっていたと思います。

投稿: DAI | 2020年8月20日 (木) 17時57分

DAIさん、こんにちは~

武田信玄が超有名人で、その信玄に追放されるので、小説やドラマでは、あまり良くないイメージで描かれますが、おっしゃる通り、信虎はホント、すごいと思います。

風林火山の仲代さん、良かったです。

投稿: 茶々 | 2020年8月20日 (木) 18時22分

お婆さんの実家が若神子で旧制、山県で昌景の子孫だとか言われてきましたがまあそれはさておき

このブログの記事は史実に忠実で現実的な考証も合わせて非常に正確だと思います!

海津城の炊飯の煙で・・・のくだりは甲越どちらでも「これってやばくね?「あれってやばね?」
と子供でも気が付くレベルだと思います。

地元では長篠の戦も映画「影武者」のようだったと未だに信じている輩ばかりです。

ありがとうございました。

投稿: 山県 | 2020年9月22日 (火) 13時44分

山県さん、こんばんは~

コメント残していただいてありがとうございます。

投稿: 茶々 | 2020年9月23日 (水) 03時28分

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