里見義弘VS北条氏政~三船山の戦い…太田氏資の死
永禄十年(1567年)9月10日、里見義弘が北条氏政の拠る三船台砦を攻めて勝利し、北条の援軍だった太田氏資を討ち取りました。
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永禄七年(1564年)の第2次国府台(こうのだい=千葉県市川市一帯)(1月8日参照>>)にて北条氏康(ほうじょううじやす)&北条氏政(うじまさ=氏康の嫡男)父子に敗れた里見義堯(さとみよしたか)&里見義弘(よしひろ)父子は、相模(さがみ=神奈川県)を本拠とする北条に、上総(かずさ=千葉県中部)の大部分を占領されてしまったため、本拠の安房(あわ=千葉県南部)に力を集中しつつ、山内上杉家(やまうちうえすぎけ)を継いで関東管領(かんとうかんれい=室町幕府の鎌倉府の長官・鎌倉公方の補佐)となって北条と敵対する上杉謙信(うえすぎけんしん)を後ろ盾に挽回の機会を狙っていました。
しかし、その謙信が本領の越後(えちご=新潟県)へと戻った永禄十年(1567年)、里見の重臣を寝返らせた北条は、里見義弘の居城である佐貫城(さぬきじょう=千葉県富津市佐貫)を奪うために、南に約4km隔てた三船山(みふねやま=千葉県富津市と君津市・三舟山)の山麓にある三船台に砦を築こうと北条氏政自らが陣頭指揮を取ります。
「砦ができてしまっては佐貫城が危険に晒される!」
と感じた里見義弘は三船台に駐屯する北条軍を攻撃します。
この里見の行動を予測していた北条氏康は、すでに木更津(きさらづ=千葉県中西部・木更津市)方面近くに進ませていた北条氏照(うじてる=氏康の四男)を小櫃川(おびつがわ)沿いに真里谷(まりやつ=同木更津市真里谷)へと進ませ、里見義堯の居城である久留里城(くるりじょう=同君津市久留里)の攻撃に向かわせる一方で、
すでに渡海して(江戸湾を渡って)いる岩付城(いわつきじょう=埼玉県さいたま市岩槻区・岩槻城)主の太田氏資(おおたうじすけ)に加え、現地にいる氏政には約3千の兵を派遣して、三船台での対応に当たらせたのでした。
この時の物見の使者の報告によると
「敵(里見方)は多くの兵を先頭に置いているものの、これを蹴散らして布陣すれば、おそらく敵方が攻撃して来るので、そこを横合いから斬り込んで、前後に敵を挟み撃ちにするのが得策」
との事。。。
一方の里見義弘は、近くの八幡山に伏兵を潜ませ、自らが戦闘に立つ作戦。
↑三船山の戦いの位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
かくして永禄十年(1567年)9月10日早朝、三船山の合戦は矢いくさから始まり、やがて両軍がなだれ込んで斬り合いとなりました。
(*日付については8月23日説、2月23日説、10月10日説もあります)
ところが、途中から北条軍が退却し始めます。
そう、待ち伏せして前後で挟む作戦・・・しかし、これを北条の策略と見抜いた里見義弘は、
「敵に誘い込まれないように」
と、周囲に警戒の下知を飛ばします。
しかし、すでに作戦がバレてる事を知らぬ北条方は、この里見方の行動を、
「国府台の時の逃げ腰と同じ」
と考え、一気に追い込まんと斬り込んでいったのです。
三船山の西南に陣取った里見義弘は、北条方をできるだけ近くに引き寄せておいて、伏せていた八幡山の100騎に合図を送り、これを横から一気に攻撃させたのです。
三船山は道も狭く、混乱した北条勢は我先にと退却して行きますが、この周辺は泥沼が点在する湿地帯・・・未だ朝霧が残る状況で逃げ惑う北条勢は、その多くが深い泥沼にはまり身動きが取れなくなり、約3000もの死傷者を出してしまいました。
一方の里見方も約500余りの犠牲者を出しますが、終わってみれば、里見の完全勝利。
この戦いで殿(しんがり=撤退する最後尾)を務めた太田氏資も、自身の配下である52騎とともに三船山の城外にて戦い、壮絶な討死を果たしたと言いますが、実はコレにはちょっとした裏事情があったとされます。
『関八州古戦録』によると・・・
太田氏資がたまたま、北条の本拠である小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)に出仕していた時に今回の合戦が起き、氏政からの出撃命令が出たものの、わずかな兵しか連れていなかったので断ろうとすると、周囲にいた武将たちから、
「あの三楽斎資正の息子のくせに、父に似ず、お前は臆病者かww」
とバカにされたため、汚名返上!とばかりに殿をかって出た。。。のだとか
そう、太田氏資の父は、智将と呼ばれる太田資正(すけまさ・三楽斎)(9月8日参照>>)・・・しかも、その4代前は、江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を建てた稀代の軍略家として知られる大田道灌(どうかん)(8月16日参照>>)なのです。
そこをイジられたら、氏資のプライドはズタズタですわな。
また、『小田原記』や『太田家譜』では・・・
氏資と、父の資正との仲がうまくいってない事を北条が利用して氏資を焚け付け、最も危険な殿を務めるよう持って行った。。。なんて事も囁かれてます。
なんせこの後、北条氏政は、息子(三男)の源五郎(げんごろう=北条国増丸)と亡くなった氏資の娘を結婚させて太田を継がせて、その源五郎が早世すると、早々にその奥さんと、すぐ下の息子(四男)と結婚さえて太田氏房(おおたうじふさ)と名乗らせ・・・つまり、太田の名跡を北条が乗っ取った形になるわけです。
なので、太田氏ゆかりの人々からは、
「北条の策略により、氏資は死ぬような危ない任務につかされた」
なんて事も噂されたのだとか。。。。
とにもかくにも、今回の大勝利は里見方に大きな喜びと自信をもたらし、この後、しばらくは房総半島において優位に立ち、北条に奪われた地も回復していく事になるのですが、もちろん、北条は、このままでは終わらない・・・
いや、むしろ北条は、この房総半島よりも、今川義元(いまがわよしもと)亡き後の今川の衰退に目をつけて駿河(するが=静岡県西部)に侵攻して来た甲斐(かい=山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)とのアレコレに大忙し・・・となるのですが、
それらの個々のお話は【後北条・五代の年表】>>からどうぞ。
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