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2020年9月28日 (月)

大河ドラマ『麒麟がくる』第25回「羽運ぶ蟻(あり)」…あくまで個人の感想です

 

今週の大河ドラマ『麒麟がくる』第25回「羽運ぶ蟻(あり)の感想です。

唐突ですが…
♪誰のせいでもありゃしない~
 みんな コロナが悪いのさ~♪
(古っww(#^o^#)by悲しき願い)

いや…ホンマ
前半、あれだけ丁寧に描いていた美濃の斎藤家の衰退を、ナレーションと口伝えでほぼほぼスルー。。。
前半、あれだけ染谷信長にアドバイスして作戦参謀のようだった帰蝶姫が清須にて子守り三昧のため出演無し。。。

しかも、その話を聞いた長谷川光秀が「へぇ~そうなんだぁ」と軽く右から左へ受け流す。。。
(信長に追放されたのは帰蝶姫にとっては甥っ子なんですが、その心中やいかに…)

せやね、後半、急がなアカンので仕方ないね~
と思いきや、
一方で謎の薬の転売ヤー少年に直談判しに行くお駒ちゃんの尺が長い。。。

残り時間が少ないのに、俳優さんのスケジュール調整が難しいのでしょうか?
なんだか、今回は描く部分と描かない部分の尺の取り方が変な感じでした。

おそらく作り手のスタッフの皆さまも、色々と思い通りにできなくて地団太踏まれている物とお察しします。

そのせいなのでしょうか?
登場人物が、だんだんおバカになっていってるような…
(主人公ageのために他を貶めてるのかな?)

まずは、
懐かしの明智荘へと帰還し、なぜか、ここで、死亡フラグを振りまくるように思い出を語るさゆりママ・・・
(もうすぐ死ぬの?って思っちゃった…おそらく死ぬのはあそこなんだろうけど)

「これもお前のおかげ」
的な言葉をさゆりママは息子に言ってたけど、光秀は去った後に明智荘について何かしてましたっけ?

美濃を平定したのは信長だし、現地に残って色々守ってたのは徳重伝吾さんたちですよね?
ま、戻って来ただけですご~く歓迎されてたので良かったですが…

そんな信長さんは
「みんなが喜んでくれるから戦は好き」
と笑顔で言い
「美濃取ったら、次は何したらえぇかワカラン」
と長谷川光秀にアドバイスを求める。。。

聞かれた光秀が
「誰も手だしできない大きな国を作りましょう」
と言うと、信長が
「大きな国ってコレくらい?」
と地図の一部を指せば、
「もっと」
と・・・
「ほなコレくらい?」
と地図の周りを回る信長。。。

このくだりは、
「私の事、どれくらい好き?」
「こ~んくらい!」
と、ありえないくらい手を広げて大きさ示す、つき合って間もないカップルのやり取りのようでした。
(↑コレはつき合い始めのみ許される行為である)

ユースケ・アサクラはアサクラで、大事な話を中断してまでの忠太郎探し。。。
もうコレは、わざとですよね。。。(長谷川さんのチュー顔も)

また、光秀が
「自分が仕えたかったのは義輝様」
と言って、向井将軍の死を惜しみ、そのために目標を失ったかのような発言も、ちょっと???でした。

確かに、向井将軍に心酔してた感はありましたが、かと言って、家臣にしてもらうために何か努力してたわけでもない。。。

世は、生き馬の目を抜く戦国なのですから、思った事は、素早く実行に移さないと…ね。

とは言え、先の信長と光秀の「大きな国」のくだりで、意気投合した風に見えて、実は二人の思い描く「大きな国」がちょっと違う感じを含んでいる演出はさすがでした。

光秀は、今回の「蟻」の話で見直した滝藤義昭という神輿を担いでの大きな国
一方の信長は、それまで井ノ口と呼ばれていた場所を、中国の「周の文王、岐山より起り、天下を定む」という故事にあやかって「岐阜(ぎふ)と名付け、斎藤家の稲葉山城も岐阜城に改め、あの「天下布武」の印鑑を、ここらあたりから使い始めるわけで・・・(ドラマにはまだ出てきてないけど)

光秀の
「畿内を手に入れる」
の言葉に、
「ほな、堺もか?」
と返す信長もイイv(^o^)v
(【本能寺の変と堺の関係】も参照してね>>)
そして京都では、
重要人物に出会う担当のお駒ちゃんが陣内宗久とニアミス。。。

アリが蝶を運ぶシーンとか、
子供相手に遊ぶ滝藤義昭さんに雅楽の嗜みが垣間見えるところとか、
Dscf1285pa900やっぱり美しい朝倉家の庭園とか→
チョイチョイ挟まれる小ネタのクオリティーの高さが、やっぱ大河やなぁ~って思います。

欲を言えば、やはりもうチョイ、三好一派(三人衆)を描いてほしい・・・

前回も、三好三人衆が出て来ないので、義輝さんの何がダメで義栄さんの何が良いのか?
なぜに義栄さんを推す一派と、義昭さんを推す一派が対立してんのか?
がよくわからない的な事言いましたが、やっぱり今週もわからない。。。

聞くところによれば、大河ドラマに第14代将軍の足利義栄が登場するのは初めてなのだとか…

せっかく義栄さんが出るんですから三好三人衆も…そして今後は、その対立の構図が見事に描かれる事を希望しております。

来週も楽しみにしてます。

たぶん来週、もしくは、これから起きる出来事は…
●【義昭の「僕を京都に連れてって」】>>
●【松永VS三好と筒井順慶の大仏殿の戦い】>>
●【朝倉義景の若狭侵攻】>>
●【義昭を奉じ~織田信長の上洛】>>
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2020年9月24日 (木)

戦国乱世を駆け抜けた異彩~松永久秀の甥っ子・内藤如安

 

 慶長十九年(1614年)9月24日、三好長慶や足利義昭や小西行長に仕えた内藤如安が、キリシタン禁止令を受けて国外追放となりました。

・・・・・・・・

内藤如安(ないとうじょあん)の如安は、永禄七年(1564年)=15歳の頃にキリスト教に入信した時の洗礼名のジョアンの音の響きを漢字で表した物で、本名は内藤忠俊(ただとし)なのですが、本日は有名な方の内藤如安さんと呼ばせていただきます。

で、本日の主役=内藤如安は天文十九年(1550年)頃(はっきりしません)八木城(やぎじょう=京都府南丹市八木町)内藤宗勝(ないとうそうしょう)の息子として生まれます。

お父さんの内藤宗勝は、あの戦国初の天下人と言われる三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の家臣で、もと名を松永長頼(まつなが ながより)と言い、今年の大河ドラマ「麒麟がくる」でも大活躍の松永久秀(まつながひさひで)(12月26日参照>>)の弟なのですが(つまり如安は久秀の甥っ子、実は、三好政権内で先に頭角を現したのは、この弟の方で、なんなら、兄=久秀は「弟の七光りで出世した」なんて陰口たたかれてたくらいの大活躍で、長慶からの信頼も篤かったんです。

 なんせ天文二十二年(1553年)には、丹波(たんば=兵庫県北東部・大阪府北西部)一国を牛耳る波多野晴通(はたのはるみち=波多野秀治の父)八上城(やかみじょう=兵庫県丹波篠山市)を攻撃中に、敵方が守護代(しゅごだい=副知事)内藤国貞(ないとうくにさだ)を討ち取って、国貞の八木城を奪った事を聞くないなや、即座に八木城に取って返してまたたく間に奪還したばかりか、その後に波多野晴通を降伏させて、逆に丹波のほとんどを手中に収めたくらいですから・・・

そして、その八木城奪還後に亡き国貞の娘(妹説もあり)と結婚して松永長頼から内藤宗勝に名を変えて内藤家を継ぐ立場になった人なのです。
(実際には国貞の息子=貞勝が後を継ぎ、宗勝は後見人ですが、事実上は家内を掌握していたとされます)

そんな松永長頼改め内藤宗勝を父に持つ内藤如安は、三好家が衰退の一途をたどる中でも足利将軍家を仰ぐ内藤家の代表の如く、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき=義秋・覚慶)が、上洛後に、あの織田信長(おだのぶなが)と対立した元亀四年(天正元年=1573年)(7月18日参照>>)も、槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市槇島町)にて将軍=義昭方として奮戦しています。

しかし、ご存知のように、この戦いに敗れた義昭は京都を追われ、身を寄せていた若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市)三好義継(みよしよしつぐ=十河重存)も自刃したため(11月16日参照>>)、義昭は毛利輝元(もうりてるもと)を頼って備後(びんご=広島県東部)鞆の浦(とものうら=広島県福山市)に下向しますが、この時にも、内藤如安は、義昭と行動をともにしていたと言います。

ところが、この間の天正四年(1576年)、父の宗勝が、信長の命を受けた明智光秀(あけちみつひで)の侵攻によってゴタゴタになっていた丹波内での戦い=和藤合戦(わとうがっせん)(6月20日参照>>)にて討死してしまいます。
(宗勝の死亡時期については永禄六年(1563年)説&永禄八年(1565年)説もあり)

これによって内藤家は、名実ともにあの国貞の息子=内藤貞勝(さだかつ)が継ぐ事になり、如安は、その執政(しっせい=家老)の立場となりますが、宗勝を失った影響は大きく、天正六年(1578年)に丹波平定まい進中の明智光秀に攻められて八木城は落城・・・内藤本家は滅亡してしまいます。

その後、ご存知のように天正十年(1582年)6月に信長が本能寺にて横死(6月2日参照>>)、謀反を起こした明智光秀を倒して(6月13日参照>>)、まるで織田政権を引き継ぐようにトップに躍り出て来た豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)紀州征伐(きしゅうせいばつ)(3月24日参照>>)をおっぱじめた天正十三年(1585年)頃、如安は、しばしの沈黙を破り、その秀吉の家臣である小西行長(こにしゆきなが)に仕える武将として、再び表舞台に登場します。

これは、行長の小西家が、内藤家と親戚だった(3代前に枝分かれ?)事で、同族のよしみで召し抱えたとも言われますが、ご存知のように小西行長も敬虔なクリスチャンなので、そのあたりのよしみもあったのかも知れません。

Bunrokunoekipusan700a とにもかくにも、もともとは商人だった小西行長は、武将として戦略や采配に長けた如安の能力に大いに惚れ込んで重臣に取り立て、小西姓を名乗らせるくらい重用したのです。

それに応えるように如安も、文禄元年(1592年)に起こった朝鮮出兵=文禄の役(1月26日参照>>)では、先鋒を務める事になった行長に従って各地を転戦する一方で、行長の密命を受けて(みん=中国)との和睦交渉の使者となり、粘り強い交渉を何度も重ねて和睦をまとめました。
(結局は合意内容に納得しなかった秀吉によって慶長の役が起こりますが…11月20日参照>>

その後、秀吉亡き後に起こった関ヶ原の戦い(年表>>)では、ご存知のように小西行長は西軍として参戦し、大敗の末に捕縛され(9月19日参照>>)石田三成(いしだみつなり)(9月21日参照>>)安国寺恵瓊(あんこくじえけい)(9月23日参照>>)とともに10月1日に処刑されます(10月1日参照>>)

この時、内藤如安は、行長の弟=小西行景(ゆきかげ)とともに地元である行長の居城=宇土城(うとじょう=熊本県宇土市)におりましたが、ここを攻めて来たのが九州の地にて東軍に与する加藤清正(かとうきよまさ)・・・

9月20日に宇土城近くに陣を構えた清正は、翌・21日に宇土城下を焼き払って宇土城を完全包囲しますが、未だ、関ヶ原での一戦の状況を知らぬ宇土城内の行景&如安らは徹底抗戦の構え・・・実質的な指揮者である如安は、大砲を駆使して迫りくる敵を撃退し続け、約1ヶ月間、宇土城は耐え抜きました。

しかし、やがて九州にも関ヶ原現地の状況が伝えられるようになって兄=行長の死を知った行景は、自らの自決と引き換えに城兵の命を助ける事を条件に、10月14日(23日とも)宇土城は開城となったのでした。

「自らの自決と引き換えに城兵の命を…」
の城兵の中には如安も含まれていたわけで・・・命ながらえた如安は、同じキリシタン大名である有馬晴信(ありまはるのぶ)の領地である肥前(ひぜん=佐賀県・長崎県)平戸(ひらど=長崎県平戸市)にて、しばらくの間、隠居生活を送る事になりますが、その後、その武勇を惜しんだ加藤清正に客将として迎え入れられます。

さらに慶長八年(1603年)頃には、前田利長(まえだとしなが=前田利家の息子)4000石で迎え入れられ金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市)に・・・ここでは、やはりキリシタン大名で、すでに前田家の客将となっていた高山右近(たかやまうこん=高山友祥)とともに、前田家の政治や軍事の相談役をこなしながら、キリスト教の布教活動にも力を注ぎました。

しかし、慶長十八年(1613年)12月、あの関ヶ原の戦いに勝利して、現政権内でも確固たる地位を築きつつあった徳川家康(とくがわいえやす)からキリシタン禁止令が発布されます。
(実際には自分=家康の領地のみだった禁教令を全国に広げた物)

キリシタン禁止令そのものは、これまでにも、秀吉時代に、
天正十五年(1587年)の6月18日付けと6月19日付けの物
『天正十五年六月十八日付覚(「御朱印師職古格」神宮文庫)>>
と、慶長元年12月(1597年2月)のサン・フェリペ号事件(2月5日参照>>)のあった時の2回発布されていますが、いずれもバテレン(主にフランシスコ会の宣教師)追放令であって、神社仏閣への破壊行為や奴隷売買などは禁止するものの、信者に対する迫害や無理やり改宗させたりする物では無かったのです。

しかし、今回の家康の禁教令は、いわゆる「キリシタン追放」「キリスト教弾圧」と言われて思い浮かべる、あのキリシタン禁止令そのものだったわけで・・・

かくして 慶長十九年(1614年)9月24日、頑としてキリスト教への信仰を曲げない内藤如安に、国外追放命令が出されます。

もちろん、ともにいる高山右近にも・・・

それから約2週間後の10月7日、如安は妹のジュリア、そして高山右近夫妻(1月5日参照>>)とともに、フィリピンのマニラに向けて旅立ったのです。

ご存知のように、この年は、7月21日には方広寺(ほうこうじ=京都市東山区)鐘銘事件(7月21日参照>>)が勃発し、その5日後には家康が、その方広寺の大仏開眼供養を中止(7月26日参照>>)させたり、翌8月には、何とか衝突を収めようとする大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)側に最後通告を出したり(8月20日参照>>)・・・家康が完全に大坂城の豊臣秀頼(ひでより=秀吉の息子)潰しにかかって来てた=つまり大坂の陣(年表>>)をおっぱじめる気満々な時期だったわけで・・・

現に、この10月6日~9日にかけては、後の大坂の陣で活躍する真田幸村(さなだゆきむら=信繁)毛利勝永(もうりかつなが=吉政)といった面々が続々と大坂城に入城して来ていたわけで(10月7日参照>>)・・・

一説には、如安と右近の追放を知った大坂方が、彼らを大坂城に招くべく慌てて使者を走らせたものの、港に到着した時には船が出ていった後で間に合わなかった・・・てな話も囁かれます。

もし、使者が間に合っていたら・・・如安や右近の大坂の陣での活躍が見られたのかも知れませんが、一方で、これが家康の「如安らを大坂城に入らせない」作戦だったのだとしたら、その徹底ぶりはお見事ですな。

マニラに到着後も、もと執政としての手腕をかわれて、現地の日本人町の首長を任されて、その運営に活躍したとされる内藤如安は、右近よりも長く生き、寛永三年(1626年)に70代半ばで死去したとの事ですが、そんな如安の活躍を縁として、現在、かつて八木城のあった京都府南丹市八木町とマニラは姉妹都市の提携がなされているのだとか。。。

三好政権の終焉を経験し、織田政権から豊臣政権で奮闘し、江戸幕府を見ずして去った内藤如安・・・まさに戦国を生き抜いた武将と言えるでしょう。

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2020年9月21日 (月)

大河ドラマ『麒麟がくる』第24回「将軍の器」…あくまで個人の感想です

「アバン死」という言葉を初めて知った今週の大河ドラマ『麒麟がくる』第24回「将軍の器」の感想です。

「アバン死」「アバン」「アバンタイトル=オープニングタイトル前」の事だそうで、つまりはオープニングのタイトルが出る前に死んでしまった・・・という事で、

いやはや、「ナレ死」という言葉は存じておりましたが、「アバン死」は、この歳になって初めて知りましたわ。

まさにアバン死だった向井将軍様・・・
しかも、予想に反したアッサリ感、
さらに真夜中ではなく早朝・・・
まぁ、暗殺時期が5月半ば(旧暦だと真夏)なので、向井将軍様がお亡くなりになる頃には、もうすっかり太陽も昇ってましたね。

有名な畳に名刀を差して、2~3人斬ったら刀変えて…のシーン(【足利義輝の壮絶最期】のページ参照>>)が無かったのは、今回の気品あふれる爽やか向井将軍に合わせての演出だそうで、演出家の方が、向井さんのギラギラしてる感じを出したくなかったからだそうです。

とは言え障子で抑えられるシーンはあったので、このあと障子一面に血が飛ぶのか?と思いきや、障子越しに斬りまくられても、まったく血が流れなかったのも、
そういう事なんでしょうねぇ。

まぁ、ギラギラ感は好みの問題もあるし、爽やか向井将軍に残虐なシーンは似合いそうにも無いので、それはそれでアリかも知れません。

ところで、あくまで「好みの問題」で言わせていただくと、
向井将軍の暗殺に憤慨した長谷川光秀が、吉田久秀に文句言いに行き、その流れから、久秀が光秀に鉄砲を握らせて「撃ってみろ」的なシーン・・・。

時代劇には、たまにあるシーン(「西郷どん」でもロシアンルーレット的な事やってた)ですが、個人的に、ああいう演出はあまり好きではありません(←あくまで個人の好みです)

戦国にしろ、幕末にしろ、戦時下では命がいくつあっても足らない=明日をも知れぬ命なのは確かですし、一か八かの命懸な出来事も、勝ち目の無い戦に死を覚悟して挑む事も多々あったと思いますが、
だからこそ、命は「ここ1番」という重要な時に捨てる覚悟を持つ物であって、何かよくワカラン駆け引きや、相手を試すような事に使うべきでは無い気がしています。

あそこで光秀が撃ったら、それで久秀は終りですよね?
(撃たへんけど…)
(ただ、撃たへん事がわかってるので白々しい演出に見えたけど、もし久秀がここで死なない事を知らなければ良い演出なのかも?)

今回の場合は、吉田久秀が
「向井将軍の暗殺は息子たちの暴走で、それを止められなかった自分が情けない」
的な心の内が本心であるという事を証明するために、あのような展開になったのかも知れませんが、

アレがあっても、吉田久秀の言ってる事が本心かどうかは、わからないですよね?

なぜなら、三好側(三好三人衆)がまったく出て来ないから・・・(モブキャラ兵ならいましたが)
三好側の中心人物たちをまったく描かないで、彼らの考えや方針など伝わるわけがありませんから、もはや、向井義輝様の何がアカンかったのか?さえ、私にはわからないまま退場されてしまいました。

時間の関係やら予算の関係やら、色々あるのかも知れませんが、この後、信長の上洛戦や、その後の本圀寺や筒井順慶とのアレコレ&石山本願寺とのアレコレでもガッツリ絡んで来る三好三人衆なので、ここらあたりで是非とも登場しとしていただきたいんですが・・・このままずっと、吉田久秀が三好三人衆の代弁をするのは難しい気がしてます。

難しいと言えば、
関白ともあろう御人が、真昼間、三好の兵に連行されるかのように、街中をウロウロするのってアリなん?

身分の高い人は輿が牛車で、自分の足で道を歩くのは三流貴族・・・っていうのは平安時代の話ですが、戦国は、もうそんな時代では無かったんでしょうか?(今度調べてみよう~と)

ところで、先週に引き続き、またもや出ましたね~豹変組。

これまでは、あまり関心ないご様子だったユースケ・アサクラが、
「滝藤覚慶(義昭)が将軍の器であるならかくまう覚悟がある」と・・・

そのイキナリぶりにも驚きましたが、
なんで、その事を手紙に書いて久秀に送るかも謎なら、その器の見定め役を光秀にさせるのも謎・・・

「その手紙を久秀が光秀に見せずに捨てる」という考えは無しなん?
「将軍の器の見定め」なんて重要な事、一介の浪人にさせて大丈夫なん?
だってユースケ・アサクラは、まだ、長谷川光秀が「使える」か「なまくら」かも見定めてないんですよね?

さらにビックリなのは
滝藤覚慶に会った光秀の返答が「×」「覚慶は将軍の器ではない」だった事・・・

まぁ、今回の滝藤覚慶さんは、私が思ってる将軍=義昭とは違うイメージなので、それこそ、還俗した後に豹変されるのかも知れませんから、今の段階では、何とも言えませんが、そもそも、この時点では、血筋的に三好の推す義栄に対抗できる人は覚慶しかおらず、器もクソも無い気がするんですが・・・

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

なので、器もクソも、例えボンクラでも、結局は、ユースケ・アサクラがかくまうんでしょうけどね。

 

とは言え、来週は、いよいよ、岐阜を手に入れた染谷信長と対面し、義昭奉じての上洛の話をし、予告を見る限りではヘッドハンティングされるようなので、ようやく、歴史上に登場する明智光秀を長谷川さんが演じる事になりそうなので、楽しみです。

ここからは、怒涛の如く出世していくのかな?
ワクワクですo(@^◇^@)o

たぶん来週、もしくは、これから起きる出来事は…

●【義昭の「僕を京都に連れてって」】>>

ドラマではすでにしてるっぽいけど↓
●【信長が稲葉山城を陥落させる】>>

ほんで以って飛ばされるかもやけど↓
●【松永VS三好と筒井順慶の大仏殿の戦い】>>
●【朝倉義景の若狭侵攻】>>

そんなんがあってからの↓
●【義昭を奉じ~織田信長の上洛】>>

果たして六角さんは出るのか?出ないのか?
 .

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2020年9月17日 (木)

山城の国一揆の終焉~稲屋妻城の戦い

 

明応二年(1493年)9月17日、守護の伊勢貞陸の命を受けた古市澄胤が反対派の籠る稲屋妻城を陥落させ、山城の国一揆を崩壊させました。

・・・・・・・・・

文明十七年(1485年)12月の集会にて決行された山城の国一揆(くにいっき=国人による一揆)は、応仁の乱(5月20日参照>>)が終わっても、守護(しゅご=県知事)の座を巡っての戦いを止めない畠山義就(よしひろ・よしなり)畠山政長(まさなが)(7月19日参照>>)に対し、
① 畠山両軍の山城からの撤退
② 寺社本所領の還付
③ 新しく造った関所の撤廃

の三条件を提示して一揆を起こし、見事一揆を成功させ(くわしくは12月11日参照>>)、畠山両軍が去った南山城の2郡(現在の京都府南部=久世郡・綴喜郡・相楽郡の付近)を、「三十六人衆」と呼ばれる指導的な国人衆が自治的に管理運営する事になりました。
(国人=在地の領主・地侍)

一揆翌年の文明十八年(1485年)には、幕府が新しい守護として派遣して来た伊勢貞陸(いせさだみち=幕府政所執事伊勢貞宗の息子)を認めず、幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(ほそかわまさもと)の重臣である安富元家(やすとみもといえ)を守護に推そうとした事もあったとか・・・

なので、最初の頃は、この伊勢貞陸も山城の国一揆と協調関係を結んで、かなり一揆側に譲った感じ守護継承であったようです。

しかし、その雰囲気が一転するのが、明応二年(1493年)4月に細川政元が起こした「明応の政変 (4月22日参照>>)・・・

これは、管領の政元が、第10代将軍=足利義材(あしかがよしき=義稙)を排除して、自らが推す足利義澄(よしずみ=義材の従兄弟)を新将軍に据えたクーデターだったわけですが、これによって幕府や細川家臣団の力関係が変わり、その家臣団内部の対立が、山城の国人たちにも絡んで来たからなのです。

Asikagakuboukeizu3 ●足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

以前の山城の国一揆のページ(先ほどの12月11日のページ>>)でも、加賀一向一揆が100年続いたのに対し山城の国一揆はあまり続かなかった・・・

それは、加賀一向一揆がもともと一向宗という宗教の下で団結した人が一揆を起こしたのに対し、山城の国一揆は、一揆のために一つになった人たちが起こした一揆だったから・・・

的な事を書かせていただきましたが、その通り、もともと山城の国一揆は一枚岩では無かったのです。

先にも書いたように国人とはその地に根付く地侍・・・末端の半士半農の者もいるとは言え、結局は武士なわけで、そこには同じ山城に住む者という横の関係とともに、それぞれの国人が抱える将軍を頂点とした武士という縦の関係もあったわけです。

上の方のゴタゴタは、当然、下の者たちにも影響を与えるわけで・・・

そんな中、伊勢貞陸は、政元に京都を追われた足利義材らが、再び京都への侵入を企てている事を利用して「それを防ぐため…」と称して、山城全土の直接支配に踏み出し、大和の有力者で畠山に通じていた古市澄胤(ふるいちちょういん)守護代(しゅごだい=副知事)に任命して、一揆以前の支配体制に戻す方向に進めたのです。

これに対して、山城の国一揆は真っ二つに分かれてしまいます。

自治を放棄し、伊勢貞陸の支配下として優位に生き残ろうとする者と、あくまで、それに反対する者・・・

この一部の者の支持を得た伊勢貞陸は、山城守護として入部しようと試みますが、これに反対する者たちが稲屋妻城(いなやづまじょう=京都府相楽郡精華町・稲八妻城とも)に籠り、徹底抗戦の構えを見せたのです。

そこで伊勢貞陸は、解決のあかつきには綴喜(つづき)相楽(そうらく)の2郡を与えるという条件で、古市澄胤に反対する国人衆の討伐を命じます。

明応二年(1493年)9月11日、大和(やまと=奈良県)から山城へと入った古市澄胤は市坂(いちさか=京都府木津川市)に陣取り、協力する郡代(ぐんだい=地方官)井上九郎(いのうえくろう)祝園(ほうその=京都府相楽郡精華町)に陣を置き、菅井(すがい=同相楽郡精華町)には河内誉田(こんだ)の軍勢50人・・・と、稲屋妻城を囲むように兵を配置して攻撃を開始します。

ままたく間に、数百人が籠っていた稲屋妻城の約70名ばかりを討ち取った古市勢は、これと同時に、伊勢排除の張本人であった稲屋妻庄の公文(くもん=荘園の現地管理役人)進藤父子の館を襲撃して父子を逃亡させます。

こうして、11日に始まった攻撃は、明応二年(1493年)9月17日、稲屋妻城にて抵抗していた反対派をことごとく討ち滅ぼし、戦いは伊勢配下の古市勢の勝利となりました。

残っていた反対勢力も、11月頃までには一掃され、ここに山城の国一揆は終りを告げたのです。

Yamasirogyouninrensyo600a
室町幕府行人連署奉書(国立公文書館蔵)明応二年八月三日付け「伊勢貞陸に従うように通達する内容の幕府の文書」

これを最後に、この南山城で自治体制が再構築される事はなく、一揆の態勢は崩壊して伊勢氏の支配下となり、古市澄胤も力をつける事になりますが、一方で、その後、畠山の家臣が勝手に山城に侵入するのを伊勢貞陸が阻止できなかったりした事から、その支配の弱さを見せてしまい、やがて、この山城一帯も戦国の波に呑まれていく事になるのです。

★この後の山城地域関連の合戦
 ●明応八年(1499年)9月宇治木幡の戦い>>
 ●明応八年(1499年)12月京軍の大和侵攻>>
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2020年9月14日 (月)

1回飛んでからの~大河ドラマ『麒麟がくる』第23回「義輝、夏の終わりに」の感想

 

いやはや…「義輝、夏の終わりに」という題名だったので、てっきり向井将軍様は、今週、逝かれるものと思ってましたが、まだ、次回でしたか~

これまで剣豪っぽい場面を見た記憶が無いので、今回の題名を見て、それこそ最期は剣豪将軍らしく、大立ち回りをして華々しく散られる様を期待していたのでチョッピリ肩透かしを喰らった大河ドラマ『麒麟がくる』第23回「義輝、夏の終わりに」の感想をば、チョコっと。

ま、向井将軍様は気品があり、カッコ良く、それでいて理想を叶えられなかった物悲しさもあり…それが、もう1週見られる事は、それはそれで良いのですが、題名の「義輝、夏の終わりに」は、「義輝、夏の終わりに」ではなく、「義輝、夏の終わり」だったんですね。
(↑ご本人が「私の夏は終わった」と言うてはりました)

それにしても、前回と今回、よく見ると、脚本家さんも演出家さんも違うんですね~

それでかな?

前回、
向井将軍が、
三好長慶(みよしながよし)のせいで、自分の思うようにできない」
からの
「長慶を暗殺しろ」
的な事をのたまい、
それを聞いた長谷川光秀は、ハッキリとOKしたのかは微妙なものの、
「何て事を言うんですか!」
みたいな否定的な言葉は言わず、なんとなく(暗殺を)承諾?したように見えましたが…

なのに、今週は、
「価値の無い将軍はいらない」
という吉田久秀に、
「なんで、サポートしなかったんですか!」
的な文句を垂れ、
「したよ~ でも限界だよ~」
と言う久秀とともに、悔しがってた。。。

いやいや…久秀は長慶の家臣ですがな。

今回の光秀の、この言い分は、自分(久秀にとっては主君)の事を「邪魔だ」「暗殺しろ」と言う将軍のサポートをし続けろって事ですから、それは無理難題・・・てか、前回と今回で思想が変り過ぎではおまへんか?

ま、思想が変り過ぎは、眞島藤孝さんも、同じですがねww
前回は、
「別人のようにふさぎ込んでる将軍様を慰めてやって」
的な事言って、長谷川光秀を京に呼んだにも関わらず、
今回はもう、向井将軍をすっかり見限って、弟の滝藤覚慶(後の義昭)にベッタリ…
(↑藤孝は、何か決め手となって向井将軍を見限ったのかも見たかった)

実際、先週は大型台風が来て大河ドラマが1週飛びましたが、なんだか、そこに、放送されなかった1回があったかのような豹変ぶりに、ちょっと戸惑ってしまいました。

染谷信長に仕え始めた佐々木藤吉郎(後の秀吉)もそうでしたね。
まだ「百人組」の頭という下っ端なので、細かなエピは無いなら無いでも物語は成立しますが、今後、トップクラスの重要人物・・・てか、なんなら、これからの後半戦は長谷川光秀と染谷信長と佐々木藤吉郎が主役=三本柱なのですから、個人的には、もうチョイ藤吉郎仕官のエピが欲しかったです。

だって今回、東庵伊呂波大夫架空=三本柱のエピが、かなり長かったから・・・
色んな事があって、最終回まで急がねばならなくなった中で、あれだけの時間かけて、駒ちゃんの薬の話をするのは、この先、その薬がトンデモない重要なアイテムになるからなんでしょうか?

ここまで来たら、そういう重要な事への伏線と思いたいです。

とは言え、これまでに登場した稲葉山城明智城には無かった天守が、久秀の多門山城(【松永久秀の築城センス】参照>>)にはしっかり描かれてした事は、歴史好きとしてはウレシイ(だから大河が好き!)

できれば、絶賛盛り上がり中の信長の小牧山城の外観も見てみたかったですが(欲は言いますまい)

あと、今回、真夜中に目が覚めて「誰かある」と呼ぶ向井将軍の哀れさ・・・
一般的な時代劇なら、殿様が「誰かある」と呼べば、最後の「る」が聞こえるか聞こえないかの素早さ=「お前、絶対、襖の真ん前に、ずっとおったよな?」的なタイミングで、誰かが「ははぁ」と出て来るはずなのに、今回は、呼べど呼べど誰もいない・・・

人影の無い庭と相まって、寂しさ、空しさ、哀れさが見事に描き出された名場面でしたが、
将軍様、部屋を出るときは、刀一振りくらい持ちましょうよ。
まして、狙われてる事知ってるんですから、そこは、もそっと注意した方が良いです。

ところで、そんな将軍の寂しさは、実際の義輝さんも同様だったかも知れませんね。

なんせ、『万人恐怖』やら『魔将軍』やら『悪御所』やらのニックネームをつけられるほどの暴君(2016年6月24日参照>>)だった第6代室町幕府将軍=足利義教(あしかがよしのり=義輝の高祖父)でさえ、嘉吉(かきつ)の乱で暗殺されたら、犯人は身の危険を感じて領国へ逃げ、それを山名宗全(やまなそうぜん=当時は持豊)ら幕府の人間が追討するという形になったわけですが(2009年6月24日参照>>)

向井さん演じる今回の義輝の場合は、犯人を追討しようなどどいう武将はおらず、逆に、犯人たち(とおぼしき人物)が推す足利義栄(よしひで=義輝の従兄弟)朝廷からの宣下を受けて14代将軍になっちゃうわけですから・・・

おそらく、本当に、その権威は失墜していた物と思われます。

今回、そんな将軍の空しさ&哀れさを見事に演じられた向井将軍様・・・
次回の散り際も大いに期待しています。

(↓前回と同じではありますがm(_ _)m)
たぶん来週、もしくは、これから起きる出来事は…
●【足利義輝の壮絶最期】>>
●【足利義昭の興福寺を脱出】>>
●【信長の美濃侵攻~堂洞合戦】>>
●【信長の美濃侵攻~関城の戦い】>>
●【義昭の僕を京都に連れてって】>>
でどうぞ
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2020年9月10日 (木)

里見義弘VS北条氏政~三船山の戦い…太田氏資の死

 

永禄十年(1567年)9月10日、里見義弘北条氏政の拠る三船台砦を攻めて勝利し、北条の援軍だった太田氏資を討ち取りました。

・・・・・・・

永禄七年(1564年)の第2次国府台(こうのだい=千葉県市川市一帯)(1月8日参照>>)にて北条氏康(ほうじょううじやす)北条氏政(うじまさ=氏康の嫡男)父子に敗れた里見義堯(さとみよしたか)里見義弘(よしひろ)父子は、相模(さがみ=神奈川県)を本拠とする北条に、上総(かずさ=千葉県中部)大部分を占領されてしまったため、本拠の安房(あわ=千葉県南部)に力を集中しつつ、山内上杉家(やまうちうえすぎけ)を継いで関東管領(かんとうかんれい=室町幕府の鎌倉府の長官・鎌倉公方の補佐)となって北条と敵対する上杉謙信(うえすぎけんしん)を後ろ盾に挽回の機会を狙っていました。

しかし、その謙信が本領の越後(えちご=新潟県)へと戻った永禄十年(1567年)、里見の重臣を寝返らせた北条は、里見義弘の居城である佐貫城(さぬきじょう=千葉県富津市佐貫)を奪うために、南に約4km隔てた三船山(みふねやま=千葉県富津市と君津市・三舟山)の山麓にある三船台に砦を築こうと北条氏政自らが陣頭指揮を取ります。

「砦ができてしまっては佐貫城が危険に晒される!」
と感じた里見義弘は三船台に駐屯する北条軍を攻撃します

この里見の行動を予測していた北条氏康は、すでに木更津(きさらづ=千葉県中西部・木更津市)方面近くに進ませていた北条氏照(うじてる=氏康の四男)小櫃川(おびつがわ)沿いに真里谷(まりやつ=同木更津市真里谷)へと進ませ、里見義堯の居城である久留里城(くるりじょう=同君津市久留里)の攻撃に向かわせる一方で、

すでに渡海して(江戸湾を渡って)いる岩付城(いわつきじょう=埼玉県さいたま市岩槻区・岩槻城)太田氏資(おおたうじすけ)に加え、現地にいる氏政には約3千の兵を派遣して、三船台での対応に当たらせたのでした。

この時の物見の使者の報告によると
「敵(里見方)は多くの兵を先頭に置いているものの、これを蹴散らして布陣すれば、おそらく敵方が攻撃して来るので、そこを横合いから斬り込んで、前後に敵を挟み撃ちにするのが得策」
との事。。。

一方の里見義弘は、近くの八幡山伏兵を潜ませ、自らが戦闘に立つ作戦。

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↑三船山の戦いの位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして永禄十年(1567年)9月10日早朝、三船山の合戦は矢いくさから始まり、やがて両軍がなだれ込んで斬り合いとなりました。
(*日付については8月23日説、2月23日説、10月10日説もあります)

ところが、途中から北条軍が退却し始めます。

そう、待ち伏せして前後で挟む作戦・・・しかし、これを北条の策略と見抜いた里見義弘は、
「敵に誘い込まれないように」
と、周囲に警戒の下知を飛ばします。

しかし、すでに作戦がバレてる事を知らぬ北条方は、この里見方の行動を、
「国府台の時の逃げ腰と同じ」
と考え、一気に追い込まんと斬り込んでいったのです。

三船山の西南に陣取った里見義弘は、北条方をできるだけ近くに引き寄せておいて、伏せていた八幡山の100騎に合図を送り、これを横から一気に攻撃させたのです。

三船山は道も狭く、混乱した北条勢は我先にと退却して行きますが、この周辺は泥沼が点在する湿地帯・・・未だ朝霧が残る状況で逃げ惑う北条勢は、その多くが深い泥沼にはまり身動きが取れなくなり、約3000もの死傷者を出してしまいました。

一方の里見方も約500余りの犠牲者を出しますが、終わってみれば、里見の完全勝利。

この戦いで殿(しんがり=撤退する最後尾)を務めた太田氏資も、自身の配下である52騎とともに三船山の城外にて戦い、壮絶な討死を果たしたと言いますが、実はコレにはちょっとした裏事情があったとされます。

『関八州古戦録』によると・・・
太田氏資がたまたま、北条の本拠である小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)に出仕していた時に今回の合戦が起き、氏政からの出撃命令が出たものの、わずかな兵しか連れていなかったので断ろうとすると、周囲にいた武将たちから、
「あの三楽斎資正の息子のくせに、父に似ず、お前は臆病者かww」
とバカにされたため、汚名返上!とばかりに殿をかって出た。。。のだとか

そう、太田氏資の父は、智将と呼ばれる太田資正(すけまさ・三楽斎)(9月8日参照>>)・・・しかも、その4代前は、江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を建てた稀代の軍略家として知られる大田道灌(どうかん)(8月16日参照>>)なのです。

そこをイジられたら、氏資のプライドはズタズタですわな。

また、『小田原記』『太田家譜』では・・・
氏資と、父の資正との仲がうまくいってない事を北条が利用して氏資を焚け付け、最も危険な殿を務めるよう持って行った。。。なんて事も囁かれてます。

なんせこの後、北条氏政は、息子(三男)源五郎(げんごろう=北条国増丸)と亡くなった氏資の娘を結婚させて太田を継がせて、その源五郎が早世すると、早々にその奥さんと、すぐ下の息子(四男)と結婚さえて太田氏房(おおたうじふさ)と名乗らせ・・・つまり、太田の名跡を北条が乗っ取った形になるわけです。

なので、太田氏ゆかりの人々からは、
「北条の策略により、氏資は死ぬような危ない任務につかされた」
なんて事も噂されたのだとか。。。。

とにもかくにも、今回の大勝利は里見方に大きな喜びと自信をもたらし、この後、しばらくは房総半島において優位に立ち、北条に奪われた地も回復していく事になるのですが、もちろん、北条は、このままでは終わらない・・・

いや、むしろ北条は、この房総半島よりも、今川義元(いまがわよしもと)亡き後の今川の衰退に目をつけて駿河(するが=静岡県西部)に侵攻して来た甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)とのアレコレに大忙し・・・となるのですが、

それらの個々のお話は【後北条・五代の年表】>>からどうぞ。
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2020年9月 3日 (木)

朝倉孝景が美濃へ侵攻~天文篠脇城の戦い

 

天文九年(1540年)9月3日、美濃に侵攻して来た朝倉孝景を、篠脇城東常慶が迎え撃った天文篠脇城の戦いがありました。

・・・・・・・

美濃(みの=岐阜県南部)守護(しゅご=政府公認の県知事)であった父の土岐政房(ときまさふさ)の後継者を巡って、兄の土岐頼武(よりたけ)と争っていた土岐頼芸(よりあき)は、永正十五年(1518年)、前守護代(しゅごだい=副知事)斎藤彦四郎(さいとうひこしろう)のサポートを受けて、兄を越前(えちぜん=福井県東部)に追放しますが、追放された頼武は、越前の朝倉孝景(あさくらたかかげ=10代宗淳孝景・義景の父)の支援を得て美濃奪回に向けて侵攻を開始します。

この戦いに敗れ、一旦は兄の頼武に守護の座を奪われた頼芸でしたが、美濃代官(だいかん=小守護代)長井長弘(ながいながひろ)や、その家臣の長井新左衛門尉(しんざえもんのじょう=道三の父)の助力を得て大永五年(1525年)には守護の座を奪回して、再び兄を越前へと追放・・・やがて後ろ盾だった長井長弘や長井新左衛門尉らが亡くなりますが、新左衛門尉の息子で後を継いだ斎藤道三(さいとうどうさん= 当時は長井規秀→斎藤利政)のサポートにより、兄との戦いを繰り返しつつも、その勢力を維持し、天文五年(1536年)には天皇の勅許(ちょっきょ=天皇の許可)を得て、正式に美濃守護の座につき、天文八年(1539年)には、享禄三年(1530年)に追放先の越前にて病死した兄=頼武の後を継いだ息子(頼芸にとっては甥っ子)土岐頼純(よりずみ)とも和睦しました。

しかし、この頃になると、頼芸さんは、斎藤の名跡を継いで守護代になっていた斎藤道三の事が、どうも気になりはじめます・・・

そう・・・これまでは、見事に自分をサポートしてくれた道三ではありますが、
ふと、気がつくと「何だか、守護の俺より強くね?」
と、頼芸は、ますます勢いを増していく道三に脅威を持ち始めるのです。

密かに連絡を取り合う越前の朝倉孝景らと頼芸は、まずは朝倉方が南下して郡上(ぐじょう=岐阜県郡上市)を制して頼芸と合流・・・さらに、道三と敵対する尾張(おわり=愛知県西部)織田信秀(おだのぶひで=信長の父)に協力してもらって道三を潰すという作戦を練ります。

果たして天文九年(1540年)8月25日、朝倉勢は穴馬(あなま=福井県大野市)から石徹白村(いとしろむら=郡上市白鳥町)へと入り、石徹白城 (いとしろじょう=岐阜県郡上市白鳥町石徹白)石徹白源三郎(いとしろげんざぶろう)を脅して道案内をさせて長瀧寺(ちょうりゅうじ=岐阜県郡上市)に陣取って、向小駄良(むかいこだら=郡上市白鳥町向小駄良)に砦を築き、侵入から7日め、この地域一帯を制する東常慶(とうつねよし・とうのうねよし)の居城=篠脇城(しのわきじょう=岐阜県郡上市大和町)に向かって進撃を開始しました。

この情報を知った篠脇城・・・と、実は、道案内をした石徹白源三郎は東常慶の娘婿。。。脅されて道案内はしたものの、嫁の実家を裏切るのは本意ではなく、密かに使者を派遣して、様子を報告していたのです。

早速、篠脇城では郡内の支族や諸士を招集し、第1陣を阿千葉城(あちばじょう=同郡上市大和町)を中心にした和田川(わだがわ)南岸に、第2陣を松尾城(まつおじょう=同郡上市大和町)を中心にした大間見川(おおまみがわ)東岸に配置し、守備を固めました。

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篠脇城の戦い要図
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

かくして天文九年(1540年)9月3日早朝、南下して来た朝倉勢は、まずは和田川の第1陣とぶつかります。

賢明に防戦する城勢でしたが、残念ながら第1陣が敗れ、まもなく第2陣も突破され、勢いづく朝倉勢が篠脇城めがけて押し寄せてきます。

そんな篠脇城の立地は深い谷間・・・狭い谷が多くの兵馬で満杯になる中、山麓で繰り広げられた死闘により、三日坂一帯は死体で埋め尽くされるほどの激戦となりました。

さらに進む朝倉勢は、城の北側麓にある館や屋敷に火を放ち、もはや篠脇城は裸城となってしまった事で、ここで一気に勝負に出た浅倉勢は、城へと向かって我先に土塁を上り始めます。

このタイミングで、篠脇城勢は、敵兵の頭上めがけて、用意していた石弾を投下・・・このため、多くの朝倉兵が死傷します。

激ヤバとなった浅倉勢が態勢を立て直そうとしているところに、背後から廻って来た木越城(きごえじょう=同郡上市大和町)からの遠藤(えんどう=東氏の支族)六ツ城 (同岐阜県郡上市白鳥町)からの猪俣(いのまた=同じく東氏の支族)軍勢が襲い掛かり、さすがの朝倉勢も混乱して崩れる一方・・・やむなく、谷の奥深くに逃げる者や近くの山中に逃げ込む者など、朝倉勢は、それぞれ散り々々に敗走していきました。

勝利が決定した後も、東勢は山や谷を追撃して回り、その残党狩りを終えたのは、9月23日の事だったと言います。

この戦いに敗れたのが、相当くやしかったのか?
朝倉孝景は、この翌年の天文十年(1541年)にも、再び篠脇城を落とさんと侵攻して来ましたが、その情報を得た東常慶は、今度は城外の要害にて撃退しようと諸々要所の守りを固める一方で、懇意にしている安養寺(あんにょうじ=同郡上市八幡町)の第10世=乗了(じょうりょう)に加勢を依頼し、1000余人の門徒を確保して油坂峠(あぶらさかとうげ=福井県大野市と岐阜県郡上市を結ぶ峠)にて待ち受け、見事、朝倉勢を撃退しています。

というのも、どうやら1回目の戦いで、かなり篠脇城が痛んでしまっていたようで・・・なので東常慶は、そのまま篠脇城を修復する事無く廃城とし、新たに郡上八幡に赤谷山城(あかだにやまじょう=同郡上市八幡町)を築城して、その後は、そちらへ移転しています。

とは言え、この2度の撃退には朝倉孝景も参ったようで、これ以降は郡上への侵攻を諦める事になります。

ただ、当然の事ながら、これで浅倉の美濃侵攻が終わったわけではありません。

それから3年後の天文十三年(1544年)、土岐頼純と浅倉隆景そして連合を組む織田信秀が、今度は郡上ではなく、斎藤道三の拠る稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)へと迫る事になるのですが、これが、今年の大河「麒麟がくる」でも描かれた井ノ口の戦い(9月23日参照>>)という事になります。
(井ノ口の戦いは加納口の戦い(9月22日参照>>)と同一視される場合もあり)
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