石清水八幡宮の怒り爆発~山科八幡新宮を襲撃
天慶元年(938年)8月12日、石清水八幡宮の神官や僧侶が山科八幡新宮を襲撃しました。
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「やわたのはちまんさん」の呼び名で知られる石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう=京都府八幡市)は、平安時代の清和天皇(せいわてんのう=第56代・在位: 858年~ 876年)の頃に創建され、宇佐神宮(うさじんぐう=大分県宇佐市)や鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう=神奈川県鎌倉市)とともに日本三大八幡宮の1つに数えられたり、平安京の鬼門=北東を守る比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市)に対する裏鬼門=南西を守る場所として重要視される神社です。
源氏の棟梁=八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ=源義家)が(10月23日参照>>)が元服した場所という事もあって源氏の流れを汲む武家からは武神として崇められて信仰を集めましたし、有名な『徒然草』に登場したり、南北朝での歴史の舞台としても度々登場しています。
…で、そんな石清水八幡宮にて、現在でも毎年9月15日に行われている石清水祭(いわしみずさい)・・・これは現在でも、京都の葵祭(あおいまつり)や奈良の春日祭(かすがのまつり)と並んで日本三大勅祭(ちょくさい=天皇の使者が派遣されて執行される祭)の一つとされる重要な例祭ですが、もともとは旧暦の8月15日に行われていた放生会(ほうじょうえ)というお祭りでした。
放生会とは、捕獲した魚や鳥獣を野に放して殺生を戒める古代インドに起源を持つ宗教儀式で、「お釈迦様の前世と言われるエライお方が、池の水が無くなって死にそうになっている魚たちを助けて説法をしたところ、その魚たちが神様に転生して、そのエライ方に感謝した」という逸話から始まった儀式で、日本でも、奈良時代の天武天皇(てんむてんのう=第40代・在位:673年~ 686年)の頃には、すでに全国的に行われていた仏教儀式でしたが、日本独特の神仏習合(しんぶつしゅうごう=仏が神の姿になって現れるという考え)によって、神道にも取り入れられるようになったお祭りです。
早いうちから神仏習合を取り入れた宇佐や石清水などの八幡宮では、祭神である八幡神(はちまんしん)の本地(ほんぢ=根本真実身)として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称して、この頃は神社の境内に神宮寺が創建される事もしばしばありました。
これは、明治維新の神仏分離されるまで続いていて・・・なので、明治以降は、祭の名前も変わり、八幡菩薩の称号も抹消され、今に至るわけですが・・・
とにもかくにも、平安時代の石清水八幡宮では、そんな放生会は、年間行事においても一二を争う人気行事だったわけで・・・なんせ、上記の通り、朝廷から使者が派遣されて来る重要な行事でしたから。。。
ところが、承平年間(931年~938年)のある時、その放生会に人が、年々集まらなくなって来ていたのです。
この頃は、未だ神仏習合時代ですから、このお祭りでも、日中には都から有名な音楽家を招いて神楽の奉納を行う一方で、夜には各お寺から有名な僧侶を呼んで仏事を大々的に行っており、当然、それらを目当てに多くの人々が参拝するのが例年の習わし・・・
しかし、承平年間のここんところ、そんな有名な楽師がだんだん来なくなり、著名な僧侶も徐々に参加を渋るようになるのです。
そうなると、当然、それを目当てに訪れる見物人も、どんどん減っていくわけで・・・
「これは、どうした事か?」
と石清水八幡宮の皆々が思っている中で、ある情報が舞い込んできます。
何やら、
「最近、山科(やましな=京都市山科区)に、石清水八幡宮と同じ八幡菩薩を祀る八幡新宮(はちまんしんぐう)なる物が登場し、そこも放生会なるお祭りを石清水八幡宮と同じ8月15日にやっている」
との事・・・
しかも、山科八幡新宮の方が、石清水八幡宮よりも、はるかに高い報酬を出すので、有名な楽師や著名な僧侶の多くが、そっちに参加するようになり、8月15日の放生会の日に八幡宮に参詣して煌びやかな祭行事を見たい一般の参拝客は、皆、山科八幡新宮の放生会に引き寄せられていたのです。
そうと知った石清水八幡宮側・・・このままにしておくわけにはいきません。
ご存知のように、この頃は、大寺院で僧兵という武装集団を抱えていたように、神社にだって自衛のための武装集団がいるわけで・・・
かくして、その年の放生会を2日後に控えた天慶元年(938年)8月12日、石清水八幡宮関連の神官&僧侶たちが山科八幡新宮を襲撃したのです。
数千人にも膨れ上がった彼らは、殿舎を破壊したうえに、八幡菩薩像をも奪い取ってしまいます。
『本朝世紀(ほんちょうせいき)』によれば、この事件以降、山科八幡新宮で放生会が行われる事は2度となく、石清水八幡宮の放生会には、再び参詣者が戻って来たとの事・・・
あな恐ろしや 人々の怒り・・・
とは言え、ご存知のように、この天慶という年代は、この翌年に、あの平将門(たいらのまさかど)の乱と藤原純友(ふじわらのすみとも)の乱が立て続けに勃発する年代でもあり、
●【平将門が国府を占領】>>
●【藤原純友・天慶の乱】>>
これまで、唯一無二であった平安王朝文化に、一筋の陰りが見えはじめ、朝廷から幕府へ、公卿から武士へと、その主導権が移行していく、最初の段階の時代で、そういう時代背景的な混乱もあったのやも知れませんから、一概に武力行使の是非を問うわけにもいきません。
歴史上の出来事は、その時代背景や、その時代の価値観&一般常識も踏まえて考えないと・・・安易に現代の物差しで測ってしまっては間違った解釈をしてしまう事も多々ありですから・・・
★石清水八幡宮へのくわしい行き方は、本家ホームページ「京阪奈ぶらり散歩」の男山周辺散策>>でどうぞm(_ _)m
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