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2020年9月24日 (木)

戦国乱世を駆け抜けた異彩~松永久秀の甥っ子・内藤如安

 

 慶長十九年(1614年)9月24日、三好長慶や足利義昭や小西行長に仕えた内藤如安が、キリシタン禁止令を受けて国外追放となりました。

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内藤如安(ないとうじょあん)の如安は、永禄七年(1564年)=15歳の頃にキリスト教に入信した時の洗礼名のジョアンの音の響きを漢字で表した物で、本名は内藤忠俊(ただとし)なのですが、本日は有名な方の内藤如安さんと呼ばせていただきます。

で、本日の主役=内藤如安は天文十九年(1550年)頃(はっきりしません)八木城(やぎじょう=京都府南丹市八木町)内藤宗勝(ないとうそうしょう)の息子として生まれます。

お父さんの内藤宗勝は、あの戦国初の天下人と言われる三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の家臣で、もと名を松永長頼(まつなが ながより)と言い、今年の大河ドラマ「麒麟がくる」でも大活躍の松永久秀(まつながひさひで)(12月26日参照>>)の弟なのですが(つまり如安は久秀の甥っ子、実は、三好政権内で先に頭角を現したのは、この弟の方で、なんなら、兄=久秀は「弟の七光りで出世した」なんて陰口たたかれてたくらいの大活躍で、長慶からの信頼も篤かったんです。

 なんせ天文二十二年(1553年)には、丹波(たんば=兵庫県北東部・大阪府北西部)一国を牛耳る波多野晴通(はたのはるみち=波多野秀治の父)八上城(やかみじょう=兵庫県丹波篠山市)を攻撃中に、敵方が守護代(しゅごだい=副知事)内藤国貞(ないとうくにさだ)を討ち取って、国貞の八木城を奪った事を聞くないなや、即座に八木城に取って返してまたたく間に奪還したばかりか、その後に波多野晴通を降伏させて、逆に丹波のほとんどを手中に収めたくらいですから・・・

そして、その八木城奪還後に亡き国貞の娘(妹説もあり)と結婚して松永長頼から内藤宗勝に名を変えて内藤家を継ぐ立場になった人なのです。
(実際には国貞の息子=貞勝が後を継ぎ、宗勝は後見人ですが、事実上は家内を掌握していたとされます)

そんな松永長頼改め内藤宗勝を父に持つ内藤如安は、三好家が衰退の一途をたどる中でも足利将軍家を仰ぐ内藤家の代表の如く、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき=義秋・覚慶)が、上洛後に、あの織田信長(おだのぶなが)と対立した元亀四年(天正元年=1573年)(7月18日参照>>)も、槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市槇島町)にて将軍=義昭方として奮戦しています。

しかし、ご存知のように、この戦いに敗れた義昭は京都を追われ、身を寄せていた若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市)三好義継(みよしよしつぐ=十河重存)も自刃したため(11月16日参照>>)、義昭は毛利輝元(もうりてるもと)を頼って備後(びんご=広島県東部)鞆の浦(とものうら=広島県福山市)に下向しますが、この時にも、内藤如安は、義昭と行動をともにしていたと言います。

ところが、この間の天正四年(1576年)、父の宗勝が、信長の命を受けた明智光秀(あけちみつひで)の侵攻によってゴタゴタになっていた丹波内での戦い=和藤合戦(わとうがっせん)(6月20日参照>>)にて討死してしまいます。
(宗勝の死亡時期については永禄六年(1563年)説&永禄八年(1565年)説もあり)

これによって内藤家は、名実ともにあの国貞の息子=内藤貞勝(さだかつ)が継ぐ事になり、如安は、その執政(しっせい=家老)の立場となりますが、宗勝を失った影響は大きく、天正六年(1578年)に丹波平定まい進中の明智光秀に攻められて八木城は落城・・・内藤本家は滅亡してしまいます。

その後、ご存知のように天正十年(1582年)6月に信長が本能寺にて横死(6月2日参照>>)、謀反を起こした明智光秀を倒して(6月13日参照>>)、まるで織田政権を引き継ぐようにトップに躍り出て来た豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)紀州征伐(きしゅうせいばつ)(3月24日参照>>)をおっぱじめた天正十三年(1585年)頃、如安は、しばしの沈黙を破り、その秀吉の家臣である小西行長(こにしゆきなが)に仕える武将として、再び表舞台に登場します。

これは、行長の小西家が、内藤家と親戚だった(3代前に枝分かれ?)事で、同族のよしみで召し抱えたとも言われますが、ご存知のように小西行長も敬虔なクリスチャンなので、そのあたりのよしみもあったのかも知れません。

Bunrokunoekipusan700a とにもかくにも、もともとは商人だった小西行長は、武将として戦略や采配に長けた如安の能力に大いに惚れ込んで重臣に取り立て、小西姓を名乗らせるくらい重用したのです。

それに応えるように如安も、文禄元年(1592年)に起こった朝鮮出兵=文禄の役(1月26日参照>>)では、先鋒を務める事になった行長に従って各地を転戦する一方で、行長の密命を受けて(みん=中国)との和睦交渉の使者となり、粘り強い交渉を何度も重ねて和睦をまとめました。
(結局は合意内容に納得しなかった秀吉によって慶長の役が起こりますが…11月20日参照>>

その後、秀吉亡き後に起こった関ヶ原の戦い(年表>>)では、ご存知のように小西行長は西軍として参戦し、大敗の末に捕縛され(9月19日参照>>)石田三成(いしだみつなり)(9月21日参照>>)安国寺恵瓊(あんこくじえけい)(9月23日参照>>)とともに10月1日に処刑されます(10月1日参照>>)

この時、内藤如安は、行長の弟=小西行景(ゆきかげ)とともに地元である行長の居城=宇土城(うとじょう=熊本県宇土市)におりましたが、ここを攻めて来たのが九州の地にて東軍に与する加藤清正(かとうきよまさ)・・・

9月20日に宇土城近くに陣を構えた清正は、翌・21日に宇土城下を焼き払って宇土城を完全包囲しますが、未だ、関ヶ原での一戦の状況を知らぬ宇土城内の行景&如安らは徹底抗戦の構え・・・実質的な指揮者である如安は、大砲を駆使して迫りくる敵を撃退し続け、約1ヶ月間、宇土城は耐え抜きました。

しかし、やがて九州にも関ヶ原現地の状況が伝えられるようになって兄=行長の死を知った行景は、自らの自決と引き換えに城兵の命を助ける事を条件に、10月14日(23日とも)宇土城は開城となったのでした。

「自らの自決と引き換えに城兵の命を…」
の城兵の中には如安も含まれていたわけで・・・命ながらえた如安は、同じキリシタン大名である有馬晴信(ありまはるのぶ)の領地である肥前(ひぜん=佐賀県・長崎県)平戸(ひらど=長崎県平戸市)にて、しばらくの間、隠居生活を送る事になりますが、その後、その武勇を惜しんだ加藤清正に客将として迎え入れられます。

さらに慶長八年(1603年)頃には、前田利長(まえだとしなが=前田利家の息子)4000石で迎え入れられ金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市)に・・・ここでは、やはりキリシタン大名で、すでに前田家の客将となっていた高山右近(たかやまうこん=高山友祥)とともに、前田家の政治や軍事の相談役をこなしながら、キリスト教の布教活動にも力を注ぎました。

しかし、慶長十八年(1613年)12月、あの関ヶ原の戦いに勝利して、現政権内でも確固たる地位を築きつつあった徳川家康(とくがわいえやす)からキリシタン禁止令が発布されます。
(実際には自分=家康の領地のみだった禁教令を全国に広げた物)

キリシタン禁止令そのものは、これまでにも、秀吉時代に、
天正十五年(1587年)の6月18日付けと6月19日付けの物
『天正十五年六月十八日付覚(「御朱印師職古格」神宮文庫)>>
と、慶長元年12月(1597年2月)のサン・フェリペ号事件(2月5日参照>>)のあった時の2回発布されていますが、いずれもバテレン(主にフランシスコ会の宣教師)追放令であって、神社仏閣への破壊行為や奴隷売買などは禁止するものの、信者に対する迫害や無理やり改宗させたりする物では無かったのです。

しかし、今回の家康の禁教令は、いわゆる「キリシタン追放」「キリスト教弾圧」と言われて思い浮かべる、あのキリシタン禁止令そのものだったわけで・・・

かくして 慶長十九年(1614年)9月24日、頑としてキリスト教への信仰を曲げない内藤如安に、国外追放命令が出されます。

もちろん、ともにいる高山右近にも・・・

それから約2週間後の10月7日、如安は妹のジュリア、そして高山右近夫妻(1月5日参照>>)とともに、フィリピンのマニラに向けて旅立ったのです。

ご存知のように、この年は、7月21日には方広寺(ほうこうじ=京都市東山区)鐘銘事件(7月21日参照>>)が勃発し、その5日後には家康が、その方広寺の大仏開眼供養を中止(7月26日参照>>)させたり、翌8月には、何とか衝突を収めようとする大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)側に最後通告を出したり(8月20日参照>>)・・・家康が完全に大坂城の豊臣秀頼(ひでより=秀吉の息子)潰しにかかって来てた=つまり大坂の陣(年表>>)をおっぱじめる気満々な時期だったわけで・・・

現に、この10月6日~9日にかけては、後の大坂の陣で活躍する真田幸村(さなだゆきむら=信繁)毛利勝永(もうりかつなが=吉政)といった面々が続々と大坂城に入城して来ていたわけで(10月7日参照>>)・・・

一説には、如安と右近の追放を知った大坂方が、彼らを大坂城に招くべく慌てて使者を走らせたものの、港に到着した時には船が出ていった後で間に合わなかった・・・てな話も囁かれます。

もし、使者が間に合っていたら・・・如安や右近の大坂の陣での活躍が見られたのかも知れませんが、一方で、これが家康の「如安らを大坂城に入らせない」作戦だったのだとしたら、その徹底ぶりはお見事ですな。

マニラに到着後も、もと執政としての手腕をかわれて、現地の日本人町の首長を任されて、その運営に活躍したとされる内藤如安は、右近よりも長く生き、寛永三年(1626年)に70代半ばで死去したとの事ですが、そんな如安の活躍を縁として、現在、かつて八木城のあった京都府南丹市八木町とマニラは姉妹都市の提携がなされているのだとか。。。

三好政権の終焉を経験し、織田政権から豊臣政権で奮闘し、江戸幕府を見ずして去った内藤如安・・・まさに戦国を生き抜いた武将と言えるでしょう。

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