朝倉孝景が美濃へ侵攻~天文篠脇城の戦い
天文九年(1540年)9月3日、美濃に侵攻して来た朝倉孝景を、篠脇城の東常慶が迎え撃った天文篠脇城の戦いがありました。
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美濃(みの=岐阜県南部)守護(しゅご=政府公認の県知事)であった父の土岐政房(ときまさふさ)の後継者を巡って、兄の土岐頼武(よりたけ)と争っていた土岐頼芸(よりあき)は、永正十五年(1518年)、前守護代(しゅごだい=副知事)の斎藤彦四郎(さいとうひこしろう)のサポートを受けて、兄を越前(えちぜん=福井県東部)に追放しますが、追放された頼武は、越前の朝倉孝景(あさくらたかかげ=10代宗淳孝景・義景の父)の支援を得て美濃奪回に向けて侵攻を開始します。
この戦いに敗れ、一旦は兄の頼武に守護の座を奪われた頼芸でしたが、美濃代官(だいかん=小守護代)の長井長弘(ながいながひろ)や、その家臣の長井新左衛門尉(しんざえもんのじょう=道三の父)の助力を得て大永五年(1525年)には守護の座を奪回して、再び兄を越前へと追放・・・やがて後ろ盾だった長井長弘や長井新左衛門尉らが亡くなりますが、新左衛門尉の息子で後を継いだ斎藤道三(さいとうどうさん= 当時は長井規秀→斎藤利政)のサポートにより、兄との戦いを繰り返しつつも、その勢力を維持し、天文五年(1536年)には天皇の勅許(ちょっきょ=天皇の許可)を得て、正式に美濃守護の座につき、天文八年(1539年)には、享禄三年(1530年)に追放先の越前にて病死した兄=頼武の後を継いだ息子(頼芸にとっては甥っ子)の土岐頼純(よりずみ)とも和睦しました。
しかし、この頃になると、頼芸さんは、斎藤の名跡を継いで守護代になっていた斎藤道三の事が、どうも気になりはじめます・・・
そう・・・これまでは、見事に自分をサポートしてくれた道三ではありますが、
ふと、気がつくと「何だか、守護の俺より強くね?」
と、頼芸は、ますます勢いを増していく道三に脅威を持ち始めるのです。
密かに連絡を取り合う越前の朝倉孝景らと頼芸は、まずは朝倉方が南下して郡上(ぐじょう=岐阜県郡上市)を制して頼芸と合流・・・さらに、道三と敵対する尾張(おわり=愛知県西部)の織田信秀(おだのぶひで=信長の父)に協力してもらって道三を潰すという作戦を練ります。
果たして天文九年(1540年)8月25日、朝倉勢は穴馬(あなま=福井県大野市)から石徹白村(いとしろむら=郡上市白鳥町)へと入り、石徹白城 (いとしろじょう=岐阜県郡上市白鳥町石徹白)の石徹白源三郎(いとしろげんざぶろう)を脅して道案内をさせて長瀧寺(ちょうりゅうじ=岐阜県郡上市)に陣取って、向小駄良(むかいこだら=郡上市白鳥町向小駄良)に砦を築き、侵入から7日め、この地域一帯を制する東常慶(とうつねよし・とうのうねよし)の居城=篠脇城(しのわきじょう=岐阜県郡上市大和町)に向かって進撃を開始しました。
この情報を知った篠脇城・・・と、実は、道案内をした石徹白源三郎は東常慶の娘婿。。。脅されて道案内はしたものの、嫁の実家を裏切るのは本意ではなく、密かに使者を派遣して、様子を報告していたのです。
早速、篠脇城では郡内の支族や諸士を招集し、第1陣を阿千葉城(あちばじょう=同郡上市大和町)を中心にした和田川(わだがわ)南岸に、第2陣を松尾城(まつおじょう=同郡上市大和町)を中心にした大間見川(おおまみがわ)東岸に配置し、守備を固めました。
篠脇城の戦い要図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
かくして天文九年(1540年)9月3日早朝、南下して来た朝倉勢は、まずは和田川の第1陣とぶつかります。
賢明に防戦する城勢でしたが、残念ながら第1陣が敗れ、まもなく第2陣も突破され、勢いづく朝倉勢が篠脇城めがけて押し寄せてきます。
そんな篠脇城の立地は深い谷間・・・狭い谷が多くの兵馬で満杯になる中、山麓で繰り広げられた死闘により、三日坂一帯は死体で埋め尽くされるほどの激戦となりました。
さらに進む朝倉勢は、城の北側麓にある館や屋敷に火を放ち、もはや篠脇城は裸城となってしまった事で、ここで一気に勝負に出た浅倉勢は、城へと向かって我先に土塁を上り始めます。
このタイミングで、篠脇城勢は、敵兵の頭上めがけて、用意していた石弾を投下・・・このため、多くの朝倉兵が死傷します。
激ヤバとなった浅倉勢が態勢を立て直そうとしているところに、背後から廻って来た木越城(きごえじょう=同郡上市大和町)からの遠藤(えんどう=東氏の支族)隊と六ツ城 (同岐阜県郡上市白鳥町)からの猪俣(いのまた=同じく東氏の支族)隊の軍勢が襲い掛かり、さすがの朝倉勢も混乱して崩れる一方・・・やむなく、谷の奥深くに逃げる者や近くの山中に逃げ込む者など、朝倉勢は、それぞれ散り々々に敗走していきました。
勝利が決定した後も、東勢は山や谷を追撃して回り、その残党狩りを終えたのは、9月23日の事だったと言います。
この戦いに敗れたのが、相当くやしかったのか?
朝倉孝景は、この翌年の天文十年(1541年)にも、再び篠脇城を落とさんと侵攻して来ましたが、その情報を得た東常慶は、今度は城外の要害にて撃退しようと諸々要所の守りを固める一方で、懇意にしている安養寺(あんにょうじ=同郡上市八幡町)の第10世=乗了(じょうりょう)に加勢を依頼し、1000余人の門徒を確保して油坂峠(あぶらさかとうげ=福井県大野市と岐阜県郡上市を結ぶ峠)にて待ち受け、見事、朝倉勢を撃退しています。
というのも、どうやら1回目の戦いで、かなり篠脇城が痛んでしまっていたようで・・・なので東常慶は、そのまま篠脇城を修復する事無く廃城とし、新たに郡上八幡に赤谷山城(あかだにやまじょう=同郡上市八幡町)を築城して、その後は、そちらへ移転しています。
とは言え、この2度の撃退には朝倉孝景も参ったようで、これ以降は郡上への侵攻を諦める事になります。
ただ、当然の事ながら、これで浅倉の美濃侵攻が終わったわけではありません。
それから3年後の天文十三年(1544年)、土岐頼純と浅倉隆景そして連合を組む織田信秀が、今度は郡上ではなく、斎藤道三の拠る稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)へと迫る事になるのですが、これが、今年の大河「麒麟がくる」でも描かれた井ノ口の戦い(9月23日参照>>)という事になります。
(井ノ口の戦いは加納口の戦い(9月22日参照>>)と同一視される場合もあり)
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コメント
朝倉孝景はよくぞこのルートで侵攻しましたね。幾多のSLGでも越前⇔美濃の直通は不可能なものがほとんど。奥美濃の他に飛騨や信濃を通る場合もそうなんですが、現実には行われた険しい悪路を通って行われた合戦は興味深いです。
投稿: | 2023年4月 5日 (水) 21時23分
>朝倉孝景はよくぞこのルートで侵攻しましたね。
そうですね~
でも、よく見ると川沿いをウマイ事、進んでますんね~
以前、大阪から昔の伊勢街道を通って徒歩で行った事がありますが、昔ながらのルートというのは、ホント、ウマイ事考えられてるな~と実感しました。
今、振り返ると、しんどかったのは暗峠の生駒越えくらいで、あとは山の中でも尾根から尾根をたどるのでワリと平気だった記憶があります。
投稿: 茶々 | 2023年4月 6日 (木) 05時03分